最期を迎えるその日まで
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◇ 夢主視点
2017年11月
「来週は結婚記念日ですね」
「はい」
ジャケットを羽織る旦那様に私は従順に頷く。だって、嬉しいとか、煩わしいとか、そんな気持ち一滴だってないんだもの。ただ、時の流れの早さを改めて実感したくらいだ。
「自由に外出していいですよ」
「え」
振り返った旦那様は愛しみが籠ったような笑みを浮かべた。その愛おしさの籠った微笑みと眼差しが苦手だった。思わず逸らしたくなる顔を何とか旦那様に向ける。
「夜のディナーは流石に一緒に食べてもらわないと周りに怪しまれますのでね」
「はい……」
だから最低限には一緒に時間を共にする。その時間の中にはもちろん夫婦がする営みも入っている。
初めてお二人以外の男を受け入れた。最初の苦痛は凄まじかった。だって、私の身体は蘭様と竜胆様の身体に沿ったものになっていたんだもの。別の男を受け入れることは違和感以外の何ものでもなかった。でも、1年経ってしまえばもう私の身体はあの二人の形をすっかり忘れてしまった。それが堪らなく寂しく辛い。
「護衛は着けますがどこへ行ってもいいですし、お金もいつも以上に自由に使ってくださって構いませんから」
「ありがとうございます」
「いえ、形ばかりとはいえ夫婦ですから」
形ばかりなんて言いながらわたしを愛おしそうに見つめるのをやめてほしい。
私は旦那様の言葉に何も返すことができず。ただ「ありがとうございます」とだけお礼を告げた。旦那様は私のそんな反応に何も言うことなくただ満足気だった。
気まずいやり取りを終えから時間は瞬くように過ぎて結婚記念日となった。旦那様は人と会う予定があると言って早くに出て行った。私もせっかく貰った自由時間だ。外出することにした。
「銀座まで行ってもらえないかしら」
運転手兼護衛が「はい」と義務的に答える。そのまま静かに車を発進させた。特に会話もなく且つ屋敷も都内にあることからあっという間に銀座に到着してしまった。
「では、ごゆっくりと」
「ありがとう」
車から降りてそのまま銀座を歩き出す。
銀座に何か目的があるかといえば別段ない。お気に入りの店はあるけれど今日行きたい気分でもない。何か大きな買い物をしたい気分でもない。それでも、表の社会らしいこの場所を歩くと何だか気分展開になる。だから、たまにこうして銀座をぶらぶらしている。
ぼんやりと目的もなく歩き続けていると――。
「っ」
焦がれる香りがした気がする。
横切った人間を探すように顔を上げる。でも前方にはそれらしき人はいない。なら、と振り返って人混みを探す。それでもそれらしい人影はない。
「はぁ」
思わず洩れた息が自分自身の落胆具合を表していて苦笑してしまう。
こうなるほどに自分の意識はお二人で占められていたとは。あそこまで難しく考えていたのが馬鹿みたいだ。何だったら蘭様と竜胆様が告白してくださったときにごちゃごちゃ考えないで受け入れていればよかったものを。今さら気づいて後悔しても遅い話よ。
「ハァ」
このまま突っ立っていたら交通の邪魔だ。どこかでランチにでも行こうかなと振り返ったときだった。
「きゃあっ」
振り返った瞬間、女性とぶつかりそうになってしまった。私は咄嗟に何とか下がって何とかぶつからずにいたけれど悪いことをしてしまった。
「ごめんなさい」
「あっ、いえ、私こそ、すいません」
胸を撫で下ろした女性はとても綺麗な女性だった。いや、綺麗の中に愛らしさのある可憐な女性だった。男が結婚相手に好みそうな家庭的な雰囲気というのは失礼だろうけれどそういう印象を受ける。きっと私の正反対にいる女性なんだろうな。
そんなことを考えながら頭を左右に振る。
「いえ、いいんです。私がいきなり歩き出したから。お怪我はありませんか?」
「はい。大丈夫です。私の方こそ前方不注意でした」
「そんなことないです」
お互いペコペコしていると後ろから「ヒナ?」と声をかける男性がいた。すると、名前を呼ばれたらしい女性は「タケミチくん!」と愛らしい声で男性の名前を呼び返す。
女性につられるように私も男性を見ると平凡的な人がいた。癖のある黒髪に、平均より低めの身長だった。ただ、並ぶと女性が平均よりも低いのか見事つり合った身長差になっている。でも、ファッションがどうにもダサめでオシャレな女性とはそういう意味で釣り合わない。何というかアンバランスな二人だった。
けれど、お互いとても幸せそうに甘い空気を醸し出していた。これは、あれだ、結婚間近の恋人たちのそれだ。つまり、そうなるほど。
チクチク何かが棘のようなもので攻撃された気分だった。彼女たちは何ら悪くはない。悪くはないけれど早くここから立ち去りたい。
すいません、と声をかけようとしたときだった。後ろから名前を呼ばれた。振り返ったら旦那様がいた。
夜に会う予定だったのにどうして、と見ていると旦那様は微笑んで「行きましょう」と声をかける。私は我に返って女性に声をかける。
「すいません。では、失礼します」
「ぁ、いえ、こちらこそほんとにごめんなさい」
「いいんです。私も悪かったです」
ごめんなさい、ともう一度言って幸せオーラを見に纏った恋人二人に背を向けた。
旦那様に差し出された腕に触れながら歩き出す。
「ちょうど見かけたので声をかけずに行こうと思ったんですが困っていたようなので声をかけさせていただきました」
「そうだったんですね。ご迷惑おかけしました」
「いえ。ところで、これからどこかへ?」
「ランチに行こうかと」
それはいい、と目尻を下げて微笑む旦那様。私は「ご一緒しますか?」と訊ねる。自由時間はなくなるが流石に夫を無下にできない。そういう思いで告げると旦那様は首を左右に緩く振った。
「まだ自由時間ですからご遠慮します」
「けど」
「いいんです。それに僕は夜の時間を貰いましたから」
では、とそっと私の手を腕から外す。
「ゆっくり楽しんでください。お金も気にせず、ね」
「……はい」
なんと勿体ない方だと思う。反社の、ヤクザの組長であることを差し引いても勿体ない。私などに愛を注がないで他に気に入りの女を見つけて愛人にするなりにすればいいのに。梵天のことがあっても私だけに拘ることはないのに。そもそも私を女にしなくてもいいのに。なんて勿体ない人。
「では。夜にまた会いましょう」
「はい。旦那様もお仕事頑張ってきてください」
「はい」と噛みしめるようにはにかむ旦那様を見送りながら私はランチに向かった。
そうしてランチに行ってからは旦那様とのディナー用の服と靴を買いに行った。あとアクセサリーを買ってそれらを身に着けて私は旦那様が予約してくれたホテルに向かう。
ホテルに到着してラウンジに入る。先に着いていると連絡を貰って探そうと辺りを見回そうとすると――。
「橙子……?」
久々に聞いた声は耳にじんわりと馴染み瞬く間に身体の血が沸騰したような気がした。
心臓の鼓動が早い。唾を飲み込んでゆっくりと振り返るとそこには。
「……竜胆様」
フォーマルスーツを身に纏った竜胆様が目を見開いて立っていた。久々に目に映る。焦がれている人の一人に胸が高鳴る。
息をするのも忘れて見つめている。竜胆様もそのまま見つめ返してくる。何も言葉を交わさずにいると周りからの視線を感じ始める。それにお互いほぼ同時に我に返ってラウンジの端の方に寄る。
「久しぶりだな」
「はい。お元気そうで何よりです」
「オマエもな」
柔らかく甘く下がる目尻に、柔らかい笑みに以前よりも心臓に悪かった。頬に集まる熱をどうにか誤魔化しながら「蘭様は」と訊ねる。
「兄貴も来てるぜ。今、ちょっと席外していねぇけど」
チラチラと視線を向けるのは蘭様が去った方角だろうか。
蘭様もいるなら会いたいと素直に思う私がいた。驚きの素直さに心の中で苦笑する。でも、お二人に裂く時間はない。私はこれから旦那様と夜を過ごすのだから。
「そうでしたか。お会いできないのは残念です」
「ぇ、ちょっと、待てよ」
竜胆様の手が私の腕を掴んだ。大きくて分厚い手のひら。服の上からでも分かる懐かしいと思う感触につい足が止まる。
「兄貴、もうすぐ戻ると思うから少しだけ、少しだけ待ってくれ」
懇願と言っても過言ではない程の必死な竜胆様の様子に私は断わる言葉が見つからない。だって、会いたいから。蘭様はどうか分からない。でも、私は会いたい。
どうか。旦那様が、旦那様の部下が私を見つけるのをもう少し遅くありますように。そう願いながら頷いた。
「悪い。けど、ほんとにすぐだから」
「はい……私もできればお会いしたいですから」
竜胆様の顔を見上げながら素直に告げる。私の素直さが珍しかったのか分からないけれど竜胆様は目を見開いてから嬉しそうに微笑んだ。
「そう。兄貴に言ってやれよ。きっと喜ぶぜ」
「蘭様が? ふふ、そうでしょうか?」
想像がつかないけれど、そうであれば嬉しいと思う私も大概だ。
「今日は随分素敵なお召し物ですね」
「オマエもだろ」
指摘されてそうだったと思い至る。結婚記念日だから旦那様が好んでいるドレスと色味でめかし込んだのだった。その姿を竜胆様に見られ、これから蘭様に見られると思うと嫌だと思ってしまった。だって、この姿はお二人ではない別の男のために着飾った姿だから。
「まぁあいつに合わせてんだろうと思うけど似合うぜ」
「……ありがとうございます」
目を細めながら言う竜胆様の声は苛立ちよりも何だか胸に迫るようなものだった。
それに瞬く間に喜びを覚える自分があまりにも浅ましくて嫌になる。まだ自分は忘れられていないと喜ぶなんて狡い女だろう。
お二人の告白に素直に頷かなかったくせに。お二人の気持ちにちゃんと答えなかったくせに。こうして想われている片鱗を見て喜ぶなんて。最低な女。
「橙子?」
「ッ」
己の浅ましさ、卑しさに自己嫌悪に堕ちていると再び懐かしい声がした。
振り返ろうとする前に近寄る気配に肩を掴まれて半歩下がる。半分振り仰ぐ形で私はもう一人の焦がれる人を見た。
「お久しぶりです、蘭様」
竜胆様ほど驚く表情はなかった。それでも私がここにいることに驚いていることに間違いはなかった。
言葉もない蘭様は私の肩から手を離すといつもと異なる前髪に触れる。
「どうしたんだよ」
呆然としたような声に私はどう答えるかあぐねいていると竜胆様が手助けした。
「兄貴。服見ろよ」
「服……?」
竜胆様に言われた通り蘭様が私を頭からつま先の先まで見下ろす。そして、「ああ」と声を零し、据わった瞳を冷ややかにさせた。私は今蘭様の機嫌を損ねたことを確信させた。
「随分と大切にされたんだな。まぁ、組長の女だもんな」
嘲笑を含んだ声に私はやってしまったと自分の失態に身体が固まっていく。いや、違う。身体が固まっていくのは蘭様の拒絶反応に、だ。自分の思い上がりが恥ずかしくなる。
「ぉ、おいっ、兄貴っ!」
「うるせぇな。なんだよ?」
「せっかく、橙子に会えたのに」
「だから? なんだよ?」
竜胆様が蘭様の肩を掴むけれど蘭様は煩わしそうに肩を動かして手を外す。お二人の間の空気が重くなることに私は冷や汗が滲む。これはいけない。
「蘭様。ご気分悪くさせてしまい申し訳ありません。私、これから〝夫〟と食事に行きますので」
失礼します、と言う前にさらに空気は重くなった。蘭様を咎めていた竜胆様からも温度がなくなっていくのが分かる。お二人から注がれる冷たさが容赦なく胸を凍らせる。
お二人の冷たい怒気に身体が震えるのと同時にお二人の怒気に喜ぶ自分が本気に嫌になる。さっきと同じで自己嫌悪に飲み込まれそうになるのを耐える。
でも、ここからどうすればいいか分からなかった。謝ったところで何に対する謝罪か分からない。そんな謝罪意味がないのは私が一番分かっている。けれど、これ以上お二人の気分を害したくない。これで見限られたくないという浅ましい気持ちが思考回路を鈍くさせる。もういっそ立ち去ってしまう。逃げるという選択を選んで口を開こうとしたときだった。1年間ですっかり聞き慣れた声がかけられた。
「橙子さん。お待たせいたしました」
旦那様の声が隣でした。顔を見上げるといつもと変わらない笑みを私に向けた。それから旦那様はお二人の方に顔を向けた。つられてお二人を見ればすっかり感情というものが抜けた表情をしていた。
「灰谷蘭さん、灰谷竜胆さん、お久しぶりです」
「どうも」
蘭様が張り付けたような美しい微笑みを浮かべて返した。竜胆様は口を結んだまま返事をすることはなかった。それに旦那様は気分を悪くする様子はなかった。
「久々にお会いしてお話はできましたか?」
「は、はい」
結局はお二人の気分を害しただけで、私自身が満足しただけなのだけれど。途端重くなる気持ちに、これなら会わない方がよかったとさえ思う。もうただ思い出の中だけでよかった。今さらどう嘆いても過去は変わらない。
きっと、これ以降はもう会ったとしても過去の女として処理されるに違いない。だって、こんなにあっさり次の男の色に染まる女なんていらないだろうし。
浅ましくも自己満足したのだからこれからは余計な期待を抱くのをやめないと。私は粛々とこの方の妻となり、そして梵天のためにあればいい。それに梵天のためになるのは結局お二人のためにもなることであるし。
「そうですか。それはよかった。では、そろそろレストランの予約時間になりますから行きましょう」
「はい。では、蘭様、竜胆様。失礼いたしました」
いまだに冷ややかなお二人に頭を下げる。悲しい、寂しい、様々な感情を綯交ぜにしながら改めてこの世界での恋は碌なもんじゃないと気づく。いや、ここの世界に限らず恋というのはこんなものなのかもしれない。
「さ、橙子さん、行きましょう」
「はい。あなた」
差し出された腕を慣れた手つきで触れる。私はそのままもう一度お二人に頭を下げて背を向けた。そして、そのまま名残惜しさもなく振り返ることはなかった。
私は覚悟を決めてその日の夜初めて旦那様の背中に腕を回した。
2017年11月
「来週は結婚記念日ですね」
「はい」
ジャケットを羽織る旦那様に私は従順に頷く。だって、嬉しいとか、煩わしいとか、そんな気持ち一滴だってないんだもの。ただ、時の流れの早さを改めて実感したくらいだ。
「自由に外出していいですよ」
「え」
振り返った旦那様は愛しみが籠ったような笑みを浮かべた。その愛おしさの籠った微笑みと眼差しが苦手だった。思わず逸らしたくなる顔を何とか旦那様に向ける。
「夜のディナーは流石に一緒に食べてもらわないと周りに怪しまれますのでね」
「はい……」
だから最低限には一緒に時間を共にする。その時間の中にはもちろん夫婦がする営みも入っている。
初めてお二人以外の男を受け入れた。最初の苦痛は凄まじかった。だって、私の身体は蘭様と竜胆様の身体に沿ったものになっていたんだもの。別の男を受け入れることは違和感以外の何ものでもなかった。でも、1年経ってしまえばもう私の身体はあの二人の形をすっかり忘れてしまった。それが堪らなく寂しく辛い。
「護衛は着けますがどこへ行ってもいいですし、お金もいつも以上に自由に使ってくださって構いませんから」
「ありがとうございます」
「いえ、形ばかりとはいえ夫婦ですから」
形ばかりなんて言いながらわたしを愛おしそうに見つめるのをやめてほしい。
私は旦那様の言葉に何も返すことができず。ただ「ありがとうございます」とだけお礼を告げた。旦那様は私のそんな反応に何も言うことなくただ満足気だった。
気まずいやり取りを終えから時間は瞬くように過ぎて結婚記念日となった。旦那様は人と会う予定があると言って早くに出て行った。私もせっかく貰った自由時間だ。外出することにした。
「銀座まで行ってもらえないかしら」
運転手兼護衛が「はい」と義務的に答える。そのまま静かに車を発進させた。特に会話もなく且つ屋敷も都内にあることからあっという間に銀座に到着してしまった。
「では、ごゆっくりと」
「ありがとう」
車から降りてそのまま銀座を歩き出す。
銀座に何か目的があるかといえば別段ない。お気に入りの店はあるけれど今日行きたい気分でもない。何か大きな買い物をしたい気分でもない。それでも、表の社会らしいこの場所を歩くと何だか気分展開になる。だから、たまにこうして銀座をぶらぶらしている。
ぼんやりと目的もなく歩き続けていると――。
「っ」
焦がれる香りがした気がする。
横切った人間を探すように顔を上げる。でも前方にはそれらしき人はいない。なら、と振り返って人混みを探す。それでもそれらしい人影はない。
「はぁ」
思わず洩れた息が自分自身の落胆具合を表していて苦笑してしまう。
こうなるほどに自分の意識はお二人で占められていたとは。あそこまで難しく考えていたのが馬鹿みたいだ。何だったら蘭様と竜胆様が告白してくださったときにごちゃごちゃ考えないで受け入れていればよかったものを。今さら気づいて後悔しても遅い話よ。
「ハァ」
このまま突っ立っていたら交通の邪魔だ。どこかでランチにでも行こうかなと振り返ったときだった。
「きゃあっ」
振り返った瞬間、女性とぶつかりそうになってしまった。私は咄嗟に何とか下がって何とかぶつからずにいたけれど悪いことをしてしまった。
「ごめんなさい」
「あっ、いえ、私こそ、すいません」
胸を撫で下ろした女性はとても綺麗な女性だった。いや、綺麗の中に愛らしさのある可憐な女性だった。男が結婚相手に好みそうな家庭的な雰囲気というのは失礼だろうけれどそういう印象を受ける。きっと私の正反対にいる女性なんだろうな。
そんなことを考えながら頭を左右に振る。
「いえ、いいんです。私がいきなり歩き出したから。お怪我はありませんか?」
「はい。大丈夫です。私の方こそ前方不注意でした」
「そんなことないです」
お互いペコペコしていると後ろから「ヒナ?」と声をかける男性がいた。すると、名前を呼ばれたらしい女性は「タケミチくん!」と愛らしい声で男性の名前を呼び返す。
女性につられるように私も男性を見ると平凡的な人がいた。癖のある黒髪に、平均より低めの身長だった。ただ、並ぶと女性が平均よりも低いのか見事つり合った身長差になっている。でも、ファッションがどうにもダサめでオシャレな女性とはそういう意味で釣り合わない。何というかアンバランスな二人だった。
けれど、お互いとても幸せそうに甘い空気を醸し出していた。これは、あれだ、結婚間近の恋人たちのそれだ。つまり、そうなるほど。
チクチク何かが棘のようなもので攻撃された気分だった。彼女たちは何ら悪くはない。悪くはないけれど早くここから立ち去りたい。
すいません、と声をかけようとしたときだった。後ろから名前を呼ばれた。振り返ったら旦那様がいた。
夜に会う予定だったのにどうして、と見ていると旦那様は微笑んで「行きましょう」と声をかける。私は我に返って女性に声をかける。
「すいません。では、失礼します」
「ぁ、いえ、こちらこそほんとにごめんなさい」
「いいんです。私も悪かったです」
ごめんなさい、ともう一度言って幸せオーラを見に纏った恋人二人に背を向けた。
旦那様に差し出された腕に触れながら歩き出す。
「ちょうど見かけたので声をかけずに行こうと思ったんですが困っていたようなので声をかけさせていただきました」
「そうだったんですね。ご迷惑おかけしました」
「いえ。ところで、これからどこかへ?」
「ランチに行こうかと」
それはいい、と目尻を下げて微笑む旦那様。私は「ご一緒しますか?」と訊ねる。自由時間はなくなるが流石に夫を無下にできない。そういう思いで告げると旦那様は首を左右に緩く振った。
「まだ自由時間ですからご遠慮します」
「けど」
「いいんです。それに僕は夜の時間を貰いましたから」
では、とそっと私の手を腕から外す。
「ゆっくり楽しんでください。お金も気にせず、ね」
「……はい」
なんと勿体ない方だと思う。反社の、ヤクザの組長であることを差し引いても勿体ない。私などに愛を注がないで他に気に入りの女を見つけて愛人にするなりにすればいいのに。梵天のことがあっても私だけに拘ることはないのに。そもそも私を女にしなくてもいいのに。なんて勿体ない人。
「では。夜にまた会いましょう」
「はい。旦那様もお仕事頑張ってきてください」
「はい」と噛みしめるようにはにかむ旦那様を見送りながら私はランチに向かった。
そうしてランチに行ってからは旦那様とのディナー用の服と靴を買いに行った。あとアクセサリーを買ってそれらを身に着けて私は旦那様が予約してくれたホテルに向かう。
ホテルに到着してラウンジに入る。先に着いていると連絡を貰って探そうと辺りを見回そうとすると――。
「橙子……?」
久々に聞いた声は耳にじんわりと馴染み瞬く間に身体の血が沸騰したような気がした。
心臓の鼓動が早い。唾を飲み込んでゆっくりと振り返るとそこには。
「……竜胆様」
フォーマルスーツを身に纏った竜胆様が目を見開いて立っていた。久々に目に映る。焦がれている人の一人に胸が高鳴る。
息をするのも忘れて見つめている。竜胆様もそのまま見つめ返してくる。何も言葉を交わさずにいると周りからの視線を感じ始める。それにお互いほぼ同時に我に返ってラウンジの端の方に寄る。
「久しぶりだな」
「はい。お元気そうで何よりです」
「オマエもな」
柔らかく甘く下がる目尻に、柔らかい笑みに以前よりも心臓に悪かった。頬に集まる熱をどうにか誤魔化しながら「蘭様は」と訊ねる。
「兄貴も来てるぜ。今、ちょっと席外していねぇけど」
チラチラと視線を向けるのは蘭様が去った方角だろうか。
蘭様もいるなら会いたいと素直に思う私がいた。驚きの素直さに心の中で苦笑する。でも、お二人に裂く時間はない。私はこれから旦那様と夜を過ごすのだから。
「そうでしたか。お会いできないのは残念です」
「ぇ、ちょっと、待てよ」
竜胆様の手が私の腕を掴んだ。大きくて分厚い手のひら。服の上からでも分かる懐かしいと思う感触につい足が止まる。
「兄貴、もうすぐ戻ると思うから少しだけ、少しだけ待ってくれ」
懇願と言っても過言ではない程の必死な竜胆様の様子に私は断わる言葉が見つからない。だって、会いたいから。蘭様はどうか分からない。でも、私は会いたい。
どうか。旦那様が、旦那様の部下が私を見つけるのをもう少し遅くありますように。そう願いながら頷いた。
「悪い。けど、ほんとにすぐだから」
「はい……私もできればお会いしたいですから」
竜胆様の顔を見上げながら素直に告げる。私の素直さが珍しかったのか分からないけれど竜胆様は目を見開いてから嬉しそうに微笑んだ。
「そう。兄貴に言ってやれよ。きっと喜ぶぜ」
「蘭様が? ふふ、そうでしょうか?」
想像がつかないけれど、そうであれば嬉しいと思う私も大概だ。
「今日は随分素敵なお召し物ですね」
「オマエもだろ」
指摘されてそうだったと思い至る。結婚記念日だから旦那様が好んでいるドレスと色味でめかし込んだのだった。その姿を竜胆様に見られ、これから蘭様に見られると思うと嫌だと思ってしまった。だって、この姿はお二人ではない別の男のために着飾った姿だから。
「まぁあいつに合わせてんだろうと思うけど似合うぜ」
「……ありがとうございます」
目を細めながら言う竜胆様の声は苛立ちよりも何だか胸に迫るようなものだった。
それに瞬く間に喜びを覚える自分があまりにも浅ましくて嫌になる。まだ自分は忘れられていないと喜ぶなんて狡い女だろう。
お二人の告白に素直に頷かなかったくせに。お二人の気持ちにちゃんと答えなかったくせに。こうして想われている片鱗を見て喜ぶなんて。最低な女。
「橙子?」
「ッ」
己の浅ましさ、卑しさに自己嫌悪に堕ちていると再び懐かしい声がした。
振り返ろうとする前に近寄る気配に肩を掴まれて半歩下がる。半分振り仰ぐ形で私はもう一人の焦がれる人を見た。
「お久しぶりです、蘭様」
竜胆様ほど驚く表情はなかった。それでも私がここにいることに驚いていることに間違いはなかった。
言葉もない蘭様は私の肩から手を離すといつもと異なる前髪に触れる。
「どうしたんだよ」
呆然としたような声に私はどう答えるかあぐねいていると竜胆様が手助けした。
「兄貴。服見ろよ」
「服……?」
竜胆様に言われた通り蘭様が私を頭からつま先の先まで見下ろす。そして、「ああ」と声を零し、据わった瞳を冷ややかにさせた。私は今蘭様の機嫌を損ねたことを確信させた。
「随分と大切にされたんだな。まぁ、組長の女だもんな」
嘲笑を含んだ声に私はやってしまったと自分の失態に身体が固まっていく。いや、違う。身体が固まっていくのは蘭様の拒絶反応に、だ。自分の思い上がりが恥ずかしくなる。
「ぉ、おいっ、兄貴っ!」
「うるせぇな。なんだよ?」
「せっかく、橙子に会えたのに」
「だから? なんだよ?」
竜胆様が蘭様の肩を掴むけれど蘭様は煩わしそうに肩を動かして手を外す。お二人の間の空気が重くなることに私は冷や汗が滲む。これはいけない。
「蘭様。ご気分悪くさせてしまい申し訳ありません。私、これから〝夫〟と食事に行きますので」
失礼します、と言う前にさらに空気は重くなった。蘭様を咎めていた竜胆様からも温度がなくなっていくのが分かる。お二人から注がれる冷たさが容赦なく胸を凍らせる。
お二人の冷たい怒気に身体が震えるのと同時にお二人の怒気に喜ぶ自分が本気に嫌になる。さっきと同じで自己嫌悪に飲み込まれそうになるのを耐える。
でも、ここからどうすればいいか分からなかった。謝ったところで何に対する謝罪か分からない。そんな謝罪意味がないのは私が一番分かっている。けれど、これ以上お二人の気分を害したくない。これで見限られたくないという浅ましい気持ちが思考回路を鈍くさせる。もういっそ立ち去ってしまう。逃げるという選択を選んで口を開こうとしたときだった。1年間ですっかり聞き慣れた声がかけられた。
「橙子さん。お待たせいたしました」
旦那様の声が隣でした。顔を見上げるといつもと変わらない笑みを私に向けた。それから旦那様はお二人の方に顔を向けた。つられてお二人を見ればすっかり感情というものが抜けた表情をしていた。
「灰谷蘭さん、灰谷竜胆さん、お久しぶりです」
「どうも」
蘭様が張り付けたような美しい微笑みを浮かべて返した。竜胆様は口を結んだまま返事をすることはなかった。それに旦那様は気分を悪くする様子はなかった。
「久々にお会いしてお話はできましたか?」
「は、はい」
結局はお二人の気分を害しただけで、私自身が満足しただけなのだけれど。途端重くなる気持ちに、これなら会わない方がよかったとさえ思う。もうただ思い出の中だけでよかった。今さらどう嘆いても過去は変わらない。
きっと、これ以降はもう会ったとしても過去の女として処理されるに違いない。だって、こんなにあっさり次の男の色に染まる女なんていらないだろうし。
浅ましくも自己満足したのだからこれからは余計な期待を抱くのをやめないと。私は粛々とこの方の妻となり、そして梵天のためにあればいい。それに梵天のためになるのは結局お二人のためにもなることであるし。
「そうですか。それはよかった。では、そろそろレストランの予約時間になりますから行きましょう」
「はい。では、蘭様、竜胆様。失礼いたしました」
いまだに冷ややかなお二人に頭を下げる。悲しい、寂しい、様々な感情を綯交ぜにしながら改めてこの世界での恋は碌なもんじゃないと気づく。いや、ここの世界に限らず恋というのはこんなものなのかもしれない。
「さ、橙子さん、行きましょう」
「はい。あなた」
差し出された腕を慣れた手つきで触れる。私はそのままもう一度お二人に頭を下げて背を向けた。そして、そのまま名残惜しさもなく振り返ることはなかった。
私は覚悟を決めてその日の夜初めて旦那様の背中に腕を回した。