最期を迎えるその日まで
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◇ 夢主視点
2017年4月
「今日は望月さんがお見えになるみたいですよ」
爽やかな朝によく似合う柔らかく朗らかな声音で私に話しかけて来るのは夫となった人。
名前は好かないようだから名前で呼ぶことはなく専ら「あなた」や「旦那様」と呼んでいる。周りは訝しんだ視線を向けるけれど〝旦那様〟が満足気だから問題はない。
「そうですか」
無駄に塩辛い味噌汁が入ったお椀を置いて一言そう返した。それからしょっぱいお新香を口に放り込んで飲み込んで鮭を解して食べる。ああ、鮭も塩辛いったらありゃしない。ここの人間はどうやら私に早く死んでもらいたいらしい。
全部塩辛すぎて喉は乾く。残したいくらいだけれど食べ物は粗末にできない。何とか白米と一緒に食べて飲み込むけれど舌が痺れて来た気がする。
「……橙子さん。もしかしてしょっぱい?」
朗らかな声音のままなのに無機質にも聞こえるのが不思議。私は茶碗を置いて箸を置いて真正面に座る旦那様を見返す。
「はい。どれもこれも塩辛くて喉が渇きます」
「そう。じゃあ、無理しなくていいですよ」
「食べ物は粗末にできません」
「ふふ。貴方は優しいなぁ……」
4月といっても朝はまだ寒くなるときがある。今日はきっとそういう日。寒い日だからこの部屋が寒く感じる。間違いない。
「僕は貴方に長生きしてほしいんです。無理に食べないでください。そうだ! 今から僕と一緒に外で朝食を食べに行きましょう」
名案というように旦那様が手を合わせる。私は一瞬だけ旦那様の目の前にあるお盆を見る。そこには一切手を着けられていない食事があった。旦那様はあまり食事を取らない。食べる日もあれば、今日みたいに一切手を着けない日がある。大抵そういう日は私と同じように食事が意図的に細工されているとき。
ここの人間は私だけではなく組長を掠め取った旦那様にも早く死んでほしいのね。
「ふふ。そろそろ食事係も代えますか」
「お互いのためにもそうした方がよろしいかと」
「はい。そうしましょう」
長生きできる気はしないが健康不良で死にたくはない。だから、落ち着いた今丁度いいだろう。
「では、橙子さん行きましょう」
「わかりました」
結局食べ物を粗末にしてしまった。けれど、先に無駄にしたのは食事係の人間だ。こんな食べるのも辛い物を作るなんて食材に対する冒とくに他ならないわ。
「食べ物の恨みは怖い、ですからね。それ相応の報いを受けさせましょう」
「よろしくお願いします」
旦那様は目を細め薄らと微笑んだ。一瞬だけあの方の顔が浮かんだが私はすぐに脳裏に浮かんだ人の顔を打ち払った。
「橙子さん。今日はどこのカフェに行きますか?」
「喫茶店でもいいですね」楽しげな旦那様に「どうぞご随意に」と答える。旦那様はやはり満足げに笑んで廊下に出て歩き出した。どうやら行く場所は決まったご様子。そういうとこはあの方に――ああ、ほんとうに駄目ね。
私は旦那様と結婚して暫く立つのにどうしてもあのお方たちを中々忘れられないでいる。こうしたふとした瞬間にあのお二人がどうしても脳裏をかすめてしまう。いけないと分かっているのに、どうしても思い出してしまう。どうしかしないと。
そんな解消の難しい悩みを抱きながら旦那様と共に屋敷の外に出た。
朝食を改めて徒歩圏内の早朝から開いている喫茶店で食べた。それからもう一度屋敷に戻り着物に着替える。結婚したばかりのときは手伝いがいたが、今は一人で着ている。一人で着られるから問題ないということもあるけれど――それ以前の問題があった。
ようは旦那様が気に入らない、その旦那様の妻である私が気に入らない女たちによるイジメだ。毎度毎度内臓を潰す勢いに帯を締められては死ぬというもの。旦那様に言ってその女たちにはお役御免になってもらった。
ほんとに組長の座についた旦那様が気に食わなかったのね。けど、長生きしたいならここを出て行くか、大人しく従うかのどちらかにすればいいのに。残ってちょっかい出すなんてよっぽど命知らずなのね。
「ふっ。バカなんだから」
食事係も、世話係も、バカばっかり。だから、いきなり出て来た若い男に、旦那様に掠め取られるのよ。でも、こんなデカい組でもあっさり瓦解するんだから今残っている古参もいつか淘汰されるかもしれないわね。その淘汰する存在は梵天に違いない。
「ふっ、ふふ。見ものだわ」
セットした髪に簪を挿して角度を確認する。ふと、鏡に映る自分が酷く悪い女の顔をして笑んでいた。その笑みを見るとだいぶ愉しんでいるように見えた。
「ま、愉しいものね」
ああ。この状況をできればあの方々に直接お話できればよかったのに。そしたら同じく笑ってくれるに違いない。でも、そのお二人に私は梵天を出てから会っていない。
繋ぎ役として月に1回、2回の頻度で梵天の幹部の方々と会う。けれど、その中にお二人はいない。
途端、胸に重りが沈む。すぐにその重りを引き上げたいのに碇のようにずっしりと重い。時間がどうにかしてくれると思っていた。だって、兄さんの死だって、義姐 さんたちの死だって、時間がどうにかしてくれた。ああ、でも今思えば死に哀しんでいる時間はなかった。それにあのお二人は死んでいるわけではない。私が知らないところで生きている。しっかりと生きているのだ。
一目でも会いたいと思う。
蘭様に、竜胆様に、とても会いたくなるときがある。けれど、会うことは叶わない。
旦那様の希望なのか。あちらが気を使ってなのか。私は蘭様や竜胆様にお会いする機会はまったくやって来ない。綺麗にお二人は省かれている。
「お二人が私を連れて行くと思っているのかしら」
会いたいとは思うけれど流石に私はそんなことを頼むほど責任感がないわけではない。それにお二人だって私の願いを聞き入れるほど情に厚い方々ではない。
実際、もう愛人がいると聞くし。だから、一目でも会いたいと思うのは私の方だけ。けど、それが悲しいとは思わないし、寂しいとも思わない。だって、こっちの世界での〝愛〟ってそんなものだから。
「それでもだいぶ深入りしてしまったけど」
鏡に映る自分が途端に情けない顔をする。
やめて。そんな顔をしないでちょうだい。これから望月様に会いに行くんだから。
「はぁ。しっかりしなさいよ」
それじゃ、この世界じゃ生きていけないわよ。自分自身に言い聞かせるように私は赤いルージュを唇に引いた。
2017年4月
「今日は望月さんがお見えになるみたいですよ」
爽やかな朝によく似合う柔らかく朗らかな声音で私に話しかけて来るのは夫となった人。
名前は好かないようだから名前で呼ぶことはなく専ら「あなた」や「旦那様」と呼んでいる。周りは訝しんだ視線を向けるけれど〝旦那様〟が満足気だから問題はない。
「そうですか」
無駄に塩辛い味噌汁が入ったお椀を置いて一言そう返した。それからしょっぱいお新香を口に放り込んで飲み込んで鮭を解して食べる。ああ、鮭も塩辛いったらありゃしない。ここの人間はどうやら私に早く死んでもらいたいらしい。
全部塩辛すぎて喉は乾く。残したいくらいだけれど食べ物は粗末にできない。何とか白米と一緒に食べて飲み込むけれど舌が痺れて来た気がする。
「……橙子さん。もしかしてしょっぱい?」
朗らかな声音のままなのに無機質にも聞こえるのが不思議。私は茶碗を置いて箸を置いて真正面に座る旦那様を見返す。
「はい。どれもこれも塩辛くて喉が渇きます」
「そう。じゃあ、無理しなくていいですよ」
「食べ物は粗末にできません」
「ふふ。貴方は優しいなぁ……」
4月といっても朝はまだ寒くなるときがある。今日はきっとそういう日。寒い日だからこの部屋が寒く感じる。間違いない。
「僕は貴方に長生きしてほしいんです。無理に食べないでください。そうだ! 今から僕と一緒に外で朝食を食べに行きましょう」
名案というように旦那様が手を合わせる。私は一瞬だけ旦那様の目の前にあるお盆を見る。そこには一切手を着けられていない食事があった。旦那様はあまり食事を取らない。食べる日もあれば、今日みたいに一切手を着けない日がある。大抵そういう日は私と同じように食事が意図的に細工されているとき。
ここの人間は私だけではなく組長を掠め取った旦那様にも早く死んでほしいのね。
「ふふ。そろそろ食事係も代えますか」
「お互いのためにもそうした方がよろしいかと」
「はい。そうしましょう」
長生きできる気はしないが健康不良で死にたくはない。だから、落ち着いた今丁度いいだろう。
「では、橙子さん行きましょう」
「わかりました」
結局食べ物を粗末にしてしまった。けれど、先に無駄にしたのは食事係の人間だ。こんな食べるのも辛い物を作るなんて食材に対する冒とくに他ならないわ。
「食べ物の恨みは怖い、ですからね。それ相応の報いを受けさせましょう」
「よろしくお願いします」
旦那様は目を細め薄らと微笑んだ。一瞬だけあの方の顔が浮かんだが私はすぐに脳裏に浮かんだ人の顔を打ち払った。
「橙子さん。今日はどこのカフェに行きますか?」
「喫茶店でもいいですね」楽しげな旦那様に「どうぞご随意に」と答える。旦那様はやはり満足げに笑んで廊下に出て歩き出した。どうやら行く場所は決まったご様子。そういうとこはあの方に――ああ、ほんとうに駄目ね。
私は旦那様と結婚して暫く立つのにどうしてもあのお方たちを中々忘れられないでいる。こうしたふとした瞬間にあのお二人がどうしても脳裏をかすめてしまう。いけないと分かっているのに、どうしても思い出してしまう。どうしかしないと。
そんな解消の難しい悩みを抱きながら旦那様と共に屋敷の外に出た。
朝食を改めて徒歩圏内の早朝から開いている喫茶店で食べた。それからもう一度屋敷に戻り着物に着替える。結婚したばかりのときは手伝いがいたが、今は一人で着ている。一人で着られるから問題ないということもあるけれど――それ以前の問題があった。
ようは旦那様が気に入らない、その旦那様の妻である私が気に入らない女たちによるイジメだ。毎度毎度内臓を潰す勢いに帯を締められては死ぬというもの。旦那様に言ってその女たちにはお役御免になってもらった。
ほんとに組長の座についた旦那様が気に食わなかったのね。けど、長生きしたいならここを出て行くか、大人しく従うかのどちらかにすればいいのに。残ってちょっかい出すなんてよっぽど命知らずなのね。
「ふっ。バカなんだから」
食事係も、世話係も、バカばっかり。だから、いきなり出て来た若い男に、旦那様に掠め取られるのよ。でも、こんなデカい組でもあっさり瓦解するんだから今残っている古参もいつか淘汰されるかもしれないわね。その淘汰する存在は梵天に違いない。
「ふっ、ふふ。見ものだわ」
セットした髪に簪を挿して角度を確認する。ふと、鏡に映る自分が酷く悪い女の顔をして笑んでいた。その笑みを見るとだいぶ愉しんでいるように見えた。
「ま、愉しいものね」
ああ。この状況をできればあの方々に直接お話できればよかったのに。そしたら同じく笑ってくれるに違いない。でも、そのお二人に私は梵天を出てから会っていない。
繋ぎ役として月に1回、2回の頻度で梵天の幹部の方々と会う。けれど、その中にお二人はいない。
途端、胸に重りが沈む。すぐにその重りを引き上げたいのに碇のようにずっしりと重い。時間がどうにかしてくれると思っていた。だって、兄さんの死だって、
一目でも会いたいと思う。
蘭様に、竜胆様に、とても会いたくなるときがある。けれど、会うことは叶わない。
旦那様の希望なのか。あちらが気を使ってなのか。私は蘭様や竜胆様にお会いする機会はまったくやって来ない。綺麗にお二人は省かれている。
「お二人が私を連れて行くと思っているのかしら」
会いたいとは思うけれど流石に私はそんなことを頼むほど責任感がないわけではない。それにお二人だって私の願いを聞き入れるほど情に厚い方々ではない。
実際、もう愛人がいると聞くし。だから、一目でも会いたいと思うのは私の方だけ。けど、それが悲しいとは思わないし、寂しいとも思わない。だって、こっちの世界での〝愛〟ってそんなものだから。
「それでもだいぶ深入りしてしまったけど」
鏡に映る自分が途端に情けない顔をする。
やめて。そんな顔をしないでちょうだい。これから望月様に会いに行くんだから。
「はぁ。しっかりしなさいよ」
それじゃ、この世界じゃ生きていけないわよ。自分自身に言い聞かせるように私は赤いルージュを唇に引いた。