すべて奪われたかった
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◇ 夢主視点
「こんにちは。――橙子さん」
捨てたはずの苗字と共に呼ばれた名前。どうして、と頭に過るも調べれば簡単に出て来る。それに私が捨てたと言ってもまだ1年も経っていない。だから呼ばれるのも頷ける。
違う。苗字のことなんて気にしている場合じゃない。どうしてこの男がここに傷ひとつなく辿り着けているか、だ。
「部屋に入ってもいいですか?」
ずいっと顔を寄せて来る男は表情ひとつ変わっていない。柔らかな目元をさらに下げてどこか熱い視線を私に向けて来る。あの店の時と変わらない表情なのに違う。粘着質な視線から逃げたくなる。でも、逃げたくても逃げ場もない。
「誰も、来ませんし――お部屋に入ったら灰谷ご兄弟を呼ぶ予定なので貴方に危害は加えません。ああ、それとも梵天の、灰谷ご兄弟の不利になる心配でも」
「心配ありません」と丁寧な口調で告げる男は私の考えなどすべて見透かしているように言う。つまり、私がどう動こうがきっとこの男は先手を呼んですべて潰しに来る。ならここは大人しく言う通りに動くしかない私は一歩下がり「奥へ」と先を促す。
私の行動に男の目尻が甘く下がった。
「僕一人ですから。それに部下は貴方についている護衛を見張っているので来ません。だから安心してください」
何をどう安心すればいいの。私の訝しむ視線に気づいたのか男が「あ」と思い出したような声を出してまた薄く微笑んだ。
「お二人にも手は出しませんので」
別にそういうことじゃない。何ならお二人だってどうにかこうにかできる。
蘭様と竜胆様を見下すような物言いに腹立たしさを覚えながらリビングへと繋がる廊下を歩く。とはいえ、普通に歩くわけにはいかない。後ろを歩く男に意識を向けながら案内する。
「どうぞ」
リビングに辿り着いてソファに座るように促す。先ほどまでだらしなく寝転んでいたまどろみのような時間が嘘のようだ。
にしても、男は一向に座らない。怪訝に眉を顰めれば男は薄く微笑んだ唇の口角を上げる。途端、深みをました笑みは不愉快さを増す。
「お座りください」
「いえ。お構いなく。それより先にご兄弟にご連絡しましょう」
手入れの行き届いた美しい手のひらが差し出された。これは私のスマホを寄越せということか。ローテーブルにあるスマホを見てすぐに男に視線を戻す。
「私が連絡を取るのでは」
「それは貴方の立場が悪くなるかと」
「え、」
何故、と逡巡してすぐに思い至る。つまり、この男は私が自分との協力者つまり梵天の裏切り者と思われないように気遣っているということになる。
何故、気遣うのか。考えれば熱の籠った視線で用意に予想できる。なら、この男は今のところ私をどうこうすることはない、と思う。ただ、何が起きるかもいくつか予想はできる。下手に動かない方が身のためか。
「わかりました、」
ローテーブルのスマホを手に取ろうとしたが「動かないで」と止められた。振り向きかけた身体を元に戻すと男は「僕が取ります」と言って動き出す。そのまま男は私のスマホを手に取るとトントンと何事もなく操作を始めた。
「パスワードは」
「あ、お気になさらず」
お気になさらず、ですって。そんな簡単な組み合わせではないのに。それともそこまで調べられている。いや、どうやって?
ゾッと背筋に悪寒が這う。この男はいつから私を調べていたんだ。ここまで来るとついこの間などの短期間ではない。長期間とも言い難いけれど、今の今までこいつの気配に全く気づかなかった。もし、梵天に所属することになってからなら蘭様も、竜胆様も気づいていないことになる。
「さて、ご兄弟のどちらにご連絡しましょうか」
冷や汗をかく私など気にした素振りも見せずに男がいけしゃあしゃあと訊ねて来る。
口の中ににじんだ唾を飲み込んで、私は「竜胆様に」と伝える。竜胆様なら必ず蘭様に伝える。蘭様の場合はお一人で解決しようとするかもしれない。お二人の兄弟としての上下関係から竜胆様に電話をした方がいい。
「灰谷竜胆さんですね。分かりました」
電話をかけようとした男の指が止まると視線が上がって私を見る。
「座っていてください」
先ほどの私のように男が座るように勧める。私はそれに大人しく従って座る。
男は満足そうに目を細めるとようやく指を動かした。すると、電話がかかるときの音がする。ああ、本当に男は竜胆様に電話をかけてしまったのか。
心臓がどくっ、どくっ、と早く鼓動していく。自分の選択肢は間違いだったのではないか。いや、間違っていたなん分からない。もし、これが間違いで蘭様に、竜胆様に、梵天に不利益が出た場合は――どうすればいい。
じんわりと額に汗が滲むと男の「困った」と声がした。
「どうしました」
「電話が繋がらないです」
困ったと両眉を下げる男に私はハッと我に返る。けれど明らかに怪しいこの男にお二人のスケジュールを告げるのは躊躇われる。
「あ、ああ。そうだ。まだお二人で定例会の時間ですね。その後は、確か梵天本部に行くんですよね」
「うっかりしていました」という男に梵天幹部のスケジュールすら把握していることにさらに汗が滲んで来る。
膝のスカートを掴んで「当分連絡はつかないか、と」と付ければ男が「ですね」と返す。ああ、喉が渇いて来て思わず唾を飲み込む。
「そう緊張しないでください……さて、では暫く二人きりの時間を過ごしましょうか」
言って男は私の横に座った。これから私と男の地獄の時間が始まった。
「こんにちは。――橙子さん」
捨てたはずの苗字と共に呼ばれた名前。どうして、と頭に過るも調べれば簡単に出て来る。それに私が捨てたと言ってもまだ1年も経っていない。だから呼ばれるのも頷ける。
違う。苗字のことなんて気にしている場合じゃない。どうしてこの男がここに傷ひとつなく辿り着けているか、だ。
「部屋に入ってもいいですか?」
ずいっと顔を寄せて来る男は表情ひとつ変わっていない。柔らかな目元をさらに下げてどこか熱い視線を私に向けて来る。あの店の時と変わらない表情なのに違う。粘着質な視線から逃げたくなる。でも、逃げたくても逃げ場もない。
「誰も、来ませんし――お部屋に入ったら灰谷ご兄弟を呼ぶ予定なので貴方に危害は加えません。ああ、それとも梵天の、灰谷ご兄弟の不利になる心配でも」
「心配ありません」と丁寧な口調で告げる男は私の考えなどすべて見透かしているように言う。つまり、私がどう動こうがきっとこの男は先手を呼んですべて潰しに来る。ならここは大人しく言う通りに動くしかない私は一歩下がり「奥へ」と先を促す。
私の行動に男の目尻が甘く下がった。
「僕一人ですから。それに部下は貴方についている護衛を見張っているので来ません。だから安心してください」
何をどう安心すればいいの。私の訝しむ視線に気づいたのか男が「あ」と思い出したような声を出してまた薄く微笑んだ。
「お二人にも手は出しませんので」
別にそういうことじゃない。何ならお二人だってどうにかこうにかできる。
蘭様と竜胆様を見下すような物言いに腹立たしさを覚えながらリビングへと繋がる廊下を歩く。とはいえ、普通に歩くわけにはいかない。後ろを歩く男に意識を向けながら案内する。
「どうぞ」
リビングに辿り着いてソファに座るように促す。先ほどまでだらしなく寝転んでいたまどろみのような時間が嘘のようだ。
にしても、男は一向に座らない。怪訝に眉を顰めれば男は薄く微笑んだ唇の口角を上げる。途端、深みをました笑みは不愉快さを増す。
「お座りください」
「いえ。お構いなく。それより先にご兄弟にご連絡しましょう」
手入れの行き届いた美しい手のひらが差し出された。これは私のスマホを寄越せということか。ローテーブルにあるスマホを見てすぐに男に視線を戻す。
「私が連絡を取るのでは」
「それは貴方の立場が悪くなるかと」
「え、」
何故、と逡巡してすぐに思い至る。つまり、この男は私が自分との協力者つまり梵天の裏切り者と思われないように気遣っているということになる。
何故、気遣うのか。考えれば熱の籠った視線で用意に予想できる。なら、この男は今のところ私をどうこうすることはない、と思う。ただ、何が起きるかもいくつか予想はできる。下手に動かない方が身のためか。
「わかりました、」
ローテーブルのスマホを手に取ろうとしたが「動かないで」と止められた。振り向きかけた身体を元に戻すと男は「僕が取ります」と言って動き出す。そのまま男は私のスマホを手に取るとトントンと何事もなく操作を始めた。
「パスワードは」
「あ、お気になさらず」
お気になさらず、ですって。そんな簡単な組み合わせではないのに。それともそこまで調べられている。いや、どうやって?
ゾッと背筋に悪寒が這う。この男はいつから私を調べていたんだ。ここまで来るとついこの間などの短期間ではない。長期間とも言い難いけれど、今の今までこいつの気配に全く気づかなかった。もし、梵天に所属することになってからなら蘭様も、竜胆様も気づいていないことになる。
「さて、ご兄弟のどちらにご連絡しましょうか」
冷や汗をかく私など気にした素振りも見せずに男がいけしゃあしゃあと訊ねて来る。
口の中ににじんだ唾を飲み込んで、私は「竜胆様に」と伝える。竜胆様なら必ず蘭様に伝える。蘭様の場合はお一人で解決しようとするかもしれない。お二人の兄弟としての上下関係から竜胆様に電話をした方がいい。
「灰谷竜胆さんですね。分かりました」
電話をかけようとした男の指が止まると視線が上がって私を見る。
「座っていてください」
先ほどの私のように男が座るように勧める。私はそれに大人しく従って座る。
男は満足そうに目を細めるとようやく指を動かした。すると、電話がかかるときの音がする。ああ、本当に男は竜胆様に電話をかけてしまったのか。
心臓がどくっ、どくっ、と早く鼓動していく。自分の選択肢は間違いだったのではないか。いや、間違っていたなん分からない。もし、これが間違いで蘭様に、竜胆様に、梵天に不利益が出た場合は――どうすればいい。
じんわりと額に汗が滲むと男の「困った」と声がした。
「どうしました」
「電話が繋がらないです」
困ったと両眉を下げる男に私はハッと我に返る。けれど明らかに怪しいこの男にお二人のスケジュールを告げるのは躊躇われる。
「あ、ああ。そうだ。まだお二人で定例会の時間ですね。その後は、確か梵天本部に行くんですよね」
「うっかりしていました」という男に梵天幹部のスケジュールすら把握していることにさらに汗が滲んで来る。
膝のスカートを掴んで「当分連絡はつかないか、と」と付ければ男が「ですね」と返す。ああ、喉が渇いて来て思わず唾を飲み込む。
「そう緊張しないでください……さて、では暫く二人きりの時間を過ごしましょうか」
言って男は私の横に座った。これから私と男の地獄の時間が始まった。
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