こころの隅に錆を飼う
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◆ 竜胆視点
橙子はバーの夜景が見える場所で一人静かに飲んでいた。見た目がよく明らかにほろ酔いの女。しかも一人。本来ならうようよ男が寄って来るだろう。それをあいつらの部下は程よく牽制したお蔭で悪い虫が寄りつくことはなかったようだ。
「暢気だな」と笑う兄貴に肩を竦めてジントニックの入ったグラスを持って近づいた。
兄貴に突然声をかけられた橙子はチェリーで噎せた。呆れながらも隣に座った途端に花を擽る普段と違う香りに眉を顰めそうになる。
普段、橙子は王道のフローラル系の香水を着けている。そこにオレや兄貴の香りが交じった香りを纏っている。でも、今日はアルコールに苦い煙草が交じってバニラの甘い香りを纏っている。あいつらしくない香りにやっぱり眉を顰めると「お代わり」と言って席を立った。
「そんなにあの匂い嫌い?」
「実際、合わねぇじゃん」
「まぁ。そうだな」
笑ってグラスを揺らす兄貴から橙子に視線を移す。
細い身体は黒いワンピースに包まれている。普段より年相応に見えてそれでいて未亡人感がある。チラと視線を横に動かせばバカみたいな野郎がいる。グラスを持ったまま立ち上がりあいつのいる場所に向かう。
カウンターに近寄ってバカ野郎を視線で制す。すると、血相を変えて逃げていく。とんだ腰抜け野郎だ。
けど、あんなあからさまな視線気づかないこいつも酔って鈍くなってるみたいだ。現にオレがここまで近寄って気づかないって平気かよ。呆れ心地で顔を覗き込んで目を瞠った。
こいつ、泣いてる。
つぅっと透明な粒が頬を伝っていく。こんな綺麗に涙って落ちるもんなんだと見ていると小さな手が頬に向かった。あ、と思ったらオレはその手を掴んでいた。
「よれんじゃねぇの?」
それっぽく言うと橙子は涙を零したままゆっくりとオレを見る。
泣いていている顔を改めて見て率直的に泣くんだと思った。そんで今日1日オレが知らないところでも泣いたのかなと頭を掠める。そんで誰かに見せたのか、そいつは男だったか。途端いるとも分からない人間が癪に障った。
「それ、飲みたい?」
「え?」
腹立たしさを紛らわせるように訊く。
橙子の目の前にあるのは色からマンハッタンだろう。ウィスキーベースの度数の高い甘口カクテル。カクテルの女王様とか呼ばれているやつ。なんか気の強そうな女が飲んでいるイメージ。だから、なんかこいつに似合わないと思った。けど、何か意味があるのかもしれない。でも、ないんなら手を引っ張って店を出るつもりだ。
「思い入れでもあんの」
「……思い入れはあります」
あんのかよ。それって男関係とかなのか、考えるともっとなんかムカつく。ぐっと自然と手を握る力を強くするとピタリと涙が止まった。それから申し訳なさそうに眉を下げた。なんだよ。その顔とジッと見ると艶々の唇が動いた。
「すいません。みっともなかったですね」
別に謝ってほしいんじゃねぇんだけど。クソ。なんでそうなるんだよ。それに別に泣く姿はみっともなくもねぇし。
「別に……で、どんな思い入れがあったの」
少し緊張した自分が情けなかった。なんでこいつ相手に緊張すんだよ。あほらし。けど、こいつが答えてくれるか。じっと答えるのを待っていると――橙子の唇はただ寂しげに微笑んだ。
「大した話ではありませんよ……」
一瞬、顰めたかけた眉をなんとか正常の位置に留める。
今、こいつ線引きした。今まで訊けばとりとめないように何でも話してくれた。だのに、ここで初めてこいつは拒否した。
つか、大した話じゃねぇなら、むしろなんで話さないわけ。今までどんなくだらないと言って前置きしたことでも話しただろ。だのに何で大した話じゃないって拒否したんだ。
イライラする。そのマンハッタンに特別な思いでもあるのか。それとも特別な人間と関わる思い出があるのか――それってやっぱり男なのか。
深く沈む思考に我に返り前髪を掻き上げる。
クソ。ただ話されなかっただけでムカつくなんてガキじゃねぇか。ダセェ。こういうところがいけねぇんだよな。
にしてもなんでこんなに腹立つんだ。それすらまだはっきりと分からねぇのがまたむしゃくしゃする。
何で話したくないんだよ、とマンハッタンを睨む。ただのカクテルを睨んだって意味はねぇけど。もう当分は見たくねぇな。心ん中で舌打ちをしながら乱れた前髪を適当に整えて橙子を見る。
「帰ぇんぞ」
「え」
目を丸くさせる橙子の細い手首を掴んで引っ張る。そのまま店の出入り口に向かう。一瞬、後ろで戸惑いに目を揺らしながら小さな口を開こうとする。それを遮るように前を向くと同時に口が自然に動いた。
「オマエの話は大した話じゃなくてもいつでも聞くからな」
掴んだ手首が震えた気がした。それ以外何もあいつから返事はなかった。聞こえなかったのか。まぁ、それならそれでいい。ちょっと恥ずかしいことを言った自覚はある。耳が熱くなっていくのはきっとその証拠。
らしくもない言葉を兄貴に訊かれていなかったのが幸いだ。訊かれていたら茶化してくんだろうな。そんな姿が目に浮かぶ。
「あ、あの、お会計は」
投げかけられた言葉は律儀なものだった。肩透かしを食らったとこっそり息を吐き出して「気にすんな」と返す。
「兄貴が全部してくれるよ」
そう付け足せば「そうですか」と緊張の抜けたような声がした。
これ以上オレが踏み込まないという安心かなにか。やっぱり腹が立つ。けど、よく分るのも事実。よく分かるからこそ――その場所は心を許した人間以外に踏み込ませたくない。橙子のその場所にオレはまだ踏み込めない人間というわけだ。
墓参りの許しを出した日。もう半年だろうって思ったがこいつにとってはまだまだなのだと改めて思い知らされた。そうだよ。オレだって多分まだこいつに踏み込まれたくないところがある。うん。ある――あるのか?
ふと、オレは重要なことに気づいた気がした。
橙子はバーの夜景が見える場所で一人静かに飲んでいた。見た目がよく明らかにほろ酔いの女。しかも一人。本来ならうようよ男が寄って来るだろう。それをあいつらの部下は程よく牽制したお蔭で悪い虫が寄りつくことはなかったようだ。
「暢気だな」と笑う兄貴に肩を竦めてジントニックの入ったグラスを持って近づいた。
兄貴に突然声をかけられた橙子はチェリーで噎せた。呆れながらも隣に座った途端に花を擽る普段と違う香りに眉を顰めそうになる。
普段、橙子は王道のフローラル系の香水を着けている。そこにオレや兄貴の香りが交じった香りを纏っている。でも、今日はアルコールに苦い煙草が交じってバニラの甘い香りを纏っている。あいつらしくない香りにやっぱり眉を顰めると「お代わり」と言って席を立った。
「そんなにあの匂い嫌い?」
「実際、合わねぇじゃん」
「まぁ。そうだな」
笑ってグラスを揺らす兄貴から橙子に視線を移す。
細い身体は黒いワンピースに包まれている。普段より年相応に見えてそれでいて未亡人感がある。チラと視線を横に動かせばバカみたいな野郎がいる。グラスを持ったまま立ち上がりあいつのいる場所に向かう。
カウンターに近寄ってバカ野郎を視線で制す。すると、血相を変えて逃げていく。とんだ腰抜け野郎だ。
けど、あんなあからさまな視線気づかないこいつも酔って鈍くなってるみたいだ。現にオレがここまで近寄って気づかないって平気かよ。呆れ心地で顔を覗き込んで目を瞠った。
こいつ、泣いてる。
つぅっと透明な粒が頬を伝っていく。こんな綺麗に涙って落ちるもんなんだと見ていると小さな手が頬に向かった。あ、と思ったらオレはその手を掴んでいた。
「よれんじゃねぇの?」
それっぽく言うと橙子は涙を零したままゆっくりとオレを見る。
泣いていている顔を改めて見て率直的に泣くんだと思った。そんで今日1日オレが知らないところでも泣いたのかなと頭を掠める。そんで誰かに見せたのか、そいつは男だったか。途端いるとも分からない人間が癪に障った。
「それ、飲みたい?」
「え?」
腹立たしさを紛らわせるように訊く。
橙子の目の前にあるのは色からマンハッタンだろう。ウィスキーベースの度数の高い甘口カクテル。カクテルの女王様とか呼ばれているやつ。なんか気の強そうな女が飲んでいるイメージ。だから、なんかこいつに似合わないと思った。けど、何か意味があるのかもしれない。でも、ないんなら手を引っ張って店を出るつもりだ。
「思い入れでもあんの」
「……思い入れはあります」
あんのかよ。それって男関係とかなのか、考えるともっとなんかムカつく。ぐっと自然と手を握る力を強くするとピタリと涙が止まった。それから申し訳なさそうに眉を下げた。なんだよ。その顔とジッと見ると艶々の唇が動いた。
「すいません。みっともなかったですね」
別に謝ってほしいんじゃねぇんだけど。クソ。なんでそうなるんだよ。それに別に泣く姿はみっともなくもねぇし。
「別に……で、どんな思い入れがあったの」
少し緊張した自分が情けなかった。なんでこいつ相手に緊張すんだよ。あほらし。けど、こいつが答えてくれるか。じっと答えるのを待っていると――橙子の唇はただ寂しげに微笑んだ。
「大した話ではありませんよ……」
一瞬、顰めたかけた眉をなんとか正常の位置に留める。
今、こいつ線引きした。今まで訊けばとりとめないように何でも話してくれた。だのに、ここで初めてこいつは拒否した。
つか、大した話じゃねぇなら、むしろなんで話さないわけ。今までどんなくだらないと言って前置きしたことでも話しただろ。だのに何で大した話じゃないって拒否したんだ。
イライラする。そのマンハッタンに特別な思いでもあるのか。それとも特別な人間と関わる思い出があるのか――それってやっぱり男なのか。
深く沈む思考に我に返り前髪を掻き上げる。
クソ。ただ話されなかっただけでムカつくなんてガキじゃねぇか。ダセェ。こういうところがいけねぇんだよな。
にしてもなんでこんなに腹立つんだ。それすらまだはっきりと分からねぇのがまたむしゃくしゃする。
何で話したくないんだよ、とマンハッタンを睨む。ただのカクテルを睨んだって意味はねぇけど。もう当分は見たくねぇな。心ん中で舌打ちをしながら乱れた前髪を適当に整えて橙子を見る。
「帰ぇんぞ」
「え」
目を丸くさせる橙子の細い手首を掴んで引っ張る。そのまま店の出入り口に向かう。一瞬、後ろで戸惑いに目を揺らしながら小さな口を開こうとする。それを遮るように前を向くと同時に口が自然に動いた。
「オマエの話は大した話じゃなくてもいつでも聞くからな」
掴んだ手首が震えた気がした。それ以外何もあいつから返事はなかった。聞こえなかったのか。まぁ、それならそれでいい。ちょっと恥ずかしいことを言った自覚はある。耳が熱くなっていくのはきっとその証拠。
らしくもない言葉を兄貴に訊かれていなかったのが幸いだ。訊かれていたら茶化してくんだろうな。そんな姿が目に浮かぶ。
「あ、あの、お会計は」
投げかけられた言葉は律儀なものだった。肩透かしを食らったとこっそり息を吐き出して「気にすんな」と返す。
「兄貴が全部してくれるよ」
そう付け足せば「そうですか」と緊張の抜けたような声がした。
これ以上オレが踏み込まないという安心かなにか。やっぱり腹が立つ。けど、よく分るのも事実。よく分かるからこそ――その場所は心を許した人間以外に踏み込ませたくない。橙子のその場所にオレはまだ踏み込めない人間というわけだ。
墓参りの許しを出した日。もう半年だろうって思ったがこいつにとってはまだまだなのだと改めて思い知らされた。そうだよ。オレだって多分まだこいつに踏み込まれたくないところがある。うん。ある――あるのか?
ふと、オレは重要なことに気づいた気がした。