その蓋はきっと一生開かない
その蓋はきっと一生開かない
輝石の国の北部。都市部に比べると田舎に見えて、田舎から見たら発展している街。そんな街にネージュはほんの短い間だけ暮らしていた。
今でこそすっかり男らしい体つきになったけれど幼い頃は女の子らしい顔立ちをしていた。親戚の皆は、そこら辺の女の子よりも可愛いともて囃されたが嬉しくない。女の子と比較してというよりも誰かと比較して称賛されることが苦手だった。それに比較される女の子たちだってそれぞれの可愛らしさや、美しさがあるのに酷いことを言う親戚の人間が苦手だった。
けど、周りはネージュの思考と違っていた。一部の女の子はやはり比較されて蔑まれることでネージュを嫌い当たりが強かった。一部の男の子はもて囃されるネージュを妬み女の子らしい顔立ちや、色白であること小柄であることをからかった。それに悲しくもなりつつ慰めてくれる友達もいたけれど、中にはネージュを使って他人を扱き下ろす子どももいてネージュは知らずに人見知りという名の人間不信になっていた。
幼心に「なんでこうなるんだろう」と悩んだものだった。その悩みは幼いネージュでは解決できなかった。
ただ、優しい両親は周りの言葉に耳を貸すことも大事であると何度も諭した。けれど、何よりもネージュの心を大切にしなさいと諭してくれたものだ。その両親もネージュが幼い頃にこの世から儚く消えてしまった。
ネージュは一人幼いながらも懸命に小さな社会で生きていた。一生懸命生きていたのだけど、優しい両親が亡くなり、親戚の家をたらい回しにされ始めたネージュの心に影が落ちる。
ネージュの可愛らしさに目が眩んで芸能界に進出させようとする親戚。けど、芸能界なんてネージュには興味はなかった。だのに、しきりにオーディションに引っ張り出そうとする親戚にネージュは初めて人間が嫌いになりそうになった。
ある日、とうとう親戚が嫌がるネージュを無理矢理連れていこうとした。ネージュは人生で初めて大人に反発した。
「イヤって言ったらイヤ!」
止める大人の手を振り切って知らない街を駆け抜ける。駆けるネージュを止めように真っ黒な手が伸びる。伸びる黒い手から逃げるように必死に駆ける。元々運動が苦手なネージュにとって辛い動きだった。でも、捕まったらいけないという本能のまま冷たい空気で痛む肺で必死に息をして逃げ続けた。
逃げて、逃げて、逃げ続けて――ネージュの体力限界を迎えて足がもつれて地面に盛大に倒れ込んだ。
「いっ」
雪が降り積もる地面。ふわふわした雪の上でも痛いものは痛かった。けれどもう立ち上がる力も残っていなかった。飛び出したときは雪がネージュの小さな身体に降り積もっていく。このまま自分の身体を覆い尽くして誰にも見つからなくなればいいのに。ささやかながら子どもがするものではない願いを抱きながらそっと目を瞑ると――。
「おい! 寝るなっっ!」
切羽詰まった大きな声が聞こえた気がした。けど、もうネージュは眠くて眠くてしょうがなかった。瞼が重くて上がる気配もなかった。
「んぅ、ぃい」
揺さぶる手から逃げるように丸くなる。もういい。もういい。優しい両親もいない世界なんていい。
「バカッ! 寝ちゃダメだって言っているだろ! あ~! もうっ!」
しつこく身体を揺さぶっていた動きが止まった。よかった。これでゆっくりと眠れるとさらに身体を丸くさせる。けど、そうは簡単に眠りにつけなかった。「よいしょっと!」という声がすると――。
「っ!」
ぐいっと身体が引っ張り起こされた。無理矢理動かされた身体にネージュは閉じていた瞼をのろのろと起こした。ぼやける視界は真っ白だった。何も見えない。
「ぅん~」
呻きながら目を擦るけれど眠いばかりでどうにもならない。
「あ! コラ! 目ぇ擦んな! バカ!」
「ぅ~ばかじゃなぁい」
「バカはバカだ。こんな雪の中外で寝ようとしたやつなんかバカでいい」
「バカじゃなぃ、ねーじゅぅ」
「ネージュ? おまえ、ネージュっていうのか……じゃねぇ! もうおれの腕も限界だからさっさと起きろ!」
そういえば引っ張られている方がプルプルした振動がする。なら、離せばいいのに。でも、ネージュをバカという子は必死に引っ張っている。
「はぁなぁしぃてぇ」
「やだ。ほら。おれの家近くなんだ。行くぞ」
家、と言えるのが羨ましい。ネージュにはもう温かい家はないのだから。そう思うと両親が亡くなったときと同じくらいの哀しみが押し寄せてきた。ツンツンする鼻の奥、目尻からジワリと涙が零れてそれはついに大きな粒に変わった。
「ひっくっ、ぅ、ぁああ~~~ッ!」
「え、な、なんだよ、いきなり」
ついに声をあげてネージュは泣いた。引っ張っている子の戸惑いの声が聞こえた気がする。でも、そんなことネージュにはどうでもいい。もうすべてがどうでもいい。
「おい。どこか痛いのか?」
引っ張っていた力が緩くなっていく。そして、ゆっくりゆっくりとネージュは再び雪が降り積もる地面に置かれた。ネージュはやはり起き上がることなく泣き続けた。
「……こんな寒い日に泣いたら涙、氷るぞ」
冷え切った頬に温かなものが触れた。そして、それはぐいぐいと零れる涙を拭った。合間に「泣き止めよ」と言われてまた涙が零れて嗚咽が出る。
「うっ、ひっ、ぃう、まっ、まま、とぱっ、ぱぱッに、ぅぁっ、あい、たっ、い」
「……会えねぇの?」
「い、いなくな、っ、しんじゃっひぅ、あ~」
「……そうか。そりゃ寂しいな」
「う、ぅん、さびしっ、さびしぃッ」
うん、うん、と相手は言って頬っぺたと、頭を撫でられた。その温かさにまたネージュは涙を流した。
◆ ◆ ◆
雪が残るレンガ道を駆ける。前みたいに誰から逃げるために走っているわけじゃない。とっても大切な〝お友達〟に会いにいくためにネージュは走っていた。
走っていたネージュは一軒の家の前に立った。上がった息を整えてベルを鳴らす。待っている間もソワソワと身体を揺らしながら待つ。
ガチャとドアノブに手がかかる音がすると勢いよく扉が開いた。出てきたのは先が黒い他は真っ白い大きな三角の耳を持った獣人属の男の子。
「ジャック、おはよ!」
「おう! おはよ!」
ニカッと笑うジャックにつられてネージュも笑う。
ジャック・ハウル。オオカミの獣人属の男の子。歳はネージュの一個歳下だけどネージュよりも少しだけ身長が高い。とはいっても、ネージュが同年代の男の子よりも身長が低いだけだとジャックに言われた。ジャック曰く、クラスでも平均的な身長らしい。でも、ジャックの手や足は大きいきっと大人になったジャックのパパのように大きくなるに違いない。
公園で遊ぼうというジャックの横を歩きながらネージュは自分の手を見下ろす。
ネージュの手は女の子と比べれば大きいことは最近知った。同年代の男の子とも意外に変わらなかった。でも、圧倒的にジャックより小さかった。
「いいな。ジャックの手は大きいくて」
手から隣のジャックを見る。ジャックはお月さまみたいな瞳を瞬かせて首を傾げる。
「ネージュだってこれからもっと大きくなるかもしれないぜ」
「うーん。でも、ジャックはもう大きい」
ずるい、と頬を膨らませれば突かれ口の中の空気が抜ける。
「ぼくは真剣んなんだよ!」
「ウジウジ悩んだって意味ねぇだろ。それにもし大きくなりたいんなら色々試してみたらいいだろ」
「試す?」
ジャックは指折り数え始めた。
「まずネージュは好き嫌い多すぎ。偏食過ぎると栄養偏って大きくなれねぇんじゃねぇの?」
「うっ」
それは両親が生きていた頃にも心配されていたことだった。でも、好き嫌いも別に食べず嫌いじゃない。食べた結果受け付けなかったのだ。
「あと、あんまり運動しねぇ。前より走れるようになったけど体力が少ない」
「でも、でも、ぼく、本とか読むの好きなんだけど」
「それはいい。もっとしていいと思う。けど、籠りすぎるのも身体に悪い」
たまにお日様をたんと浴びないといけないとジャックが言う。
「お日様浴びないとそれはそれでいけないってじいちゃんも、ばあちゃんも言ってた」
「そうなんだ……でもそうだね。ジャックと外で遊ぶようになって前よりご飯もいっぱい食べられるようになったし、走っても苦しくない」
前より風邪も引かなくなった。身体が強くなった気がする。
「ぼく、大人になったらもっと大きくなれるかな?」
ジャックの大きな手を取って聞く。ジャックは空を一瞬見てニカと犬歯を見せて笑った。
「お前がそう思えばなれるよ」
「おれももっと大きくなるし強くなる予定だしな」と胸を張るジャック。けど、ジャックは本当にそうなりそうだ。
「ふふ。なら、ぼくも頑張ろう」
「うん! あ、そうだ! おれすっごい人知ってる! おれも尊敬している人でネージュも目標に出来るくらいすごい子! もうずっと前に引っ越しちまったヴィルさんっていう子なんだけど」
「ヴィルさん?」
大きな耳をピルピル動かして、ふさふさの尻尾が激しく動いている。それだけでも珍しいけれど、ジャックの口から友達らしき子の名前が出たことの方が珍しかった。けど、そのことにネージュの胸は少しだけもやっとした。今までにないもやっとした感覚にネージュは「なんだろう」と首を傾げる。でも、疑問は解決する前にジャックが「こっち」とネージュの腕を引っ張り走り出した。
「わっ! ジャック!」
「えっと、あ、ほら! あそこのポスターにいるすっごく綺麗な子!」
ショーウインドーの前に止まって指を指すジャック。その指を辿ると本当に綺麗な子がいた。そして、テレビをあまり観ないネージュでも見覚えのある子どもだった。
「この子、知ってるよ」
「やっぱり! ネージュは都市部から来たんだもんな。きっと、ヴィルさんのこともっと見ているはずだぜ!」
まるで自分の事のように誇らしそうに言うジャック。そのジャックにモヤモヤが止まらないネージュはそれが嫌だった。
「ヴィルさん、ほんとうにカッコよくて、綺麗で、可愛い人なんだ。そして、いつもすっごく頑張っている人でおれの大好きな人!」
〝大好きな人〟という言葉に胸がキュッと絞められた。
「大好き?」
「うん!」
ふにゃと笑うジャックがとても可愛かった。きっと、とても仲が良かったんだろう。ネージュなんかよりずっと。羨ましいなんて初めて思った。同時にとてもその考えが嫌だったしいけないものだと思った。
ネージュは抱いた感情をすぐに箱に詰め込んだ。嫌なことは箱に詰め込むといいってママが言っていたからだ。
「ネージュ? どうしたんだ?」
「え、あ、なんでもないよ」
覗き込むジャックに首を横に振る。嫌なことには箱に詰めて蓋をしよう。
◆ ◆ ◆
ネージュは母方の遠縁親戚に引き取られ穏やかな毎日を過ごしていた。そして、あれだけ嫌がっていた芸能界に飛び込んでいた。きかっけはジャックが大好きだと言っていたヴィルが出演した舞台を観てその道に興味を持ってしまったから。それにいつの日か、またジャックの前に堂々と立てると思ったからだった。
ジャックとはネージュが引っ越して以来連絡は取り合っていなかった。実は今の両親が転勤族で輝石の国、薔薇の王国など点々としていた。別れるときに連絡先をしっかりと聞いて置けばよかったと今でもたまに後悔する。とはいっても、後悔してばかりいられないそれよりも、ジャックに見られても恥ずかしくないように懸命に自分を磨いていた。
けれど、時間の経過とは残酷でとても大切なジャックの顔が朧げになりつつあった。それに、写真を撮っておけばよかったと思っていた頃だった。
仕事が終わり寮に戻ると寮生が熱心にスマホを覗き込んでいた。何だろうと、ソファにかけている友人に駆け寄り声をかける。
「ねぇ、何観てるの?」
「ネージュ、お帰り。ほら、これ、ナイトレイブンカレッジの寮対抗マジフト大会」
「もうそんな時期?」
「そうだよ、ほら」
友人は苦笑しながらスマホの画面を見せてくれた。それを覗き込むと黒い運動着を来た生徒たちが箒に跨って飛び交っていた。
ネージュもマジフトは授業でするが日焼けするからとあまり事務所はいい顔をしない。でも、ネージュは空を飛び回る飛行術が好きだった。久々に箒に乗りたいな、と考えていると銀色に輝く大きな三角の耳を持っている獣人属が視界に入る。
まさか、とネージュは画面を凝視する。すると、その大きな三角の耳を持つ大柄の生徒がゴールを決めるとアップになって――。
「ああッ!」
「わっ! なんだい、いきなり」友人の言葉を無視してネージュはスマホを取る。それからゴールを入れた生徒のリプレイになってまた映る。
「じゃ、じゃ、ジャックだ!」
「え、君の知り合いなのか?」
「うん! 僕の命の恩人」
で、大切な子とまでは言わずに再び試合の風景になった画面を見る。ネージュは取ってしまったスマホを友人に謝罪しながら返す。そして、友人が「命の恩人ってどういうことだい」という言葉を無視して部屋に向かって駆け出す。
すっかりと丈夫になった身体で部屋に駆け込む。ルームメイトはいなかったのは幸いだった。ネージュは鞄からスマホを取り出してナイトレイブンカレッジの寮対抗マジフト大会をマジカメなどで検索する。すると、ドバッと投稿された写真たちが出てきた。
「わわ。やっぱりジャックだ!」
ナイトレイブンカレッジを情報アカウントが試合の実況をしていた。そのアカウントを遡るとジャックの名前と写真を見つけた。
「ジャック・ハウル。ナイトレイブンカレッジ一年生でサバナクロー寮所属。オオカミの獣人属で身長は百九十二センチ……うわぁ。すごい伸びてる」
顔つきも精悍になって十六歳なのにとても大人びて見えた。けど、周りの上級生に混じると体格は変わらないのに顔つきと雰囲気が子どもっぽくて可愛らしい。
トン、トン、とスクロールしながら写真を見ていく。そして、保存していく。それにしても――。
「この二人とよくいるな……」
一緒に映る率が高いのは同級生ではなくて上級生で片方はネージュもよく知っている生徒だ。一人は進級したと思っていたレオナ・キングスカラー、もうひとりは丸い大きな耳で何かの獣人属の生徒。垂れ目なのにこう野生の鋭さを感じる小柄な生徒。
「まだ入学したばかりなのに仲のいい先輩が出来たんだ」
それにしてもレオナはジャックの所属するサバナクローの寮長ではなかっただろうか。ということは、もう片方の生徒も副寮長かそれに近しい生徒なのか。
「ジャックすごいな」
キラキラした眼差しを二人に向ける。とくにレオナに頭を撫でられているときのジャックの笑顔がとびきりいい。そうだ。この笑顔はあのとき、ヴィルの話をしていたとき。思い出そうとした瞬間、閉じていた蓋がずれて――。
「あっと、ダメ!」
閉じていた蓋が開きかネージュは慌ててスマホの画面を下に向けて置く。
「ハァ~危なかった」
危ない、危ない、と心臓の上に手のひらを当てる。たまにジャックを思い出すときに小さいことに閉じた蓋が開きそうになる。この蓋は開けてはいけない。開けるときっと大変なことになるに違いない。
「ジャック、元気そうでよかった……」
もしかしたら全国魔法士養成学校総合文化祭で会えるかもしれない。
今のネージュを見たらなんて言ってくれるだろう。それとも忘れてしまっているかな。
心の中にある〝感情〟を無視してネージュは大切なジャックの顔を思い浮かべた。
輝石の国の北部。都市部に比べると田舎に見えて、田舎から見たら発展している街。そんな街にネージュはほんの短い間だけ暮らしていた。
今でこそすっかり男らしい体つきになったけれど幼い頃は女の子らしい顔立ちをしていた。親戚の皆は、そこら辺の女の子よりも可愛いともて囃されたが嬉しくない。女の子と比較してというよりも誰かと比較して称賛されることが苦手だった。それに比較される女の子たちだってそれぞれの可愛らしさや、美しさがあるのに酷いことを言う親戚の人間が苦手だった。
けど、周りはネージュの思考と違っていた。一部の女の子はやはり比較されて蔑まれることでネージュを嫌い当たりが強かった。一部の男の子はもて囃されるネージュを妬み女の子らしい顔立ちや、色白であること小柄であることをからかった。それに悲しくもなりつつ慰めてくれる友達もいたけれど、中にはネージュを使って他人を扱き下ろす子どももいてネージュは知らずに人見知りという名の人間不信になっていた。
幼心に「なんでこうなるんだろう」と悩んだものだった。その悩みは幼いネージュでは解決できなかった。
ただ、優しい両親は周りの言葉に耳を貸すことも大事であると何度も諭した。けれど、何よりもネージュの心を大切にしなさいと諭してくれたものだ。その両親もネージュが幼い頃にこの世から儚く消えてしまった。
ネージュは一人幼いながらも懸命に小さな社会で生きていた。一生懸命生きていたのだけど、優しい両親が亡くなり、親戚の家をたらい回しにされ始めたネージュの心に影が落ちる。
ネージュの可愛らしさに目が眩んで芸能界に進出させようとする親戚。けど、芸能界なんてネージュには興味はなかった。だのに、しきりにオーディションに引っ張り出そうとする親戚にネージュは初めて人間が嫌いになりそうになった。
ある日、とうとう親戚が嫌がるネージュを無理矢理連れていこうとした。ネージュは人生で初めて大人に反発した。
「イヤって言ったらイヤ!」
止める大人の手を振り切って知らない街を駆け抜ける。駆けるネージュを止めように真っ黒な手が伸びる。伸びる黒い手から逃げるように必死に駆ける。元々運動が苦手なネージュにとって辛い動きだった。でも、捕まったらいけないという本能のまま冷たい空気で痛む肺で必死に息をして逃げ続けた。
逃げて、逃げて、逃げ続けて――ネージュの体力限界を迎えて足がもつれて地面に盛大に倒れ込んだ。
「いっ」
雪が降り積もる地面。ふわふわした雪の上でも痛いものは痛かった。けれどもう立ち上がる力も残っていなかった。飛び出したときは雪がネージュの小さな身体に降り積もっていく。このまま自分の身体を覆い尽くして誰にも見つからなくなればいいのに。ささやかながら子どもがするものではない願いを抱きながらそっと目を瞑ると――。
「おい! 寝るなっっ!」
切羽詰まった大きな声が聞こえた気がした。けど、もうネージュは眠くて眠くてしょうがなかった。瞼が重くて上がる気配もなかった。
「んぅ、ぃい」
揺さぶる手から逃げるように丸くなる。もういい。もういい。優しい両親もいない世界なんていい。
「バカッ! 寝ちゃダメだって言っているだろ! あ~! もうっ!」
しつこく身体を揺さぶっていた動きが止まった。よかった。これでゆっくりと眠れるとさらに身体を丸くさせる。けど、そうは簡単に眠りにつけなかった。「よいしょっと!」という声がすると――。
「っ!」
ぐいっと身体が引っ張り起こされた。無理矢理動かされた身体にネージュは閉じていた瞼をのろのろと起こした。ぼやける視界は真っ白だった。何も見えない。
「ぅん~」
呻きながら目を擦るけれど眠いばかりでどうにもならない。
「あ! コラ! 目ぇ擦んな! バカ!」
「ぅ~ばかじゃなぁい」
「バカはバカだ。こんな雪の中外で寝ようとしたやつなんかバカでいい」
「バカじゃなぃ、ねーじゅぅ」
「ネージュ? おまえ、ネージュっていうのか……じゃねぇ! もうおれの腕も限界だからさっさと起きろ!」
そういえば引っ張られている方がプルプルした振動がする。なら、離せばいいのに。でも、ネージュをバカという子は必死に引っ張っている。
「はぁなぁしぃてぇ」
「やだ。ほら。おれの家近くなんだ。行くぞ」
家、と言えるのが羨ましい。ネージュにはもう温かい家はないのだから。そう思うと両親が亡くなったときと同じくらいの哀しみが押し寄せてきた。ツンツンする鼻の奥、目尻からジワリと涙が零れてそれはついに大きな粒に変わった。
「ひっくっ、ぅ、ぁああ~~~ッ!」
「え、な、なんだよ、いきなり」
ついに声をあげてネージュは泣いた。引っ張っている子の戸惑いの声が聞こえた気がする。でも、そんなことネージュにはどうでもいい。もうすべてがどうでもいい。
「おい。どこか痛いのか?」
引っ張っていた力が緩くなっていく。そして、ゆっくりゆっくりとネージュは再び雪が降り積もる地面に置かれた。ネージュはやはり起き上がることなく泣き続けた。
「……こんな寒い日に泣いたら涙、氷るぞ」
冷え切った頬に温かなものが触れた。そして、それはぐいぐいと零れる涙を拭った。合間に「泣き止めよ」と言われてまた涙が零れて嗚咽が出る。
「うっ、ひっ、ぃう、まっ、まま、とぱっ、ぱぱッに、ぅぁっ、あい、たっ、い」
「……会えねぇの?」
「い、いなくな、っ、しんじゃっひぅ、あ~」
「……そうか。そりゃ寂しいな」
「う、ぅん、さびしっ、さびしぃッ」
うん、うん、と相手は言って頬っぺたと、頭を撫でられた。その温かさにまたネージュは涙を流した。
◆ ◆ ◆
雪が残るレンガ道を駆ける。前みたいに誰から逃げるために走っているわけじゃない。とっても大切な〝お友達〟に会いにいくためにネージュは走っていた。
走っていたネージュは一軒の家の前に立った。上がった息を整えてベルを鳴らす。待っている間もソワソワと身体を揺らしながら待つ。
ガチャとドアノブに手がかかる音がすると勢いよく扉が開いた。出てきたのは先が黒い他は真っ白い大きな三角の耳を持った獣人属の男の子。
「ジャック、おはよ!」
「おう! おはよ!」
ニカッと笑うジャックにつられてネージュも笑う。
ジャック・ハウル。オオカミの獣人属の男の子。歳はネージュの一個歳下だけどネージュよりも少しだけ身長が高い。とはいっても、ネージュが同年代の男の子よりも身長が低いだけだとジャックに言われた。ジャック曰く、クラスでも平均的な身長らしい。でも、ジャックの手や足は大きいきっと大人になったジャックのパパのように大きくなるに違いない。
公園で遊ぼうというジャックの横を歩きながらネージュは自分の手を見下ろす。
ネージュの手は女の子と比べれば大きいことは最近知った。同年代の男の子とも意外に変わらなかった。でも、圧倒的にジャックより小さかった。
「いいな。ジャックの手は大きいくて」
手から隣のジャックを見る。ジャックはお月さまみたいな瞳を瞬かせて首を傾げる。
「ネージュだってこれからもっと大きくなるかもしれないぜ」
「うーん。でも、ジャックはもう大きい」
ずるい、と頬を膨らませれば突かれ口の中の空気が抜ける。
「ぼくは真剣んなんだよ!」
「ウジウジ悩んだって意味ねぇだろ。それにもし大きくなりたいんなら色々試してみたらいいだろ」
「試す?」
ジャックは指折り数え始めた。
「まずネージュは好き嫌い多すぎ。偏食過ぎると栄養偏って大きくなれねぇんじゃねぇの?」
「うっ」
それは両親が生きていた頃にも心配されていたことだった。でも、好き嫌いも別に食べず嫌いじゃない。食べた結果受け付けなかったのだ。
「あと、あんまり運動しねぇ。前より走れるようになったけど体力が少ない」
「でも、でも、ぼく、本とか読むの好きなんだけど」
「それはいい。もっとしていいと思う。けど、籠りすぎるのも身体に悪い」
たまにお日様をたんと浴びないといけないとジャックが言う。
「お日様浴びないとそれはそれでいけないってじいちゃんも、ばあちゃんも言ってた」
「そうなんだ……でもそうだね。ジャックと外で遊ぶようになって前よりご飯もいっぱい食べられるようになったし、走っても苦しくない」
前より風邪も引かなくなった。身体が強くなった気がする。
「ぼく、大人になったらもっと大きくなれるかな?」
ジャックの大きな手を取って聞く。ジャックは空を一瞬見てニカと犬歯を見せて笑った。
「お前がそう思えばなれるよ」
「おれももっと大きくなるし強くなる予定だしな」と胸を張るジャック。けど、ジャックは本当にそうなりそうだ。
「ふふ。なら、ぼくも頑張ろう」
「うん! あ、そうだ! おれすっごい人知ってる! おれも尊敬している人でネージュも目標に出来るくらいすごい子! もうずっと前に引っ越しちまったヴィルさんっていう子なんだけど」
「ヴィルさん?」
大きな耳をピルピル動かして、ふさふさの尻尾が激しく動いている。それだけでも珍しいけれど、ジャックの口から友達らしき子の名前が出たことの方が珍しかった。けど、そのことにネージュの胸は少しだけもやっとした。今までにないもやっとした感覚にネージュは「なんだろう」と首を傾げる。でも、疑問は解決する前にジャックが「こっち」とネージュの腕を引っ張り走り出した。
「わっ! ジャック!」
「えっと、あ、ほら! あそこのポスターにいるすっごく綺麗な子!」
ショーウインドーの前に止まって指を指すジャック。その指を辿ると本当に綺麗な子がいた。そして、テレビをあまり観ないネージュでも見覚えのある子どもだった。
「この子、知ってるよ」
「やっぱり! ネージュは都市部から来たんだもんな。きっと、ヴィルさんのこともっと見ているはずだぜ!」
まるで自分の事のように誇らしそうに言うジャック。そのジャックにモヤモヤが止まらないネージュはそれが嫌だった。
「ヴィルさん、ほんとうにカッコよくて、綺麗で、可愛い人なんだ。そして、いつもすっごく頑張っている人でおれの大好きな人!」
〝大好きな人〟という言葉に胸がキュッと絞められた。
「大好き?」
「うん!」
ふにゃと笑うジャックがとても可愛かった。きっと、とても仲が良かったんだろう。ネージュなんかよりずっと。羨ましいなんて初めて思った。同時にとてもその考えが嫌だったしいけないものだと思った。
ネージュは抱いた感情をすぐに箱に詰め込んだ。嫌なことは箱に詰め込むといいってママが言っていたからだ。
「ネージュ? どうしたんだ?」
「え、あ、なんでもないよ」
覗き込むジャックに首を横に振る。嫌なことには箱に詰めて蓋をしよう。
◆ ◆ ◆
ネージュは母方の遠縁親戚に引き取られ穏やかな毎日を過ごしていた。そして、あれだけ嫌がっていた芸能界に飛び込んでいた。きかっけはジャックが大好きだと言っていたヴィルが出演した舞台を観てその道に興味を持ってしまったから。それにいつの日か、またジャックの前に堂々と立てると思ったからだった。
ジャックとはネージュが引っ越して以来連絡は取り合っていなかった。実は今の両親が転勤族で輝石の国、薔薇の王国など点々としていた。別れるときに連絡先をしっかりと聞いて置けばよかったと今でもたまに後悔する。とはいっても、後悔してばかりいられないそれよりも、ジャックに見られても恥ずかしくないように懸命に自分を磨いていた。
けれど、時間の経過とは残酷でとても大切なジャックの顔が朧げになりつつあった。それに、写真を撮っておけばよかったと思っていた頃だった。
仕事が終わり寮に戻ると寮生が熱心にスマホを覗き込んでいた。何だろうと、ソファにかけている友人に駆け寄り声をかける。
「ねぇ、何観てるの?」
「ネージュ、お帰り。ほら、これ、ナイトレイブンカレッジの寮対抗マジフト大会」
「もうそんな時期?」
「そうだよ、ほら」
友人は苦笑しながらスマホの画面を見せてくれた。それを覗き込むと黒い運動着を来た生徒たちが箒に跨って飛び交っていた。
ネージュもマジフトは授業でするが日焼けするからとあまり事務所はいい顔をしない。でも、ネージュは空を飛び回る飛行術が好きだった。久々に箒に乗りたいな、と考えていると銀色に輝く大きな三角の耳を持っている獣人属が視界に入る。
まさか、とネージュは画面を凝視する。すると、その大きな三角の耳を持つ大柄の生徒がゴールを決めるとアップになって――。
「ああッ!」
「わっ! なんだい、いきなり」友人の言葉を無視してネージュはスマホを取る。それからゴールを入れた生徒のリプレイになってまた映る。
「じゃ、じゃ、ジャックだ!」
「え、君の知り合いなのか?」
「うん! 僕の命の恩人」
で、大切な子とまでは言わずに再び試合の風景になった画面を見る。ネージュは取ってしまったスマホを友人に謝罪しながら返す。そして、友人が「命の恩人ってどういうことだい」という言葉を無視して部屋に向かって駆け出す。
すっかりと丈夫になった身体で部屋に駆け込む。ルームメイトはいなかったのは幸いだった。ネージュは鞄からスマホを取り出してナイトレイブンカレッジの寮対抗マジフト大会をマジカメなどで検索する。すると、ドバッと投稿された写真たちが出てきた。
「わわ。やっぱりジャックだ!」
ナイトレイブンカレッジを情報アカウントが試合の実況をしていた。そのアカウントを遡るとジャックの名前と写真を見つけた。
「ジャック・ハウル。ナイトレイブンカレッジ一年生でサバナクロー寮所属。オオカミの獣人属で身長は百九十二センチ……うわぁ。すごい伸びてる」
顔つきも精悍になって十六歳なのにとても大人びて見えた。けど、周りの上級生に混じると体格は変わらないのに顔つきと雰囲気が子どもっぽくて可愛らしい。
トン、トン、とスクロールしながら写真を見ていく。そして、保存していく。それにしても――。
「この二人とよくいるな……」
一緒に映る率が高いのは同級生ではなくて上級生で片方はネージュもよく知っている生徒だ。一人は進級したと思っていたレオナ・キングスカラー、もうひとりは丸い大きな耳で何かの獣人属の生徒。垂れ目なのにこう野生の鋭さを感じる小柄な生徒。
「まだ入学したばかりなのに仲のいい先輩が出来たんだ」
それにしてもレオナはジャックの所属するサバナクローの寮長ではなかっただろうか。ということは、もう片方の生徒も副寮長かそれに近しい生徒なのか。
「ジャックすごいな」
キラキラした眼差しを二人に向ける。とくにレオナに頭を撫でられているときのジャックの笑顔がとびきりいい。そうだ。この笑顔はあのとき、ヴィルの話をしていたとき。思い出そうとした瞬間、閉じていた蓋がずれて――。
「あっと、ダメ!」
閉じていた蓋が開きかネージュは慌ててスマホの画面を下に向けて置く。
「ハァ~危なかった」
危ない、危ない、と心臓の上に手のひらを当てる。たまにジャックを思い出すときに小さいことに閉じた蓋が開きそうになる。この蓋は開けてはいけない。開けるときっと大変なことになるに違いない。
「ジャック、元気そうでよかった……」
もしかしたら全国魔法士養成学校総合文化祭で会えるかもしれない。
今のネージュを見たらなんて言ってくれるだろう。それとも忘れてしまっているかな。
心の中にある〝感情〟を無視してネージュは大切なジャックの顔を思い浮かべた。
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