白狼の争奪戦
仁義なき争奪戦
目の前の後輩はいつも凛々しく引き締まった顔を緩めている。厳しい眼つきは僅かに和らぎ、一文字に引き結ばれている唇は緩やかな笑みを描いている。だらしないというわけではない。けれど、明らかに親しくない者には見せることがない顔。その顔を見ることができるのは自分と、隣の彼の憧れだと謳われるレオナの前だけだろう。だと、思っていた。
今はわからない。今までずっと自分とレオナだけに見せていた顔をあの三人組も知っている可能性がある。すると、胸のあたりがムカムカする。これは決して肉を食べ過ぎた胸焼けではない。まだその年齢ではない。隣のレオナは知らないが。
ラギーは目の前でさらふわな大きな尾を振る後輩ジャックをジトと見つめる。
――随分と大きくなちゃって。
ラギーが卒業する前よりも一回り大きくなっている身体。身長は二百を越えたとか。寝る子は育つというが育ちすぎだ。自分など百七十半ばまでしか伸びなかったというのに。結局、目の前のジャックは二十歳になるまで伸びたと言うのは流石に不公平では。
――いやいや。そうじゃないッスよ。
そうじゃない。そうじゃない。自分がむかっ腹を立てているの理由は違う。
苛立ちの原因はジャックの進路である。彼がナイトレインカレッジを卒業したのはもう二年半前だ。それからずっと機嫌の悪さは続いている。ついに忘れたとかと思えばひょこっと出て来て苛立ちを思い出させる。それほどまでにラギーが抱いている感情は厄介なのだ。いや、それは決して自分だけではないと隣の席に座る澄ました顔のレオナを見る。
きっと、レオナも同じなのだろう。そうさせるジャックはなんというかあっぱれだ。あれほど鬱陶しい存在だったのに最早ラギーとレオナの思考の一部に食い込んでいるのだから。すごいな、とグラスに入った酒に口を着けたときだった。
「おい。ジャック」
レオナが置いたロックグラスからカランと涼やかな氷の音が響く。
呼ばれたジャックを見れば大きなオオカミの耳がピンと健気に立たせ元気よく返事をしていた。体育会系のいい返事にレオナは「うるせぇ」と悪態をつく。それに反射的に謝罪するジャックだがその尻尾が大きくメトロノームのように忙しなく動いている。ほんとうに彼はわかりやすい。
ジャックを読んだレオナの視線がラギーに向けられる。ラギーは「はいはい」と言いながらグラスを置く。面倒くさそうにしながらもラギーの身体は高揚していく。自分の耳と尻尾が感情豊かでなくてよかった。
さて、とラギーはレオナに視線を返すとレオナは再びジャックを見据えた。
「お前もアズールの会社で働き初めて、あー、二年と少しか?」
「二年半っすね!」
覚えている癖にわざとらしく年数を曖昧にするレオナにジャックは律儀に答える。
「そうか。もう二年半かぁ」
横目で見たレオナの口元はジャックから見えないように大きな手のひらで隠れている。でも、横に座っているラギーにばっちりと見える。その綺麗な形の唇は何て恐ろしいことだろうか。獰猛に口角を上げて鋭い犬歯を見せて哂っているのだ。瞳は気だるげで纏う空気も変わらないのに唇だけが獲物を狙う獣じみている。
レオナがそうなってしまうのもわかる。頷ける。ラギーだって同じ顔をしてしまう自信がある。
再びジャックに目を戻すと「年数がなにか」と訊いている。あの三人と働いているのにまだまだ警戒心が子どものようだ。いや、きっと慕っているラギーたちの前だから子どものように警戒心が薄いのだ。
――まぁったく可愛いんだから、ジャックくんは。
シシシと心の中で哂っているとレオナが「ジャック」と呼ぶ。
「なんすか?」
「お前、転職するつもりねぇか?」
「転職、っすか?」
「おう」と頷いたレオナの鮮やかな緑の瞳がラギーに向けられた。ラギーはその瞳を受けてにひっと笑って横に置いてあった鞄から真っ黒な封筒を取り出す。
「じゃーん! ジャックくん! オレたちと一緒に働きませんか!」
「は?」
「ようは引き抜きだな」
再びレオナが腕のアクセサリーをジャラジャラ鳴らしながらロックグラスを取る。その唇に先ほどの獰猛さはない。けれど愉しそうに唇を三日月のようにつくっている。
「引き抜き……」
「そそー! ねぇ、ジャックくん、一緒に働こうよ」
「はい」とラギーはジャックに黒い封筒を渡す。ジャックは律儀に両手で受け取る。それからこちらを見て「開けても」と律儀に訊ねる。「いいよ」とラギーが返事をすると大きな手で丁寧に封筒を開けて書類を取り出した。
真剣な顔で書類を見つめるジャックにラギーはようやくこの時が来たと思った。
そもそもジャックは卒業したら夕焼けの草原に来るだろうとラギーは思っていた。今考えればなんて自意識過剰であったことか。けれど、それはラギーだけではなくレオナも同じだった。何せジャックの卒業が近づく度に二人休憩時間や仕事終わりに――。
「ジャックくん、最初はどこの部署に寄越すんですか?」
「あ? んなもん、お前の下でいいだろ」
「いやぁ。でも、ジャックくん、この国の出身じゃないッスよ。異文化交流させなきゃ」
「ハッ。んなのお前の下でもできんだろ」
なんて話していた。何だかんだ言ってラギーも、レオナもジャックが来るのを楽しみにしていたのだ。そう。何だかんだ言ってラギーも、レオナも、ジャックを可愛がっていたお気に入りの後輩だった。
ジャックもジャックだ。レオナに憧れ、ラギーを尊敬して、二人の卒業式にはベソをかくほど慕ってくれていた。いや、だからといって何故就職すると思ったのか。でも、言い訳させてほしい。あそこまで慕ってくれた後輩なのだ。自分たちのお頭がお花畑になるほどの自信を持ってもおかしくない。ラギーもレオナもおかしくなかったのだ。
だから、卒業式のひと月前になるまで知らなかった。何せお花畑だったから、頭が。
ジャックが珍しくテレビ電話をかけてきた。卒業式前なのだ。ラギーもレオナもこれは就職が決まった報告だろうとニヤニヤして話を聞いていたが――。
「アズール先輩の立ち上げた会社に就職することになりました!」
牙を剥き出し笑ってそう言ったのだ。ラギーも、レオナも、お互い耳が悪くなったと思わず顔を見合わせてしまった。なので、もう一度「ごめん、もう一回いい?」と訊いて答えてもらったが答えは変わらなかった。
あの後、ラギーたちは何とか己を律してジャックと会話をした。そして、会話が切れた途端に王宮の次年度の人事を洗いざらい確認したが――ジャックは勿論いなかった。
「んな馬鹿な!」
さらにラギーはジャックの進路を徹底的に調べて――アズールの会社に辿りついてしまった。その報告書を作って項垂れて、レオナに報告して項垂れた。
あれからもう二年半が経つのだ。やはり、余所者に可愛い後輩を奪われるのは腸煮えくり返る。なので、ラギーたちは待った。待ってようやく迎えたのだ。
最後の一枚を読み終わったジャックの満月のような瞳がこちらを向いた。その瞳を見て「どう? いい条件っしょ」と言う。
ジャックは大きな耳を若干伏せながら「はい。勿体ないくらいいい条件っす」と言った。
ラギーはその返事に目を輝かせて若干前のめりになる。
「なら! どう? どう? そろそろスキルアップしたいんじゃない? なら――」
バンと酷い音がジャックの背後の扉からした。隣のレオナが「チッ」と舌打ちをした。どうやら招いていない客が来たようだ。
ジャックが振り返って「アズールさん!」とか呼ぶ。その呼び方に思わず唇の端が引き攣る。まだ自分は〝ラギー先輩〟なのに、と。
「おやおや。ラギーさん、男の嫉妬は見苦しいですよ」
それを誰よりも知られたくない男に嗅ぎつけられてしまった。その男アズールは眼鏡を人差し指であげてかけ直す。そして、そのアズールの背後には勿論あのウツボ兄弟がいる。
「ウニちゃぁん。どういうこと? 会社辞めんの?」
「おやおや。寂しいお話ですねぇ」
コキッと首を鳴らすフロイド、寂しいと言いながら目の笑っていないジェイド。
その二人の言葉に苦虫を潰すジャック。そんな反応をしているジャックだが三人と上手くやっているのは調査済み。お邪魔虫の登場か、と歯噛みしていると。
「おい。土足でドカドカ入ってきやがってどういう案件だ、あ?」
見ればレオナはロックグラスをぶらぶらさせながら片眉を上げていた。それにアズールはにこりと営業スマイルを返してきた。
「いやぁ。僕らもたまたま! このお店でリサーチをしておりまして。ねぇ、お前たち?」
「そーそー! ここって、夕焼けの草原の中で今一番人気のお店でしょ?」
「偵察ついでに皆で来たんですよ。揃って休暇ですし」
「ジャックさんも誘ったんですけど今日用事があると、なるほど偶然です」
アズールの優美な微笑み。その後ろではウツボ兄弟が「偶然だね」「偶然ですね」と口を揃えて言う。どの口が言っているのだ。きっと何か嗅ぎつけてここに来たに決まっている。ラギーは奥歯を噛むと隣からピリとした視線が飛ばされる。
「ラギーぃ」
なに嗅ぎつけられてんだ、という念が籠った呼び方に呻きながら謝る。
「すんません。でも、まさか、あー、あれはフェイクか」
頭を掻きながら彼らの予定を思い出す。彼らは、今日輝石の国に行く予定だったはずだ。最初に流されていた薔薇の王国への視察はフェイクと見抜いたのにもう一段階あったとは。見抜けなかったのが悔しい。
悔しげに呻くとジャックがラギーたちと、アズールたちを交互に見る。どうやら状況が分っていないのは自分だけだと理解したらしい。それから引き締めた顔で「ラギー先輩」と自分を呼ぶ。
ラギーは両手を挙げて「はーいはい! 説明するっすよ!」と叫ぶ。
「オレ、つーか、オレたち、だね。オレとレオナさんはずぅっとジャックくんを引き抜くために色々準備していたんスよ」
「は?」
ジャックの凛々しい顔が再び崩れる。大きな口を開けた姿は間抜けだ。
「なに間抜け面してんだ? あ? それより、この際だ。ジャックなんでてめぇアズールのインチキ臭い会社になんか就職したんだ?」
「人聞き悪いですね。まっとうなホワイト企業ですよ」
「うっせぇ」
レオナがガルガル吠えるとアズールは肩をすくめて引っ込んだ。再びレオナの瞳が真っ直ぐジャックを見据えた。ジャックがピンと背筋を伸ばした。本当に体育会系の強いサバナクロー出身者らしい。シシシとジャックの身体に沁み込んだそれを見て笑う。
張り詰めた空気の中、レオナがジャックに問いかける。
「答えろ、ジャック。なんでここに来なかった」
トントンとテーブルをグラスの底で叩くレオナ。それにジャックはシュンと耳を伏せた。
「いや。だって、俺、夕焼けの草原出身じゃないんで」
「ん?」
「あ?」
ラギーも、隣のレオナもジャックの言っている言葉がいまいち理解できなかった。
ジャックもラギーたちに言葉が通じていないのを感じて噛み砕いて説明した。
「俺も最初は出来ればお二人の元で働きたいなって考えたんですけど」
少し照れくさそうなジャックに若干先輩馬鹿が顔に出しかけて慌てて引っ込める。何せ、今は後ろにはニタニタ笑う悪徳商人がいるのだから。油断してはいけない。
ラギーは「で、何かあったの?」と先を促す。
「俺の働きたかった部署が国籍を取得して二年以上が条件だったんすよ」
凄まじい回転でラギーは頭を回していく。そして、ジャックの受けたかった部署に頭を抱える。隣でレオナがガンとグラスを叩きつけて叫んだ。
「あったりめーだ! 軍部が他所の人間をホイホイ採用すっか!」
「ジャックくーん! もう少し頭使ってってくれないかなぁ!」
揃って頭を抱え込んだ。途端にジャックの背後で笑い声が響く。
「あはっ! マジでウニちゃんって頭良いのにバッカだよねぇ」
「フフ。フロイド、ジャックくんに失礼ですよ」
「でも、お蔭で僕らはジャックくんを勧誘出来たので助かりましたよ」
ラギーはアズールの言葉に顔を上げて「それもおかしいッスよ」と声を荒げた。
「そもそも! ジャックくんならすぐに違う部署受けようって思うでしょ! 何でアズールくんのところなんて!」
「あ、いや、ちゃんと理由があるっす」
ピンと元気をなくしていた耳が再び立った。
「あ? 磯臭い野郎共と働くのにどんなメリットがあんだ?」
「あァ?」と柄悪く悪態をつくレオナにジャックは「っす」と返事をする。
「アズールさんたちはこれでも世界中を回って商売をしているんですよ。それに俺も着いて回ったりしています」
「え。マジで」
「はい。お蔭で色々新しい知識が増えて楽しいっす!」
にかっと笑う眩しい笑顔にラギーは目が潰れそうになる。
――なん、なんか、これは嫌な予感がするなぁ。
ラギーはその予感を振り払いながらレオナを見る。レオナは頭を抱えながら据わった目でジャックに話しかける。
「もしかしてだ、もしかしてだぞ。テメェはその知識を得られるからとか何とか言い包められたんじゃねぇだろうな」
「言い包められてないっすよ。その知識でお二人の役に立つって言うから就職したんです!」
「それを言い包められているって言うの! ねぇ! 本当にナイトレイブンカレッジ卒業できたの、ジャックくぅぅん!」
「セベクに競り勝って主席で卒業しました!」
胸を張るジャックに褒めてあげたくなる。けれど今は違う。まったくあれほど在学時にオクタヴィネル寮の三人には気を付けるように言ったのに何故こうもあっさり。泣きたくなる気持ちでいれば隣でドンと音がした。紛れもなくレオナである。
「ほんっっとに! テメェはなんでこのタコ野郎共に弱ぇんだ!」
「そうッスよ!」
レオナの言葉にラギーも賛同する。馬鹿野郎と言いたげなレオナに言えよとさえ思う。
ジャックもレオナの言いたい言葉を察したのかムッと顔を顰める。
「別に騙されてねぇっすよ」
「ええ。僕らも騙してなんかいないですよ」
「そーそう! オレらちゃーんと! ウニちゃんを育てたよ!」
「とても立派に成長しましたよ……たまに爪が甘いですが」
ジャックの真後ろに立つ三人組は実に愉快と言った顔だ。それにラギーは面白くなくて唇を尖らしてレオナを見る。そこには眉を上げて唇の端を引き上げたレオナがいた。この余裕ぶった顔をしている横顔をしているが滅茶苦茶キレやがる。
――いいぞ! レオナさんやっちまえ!
第二王子の名は伊達じゃない。すごいところ見せたれとラギーはレオナの視線を辿って悪徳商人三人組を見る。
「別に俺らはカッコウになったつもりはねぇがありがたく返してもらおうか?」
「それはお断りします」
すぱっと断るアズールにラギーは「は、どうして?」と訊ねる。そのラギーの質問に答えたのはアズールではなくフロイドであった。
「だって、ウニちゃんが抜けられると困る仕事あるし」
「別に今すぐじゃないよ。年度替わりでいいし、何なら引き継ぎ終わり次第でいいよ」
「寛大な対応ありがとうございます。ですが、その後もジャックくんがいないと我々は困るんですよ」
ジェイドの言葉にバチバチとラギーたちとアズールたちの間で何かが弾けた音がした。隣のレオナから唸り声が聞こえる。ラギーもそこ声を聞いていなければ唸っていたかもしれない。そして、ジャックの背後にいる三人も全く目が笑っていない。
「ま、でも、本人次第っしょ。ねー、ジャックくん?」
「だな。ジャック、何ならもっと給料出すぞ?」
ラギーは笑わない目でジャックに視線を向ける。きっと隣にいるレオナも同じだ。いやそれ以上におっかない顔をしているかもしれない。知らないが。
その視線を受けたジャックは「え、え」と蚊帳の中に入ったことに気づいていない。戸惑うジャックに今度はアズールたちの攻撃が始まる。
「そう言えばそろそろ昇給の話をしようと思っていたんですよ」
「ウニちゃん。この間さぁ、オレと一緒にモストロ・ラウンジの四号店の場所考えようねって話したよね?」
「ジャックくん。新人育成を放り投げ出すなんてことしませんよね?」
圧のある気配を背後からアズールたちはかける。ジャックは珍しく目を忙しなく動かす。
冷や汗を流すジャックにラギーは「ジャックくん?」と呼びかける。するとアズールが「ジャックさん」と呼びかける。今度はレオナが「ジャック」と呼べば、「ウニちゃん」「ジャックくん」と揃った声でリーチ兄弟に呼ばれる。
まごまごするジャックに兄貴分であるラギーはもう一度訊ねる。
「で、ジャックくん、どうするの?」
2021.01.24 一部文章改稿
2025.02.02 改題
目の前の後輩はいつも凛々しく引き締まった顔を緩めている。厳しい眼つきは僅かに和らぎ、一文字に引き結ばれている唇は緩やかな笑みを描いている。だらしないというわけではない。けれど、明らかに親しくない者には見せることがない顔。その顔を見ることができるのは自分と、隣の彼の憧れだと謳われるレオナの前だけだろう。だと、思っていた。
今はわからない。今までずっと自分とレオナだけに見せていた顔をあの三人組も知っている可能性がある。すると、胸のあたりがムカムカする。これは決して肉を食べ過ぎた胸焼けではない。まだその年齢ではない。隣のレオナは知らないが。
ラギーは目の前でさらふわな大きな尾を振る後輩ジャックをジトと見つめる。
――随分と大きくなちゃって。
ラギーが卒業する前よりも一回り大きくなっている身体。身長は二百を越えたとか。寝る子は育つというが育ちすぎだ。自分など百七十半ばまでしか伸びなかったというのに。結局、目の前のジャックは二十歳になるまで伸びたと言うのは流石に不公平では。
――いやいや。そうじゃないッスよ。
そうじゃない。そうじゃない。自分がむかっ腹を立てているの理由は違う。
苛立ちの原因はジャックの進路である。彼がナイトレインカレッジを卒業したのはもう二年半前だ。それからずっと機嫌の悪さは続いている。ついに忘れたとかと思えばひょこっと出て来て苛立ちを思い出させる。それほどまでにラギーが抱いている感情は厄介なのだ。いや、それは決して自分だけではないと隣の席に座る澄ました顔のレオナを見る。
きっと、レオナも同じなのだろう。そうさせるジャックはなんというかあっぱれだ。あれほど鬱陶しい存在だったのに最早ラギーとレオナの思考の一部に食い込んでいるのだから。すごいな、とグラスに入った酒に口を着けたときだった。
「おい。ジャック」
レオナが置いたロックグラスからカランと涼やかな氷の音が響く。
呼ばれたジャックを見れば大きなオオカミの耳がピンと健気に立たせ元気よく返事をしていた。体育会系のいい返事にレオナは「うるせぇ」と悪態をつく。それに反射的に謝罪するジャックだがその尻尾が大きくメトロノームのように忙しなく動いている。ほんとうに彼はわかりやすい。
ジャックを読んだレオナの視線がラギーに向けられる。ラギーは「はいはい」と言いながらグラスを置く。面倒くさそうにしながらもラギーの身体は高揚していく。自分の耳と尻尾が感情豊かでなくてよかった。
さて、とラギーはレオナに視線を返すとレオナは再びジャックを見据えた。
「お前もアズールの会社で働き初めて、あー、二年と少しか?」
「二年半っすね!」
覚えている癖にわざとらしく年数を曖昧にするレオナにジャックは律儀に答える。
「そうか。もう二年半かぁ」
横目で見たレオナの口元はジャックから見えないように大きな手のひらで隠れている。でも、横に座っているラギーにばっちりと見える。その綺麗な形の唇は何て恐ろしいことだろうか。獰猛に口角を上げて鋭い犬歯を見せて哂っているのだ。瞳は気だるげで纏う空気も変わらないのに唇だけが獲物を狙う獣じみている。
レオナがそうなってしまうのもわかる。頷ける。ラギーだって同じ顔をしてしまう自信がある。
再びジャックに目を戻すと「年数がなにか」と訊いている。あの三人と働いているのにまだまだ警戒心が子どものようだ。いや、きっと慕っているラギーたちの前だから子どものように警戒心が薄いのだ。
――まぁったく可愛いんだから、ジャックくんは。
シシシと心の中で哂っているとレオナが「ジャック」と呼ぶ。
「なんすか?」
「お前、転職するつもりねぇか?」
「転職、っすか?」
「おう」と頷いたレオナの鮮やかな緑の瞳がラギーに向けられた。ラギーはその瞳を受けてにひっと笑って横に置いてあった鞄から真っ黒な封筒を取り出す。
「じゃーん! ジャックくん! オレたちと一緒に働きませんか!」
「は?」
「ようは引き抜きだな」
再びレオナが腕のアクセサリーをジャラジャラ鳴らしながらロックグラスを取る。その唇に先ほどの獰猛さはない。けれど愉しそうに唇を三日月のようにつくっている。
「引き抜き……」
「そそー! ねぇ、ジャックくん、一緒に働こうよ」
「はい」とラギーはジャックに黒い封筒を渡す。ジャックは律儀に両手で受け取る。それからこちらを見て「開けても」と律儀に訊ねる。「いいよ」とラギーが返事をすると大きな手で丁寧に封筒を開けて書類を取り出した。
真剣な顔で書類を見つめるジャックにラギーはようやくこの時が来たと思った。
そもそもジャックは卒業したら夕焼けの草原に来るだろうとラギーは思っていた。今考えればなんて自意識過剰であったことか。けれど、それはラギーだけではなくレオナも同じだった。何せジャックの卒業が近づく度に二人休憩時間や仕事終わりに――。
「ジャックくん、最初はどこの部署に寄越すんですか?」
「あ? んなもん、お前の下でいいだろ」
「いやぁ。でも、ジャックくん、この国の出身じゃないッスよ。異文化交流させなきゃ」
「ハッ。んなのお前の下でもできんだろ」
なんて話していた。何だかんだ言ってラギーも、レオナもジャックが来るのを楽しみにしていたのだ。そう。何だかんだ言ってラギーも、レオナも、ジャックを可愛がっていたお気に入りの後輩だった。
ジャックもジャックだ。レオナに憧れ、ラギーを尊敬して、二人の卒業式にはベソをかくほど慕ってくれていた。いや、だからといって何故就職すると思ったのか。でも、言い訳させてほしい。あそこまで慕ってくれた後輩なのだ。自分たちのお頭がお花畑になるほどの自信を持ってもおかしくない。ラギーもレオナもおかしくなかったのだ。
だから、卒業式のひと月前になるまで知らなかった。何せお花畑だったから、頭が。
ジャックが珍しくテレビ電話をかけてきた。卒業式前なのだ。ラギーもレオナもこれは就職が決まった報告だろうとニヤニヤして話を聞いていたが――。
「アズール先輩の立ち上げた会社に就職することになりました!」
牙を剥き出し笑ってそう言ったのだ。ラギーも、レオナも、お互い耳が悪くなったと思わず顔を見合わせてしまった。なので、もう一度「ごめん、もう一回いい?」と訊いて答えてもらったが答えは変わらなかった。
あの後、ラギーたちは何とか己を律してジャックと会話をした。そして、会話が切れた途端に王宮の次年度の人事を洗いざらい確認したが――ジャックは勿論いなかった。
「んな馬鹿な!」
さらにラギーはジャックの進路を徹底的に調べて――アズールの会社に辿りついてしまった。その報告書を作って項垂れて、レオナに報告して項垂れた。
あれからもう二年半が経つのだ。やはり、余所者に可愛い後輩を奪われるのは腸煮えくり返る。なので、ラギーたちは待った。待ってようやく迎えたのだ。
最後の一枚を読み終わったジャックの満月のような瞳がこちらを向いた。その瞳を見て「どう? いい条件っしょ」と言う。
ジャックは大きな耳を若干伏せながら「はい。勿体ないくらいいい条件っす」と言った。
ラギーはその返事に目を輝かせて若干前のめりになる。
「なら! どう? どう? そろそろスキルアップしたいんじゃない? なら――」
バンと酷い音がジャックの背後の扉からした。隣のレオナが「チッ」と舌打ちをした。どうやら招いていない客が来たようだ。
ジャックが振り返って「アズールさん!」とか呼ぶ。その呼び方に思わず唇の端が引き攣る。まだ自分は〝ラギー先輩〟なのに、と。
「おやおや。ラギーさん、男の嫉妬は見苦しいですよ」
それを誰よりも知られたくない男に嗅ぎつけられてしまった。その男アズールは眼鏡を人差し指であげてかけ直す。そして、そのアズールの背後には勿論あのウツボ兄弟がいる。
「ウニちゃぁん。どういうこと? 会社辞めんの?」
「おやおや。寂しいお話ですねぇ」
コキッと首を鳴らすフロイド、寂しいと言いながら目の笑っていないジェイド。
その二人の言葉に苦虫を潰すジャック。そんな反応をしているジャックだが三人と上手くやっているのは調査済み。お邪魔虫の登場か、と歯噛みしていると。
「おい。土足でドカドカ入ってきやがってどういう案件だ、あ?」
見ればレオナはロックグラスをぶらぶらさせながら片眉を上げていた。それにアズールはにこりと営業スマイルを返してきた。
「いやぁ。僕らもたまたま! このお店でリサーチをしておりまして。ねぇ、お前たち?」
「そーそー! ここって、夕焼けの草原の中で今一番人気のお店でしょ?」
「偵察ついでに皆で来たんですよ。揃って休暇ですし」
「ジャックさんも誘ったんですけど今日用事があると、なるほど偶然です」
アズールの優美な微笑み。その後ろではウツボ兄弟が「偶然だね」「偶然ですね」と口を揃えて言う。どの口が言っているのだ。きっと何か嗅ぎつけてここに来たに決まっている。ラギーは奥歯を噛むと隣からピリとした視線が飛ばされる。
「ラギーぃ」
なに嗅ぎつけられてんだ、という念が籠った呼び方に呻きながら謝る。
「すんません。でも、まさか、あー、あれはフェイクか」
頭を掻きながら彼らの予定を思い出す。彼らは、今日輝石の国に行く予定だったはずだ。最初に流されていた薔薇の王国への視察はフェイクと見抜いたのにもう一段階あったとは。見抜けなかったのが悔しい。
悔しげに呻くとジャックがラギーたちと、アズールたちを交互に見る。どうやら状況が分っていないのは自分だけだと理解したらしい。それから引き締めた顔で「ラギー先輩」と自分を呼ぶ。
ラギーは両手を挙げて「はーいはい! 説明するっすよ!」と叫ぶ。
「オレ、つーか、オレたち、だね。オレとレオナさんはずぅっとジャックくんを引き抜くために色々準備していたんスよ」
「は?」
ジャックの凛々しい顔が再び崩れる。大きな口を開けた姿は間抜けだ。
「なに間抜け面してんだ? あ? それより、この際だ。ジャックなんでてめぇアズールのインチキ臭い会社になんか就職したんだ?」
「人聞き悪いですね。まっとうなホワイト企業ですよ」
「うっせぇ」
レオナがガルガル吠えるとアズールは肩をすくめて引っ込んだ。再びレオナの瞳が真っ直ぐジャックを見据えた。ジャックがピンと背筋を伸ばした。本当に体育会系の強いサバナクロー出身者らしい。シシシとジャックの身体に沁み込んだそれを見て笑う。
張り詰めた空気の中、レオナがジャックに問いかける。
「答えろ、ジャック。なんでここに来なかった」
トントンとテーブルをグラスの底で叩くレオナ。それにジャックはシュンと耳を伏せた。
「いや。だって、俺、夕焼けの草原出身じゃないんで」
「ん?」
「あ?」
ラギーも、隣のレオナもジャックの言っている言葉がいまいち理解できなかった。
ジャックもラギーたちに言葉が通じていないのを感じて噛み砕いて説明した。
「俺も最初は出来ればお二人の元で働きたいなって考えたんですけど」
少し照れくさそうなジャックに若干先輩馬鹿が顔に出しかけて慌てて引っ込める。何せ、今は後ろにはニタニタ笑う悪徳商人がいるのだから。油断してはいけない。
ラギーは「で、何かあったの?」と先を促す。
「俺の働きたかった部署が国籍を取得して二年以上が条件だったんすよ」
凄まじい回転でラギーは頭を回していく。そして、ジャックの受けたかった部署に頭を抱える。隣でレオナがガンとグラスを叩きつけて叫んだ。
「あったりめーだ! 軍部が他所の人間をホイホイ採用すっか!」
「ジャックくーん! もう少し頭使ってってくれないかなぁ!」
揃って頭を抱え込んだ。途端にジャックの背後で笑い声が響く。
「あはっ! マジでウニちゃんって頭良いのにバッカだよねぇ」
「フフ。フロイド、ジャックくんに失礼ですよ」
「でも、お蔭で僕らはジャックくんを勧誘出来たので助かりましたよ」
ラギーはアズールの言葉に顔を上げて「それもおかしいッスよ」と声を荒げた。
「そもそも! ジャックくんならすぐに違う部署受けようって思うでしょ! 何でアズールくんのところなんて!」
「あ、いや、ちゃんと理由があるっす」
ピンと元気をなくしていた耳が再び立った。
「あ? 磯臭い野郎共と働くのにどんなメリットがあんだ?」
「あァ?」と柄悪く悪態をつくレオナにジャックは「っす」と返事をする。
「アズールさんたちはこれでも世界中を回って商売をしているんですよ。それに俺も着いて回ったりしています」
「え。マジで」
「はい。お蔭で色々新しい知識が増えて楽しいっす!」
にかっと笑う眩しい笑顔にラギーは目が潰れそうになる。
――なん、なんか、これは嫌な予感がするなぁ。
ラギーはその予感を振り払いながらレオナを見る。レオナは頭を抱えながら据わった目でジャックに話しかける。
「もしかしてだ、もしかしてだぞ。テメェはその知識を得られるからとか何とか言い包められたんじゃねぇだろうな」
「言い包められてないっすよ。その知識でお二人の役に立つって言うから就職したんです!」
「それを言い包められているって言うの! ねぇ! 本当にナイトレイブンカレッジ卒業できたの、ジャックくぅぅん!」
「セベクに競り勝って主席で卒業しました!」
胸を張るジャックに褒めてあげたくなる。けれど今は違う。まったくあれほど在学時にオクタヴィネル寮の三人には気を付けるように言ったのに何故こうもあっさり。泣きたくなる気持ちでいれば隣でドンと音がした。紛れもなくレオナである。
「ほんっっとに! テメェはなんでこのタコ野郎共に弱ぇんだ!」
「そうッスよ!」
レオナの言葉にラギーも賛同する。馬鹿野郎と言いたげなレオナに言えよとさえ思う。
ジャックもレオナの言いたい言葉を察したのかムッと顔を顰める。
「別に騙されてねぇっすよ」
「ええ。僕らも騙してなんかいないですよ」
「そーそう! オレらちゃーんと! ウニちゃんを育てたよ!」
「とても立派に成長しましたよ……たまに爪が甘いですが」
ジャックの真後ろに立つ三人組は実に愉快と言った顔だ。それにラギーは面白くなくて唇を尖らしてレオナを見る。そこには眉を上げて唇の端を引き上げたレオナがいた。この余裕ぶった顔をしている横顔をしているが滅茶苦茶キレやがる。
――いいぞ! レオナさんやっちまえ!
第二王子の名は伊達じゃない。すごいところ見せたれとラギーはレオナの視線を辿って悪徳商人三人組を見る。
「別に俺らはカッコウになったつもりはねぇがありがたく返してもらおうか?」
「それはお断りします」
すぱっと断るアズールにラギーは「は、どうして?」と訊ねる。そのラギーの質問に答えたのはアズールではなくフロイドであった。
「だって、ウニちゃんが抜けられると困る仕事あるし」
「別に今すぐじゃないよ。年度替わりでいいし、何なら引き継ぎ終わり次第でいいよ」
「寛大な対応ありがとうございます。ですが、その後もジャックくんがいないと我々は困るんですよ」
ジェイドの言葉にバチバチとラギーたちとアズールたちの間で何かが弾けた音がした。隣のレオナから唸り声が聞こえる。ラギーもそこ声を聞いていなければ唸っていたかもしれない。そして、ジャックの背後にいる三人も全く目が笑っていない。
「ま、でも、本人次第っしょ。ねー、ジャックくん?」
「だな。ジャック、何ならもっと給料出すぞ?」
ラギーは笑わない目でジャックに視線を向ける。きっと隣にいるレオナも同じだ。いやそれ以上におっかない顔をしているかもしれない。知らないが。
その視線を受けたジャックは「え、え」と蚊帳の中に入ったことに気づいていない。戸惑うジャックに今度はアズールたちの攻撃が始まる。
「そう言えばそろそろ昇給の話をしようと思っていたんですよ」
「ウニちゃん。この間さぁ、オレと一緒にモストロ・ラウンジの四号店の場所考えようねって話したよね?」
「ジャックくん。新人育成を放り投げ出すなんてことしませんよね?」
圧のある気配を背後からアズールたちはかける。ジャックは珍しく目を忙しなく動かす。
冷や汗を流すジャックにラギーは「ジャックくん?」と呼びかける。するとアズールが「ジャックさん」と呼びかける。今度はレオナが「ジャック」と呼べば、「ウニちゃん」「ジャックくん」と揃った声でリーチ兄弟に呼ばれる。
まごまごするジャックに兄貴分であるラギーはもう一度訊ねる。
「で、ジャックくん、どうするの?」
2021.01.24 一部文章改稿
2025.02.02 改題
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