哀傷いいえ愛傷よ
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哀傷いいえ愛傷よ・2
【四日目】
彼と別れて何人かの男と恋人とは呼ぶにはお粗末な関係を結んだ。それでも彼以上の人に出逢うことはなかった。何年経っても彼は心の片隅に存在し続けていた。忘れるつもりはなくずっと覚えている自分は馬鹿なのかもしれない。
「……もしも、なんて考えて馬鹿らしい」
この仕事を乗り越えられるといいですね。恩師の言葉が頭に木霊する。わたしは結局過去から一歩も踏み出せていないということだけは分かった。
「残すはリドル・ローズハートくんだけね」
聴取というにはお粗末だが学校もそこまで気にしているように思えない。
「これ以上オーバーブロットする生徒が出ないといいな」
ふぅ、と溜息を吐いて髪を梳かし始める。
授業も終わった放課後。目的の薔薇のような赤を持った少年はすぐに見つかった。彼は図書室で分厚い本を真剣な顔で捲っていた。真剣な様子で勉学に励む少年の邪魔はしたくないがこれも仕事だ。
「お勉強中にごめんなさいね。ローズハートくん。少しお時間いただけるかしら?」
静に顔を上げた彼はひたっとこちらを見据えた。そして、静かに開いていた参考書を閉じた。
「はい。場所は移動しますか?」
「そうね。どこかいい場所ないかしら?」
「分かりました」
頷いた彼は参考にしていた本を抱えて一度カウンターに向かう。課題を邪魔してしまったのは心苦しいが一応仕事である。
――早く切り上げよう。
彼の後についてわたしもまた図書室を後にした。
ローズハートくんの案内によって外に連れられた。学園から少し離れた森の散歩道のようなところだ。
「先生。すいませんが、予定があるのでなるべく手短にお願いできますか」
足を止めて振り返る彼は生真面目な顔をしている。報告資料にも神経質そうな性格など書かれていた。自分で決めたスケジュールはあまり変えたくないのだろう。それを外部とはいえ教師にいうのはすごい。
「わかりました。では、単刀直入にわたしの今回こちらに窺った目的はオーバーブロットした生徒の聴取です」
率直に答えれば彼の大きな目が見開く。だが、驚いた顔は一瞬ですぐに平静を装って「そうですか」と零す。アーシェングロットくんと同じく二年生で寮長になっているだけはある。
「ボクが答えられることは何でも答えます」
「ありがとう。でも、正直、わたしの仕事もそこまで真剣なものではないのよ」
「は、はぁ?」
彼の瞳が完全にそれは意味あるのか、と言っている。勿論、わたしも考えたことだ。
「ふふ。皆が健やかに学園生活を送っていればそれでいいってことよ」
「それでいいんですか? ならば、態々ボクに話しなど」
「建前っていうか、一応はね」
大人の世界は面倒くさいのよ、と言えばやはり真面目なローズハートくんは煮え切らないようすだ。もう少し頭を柔軟にしないと。
「で、貴方はどう? 学園生活に変わりはない?」
「ええ……特には」
僅かにずらされた視線。その意味はどんなものか。だけれど、わたしはここの教師ではない。ローズハートくんが何かわたしに助言を求めない限り手を差し伸べることはない。薄情だというだろうか。それでも彼が自分でどうにかしたいのならばわたしはそれでいいと思う。横やりは入れたくない主義だ。
「さて、と。なら何も問題なしってことね。じゃ、解散しましょう」
パンと手を叩けば彼は本当にこれでいいのか訊ねて来る。真面目な子だ。
「何も問題ないわ。じゃ、わたしもそろそろ帰らないと後ろの先生にどやされそうだから」
振り返れば腕を組んでいるデイヴィスがいる。何時ぞやの記憶と似た立ち方に懐かしさが込み上げていけない。
「貴様。生徒に話しを聞きたいなら俺が招集すると言ったのを忘れたのか?」
「ごめんなさいね」
「全く、うちの生徒に何かしていないだろうな」
「ちょっと、その言い方は失礼よ。何もなかったわよ。ねぇ、ローズハートくん」
疑うような眼差しを向けて来るデイヴィスに眦を上げつつわたしはローズハートくんに同意を求める。彼は面倒くさそうな顔で「はい。何も」と一応味方をしてくれた。
「ほら。何なら他の二人にも聞いて見なさいな」
「他だとぉ? おい、キングスカラーと、アーシェングロットにも聞いたというのか?」
「あ」
墓穴を掘った。だが、隠すことではないので「イエス」と答えれば彼の眦が今度はあがった。
「貴様ぁ、どうやらお仕置きが必要なようだなぁ」
ねっとりとした怒りにわたしは流石に冷や汗をかく。それから右手を上げる。
「わたし、定時だから帰るわ」
「今日は残業デーだ!」
ビシっと首輪がついた指揮棒を向けられたわたしは残業を確定したのだった。
* * *
【五日目】
「つっかれたぁ」
目を覚ましてもベッドから中々起き上がれない。どうやらまだ身体の怠さは抜けないようだ。それもそうだ。ガチンコに近いやり合いをデイヴィスとしたのだから。教師と外部の教師のガチンコバトルに他の生徒も集まり――最終的にトレイン先生に止められ叱られた。魔法での私闘は禁止されているのに教師が積極的にやるな、と。
叱られるなんて何年振りかしらと。でも、生徒の前で叱られるのはいい大人として普通に恥ずかしかった。
「でも、ほんとに楽しかったな」
ぽつりと零して一人微笑む。昔は隠れて魔法を競い合ったものだ。ナイトレイブンカレッジの秀才と名高い彼と魔法を研磨する時間は素晴らしいものだった。お蔭で今のわたしがあるともいえる。
「けぇど。わたしも腕が落ちたわね」
魔法執行官として前線にいた人間が、学校の教師に後れを取るなんて。それとも彼が優秀な魔法士だからなのだろうか。そういえば――。
「デイヴィスもスカウトされたって聞いたけど」
何で魔法執行官にならなかったのか、と考えて見当がつき自嘲の笑みが零れる。わたしが原因だろう。
「他にだって所属先はあるのに……」
こうして過去を蒸し返して落ち込むのはそろそろやめにしたい。
「昨日は楽しかった……そろそろああいう関係になりたいものね」
よし、とわたしはようやくベッドから起きあがる。
「頑張るわよ、わたし」
「クルーウェル先生。一緒にお昼いかが?」
授業の片づけが終わって彼が最後に退出しかけた背中に声をかけた。声を掛けられたデイヴィスはくるりと華麗にターンをして振り返った。
「レディの誘いを断るのは心苦しいが忙しくて無理だ。他を当たってくれ」
「他を当たって最後が貴方よ」
微笑んで言えば彼は苦虫を潰した顔をする。そんな顔をされると少しだけ期待するような乙女な自分を追い払う。今はときめく場面ではないしそのときめく癖をやめろと自分自身に言い聞かす。
平静を装ってわたしは先に訊ねていた二人の先生の名を出す。
「トレイン先生はお昼休み授業の準備があるとか、バルガス先生も部活の会議ですって」
「で、貴方は何か用があるの」と訊ねる。さらに言葉を重ね「お二人はクルーウェル先生なら空いているはずだと言ったのだけど?」と言えば彼も諦めたように肩を落とす。
「……分かった。だが、食堂は行かないぞ」
「流石にわたしも行かないわよ。ほら!」
手に持っていたバスケットを掲げて見せる。それにデイヴィスが眉間に皺を寄せる。
「二人分という量には見えないが?」
「本来はもっと人数が居た予定だもの」
嘘じゃない。でなければわたしだってこんな無駄になる量を作らない。それが彼にも伝わったのか深い溜息をつかれた。
「俺の研究室に行くぞ」
デイヴィスが背を向けて教室を出て行く。彼の発言に固まっていたわたしは慌てて着いていく。
彼の研究室に入ると凄まじい緊張がわたしを襲う。
――まさかデイヴィスの研究室に来るなんて……うぅ、外だと思っていたのに!
心の準備が整っていない。だが、考えても意味はなし。そもそも今は恋人同士ではなし、わたしは新米教師、デイヴィスは先輩教師だ。
――そう。そうよ。何も緊張することはないわ!
大丈夫よ、と顔を上げた瞬間目の前に彼の綺麗な顔があった。
「ヒッ」
思わず引き攣った声を出してあとずさりしてしまった。それに案の定デイヴィスが眉を顰めた。
「失礼な奴だな」
「い、いきなり顔を近づける先生がいけないのよ」
驚いたといいつつ部屋を見回す。理系の教師の割には薬品の匂いがあまりしない。
「薬品とか置いていないの?」
「それは隣の部屋だ。ここは主に駄犬共の面倒を見る場所だ」
言って彼は指揮棒を振って物を退かし、椅子とテーブルをわたしの傍まで移動させてくれる。相変わらず紳士的なこと。
用意されたテーブルにバスケットを置いて蓋を開ける。すかさず、デイヴィスが覗き込んで「サンドウィッチか」と呟いた。
「無難でしょ……あ、素手で作ってないのでご安心を」
一時期付き合ったか分からないような男が潔癖症だった。おかげで手作りの料理に関して延々と文句を着けられたのは苦い思い出だ。
「ふん。渋い顔をしているな。なんだ、恋人に何か指南されたのか?」
「随分昔にね! ああ~あんときはほんとうに面倒くさかった!」
目を据わらせて言えば彼は鼻で笑って赤い手袋を取った。手袋から出て来た手はとても手入れが行き届いて美しい男の手をしていた。
――って、そういうところはもう見ないの!
昔の癖で見惚れてしまったが何とか視線を剥ぎ取る。
「お皿はいる?」
「ああ。貰おう」
ガチャガチャと二人で魔法を使って準備をする。そして、それぞれのお皿に装ってカップに紅茶を入れて完成。それから当たり障りのない会話をしながら食事を始める。
「そういえば何故、お前は教師に転職したんだ?」
「あ~、それ~聞いちゃう? 聞くの?」
自分が警察を止めたことを思い出して気分が重くなる。
「何だ。都合が悪かったか?」
申し訳なさそうに眉を下げる彼に首を振る。
「いや、別にいいのよ。でも貴方が聞いたら呆れ返るわよ」
という前置きをして自分が辞めた理由を前のめり気味に答える。
「簡単。男女の縺れよ。しかもわたしはただ巻き込まれただけのね!」
すぐに呆れた眼差しになったデイヴィスは手を前に翳した。
「何となく分かった」
「最後まで聞いてよ。あのね」
といって、デイヴィスの制止を無視して話し続ける。こうしてちゃんと自分が退官した理由を話すのは初めてかも知れない。だから、わたしの口は止まらなかった。
話しを続けてデイヴィスは呆れかえっていたけれど同情の眼差しを向けてくれた。
「災難だったな」
「でしょ」
あの時の騒動を思い出すけれどもう思い出したくない。何度か浮気相手として叩かれたことがあるけれどなんかなんか憑いているのかしら。
紅茶を飲もうとカップを取るともう空っぽになっていた。
「飲むか?」
「うん。ありがとう」
フワフワ浮くポットから綺麗な紅茶が注がれる。相変わらずこういう魔法が上手い。
「それにしてもよく教師になれたな。免許持ってなかっただろ」
「母校の恩師からの誘いだからね。それに頑張って猛勉強したの。飛び級するくらいにね」
教職免許のために大学に入学して急いで免許を取った。お蔭で今年から新米教師として学校に就職できた。
「それにしても貴方は色んな教科持ってすごいわね。わたしなんてまだまだだわ」
「ふん。貴様より先に教師になったんだ。当たり前だろ」
「でも、すごいわよ。名門筆頭の魔法士養成学校の教師でしょ」
すごいわ、と褒めれば彼の白い頬が少しだけ染まってそっぽ向かれてしまった。彼を褒めるといつもこういう反応をする。そして、愛しさが込み上げる。
――変わるものもあっても、変わらないものもあるのね。
もう恋い焦がれるのはやめようと踏み出したつもりなのに一歩戻ってしまった。わたしはどうやらどうあがいてもデイヴィスへ対する恋心を捨てきれない。
ぼんやりと見つめていると不意に逸らしていた視線が戻って来た。その視線とわたしの視線が絡み合う。いつだっただろうか。同じことがあった。それは確か恋人になった日だ。
お互い逸らせない視線にわたしが口を動かしかけたときだった。
「クルーウェル先生、いらっしゃいますか?」
彼の視線が後ろに向けられた。瞬間、わたしの身体も動き出す。そして、声の主に見られてもいいように取り繕う。
「いいか?」
頷くとデイヴィスが「入れ」と扉に向かって言う。扉が開くと同時に「失礼します」と監督生が肩にグリムを乗せて入って来た。
監督生はわたしに気づくと目を白黒させて驚きの表情を見せる。
「お、お邪魔しまして、すいません」
「あ、大丈夫、大丈夫よ」
慌てて閉めようとする監督生を引き留める。監督生は頬を薄らと染めながら申し訳なさそうにデイヴィスとわたしを交互に見る。分かりやすい反応に苦笑を浮かべる。
「クルーウェル先生とお昼を兼ねてお話していただけよ。先生に質問があるのなら――」
「おお! 美味そうなサンドウィッチなんだゾ!」
グリムが匂いにつられたのか肩から飛び降りてバスケットまで駆け寄る。そして、目をキラキラさせてデイヴィスとわたしを交互に見る。
「オレ様も食べたいんだゾ!」
「ちょ! グリム、意地汚いことしない!」
バスケットからグリムを剥ぎ取りにかかる監督生。グリムは腹を空かしているのかバスケットにかじりついて中々離れない。二人の面白やり取りに笑いが込み上げる。
「ふっ、ふふ、ははっ! もういいわよ、そこまで食べたいのならどうぞ、召し上がれ」
いいわよね、とデイヴィスを見れば彼は目を丸くさせていた。けどすぐにいつもの先生に戻った。
「仕方ない。腹を空かせた駄犬を放っておくことはできないからな……で、そっちの仔犬はどうなんだ?」
監督生の返事を聞く前に可愛らしくお腹が鳴る音は聞こえた。お腹の主は顔を赤くさせて「一緒してもいいですか?」と訊ねて来る。
「いいわよ。可愛い子、さぁ、座りなさいな」
魔法で引き寄せた。それから楽しい昼食がまた始まった。
そんな日でわたしの監査活動は終わりに進んだ。
* * *
【最終日】
生徒に挨拶も終えてわたしはデイヴィスの横を歩いていた。
「長かったわ」
「だが、実りのあるモノだったろ」
「ええ。聴取もさくっと終わったから助かったわ」
それについてはまだ言いたいことがあるのか斜め上から鋭い視線が飛ぶ。その視線に笑みで対抗すればすぐに解かれた。
「ふん。俺の仕事もようやくなくなる」
「あ。やっぱり、貴方がわたしの担当だったのね」
彼からの返事はないが見上げた横顔は何とも言い難い顔をしていた。それに静かに笑う。
最初はどうなるかと思ったが自分の幼いままから止まった恋心の暴走はなかった。寧ろ、彼と再会したことで少し落ち着いたかもしれない。
――適度な摂取は必要ってことね。
デイヴィスに対する恋い焦がれる想いは失せることはなかった。これは生涯に渡って付き合っていくことになるかもしれない。
――あ、でもデイヴィスに生涯共にしたい人が出来たら辛いかも。
想像したらかなりきつかった。もう想像するのはやめよう。そういう相手が彼に出来たときの自分に任せよう。そう誓った時だった。
「おい。貴様、ぶつかるぞ」
「え、うっわっ!」
突如戻った現実で鏡にぶつかるところだった。寸でのところで何とか足踏み出来たと思ったが出来なかった。足がもつれて後ろに倒れかけたが――。
「……ありがとう。クルーウェル先生」
「はぁ。お前というやつはうちの駄犬並だぞ」
「うっ」
後ろにいたデイヴィスに支えられ何とかこけることはなかった。それにしてもこの体勢は中々にヤバイ。身体の体温が徐々に上昇していく。
早く離れなければいけないのに離れ難くて身体が思うように動かない。
「おい。いつまで俺に寄り掛かっているつもりだ」
「っ! ご、ごめんなさい!」
呆れた声でようやく身体の硬直が解けた。素早く離れて向き合う。
「あ、えっと、何だか格好つかなくなってしまったけれどお世話になりました」
「世話をしたが……調査については出来れば寛大な方向へと報告してほしいものだな」
「ふふ。そこは上手くやるわ。大丈夫任せて」
先生の顔をする彼にわたしも悪いようにするつもりはない。
「ねぇ。ここからはちょっとプライベートに入ってもいいかしら?」
駄目、と首を傾げて見上げればデイヴィスは眉間に皺を寄せた。それから暫く黙って「構わん」と答えた。
「ありがとう。ねぇ、今度予定が会えば一緒に食事をしない?」
目を瞠る彼に慌てて「友人、友人としてよ!」と慌てて付け足す。勿論、それだけではない、下心もバッチリとあるがあくまで友人としてまずは付き合っていきたい。正直、もう一度恋人などになれないのは分かりきっている。
彼の答えを緊張しながら待っていると「いいだろう」と色よい返事が来た。
「じゃ、いつにしましょうか?」
「明日なら空いている」
「え、あ、明日?」
突然の日程に今度はこちらが目を丸くさせる番だ。しかし、彼は聞いてもいないのにすらすら理由を話していく。
「ウィンターホリデーも目前だからな。各学年の成績を纏めないといけない。その予定を組んだら明日の……そうだな。午後なら時間が空いていてな」
「そう。まぁ、わたしも報告書の期限があるから助かるわ」
捲し立てるほどではないが早口の彼にわたしは少し気圧される。でも、徐々に嬉しい気持ちが込み上げる。
「明日の午後、そうね。この魔法の鏡を使っていいなら輝石の国の首都から少し外れた街にいいレストランがあるんだけど、そこでいいかしら?」
ドキドキしながら提案すれば彼は眉間に少し皺を寄せた。お気に召さなかったのかしらと途端に不安になる。けれど、彼は一度目を伏せてから「お前の好きなところでいい」と言ってくれた。
「本当にいいの?」
「いい。そこに行きたいのだろう?」
「ええ。友達と食べてすごく美味しかったから……」
「ならいい」
食い気味な返事に要領を得なかったが彼が満足したならいい。それから時間と、集合場所を決めると自然と唇が綻ぶ。
「随分と楽しそうだな」
「それはそうよ。貴方と食事が出来るなんて思っていなかったから」
「すごく楽しみよ」と付け足せば彼は苦笑いを零す。でも、気にしない。もう気にしてはいけない。過去から一歩踏み出しましょう。この傷を愛おしいものと思っているのだから。
「デイヴィス。明日楽しみにしているわ」
「……俺も楽しみにしている」
嬉しい言葉は思わずキスでもしたくなった。でも、何とか堪えてわたしは鏡に向かって歩き出す。その歩みはいつも以上に軽やかだった。
2021.02.06 一部文章改変
【四日目】
彼と別れて何人かの男と恋人とは呼ぶにはお粗末な関係を結んだ。それでも彼以上の人に出逢うことはなかった。何年経っても彼は心の片隅に存在し続けていた。忘れるつもりはなくずっと覚えている自分は馬鹿なのかもしれない。
「……もしも、なんて考えて馬鹿らしい」
この仕事を乗り越えられるといいですね。恩師の言葉が頭に木霊する。わたしは結局過去から一歩も踏み出せていないということだけは分かった。
「残すはリドル・ローズハートくんだけね」
聴取というにはお粗末だが学校もそこまで気にしているように思えない。
「これ以上オーバーブロットする生徒が出ないといいな」
ふぅ、と溜息を吐いて髪を梳かし始める。
授業も終わった放課後。目的の薔薇のような赤を持った少年はすぐに見つかった。彼は図書室で分厚い本を真剣な顔で捲っていた。真剣な様子で勉学に励む少年の邪魔はしたくないがこれも仕事だ。
「お勉強中にごめんなさいね。ローズハートくん。少しお時間いただけるかしら?」
静に顔を上げた彼はひたっとこちらを見据えた。そして、静かに開いていた参考書を閉じた。
「はい。場所は移動しますか?」
「そうね。どこかいい場所ないかしら?」
「分かりました」
頷いた彼は参考にしていた本を抱えて一度カウンターに向かう。課題を邪魔してしまったのは心苦しいが一応仕事である。
――早く切り上げよう。
彼の後についてわたしもまた図書室を後にした。
ローズハートくんの案内によって外に連れられた。学園から少し離れた森の散歩道のようなところだ。
「先生。すいませんが、予定があるのでなるべく手短にお願いできますか」
足を止めて振り返る彼は生真面目な顔をしている。報告資料にも神経質そうな性格など書かれていた。自分で決めたスケジュールはあまり変えたくないのだろう。それを外部とはいえ教師にいうのはすごい。
「わかりました。では、単刀直入にわたしの今回こちらに窺った目的はオーバーブロットした生徒の聴取です」
率直に答えれば彼の大きな目が見開く。だが、驚いた顔は一瞬ですぐに平静を装って「そうですか」と零す。アーシェングロットくんと同じく二年生で寮長になっているだけはある。
「ボクが答えられることは何でも答えます」
「ありがとう。でも、正直、わたしの仕事もそこまで真剣なものではないのよ」
「は、はぁ?」
彼の瞳が完全にそれは意味あるのか、と言っている。勿論、わたしも考えたことだ。
「ふふ。皆が健やかに学園生活を送っていればそれでいいってことよ」
「それでいいんですか? ならば、態々ボクに話しなど」
「建前っていうか、一応はね」
大人の世界は面倒くさいのよ、と言えばやはり真面目なローズハートくんは煮え切らないようすだ。もう少し頭を柔軟にしないと。
「で、貴方はどう? 学園生活に変わりはない?」
「ええ……特には」
僅かにずらされた視線。その意味はどんなものか。だけれど、わたしはここの教師ではない。ローズハートくんが何かわたしに助言を求めない限り手を差し伸べることはない。薄情だというだろうか。それでも彼が自分でどうにかしたいのならばわたしはそれでいいと思う。横やりは入れたくない主義だ。
「さて、と。なら何も問題なしってことね。じゃ、解散しましょう」
パンと手を叩けば彼は本当にこれでいいのか訊ねて来る。真面目な子だ。
「何も問題ないわ。じゃ、わたしもそろそろ帰らないと後ろの先生にどやされそうだから」
振り返れば腕を組んでいるデイヴィスがいる。何時ぞやの記憶と似た立ち方に懐かしさが込み上げていけない。
「貴様。生徒に話しを聞きたいなら俺が招集すると言ったのを忘れたのか?」
「ごめんなさいね」
「全く、うちの生徒に何かしていないだろうな」
「ちょっと、その言い方は失礼よ。何もなかったわよ。ねぇ、ローズハートくん」
疑うような眼差しを向けて来るデイヴィスに眦を上げつつわたしはローズハートくんに同意を求める。彼は面倒くさそうな顔で「はい。何も」と一応味方をしてくれた。
「ほら。何なら他の二人にも聞いて見なさいな」
「他だとぉ? おい、キングスカラーと、アーシェングロットにも聞いたというのか?」
「あ」
墓穴を掘った。だが、隠すことではないので「イエス」と答えれば彼の眦が今度はあがった。
「貴様ぁ、どうやらお仕置きが必要なようだなぁ」
ねっとりとした怒りにわたしは流石に冷や汗をかく。それから右手を上げる。
「わたし、定時だから帰るわ」
「今日は残業デーだ!」
ビシっと首輪がついた指揮棒を向けられたわたしは残業を確定したのだった。
* * *
【五日目】
「つっかれたぁ」
目を覚ましてもベッドから中々起き上がれない。どうやらまだ身体の怠さは抜けないようだ。それもそうだ。ガチンコに近いやり合いをデイヴィスとしたのだから。教師と外部の教師のガチンコバトルに他の生徒も集まり――最終的にトレイン先生に止められ叱られた。魔法での私闘は禁止されているのに教師が積極的にやるな、と。
叱られるなんて何年振りかしらと。でも、生徒の前で叱られるのはいい大人として普通に恥ずかしかった。
「でも、ほんとに楽しかったな」
ぽつりと零して一人微笑む。昔は隠れて魔法を競い合ったものだ。ナイトレイブンカレッジの秀才と名高い彼と魔法を研磨する時間は素晴らしいものだった。お蔭で今のわたしがあるともいえる。
「けぇど。わたしも腕が落ちたわね」
魔法執行官として前線にいた人間が、学校の教師に後れを取るなんて。それとも彼が優秀な魔法士だからなのだろうか。そういえば――。
「デイヴィスもスカウトされたって聞いたけど」
何で魔法執行官にならなかったのか、と考えて見当がつき自嘲の笑みが零れる。わたしが原因だろう。
「他にだって所属先はあるのに……」
こうして過去を蒸し返して落ち込むのはそろそろやめにしたい。
「昨日は楽しかった……そろそろああいう関係になりたいものね」
よし、とわたしはようやくベッドから起きあがる。
「頑張るわよ、わたし」
「クルーウェル先生。一緒にお昼いかが?」
授業の片づけが終わって彼が最後に退出しかけた背中に声をかけた。声を掛けられたデイヴィスはくるりと華麗にターンをして振り返った。
「レディの誘いを断るのは心苦しいが忙しくて無理だ。他を当たってくれ」
「他を当たって最後が貴方よ」
微笑んで言えば彼は苦虫を潰した顔をする。そんな顔をされると少しだけ期待するような乙女な自分を追い払う。今はときめく場面ではないしそのときめく癖をやめろと自分自身に言い聞かす。
平静を装ってわたしは先に訊ねていた二人の先生の名を出す。
「トレイン先生はお昼休み授業の準備があるとか、バルガス先生も部活の会議ですって」
「で、貴方は何か用があるの」と訊ねる。さらに言葉を重ね「お二人はクルーウェル先生なら空いているはずだと言ったのだけど?」と言えば彼も諦めたように肩を落とす。
「……分かった。だが、食堂は行かないぞ」
「流石にわたしも行かないわよ。ほら!」
手に持っていたバスケットを掲げて見せる。それにデイヴィスが眉間に皺を寄せる。
「二人分という量には見えないが?」
「本来はもっと人数が居た予定だもの」
嘘じゃない。でなければわたしだってこんな無駄になる量を作らない。それが彼にも伝わったのか深い溜息をつかれた。
「俺の研究室に行くぞ」
デイヴィスが背を向けて教室を出て行く。彼の発言に固まっていたわたしは慌てて着いていく。
彼の研究室に入ると凄まじい緊張がわたしを襲う。
――まさかデイヴィスの研究室に来るなんて……うぅ、外だと思っていたのに!
心の準備が整っていない。だが、考えても意味はなし。そもそも今は恋人同士ではなし、わたしは新米教師、デイヴィスは先輩教師だ。
――そう。そうよ。何も緊張することはないわ!
大丈夫よ、と顔を上げた瞬間目の前に彼の綺麗な顔があった。
「ヒッ」
思わず引き攣った声を出してあとずさりしてしまった。それに案の定デイヴィスが眉を顰めた。
「失礼な奴だな」
「い、いきなり顔を近づける先生がいけないのよ」
驚いたといいつつ部屋を見回す。理系の教師の割には薬品の匂いがあまりしない。
「薬品とか置いていないの?」
「それは隣の部屋だ。ここは主に駄犬共の面倒を見る場所だ」
言って彼は指揮棒を振って物を退かし、椅子とテーブルをわたしの傍まで移動させてくれる。相変わらず紳士的なこと。
用意されたテーブルにバスケットを置いて蓋を開ける。すかさず、デイヴィスが覗き込んで「サンドウィッチか」と呟いた。
「無難でしょ……あ、素手で作ってないのでご安心を」
一時期付き合ったか分からないような男が潔癖症だった。おかげで手作りの料理に関して延々と文句を着けられたのは苦い思い出だ。
「ふん。渋い顔をしているな。なんだ、恋人に何か指南されたのか?」
「随分昔にね! ああ~あんときはほんとうに面倒くさかった!」
目を据わらせて言えば彼は鼻で笑って赤い手袋を取った。手袋から出て来た手はとても手入れが行き届いて美しい男の手をしていた。
――って、そういうところはもう見ないの!
昔の癖で見惚れてしまったが何とか視線を剥ぎ取る。
「お皿はいる?」
「ああ。貰おう」
ガチャガチャと二人で魔法を使って準備をする。そして、それぞれのお皿に装ってカップに紅茶を入れて完成。それから当たり障りのない会話をしながら食事を始める。
「そういえば何故、お前は教師に転職したんだ?」
「あ~、それ~聞いちゃう? 聞くの?」
自分が警察を止めたことを思い出して気分が重くなる。
「何だ。都合が悪かったか?」
申し訳なさそうに眉を下げる彼に首を振る。
「いや、別にいいのよ。でも貴方が聞いたら呆れ返るわよ」
という前置きをして自分が辞めた理由を前のめり気味に答える。
「簡単。男女の縺れよ。しかもわたしはただ巻き込まれただけのね!」
すぐに呆れた眼差しになったデイヴィスは手を前に翳した。
「何となく分かった」
「最後まで聞いてよ。あのね」
といって、デイヴィスの制止を無視して話し続ける。こうしてちゃんと自分が退官した理由を話すのは初めてかも知れない。だから、わたしの口は止まらなかった。
話しを続けてデイヴィスは呆れかえっていたけれど同情の眼差しを向けてくれた。
「災難だったな」
「でしょ」
あの時の騒動を思い出すけれどもう思い出したくない。何度か浮気相手として叩かれたことがあるけれどなんかなんか憑いているのかしら。
紅茶を飲もうとカップを取るともう空っぽになっていた。
「飲むか?」
「うん。ありがとう」
フワフワ浮くポットから綺麗な紅茶が注がれる。相変わらずこういう魔法が上手い。
「それにしてもよく教師になれたな。免許持ってなかっただろ」
「母校の恩師からの誘いだからね。それに頑張って猛勉強したの。飛び級するくらいにね」
教職免許のために大学に入学して急いで免許を取った。お蔭で今年から新米教師として学校に就職できた。
「それにしても貴方は色んな教科持ってすごいわね。わたしなんてまだまだだわ」
「ふん。貴様より先に教師になったんだ。当たり前だろ」
「でも、すごいわよ。名門筆頭の魔法士養成学校の教師でしょ」
すごいわ、と褒めれば彼の白い頬が少しだけ染まってそっぽ向かれてしまった。彼を褒めるといつもこういう反応をする。そして、愛しさが込み上げる。
――変わるものもあっても、変わらないものもあるのね。
もう恋い焦がれるのはやめようと踏み出したつもりなのに一歩戻ってしまった。わたしはどうやらどうあがいてもデイヴィスへ対する恋心を捨てきれない。
ぼんやりと見つめていると不意に逸らしていた視線が戻って来た。その視線とわたしの視線が絡み合う。いつだっただろうか。同じことがあった。それは確か恋人になった日だ。
お互い逸らせない視線にわたしが口を動かしかけたときだった。
「クルーウェル先生、いらっしゃいますか?」
彼の視線が後ろに向けられた。瞬間、わたしの身体も動き出す。そして、声の主に見られてもいいように取り繕う。
「いいか?」
頷くとデイヴィスが「入れ」と扉に向かって言う。扉が開くと同時に「失礼します」と監督生が肩にグリムを乗せて入って来た。
監督生はわたしに気づくと目を白黒させて驚きの表情を見せる。
「お、お邪魔しまして、すいません」
「あ、大丈夫、大丈夫よ」
慌てて閉めようとする監督生を引き留める。監督生は頬を薄らと染めながら申し訳なさそうにデイヴィスとわたしを交互に見る。分かりやすい反応に苦笑を浮かべる。
「クルーウェル先生とお昼を兼ねてお話していただけよ。先生に質問があるのなら――」
「おお! 美味そうなサンドウィッチなんだゾ!」
グリムが匂いにつられたのか肩から飛び降りてバスケットまで駆け寄る。そして、目をキラキラさせてデイヴィスとわたしを交互に見る。
「オレ様も食べたいんだゾ!」
「ちょ! グリム、意地汚いことしない!」
バスケットからグリムを剥ぎ取りにかかる監督生。グリムは腹を空かしているのかバスケットにかじりついて中々離れない。二人の面白やり取りに笑いが込み上げる。
「ふっ、ふふ、ははっ! もういいわよ、そこまで食べたいのならどうぞ、召し上がれ」
いいわよね、とデイヴィスを見れば彼は目を丸くさせていた。けどすぐにいつもの先生に戻った。
「仕方ない。腹を空かせた駄犬を放っておくことはできないからな……で、そっちの仔犬はどうなんだ?」
監督生の返事を聞く前に可愛らしくお腹が鳴る音は聞こえた。お腹の主は顔を赤くさせて「一緒してもいいですか?」と訊ねて来る。
「いいわよ。可愛い子、さぁ、座りなさいな」
魔法で引き寄せた。それから楽しい昼食がまた始まった。
そんな日でわたしの監査活動は終わりに進んだ。
* * *
【最終日】
生徒に挨拶も終えてわたしはデイヴィスの横を歩いていた。
「長かったわ」
「だが、実りのあるモノだったろ」
「ええ。聴取もさくっと終わったから助かったわ」
それについてはまだ言いたいことがあるのか斜め上から鋭い視線が飛ぶ。その視線に笑みで対抗すればすぐに解かれた。
「ふん。俺の仕事もようやくなくなる」
「あ。やっぱり、貴方がわたしの担当だったのね」
彼からの返事はないが見上げた横顔は何とも言い難い顔をしていた。それに静かに笑う。
最初はどうなるかと思ったが自分の幼いままから止まった恋心の暴走はなかった。寧ろ、彼と再会したことで少し落ち着いたかもしれない。
――適度な摂取は必要ってことね。
デイヴィスに対する恋い焦がれる想いは失せることはなかった。これは生涯に渡って付き合っていくことになるかもしれない。
――あ、でもデイヴィスに生涯共にしたい人が出来たら辛いかも。
想像したらかなりきつかった。もう想像するのはやめよう。そういう相手が彼に出来たときの自分に任せよう。そう誓った時だった。
「おい。貴様、ぶつかるぞ」
「え、うっわっ!」
突如戻った現実で鏡にぶつかるところだった。寸でのところで何とか足踏み出来たと思ったが出来なかった。足がもつれて後ろに倒れかけたが――。
「……ありがとう。クルーウェル先生」
「はぁ。お前というやつはうちの駄犬並だぞ」
「うっ」
後ろにいたデイヴィスに支えられ何とかこけることはなかった。それにしてもこの体勢は中々にヤバイ。身体の体温が徐々に上昇していく。
早く離れなければいけないのに離れ難くて身体が思うように動かない。
「おい。いつまで俺に寄り掛かっているつもりだ」
「っ! ご、ごめんなさい!」
呆れた声でようやく身体の硬直が解けた。素早く離れて向き合う。
「あ、えっと、何だか格好つかなくなってしまったけれどお世話になりました」
「世話をしたが……調査については出来れば寛大な方向へと報告してほしいものだな」
「ふふ。そこは上手くやるわ。大丈夫任せて」
先生の顔をする彼にわたしも悪いようにするつもりはない。
「ねぇ。ここからはちょっとプライベートに入ってもいいかしら?」
駄目、と首を傾げて見上げればデイヴィスは眉間に皺を寄せた。それから暫く黙って「構わん」と答えた。
「ありがとう。ねぇ、今度予定が会えば一緒に食事をしない?」
目を瞠る彼に慌てて「友人、友人としてよ!」と慌てて付け足す。勿論、それだけではない、下心もバッチリとあるがあくまで友人としてまずは付き合っていきたい。正直、もう一度恋人などになれないのは分かりきっている。
彼の答えを緊張しながら待っていると「いいだろう」と色よい返事が来た。
「じゃ、いつにしましょうか?」
「明日なら空いている」
「え、あ、明日?」
突然の日程に今度はこちらが目を丸くさせる番だ。しかし、彼は聞いてもいないのにすらすら理由を話していく。
「ウィンターホリデーも目前だからな。各学年の成績を纏めないといけない。その予定を組んだら明日の……そうだな。午後なら時間が空いていてな」
「そう。まぁ、わたしも報告書の期限があるから助かるわ」
捲し立てるほどではないが早口の彼にわたしは少し気圧される。でも、徐々に嬉しい気持ちが込み上げる。
「明日の午後、そうね。この魔法の鏡を使っていいなら輝石の国の首都から少し外れた街にいいレストランがあるんだけど、そこでいいかしら?」
ドキドキしながら提案すれば彼は眉間に少し皺を寄せた。お気に召さなかったのかしらと途端に不安になる。けれど、彼は一度目を伏せてから「お前の好きなところでいい」と言ってくれた。
「本当にいいの?」
「いい。そこに行きたいのだろう?」
「ええ。友達と食べてすごく美味しかったから……」
「ならいい」
食い気味な返事に要領を得なかったが彼が満足したならいい。それから時間と、集合場所を決めると自然と唇が綻ぶ。
「随分と楽しそうだな」
「それはそうよ。貴方と食事が出来るなんて思っていなかったから」
「すごく楽しみよ」と付け足せば彼は苦笑いを零す。でも、気にしない。もう気にしてはいけない。過去から一歩踏み出しましょう。この傷を愛おしいものと思っているのだから。
「デイヴィス。明日楽しみにしているわ」
「……俺も楽しみにしている」
嬉しい言葉は思わずキスでもしたくなった。でも、何とか堪えてわたしは鏡に向かって歩き出す。その歩みはいつも以上に軽やかだった。
2021.02.06 一部文章改変
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