哀傷いいえ愛傷よ
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哀傷いいえ愛傷よ・1
今までに感じたことのないほど強烈な痛みが顔から身体中に広がっていく。霞む目に映る地面にはおびただしい量の血が零れ落ちている。傷の範囲や激しい痛みから容易く想像できるほどだ。
短く息を吐きながら折りこんでいた身体を動かす。周りは相変らず酷い喧騒だけれどわたしには一切関係ない。わたしが気にすることはただひとつだけ。
「で、ぃ、っ」
朧な視界で彼の姿が確認できない。一体どこにいるのだろう。庇ったから後ろにいるのだろうか。辺りを見回していると目の前に人の影が出来た。その影を見上げようとする前に目の前にいる影が膝を着いてくれた。
「でい、す……?」
「そうだ」
霞んだ目で何となく分かる綺麗な顔はいつもの余裕が消えているように見える。何故、彼は顔を歪めているのだろう。綺麗な唇の端に血の跡があるように見える。
「くち、きった?」
手を伸ばしたいが生憎わたしの両手は塞がっている。訊くことしかできない。本当はよく見てあげたいのに。治療してあげたいのにそれが今はできない。
悔しいな、と思っていると彼のいつも黒い手ではなく白い手が伸びて来た。
「傷を見よう」
悲痛に帯びたような声にわたしの傷は思っていた以上に酷いのだと理解した。ならば、いくら優秀だと言われる彼で止血は出来ても完全に治すことは出来ない。それに彼の白い手が汚れるのが嫌だった。だから、小さく首を振って「いい、の。だいじょぅっ、ぶよ」と言う。
「っ、いいから見せろ!」
けれど、わたしの返事に彼は叫びその白い手でわたしの血に濡れた真っ赤な手を剥ぎ取った。綺麗な彼の手は真っ赤に汚してしまった。
* * *
【一日目】
「よぉこそ! ナイトレイブンカレッジへ!」
鏡を通って降り立った薄暗い部屋で貰った出迎えに目を丸くさせた。それはそうだ。まさか学園長が出迎えにくると思うだろうか。
――わたしの学校だったらないわね。
深窓の姫君と呼ばれて久しい我が学園の学園長は入学式にも顔を出さない。存在しているか、と多くの生徒が怪しむが自分が在学時代に一度顔を出したことがあるので一応存在はしている。自分が生き証人だ。とはいえ、その一度見た機会も今では失われて久しい頃だ。
「ッ」
俄かに顔の古傷が痛む。雨の日や傷を負った日に痛むことはある。でも、今日はとても良い天気だった。傷を負った日も随分前に過ぎ去った。何故、痛くなるのかは言わずとも分る。
黒い鴉のような学園長の後ろに控えている存在だ。
デイヴィス。過去いいえ、今も愛している人。でも、悲しくも別れてしまった人。その人に会うのは覚悟していたのに傷はどうして痛むのだろう。
「レディ? どうかしましたかな?」
奇妙な仮面を着けた学園長の顔がひょいっと覗き込んできた。何を考えているか腹の内が読めないと噂の学園長に貼りつけた笑みを向ける。
「いいえ。それにしてもレディなんてくすぐったいわ」
「それではミスと?」
「どちらでも構いませんわ」
それから学園長は意味深長な笑みを浮かべから勢いよく後ろを向いて彼を呼んだ。
「では、クルーウェル先生。こちらの先生のご案内よろしくお願いします」
「ああ。了解した」
素っ気ない返事をした彼が靴を響かせ目の前までやって来た。久々に近くで見た姿に見惚れかけてしまう。でも、わたしは一応仕事でここに来ている。
少女の頃のようなときめきを振り払うように冷静に「久しぶり」と声をかける。
「久しぶりだな」
耳に響く声が一段と低く聞こえる。駄目だ。何かがこじ開けられそうになる。それを何とか封じ込めて微笑みを浮かべる。
社交辞令が終わると静かな空気が流れる。本当はもっと話したいことはある。けれど、それをしてはいけない。したら最後、甘い時間を呼び起こし、胸が張り裂けてしまうほど悲痛な別れを思い出してしまう。それだけは避けたい。
誰か空気を壊してほしいと思う時だった。
「挨拶も済んだことですし。私、少々用がありますのでここで失礼させていただきます!」
空気を読んでくれたのか、はたまた本当に忙しかったのか学園長が高らかに叫んで消えた。それに先ほどの張り詰めていたような空気が消え去り片の力が抜けた。
「では、行くぞ。今、生徒たちが集会で集まっている。そこで挨拶をしてもらう」
「え。さっき学園長どこか行ってしまったけど」
「問題ない」
彼はそのまま背中を向けて歩き出した。わたしはすぐに彼の後を着いていく。
部屋を出ても廊下は薄暗く懐かしい過去の記憶が呼び覚まされそうになる。だが、それを振り払う。
――思い出しては駄目よ。
懐かしい思い出に重りを置いて蓋をしっかりと閉じる。それに専念していると突如前方から声をかけられる。
「貴様の本来の目的はなんだ。ただの見学ではないだろう」
顔を上げれば前を歩いていた彼は足を止めて振り返ってこちらを見ていた。探るような眼差しに少しだけ寂しくなる。今日はどうしても感情に引っ張られてしまう。つい、前まで前線で活動する元魔法執行官が情けない。
けど、情けなさに浸っている場合ではない。なんとかプライドを奮い立たせ顎を引き意味ありげな笑みを彼に向ける。
「目的なんて分かっているでしょう。聞くのは野暮でなくって?」
目を眇める彼は逡巡することなく「オーバーブロットの件か?」と間髪入れず訊ねてきた。わたしは隠すことなく「イエス」と頷く。
今回のわたしの仕事はナイトレイブンカレッジへの監察だ。魔法執行官として活動していた頃はこうした仕事もしていたがまさか教員になってもするとは。そして、学校からは隠すことはないと言われているので包み隠さず答えた。ただ、わたしとしてはこの監査はまた別の意味があると踏んでいるがそこまで答えることはないだろう。
わたしの返事にデイヴィスは頭を抱える仕草をする。
「どこまで出回っている?」
「分からないわ。ただ、執行官を辞めたわたしのところに監査に入れと要請が来ただけよ」
「そうか……」
思案気に顎に手を当てて考える彼にわたしは開いていた距離を詰めた。不思議だ。先ほどまで彼に近づけば無垢な少女だった頃に戻ってしまうと思った。でも、今は何故か彼に近づける気がした。
カツンとヒールを鳴らすと彼が気付いて身を引く動きをする。けど、逃がさないと彼の赤いネクタイを掴んでぐっと引っ張る。
高いヒールのお蔭で顔の距離が近い。何時ぶりだろう。彼の顔を近くで見たのは。相変わらず綺麗に整った顔をしている。でも、灰色がかった瞳が僅かに震えたのが見えた。彼の瞳にはわたしの顔にある大きな傷が目に入ったのだろう。
――貴方もまだ立ち止まっているの?
そうであればごめんなさい、と謝罪が浮かぶ。同時に彼の中に存在していると歓喜する醜い自分がいた。まだお互い過去にいるのかしら。それはとても悲しいことだ。
彼の瞳の動揺を忘れるように掴んだネクタイを離して唇の端を上げる。
「そんな顔しないでクルーウェル先生。貴方の可愛い仔犬ちゃんたちをいじめたりしないわ」
いつの間にか開いた思い出の蓋を占めて貴方の知らない笑みを浮かべて言った。
* * *
挨拶は滞りなく終わった。顔の傷を囁かれたがもう慣れたものだ。もう何年もこうした視線にさらされ続ければ気にもしなくなる。
集会が終わると早速授業が始まる。その中、わたしは一年生の錬金術の見学に来ていた。最初にデイヴィスの受け持つ授業とは何という数奇か。だが、今はそれよりも、と薄い印象が余計に目立つ子がいた。
――あの子が報告であった世界から来た生徒ね。
男の子にしては小さく、女の子にしては高いく、顔立ちは中性的にもとれる。大衆にいればすぐ見失ってしまうような雰囲気を持つ子。そんな特徴もない子はここではない世界から来たという。そして、傍にいるモンスターと共に魔法もないのにこの学園に在籍している。帰る術を探すために保護目的もあるだろう。それにしても魔力がないのにやって行けるのか。
絶賛、異世界の子は猫に似たモンスターとメモ睨みながら慎重に鍋をかき混ぜている。危なっかしい手つきにソワソワしながら見ていると――。
不意に視線を上げた異世界の子と目が合ってしまった。瞬間、照れくさそうに頭を下げた。可愛らしい反応にホワホワしてしまう。こういうのが癒しというものか。執行官のときには縁遠いものだった。ならば、その癒しの恩返しをしなければいけない。
手を挙げてデイヴィスに声をかける。
「クルーウェル先生。わたしも生徒のお手伝いをしてもよろしくって?」
デイヴィスは暫く逡巡して見せる。それから「構わない」と一言零して再び生徒の間を歩き出し。わたしはその許可のもと苦戦気味の異世界の子へと向かった。
煩わしい視線を抜け出して一人と一匹の前に立つ。
「さて、そこの可愛い生徒さん、何か分からないことがあって?」
「っ!」
華奢な肩が飛び跳ねて異世界の子は恐る恐ると顔をあげた。やはり可愛らしい顔立ちに少女めいたものさえ垣間見える。本当に男子生徒なのかと見ているとにゅっとモンスターが飛び出して来た。
「そうなんだゾ! 教科書通りにやっているのに全然完成しないんだゾ!」
ふなふな、ふんふん、と怒るモンスターをよしよしと頭を撫でて宥める異世界の子。
「グリムの言う通り、実は先生が教えた通りいかなくって」
むぅっと唇を尖らせて教科書を覗き込む一人と一歩貴の姿がとても可愛いらしい。その愛らしさに頬を緩めながら教科書とメモを覗き込む。
ざっと目を通して次に鍋の色を見る。教科書とメモには真珠のように白く輝く物質が錬成されると書かれている。もちろん、板書もそうだ。でも、鍋の中身は真珠のような白い物質にはほど遠く――。
「ドブ色ね」
二重奏の呻き声と共に二人は項垂れる。その反応に笑いながら教科書とメモ取り出す。綺麗なメモは板書ままでデイヴィスが言った捕捉がごっそりと抜け落ちている。それならば教科書通りの鉱石が出来ないだろう。でも、わたしがそれを全て言ってしまうのは教員としてどうだろうか。
「うーん。そうね。本来であれば白く輝き出すのよね」
揃って首を縦に動かす二人に。「じゃあ」と何とか頑張って二人の力で作り上げてもらおうとした。
暫く何とか一年生で且つ魔法に疎い子、学力に疎いモンスターに分かりやすく説明し続けた。結果、ドブ色は最終段階の真珠色のように輝き出した。
「あ、せ、先生! これ、これって!」
「ええ。あとは慎重にゆっくりよ」
「うぅ! わかったんだゾ!」
我慢強くないモンスターことグリムも呻きながらかき混ぜる。その横で補助しながら鉱石を入れる異世界の子こと監督生さん。
「あと少しよ」
最早、高校生と言うよりも小学生に教える心意気になったときだった。
「なぁなぁ、なんで、お前の顔におっきな傷があるんだ?」
ここに来て飽きてきたのかグリムが話しかけて来た。しかも内容は結構遠慮がない。いや、それよりも鍋かき混ぜなさいよとは思う。
「ちょ、グリム、今それどころじゃないから! というか、それ、それ今聞く?」
監督生さんは分かりやすく動揺して顔を真っ青にさせる。気を利かせているけど何だか分かりやすい子。
よくよく周りの気配を探れば教室の空気も落ち着きがなくなる。周りが聞き耳を立てているのが分かっていて話すものか。いや、そもそもこの愛おしい傷を簡単に教えるつもりはない。
「そうねぇ。教えてあげるにはちょっとねぇ」
「ふなぁ。ドラゴン退治とかしたとかじゃないのか?」
「ちょ、グリム! やめろって!」
異世界の子の顔がもう真っ青通り越えて真っ白だ。可哀想なこと。
哀れな異世界の子を救うためにわたしはグリムに意味深長な笑みを向ける。
「違うわよ。でもねぇ、もしわたしの顔の傷を知りたいならば……熱い一夜を過ごしてからよ」
途端、辺りから一斉に爆発音が鳴り響く。至る所で生徒が混ぜていた鍋が爆発したらしい。この調合でどうやって爆発するのだろうか甚だ不思議だ。
「ふふ。可愛らしいこと」
わたしは敢えて周りの生徒に手出しすることなく目を細めて見る。ギャアギャア騒ぐ生徒の間を忙しそうにデイヴィスが「落ち着け! 駄犬共!」と鋭く叫んでいる。それに申し訳ないがわたしはやはり手助けするつもりはない。
くすくす笑いながらわたしは二人に「続けましょ」と先を促す。
「あ、は、はぃ」
真っ白だった顔はほんのり赤みが差している。そして、気恥ずかしそうに鍋をゆっくりとかき混ぜる可愛い異世界の子。その横では部屋の喧騒の元となったグリムが「どういう意味なんだゾ」と首を傾げる。
わたしは大惨事になりかけている教室を尻目に二人の課題を手伝った。
* * *
忙しない一日も終わり、今はデイヴィスに連れられて廊下を歩いていた。行きと違い並んで歩くその横顔はどこか疲れている。それでも姿勢がいいのは彼の美意識がだらしない姿勢を許さないからだろう。変わらず美しい心構えだ。
その彼を見上げていると視線に気づいたのか眉間に皺が寄る。
「全く貴様は余計な仕事を増やしてくれたな」
「ふふ。ごめんなさいね」
デイヴィスは「反省しているように見えないな」とまた前を見据えた。
行きと違い彼と軽口を叩くように話せるのはいい。緊張もなく、思い出の蓋も開くことなく健やかな一日が終わりそうだ。だが、そういうときに限って崩れかける。
「……その傷は誰かに話したことがあるのか」
思わず見上げると彼もこちらを見下ろしていた。だが、すぐに揺れる灰色の瞳が逸れる。その瞳を見た瞬間わたしの中にある蓋が開きかける。
「今の言葉は忘れろ」
重苦しく酷く痛ましい声を無視することが出来るだろうか。できない、という感情が溢れてしまった。
「……ないわよ」
零れたわたしの言葉は彼の耳に届いただろうか。でも、返事がないから聞こえなかったのだろう。いや、聞こえないふりをしたのだろうか。なら、それでいい。
――わたしったら本当に駄目ね。
不意に溢れる感情の蓋を閉じる術を知っているのにできない。一人、自嘲の笑みを浮かべているといつの間にか外部と繋がる鏡の間に辿り着いていた。
部屋の中に入るとデイヴィスの足が止まる。わたしの足だけ動いて彼より前に出て振り返る。
「見送りありがとう」
自嘲の笑みを隠してなんてことのない顔をする。同じように彼の顔に感情はない。瞳の揺れなんてもう見られない。これでいい。
「明日は早速オーバーブロットした生徒に話しを聞くのか?」
「いいえ。もう少し、そうね。二、三日様子を見させてもらえない?」
彼は先ほどの揺れた弱い瞳の欠片も見せずに鋭くこちらを射抜く。その瞳は生徒を守る教師の力強さが窺える。
その強さにわたしは学生時代と全く違う彼の姿を見る。それから暫しの時間の経過を感じて何故だか安堵する。
教師らしいデイヴィスを見て自然と笑みが浮かぶ。
「貴方、変わったわね……じゃ、集めてほしいときは言うわ」
じゃあね、と背を向けて鏡に向かって歩き出す。そして、鏡に入る前にもう一度振り返る。
「また、明日ね」
何故か、そう言いたかった。デイヴィスはなんて返事をしてくれるだろうか。彼は目を僅かに見開いてなんてことのない顔をして――。
「また、明日な」
その返事に不思議と嬉しくて泣きたくなった。でも、そんな無様な姿を晒したくない。何とかそれを堪えて手を振って鏡に飛び込むように入る。
鏡の出口である勤め先の鏡の間に出てわたしは耐えきれなく涙が零れた。
学生の頃、幼い恋をしていた頃、いつも交わしていた別れの挨拶。また彼と交わせるとは思っていなかった。そして、年甲斐もなく心臓が恋に一喜一憂していた少女のように忙しない。
「あ、ああ、やっぱり愛しているわ……デイヴィス」
いつなんどきだって忘れられない恋しい人。わたしは束の間学生時代の恋する少女に戻り涙を零した。
* * *
【二日目】
鏡に映るのは腫れぼったい目をした酷い顔をした自分。
「さいあく……」
あの後、泣きに泣き腫らして適当に化粧を落として眠ってしまったのがいけない。普段ならどんなに酷い様子で帰ってもそんなことしたことないのに。
とりあえず冷やそう。だが、これではいつものメイクが出来ない。
「はぁ。この顔で行くのか」
柔らかな顔立ちの自分の顔は決して嫌いではない。だが、執行官の仕事では苦労はした。この柔らかな顔立ちは相対する皆が悉く舐めるのだ。お蔭で油断した犯人もいたが舐められるのは腹立たしい。
それから徐々に勝気に見えるようにメイクしていたが今日は出来ない。
「はぁ。まぁ、もう学校の先生だし……いいか」
ならば、服装も改めなければいけない。今日は朝からやることが多すぎる。お弁当は作れないかもしれない、と肩を落として準備を始めた。
出迎えたデイヴィスが目を丸くさせて驚いていた。そして、視線を彷徨わしてからいつもの皮肉に満ちた笑みで「まぁまぁだな」と言い放った。
流石に愛している人でもそれはない。わたしはこめかみに青筋を立てて彼の綺麗な革靴を踏んづけてやった。デイヴィスの青くなった顔に気分は少しだけ気分が良くなった。
朝から年甲斐もないことをしつつ今は二年生の飛行術に参加している。流石に二年生も多くが乗りこなせている中――若干名乗りこなせていない生徒がいる。
視線の先にいるのは前傾姿勢すぎやしないかというほど生徒。その傍には緊張しているのか姿勢が強張っている背の高い生徒もいる。その向かいには急上昇と急降下を繰り返すもう一人背の高い生徒とよく似た顔立ちの背の高い生徒がいる。
あの三人は報告を貰った生徒にいた。そして、あの前傾姿勢を取っている生徒がオーバーブロットした子だ。
――アズール・アーシェングロットくんね。二年生で寮長をしているし優秀な生徒。ユニーク魔法もかなり貴重な部類のもの……。
アーシェングロットくんは珊瑚の海出身の人魚だという。まだ陸に上がって二年目だと思うとなるほど頷ける。なにせ、自分の学校でも珊瑚の海出身の生徒で飛行術や体力育成が苦手な子がいた。あの生徒も同じようだ。
――それにしてもハラハラしてくるわね。
あんまりにも不安定な飛び方にもっとこう、こうよ、とコツを心の中で呟く。すると、それを察知されたのか。
「先生! すまんがアーシェングロットを見てくれんか! そこの前傾姿勢の生徒だ!」
バルガスが他の生徒を見ながらアーシェングロットくんを指した。それにアーシェングロットくんが分かりやすく顔を歪めるがすぐに澄ました顔に戻る。
年頃らしい反応に同情しつつ、わたしは言われた通りにアーシェングロットくんに近づく。来るなというオーラを放つアーシェングロットくんだが諦めてほしい。
彼の前になってにっこりと有無を言わせない笑みを浮かべる。
「貴方がアーシェングロットくんよね。バルガス先生からの御指名だから諦めてね」
報告によると彼は十七歳のわりには一筋縄ではいかない性格らしい。警戒されているなと思っているが彼は諦めたとはまた違う雰囲気で話し出した。
「……先生はブルームノヴァからいらしたんですよね」
「ええ。まだまだ新米教師よ」
ふぅん、といった様子の少年の面影の強い青年、そして同じようにこちらを窺う背の高い双子。明らかにこちらの出方を窺っている。
何か聞き出したいのだろうか。ならば、ここでは場所が悪い。
「ねぇ。アーシェングロットくん。わたしと空のデートに洒落こみましょう」
「は?」
ぽかんと口を開ける少年を無視してわたしは彼が乗っている箒の後ろにまたがる。
「ちょ、何しているんですか!」
「いいから。ほら、そんな前傾姿勢だから飛ばないのよ」
よいしょっとアーシェングロットくんの肩を掴んで姿勢を正してやる。バキって音が鳴った気がするが今は無視してしまおう。ついでに彼の何とも言えない呻き声も。
「ほらほら。頑張って箒を握って。いい? わたしの魔力で飛ばすからね? でも、感覚はわかるようにしておくからしっかり勉強なさいよ」
「ちょ、え、ま」
「はーい! 行きまーす!」
「ヒッ!」
彼の返事を待たないでわたしは地面を蹴って空高く飛んだ。先ほどの飛んでいるとは言い難い飛行術とは全然違う。
「ほら。ちゃんと飛べたでしょ?」
「と、とべ、飛べましたけど! 何でこんな強引な!」
「そうしなきゃ話せないのよ。それに貴方も何か話したいんでしょ」
肩越しに振り返った涙目の彼に意味深長に微笑む。だが、敏い彼は目を瞠って細めて唇の端をつり上げた。それは少年らしくないが話が進めやすい。
「では、まず先生からどうぞ」
「今回のわたしの仕事はオーバーブロットした生徒への聴取。ま、個人的には適当に話すつもりだったんだけど」
こんな感じに、とあっけからんと言う。アーシェングロットくんは「……何ですか、それ」と肩透かしを食らったような顔をした。それに苦笑を浮かべる。
「思わせぶりしてごめんなさいね。さて、そんなことよりも貴方の方が何かあるのでしょう?」
目を僅かに見開いた彼は危なっかしい手つきで眼鏡をかけ直す。
「ええ。では、まず対価は何ですか?」
その言葉に目を瞬かせるが報告資料を思い出す。こういうところはまだ直らないようだ。いや、長年の性質とはそうそう簡単に直らない。
「そうね。ラウンジの一番高い料理でいいわよ」
「……それでいいんですか?」
怪訝に眉を上げる彼に頷く。
「いいわよ。で、訊きたいことって何ですか?」
先生らしく聞いて見たら彼の眉間に皺が寄った。険しい顔に何かいけないことを踏んだかと思ったが――。
「彼女の〝髪〟を取り返して欲しいんです」
「彼女? 髪?」
意味の分からない単語に今度はこちらが眉を顰める。アーシェングロットくんも自分の言葉がすぐに伝わるものだとは思っていなかったようで説明が口から零れた。
「僕のオーバーブロットの代償として僕の幼馴染の髪の毛が取引されたんです」
それって、とすぐに卒業生リストを捲る。そして、アーシェングロットくんの関係者でうちの学校の卒業生の目ぼしがつく。
――確か、真珠のように輝く歌姫って言われていたわね。
真珠のように輝くほど美しい歌姫とも呼ばれていた。確か、母方がセイレーンの末裔だと言う話を聞いたことがある。なるほど、それで髪の毛が取引にされたのか。
「いや、でも、彼女はセイレーンの力はないって公言していたわよね」
「はい。だから、わざわざ彼女の髪を代償として求めるのは僕も不思議に思っていたのですが……」
ぶわっと怒りの具現化したようなものが見えた。目の錯覚だろうが。彼は余程怒りを抱いていることは分かった。
「あー、アーシェングロットくん?」
「彼女の髪がどうやらよく分らん変態富豪爺に渡ったらしんですよ!」
「ちょ、ちょっと」
怒りの籠った言葉に箒が揺れる。何とか制御して彼の話しに耳を傾ける。
「学園長だか、どこの組織か分からないけれど、せめて実験に使ってくれればいいものを、彼女のファンを豪語する変態クソ爺の手に渡っているなんて悪寒を通り越して怒りしかわない! 分かりますか!」
「あ、あ、ええ」
引き攣りながら何とか頷く。それでもアーシェングロットくんの怒りは持続することはなかった。我に返った彼は咳払いをしてにっこりと愛想笑いを浮かべた。
「で、彼女の髪を回収してほしいんです。流石に僕でも手が出せないクソ爺なので」
「は、はぁ。まぁ、何とかし――」
「お願いしますよ」
「あ、うん、はい」
食い気味の彼に無理とは言えない。仕方ない。面倒くさい親戚筋の力を借りるとしよう。
こうして偶然にもオーバーブロットした生徒の聴取を一人終えた。ちなみに、気の抜けた彼はこの後、箒から落ちかけた。
* * *
【三日目】
久々に会えるのが嬉しくて駆け足になったのを覚えている。いつもの待ち合わせ場所にある大木に背中を預けて貴方はいた。それでもその横顔を見てわたしは弾む気持ちが萎んでいった。
いつも綺麗な横顔は辛さを耐えるように怖かった。それでも美しさは変わらないけれどわたしはその横顔が見たかったわけではない。
――何で、なんて、辛い顔をしているの。
抱いた感情を口に出さず駆け足になっていた速度を緩めて歩き出した。でも、彼の傍に行きたくないと初めて思った。
彼に会ったらなんて言えばいいのか。いつもならすぐに話したい内容が浮かんだのにその時のわたしは何も答えが見つからず彼の傍に立った。
僅かな希望を抱えていつものように軽口を叩き合うように挨拶をした。いつもみたいに冗談を言って笑い合いたくて話し出すとしだけれど――できなかった。
――そんな痛そうな顔をさせたくないのよ。
わたしを見る彼の痛々しい顔。辛そうな貴方なんて見たくない。それでも彼を護れたことわたしの誇りだった。でも、それはわたしのエゴだった。
苦しめるつもりなどなかったのに。でも、それで貴方が苦しむならわたしは傍にいたくない。だから――。
「別れましょう。デイヴィス」
心が痛い、痛い。いつもなら貴方が治してくれる痛みはきっと、もう治らない。
久々に見た辛い記憶をもとにした夢。あまりに辛くて目尻から涙が滲み出た。いい大人が恥ずかしい。
一粒零れた涙を拭いながら起き上がる。時計を見ればあと五分もすれば起床時間だ。こういうときは少し惜しい気持ちが湧く。
「二度寝も出来ないし……はぁ。起きよう」
サクッと準備をして今日も頑張ろうと気合を入れる。
授業を見学しながら一人の生徒を植物園で捕まえる。
「貴方、今授業中じゃないのかしらキングスカラーくん?」
整った綺麗な寝顔から一転彼は瞼を上げて不機嫌な顔をする。
レオナ・キングスカラー。夕焼けの草原の第二王子でオーバーブロットしたうちの生徒の一人。しかも、留年して本来は卒業している年のはずだ。
わたしとも顔なじみの男の妹が彼の許嫁だ。そして、わたしの後輩でもある。真面目で成績も優秀な女性を持たせるなんて罪な男だ。
「また、卒業できなくなるわよ」
「チッ。何の用だ」
グルっと威嚇するように喉を鳴らしながら起き上がる。それで怖気づくほど精神は細くない。図太くいなければ執行官なんてやっていられない。
「警戒しないでよ」
「ハッ。他所から来た元執行官のセンセイがよく言う」
そのことは学園の中でもクロウリー学園長と、デイヴィスしか知らないはずだ。いや、でもここは魔法士養成学校の中でも屈指の名門だ。卒業生にもたくさんの魔法執行官がいるし、それを兄や姉で魔法執行官がいてもおかしくない。でも、部署はたくさんあるしおそんなことはあるのか。
「アンタ優秀な魔法執行官だったらしいな。検索すれば名前出て来るぜ」
「あぁ。なるほど」
自分の名声などとんと気にしたことがなかった。大取り物の記事に名前が出ていたのかもしれない。ありえなくはない。
「なら単刀直入に言うわ。わたしの今回の目的はオーバーブロットした生徒の聴取よ」
「魔法庁が介入しようとしてんのか?」
眉間の皺を深くさせながら訊ねるキングスカラーくんに首を振る。
「そこまでは知らないわ。ただ、辞めたはずのわたしに監査指令が出ただけ」
「ふぅん。そうかよ。で、何が聞きてぇんだ」
あっさりと聞く体勢になった彼に肩透かしを食らいながら首をまた横に振る。
「別にないわ。貴方も授業をサボりながら健やかに過ごしている様子だし。けど、本当に授業でないと卒業できないし――貴方の許嫁さんも愛想つかすかもしれないわよ」
綺麗な眉毛をピクと跳ねさせると「うるせぇ」と呻く様な声で言った。どうやら少し効いたらしい。
「話しは終わりか」
「ええ。じゃ、いいこと。次の授業は出なさいよ」
ひらひら手を振って植物園を後にした。その背後に動く気配がしたが振り返らなかった。
腹の探り合いをするかと思った獅子があっさりと終わった。ならばさくっと次に行こう。最後、始めにオーバーブロットしった薔薇のような髪をした生徒。でも、すぐに行動するにはどうにも億劫だ。
「とりあえずお昼ね」
朝、用意したサンドウィッチを持って場所探しに歩き回っていると――。
「先生!」
周りを見ても教員はいない。となると自分が呼ばれたのだろう。振り返れば駆け寄って来る監督生さんとグリムがいた。
「あら。監督生さんにグリムじゃない」
最初の授業以来懐かれた二人に会うのは久々な気がした。息を整えた監督生さんは可愛らしい笑みを浮かべて「先生もお昼ですか?」と訊ねる。
「ええ。貴方も?」
「はい! 今日は天気がいいので外でと思って」
「わたしも。でも、いつもの子たちは?」
「あいつらは居残りなんだゾ!」
オレ様はあいつらと違ってないんだけどな、と胸を張るグリム。それはきっと貴方が乗っている肩の子のお蔭だろう。
「グリム。貴方はもう少しこの子に感謝なさい」
異世界で一人頑張って、猫のお世話までして大変だ。監督生さんに感謝しなさいと言えば監督生は恥ずかしそうにはにかむんだ。その後に監督生は「あの、先生、良かったら一緒に食べませんか?」と言う。
窺うように見上げている瞳は緊張に満ち溢れている。その緊張をほぐしてあげたくてつとめて柔らかく微笑む。
「ええ。一緒に食べましょう」
瞬間に輝かんばかりの笑顔になるこの子に誰が拒めるものか。
そうして、その日はつつがなく終わりを迎えた。
2へ続く
今までに感じたことのないほど強烈な痛みが顔から身体中に広がっていく。霞む目に映る地面にはおびただしい量の血が零れ落ちている。傷の範囲や激しい痛みから容易く想像できるほどだ。
短く息を吐きながら折りこんでいた身体を動かす。周りは相変らず酷い喧騒だけれどわたしには一切関係ない。わたしが気にすることはただひとつだけ。
「で、ぃ、っ」
朧な視界で彼の姿が確認できない。一体どこにいるのだろう。庇ったから後ろにいるのだろうか。辺りを見回していると目の前に人の影が出来た。その影を見上げようとする前に目の前にいる影が膝を着いてくれた。
「でい、す……?」
「そうだ」
霞んだ目で何となく分かる綺麗な顔はいつもの余裕が消えているように見える。何故、彼は顔を歪めているのだろう。綺麗な唇の端に血の跡があるように見える。
「くち、きった?」
手を伸ばしたいが生憎わたしの両手は塞がっている。訊くことしかできない。本当はよく見てあげたいのに。治療してあげたいのにそれが今はできない。
悔しいな、と思っていると彼のいつも黒い手ではなく白い手が伸びて来た。
「傷を見よう」
悲痛に帯びたような声にわたしの傷は思っていた以上に酷いのだと理解した。ならば、いくら優秀だと言われる彼で止血は出来ても完全に治すことは出来ない。それに彼の白い手が汚れるのが嫌だった。だから、小さく首を振って「いい、の。だいじょぅっ、ぶよ」と言う。
「っ、いいから見せろ!」
けれど、わたしの返事に彼は叫びその白い手でわたしの血に濡れた真っ赤な手を剥ぎ取った。綺麗な彼の手は真っ赤に汚してしまった。
* * *
【一日目】
「よぉこそ! ナイトレイブンカレッジへ!」
鏡を通って降り立った薄暗い部屋で貰った出迎えに目を丸くさせた。それはそうだ。まさか学園長が出迎えにくると思うだろうか。
――わたしの学校だったらないわね。
深窓の姫君と呼ばれて久しい我が学園の学園長は入学式にも顔を出さない。存在しているか、と多くの生徒が怪しむが自分が在学時代に一度顔を出したことがあるので一応存在はしている。自分が生き証人だ。とはいえ、その一度見た機会も今では失われて久しい頃だ。
「ッ」
俄かに顔の古傷が痛む。雨の日や傷を負った日に痛むことはある。でも、今日はとても良い天気だった。傷を負った日も随分前に過ぎ去った。何故、痛くなるのかは言わずとも分る。
黒い鴉のような学園長の後ろに控えている存在だ。
デイヴィス。過去いいえ、今も愛している人。でも、悲しくも別れてしまった人。その人に会うのは覚悟していたのに傷はどうして痛むのだろう。
「レディ? どうかしましたかな?」
奇妙な仮面を着けた学園長の顔がひょいっと覗き込んできた。何を考えているか腹の内が読めないと噂の学園長に貼りつけた笑みを向ける。
「いいえ。それにしてもレディなんてくすぐったいわ」
「それではミスと?」
「どちらでも構いませんわ」
それから学園長は意味深長な笑みを浮かべから勢いよく後ろを向いて彼を呼んだ。
「では、クルーウェル先生。こちらの先生のご案内よろしくお願いします」
「ああ。了解した」
素っ気ない返事をした彼が靴を響かせ目の前までやって来た。久々に近くで見た姿に見惚れかけてしまう。でも、わたしは一応仕事でここに来ている。
少女の頃のようなときめきを振り払うように冷静に「久しぶり」と声をかける。
「久しぶりだな」
耳に響く声が一段と低く聞こえる。駄目だ。何かがこじ開けられそうになる。それを何とか封じ込めて微笑みを浮かべる。
社交辞令が終わると静かな空気が流れる。本当はもっと話したいことはある。けれど、それをしてはいけない。したら最後、甘い時間を呼び起こし、胸が張り裂けてしまうほど悲痛な別れを思い出してしまう。それだけは避けたい。
誰か空気を壊してほしいと思う時だった。
「挨拶も済んだことですし。私、少々用がありますのでここで失礼させていただきます!」
空気を読んでくれたのか、はたまた本当に忙しかったのか学園長が高らかに叫んで消えた。それに先ほどの張り詰めていたような空気が消え去り片の力が抜けた。
「では、行くぞ。今、生徒たちが集会で集まっている。そこで挨拶をしてもらう」
「え。さっき学園長どこか行ってしまったけど」
「問題ない」
彼はそのまま背中を向けて歩き出した。わたしはすぐに彼の後を着いていく。
部屋を出ても廊下は薄暗く懐かしい過去の記憶が呼び覚まされそうになる。だが、それを振り払う。
――思い出しては駄目よ。
懐かしい思い出に重りを置いて蓋をしっかりと閉じる。それに専念していると突如前方から声をかけられる。
「貴様の本来の目的はなんだ。ただの見学ではないだろう」
顔を上げれば前を歩いていた彼は足を止めて振り返ってこちらを見ていた。探るような眼差しに少しだけ寂しくなる。今日はどうしても感情に引っ張られてしまう。つい、前まで前線で活動する元魔法執行官が情けない。
けど、情けなさに浸っている場合ではない。なんとかプライドを奮い立たせ顎を引き意味ありげな笑みを彼に向ける。
「目的なんて分かっているでしょう。聞くのは野暮でなくって?」
目を眇める彼は逡巡することなく「オーバーブロットの件か?」と間髪入れず訊ねてきた。わたしは隠すことなく「イエス」と頷く。
今回のわたしの仕事はナイトレイブンカレッジへの監察だ。魔法執行官として活動していた頃はこうした仕事もしていたがまさか教員になってもするとは。そして、学校からは隠すことはないと言われているので包み隠さず答えた。ただ、わたしとしてはこの監査はまた別の意味があると踏んでいるがそこまで答えることはないだろう。
わたしの返事にデイヴィスは頭を抱える仕草をする。
「どこまで出回っている?」
「分からないわ。ただ、執行官を辞めたわたしのところに監査に入れと要請が来ただけよ」
「そうか……」
思案気に顎に手を当てて考える彼にわたしは開いていた距離を詰めた。不思議だ。先ほどまで彼に近づけば無垢な少女だった頃に戻ってしまうと思った。でも、今は何故か彼に近づける気がした。
カツンとヒールを鳴らすと彼が気付いて身を引く動きをする。けど、逃がさないと彼の赤いネクタイを掴んでぐっと引っ張る。
高いヒールのお蔭で顔の距離が近い。何時ぶりだろう。彼の顔を近くで見たのは。相変わらず綺麗に整った顔をしている。でも、灰色がかった瞳が僅かに震えたのが見えた。彼の瞳にはわたしの顔にある大きな傷が目に入ったのだろう。
――貴方もまだ立ち止まっているの?
そうであればごめんなさい、と謝罪が浮かぶ。同時に彼の中に存在していると歓喜する醜い自分がいた。まだお互い過去にいるのかしら。それはとても悲しいことだ。
彼の瞳の動揺を忘れるように掴んだネクタイを離して唇の端を上げる。
「そんな顔しないでクルーウェル先生。貴方の可愛い仔犬ちゃんたちをいじめたりしないわ」
いつの間にか開いた思い出の蓋を占めて貴方の知らない笑みを浮かべて言った。
* * *
挨拶は滞りなく終わった。顔の傷を囁かれたがもう慣れたものだ。もう何年もこうした視線にさらされ続ければ気にもしなくなる。
集会が終わると早速授業が始まる。その中、わたしは一年生の錬金術の見学に来ていた。最初にデイヴィスの受け持つ授業とは何という数奇か。だが、今はそれよりも、と薄い印象が余計に目立つ子がいた。
――あの子が報告であった世界から来た生徒ね。
男の子にしては小さく、女の子にしては高いく、顔立ちは中性的にもとれる。大衆にいればすぐ見失ってしまうような雰囲気を持つ子。そんな特徴もない子はここではない世界から来たという。そして、傍にいるモンスターと共に魔法もないのにこの学園に在籍している。帰る術を探すために保護目的もあるだろう。それにしても魔力がないのにやって行けるのか。
絶賛、異世界の子は猫に似たモンスターとメモ睨みながら慎重に鍋をかき混ぜている。危なっかしい手つきにソワソワしながら見ていると――。
不意に視線を上げた異世界の子と目が合ってしまった。瞬間、照れくさそうに頭を下げた。可愛らしい反応にホワホワしてしまう。こういうのが癒しというものか。執行官のときには縁遠いものだった。ならば、その癒しの恩返しをしなければいけない。
手を挙げてデイヴィスに声をかける。
「クルーウェル先生。わたしも生徒のお手伝いをしてもよろしくって?」
デイヴィスは暫く逡巡して見せる。それから「構わない」と一言零して再び生徒の間を歩き出し。わたしはその許可のもと苦戦気味の異世界の子へと向かった。
煩わしい視線を抜け出して一人と一匹の前に立つ。
「さて、そこの可愛い生徒さん、何か分からないことがあって?」
「っ!」
華奢な肩が飛び跳ねて異世界の子は恐る恐ると顔をあげた。やはり可愛らしい顔立ちに少女めいたものさえ垣間見える。本当に男子生徒なのかと見ているとにゅっとモンスターが飛び出して来た。
「そうなんだゾ! 教科書通りにやっているのに全然完成しないんだゾ!」
ふなふな、ふんふん、と怒るモンスターをよしよしと頭を撫でて宥める異世界の子。
「グリムの言う通り、実は先生が教えた通りいかなくって」
むぅっと唇を尖らせて教科書を覗き込む一人と一歩貴の姿がとても可愛いらしい。その愛らしさに頬を緩めながら教科書とメモを覗き込む。
ざっと目を通して次に鍋の色を見る。教科書とメモには真珠のように白く輝く物質が錬成されると書かれている。もちろん、板書もそうだ。でも、鍋の中身は真珠のような白い物質にはほど遠く――。
「ドブ色ね」
二重奏の呻き声と共に二人は項垂れる。その反応に笑いながら教科書とメモ取り出す。綺麗なメモは板書ままでデイヴィスが言った捕捉がごっそりと抜け落ちている。それならば教科書通りの鉱石が出来ないだろう。でも、わたしがそれを全て言ってしまうのは教員としてどうだろうか。
「うーん。そうね。本来であれば白く輝き出すのよね」
揃って首を縦に動かす二人に。「じゃあ」と何とか頑張って二人の力で作り上げてもらおうとした。
暫く何とか一年生で且つ魔法に疎い子、学力に疎いモンスターに分かりやすく説明し続けた。結果、ドブ色は最終段階の真珠色のように輝き出した。
「あ、せ、先生! これ、これって!」
「ええ。あとは慎重にゆっくりよ」
「うぅ! わかったんだゾ!」
我慢強くないモンスターことグリムも呻きながらかき混ぜる。その横で補助しながら鉱石を入れる異世界の子こと監督生さん。
「あと少しよ」
最早、高校生と言うよりも小学生に教える心意気になったときだった。
「なぁなぁ、なんで、お前の顔におっきな傷があるんだ?」
ここに来て飽きてきたのかグリムが話しかけて来た。しかも内容は結構遠慮がない。いや、それよりも鍋かき混ぜなさいよとは思う。
「ちょ、グリム、今それどころじゃないから! というか、それ、それ今聞く?」
監督生さんは分かりやすく動揺して顔を真っ青にさせる。気を利かせているけど何だか分かりやすい子。
よくよく周りの気配を探れば教室の空気も落ち着きがなくなる。周りが聞き耳を立てているのが分かっていて話すものか。いや、そもそもこの愛おしい傷を簡単に教えるつもりはない。
「そうねぇ。教えてあげるにはちょっとねぇ」
「ふなぁ。ドラゴン退治とかしたとかじゃないのか?」
「ちょ、グリム! やめろって!」
異世界の子の顔がもう真っ青通り越えて真っ白だ。可哀想なこと。
哀れな異世界の子を救うためにわたしはグリムに意味深長な笑みを向ける。
「違うわよ。でもねぇ、もしわたしの顔の傷を知りたいならば……熱い一夜を過ごしてからよ」
途端、辺りから一斉に爆発音が鳴り響く。至る所で生徒が混ぜていた鍋が爆発したらしい。この調合でどうやって爆発するのだろうか甚だ不思議だ。
「ふふ。可愛らしいこと」
わたしは敢えて周りの生徒に手出しすることなく目を細めて見る。ギャアギャア騒ぐ生徒の間を忙しそうにデイヴィスが「落ち着け! 駄犬共!」と鋭く叫んでいる。それに申し訳ないがわたしはやはり手助けするつもりはない。
くすくす笑いながらわたしは二人に「続けましょ」と先を促す。
「あ、は、はぃ」
真っ白だった顔はほんのり赤みが差している。そして、気恥ずかしそうに鍋をゆっくりとかき混ぜる可愛い異世界の子。その横では部屋の喧騒の元となったグリムが「どういう意味なんだゾ」と首を傾げる。
わたしは大惨事になりかけている教室を尻目に二人の課題を手伝った。
* * *
忙しない一日も終わり、今はデイヴィスに連れられて廊下を歩いていた。行きと違い並んで歩くその横顔はどこか疲れている。それでも姿勢がいいのは彼の美意識がだらしない姿勢を許さないからだろう。変わらず美しい心構えだ。
その彼を見上げていると視線に気づいたのか眉間に皺が寄る。
「全く貴様は余計な仕事を増やしてくれたな」
「ふふ。ごめんなさいね」
デイヴィスは「反省しているように見えないな」とまた前を見据えた。
行きと違い彼と軽口を叩くように話せるのはいい。緊張もなく、思い出の蓋も開くことなく健やかな一日が終わりそうだ。だが、そういうときに限って崩れかける。
「……その傷は誰かに話したことがあるのか」
思わず見上げると彼もこちらを見下ろしていた。だが、すぐに揺れる灰色の瞳が逸れる。その瞳を見た瞬間わたしの中にある蓋が開きかける。
「今の言葉は忘れろ」
重苦しく酷く痛ましい声を無視することが出来るだろうか。できない、という感情が溢れてしまった。
「……ないわよ」
零れたわたしの言葉は彼の耳に届いただろうか。でも、返事がないから聞こえなかったのだろう。いや、聞こえないふりをしたのだろうか。なら、それでいい。
――わたしったら本当に駄目ね。
不意に溢れる感情の蓋を閉じる術を知っているのにできない。一人、自嘲の笑みを浮かべているといつの間にか外部と繋がる鏡の間に辿り着いていた。
部屋の中に入るとデイヴィスの足が止まる。わたしの足だけ動いて彼より前に出て振り返る。
「見送りありがとう」
自嘲の笑みを隠してなんてことのない顔をする。同じように彼の顔に感情はない。瞳の揺れなんてもう見られない。これでいい。
「明日は早速オーバーブロットした生徒に話しを聞くのか?」
「いいえ。もう少し、そうね。二、三日様子を見させてもらえない?」
彼は先ほどの揺れた弱い瞳の欠片も見せずに鋭くこちらを射抜く。その瞳は生徒を守る教師の力強さが窺える。
その強さにわたしは学生時代と全く違う彼の姿を見る。それから暫しの時間の経過を感じて何故だか安堵する。
教師らしいデイヴィスを見て自然と笑みが浮かぶ。
「貴方、変わったわね……じゃ、集めてほしいときは言うわ」
じゃあね、と背を向けて鏡に向かって歩き出す。そして、鏡に入る前にもう一度振り返る。
「また、明日ね」
何故か、そう言いたかった。デイヴィスはなんて返事をしてくれるだろうか。彼は目を僅かに見開いてなんてことのない顔をして――。
「また、明日な」
その返事に不思議と嬉しくて泣きたくなった。でも、そんな無様な姿を晒したくない。何とかそれを堪えて手を振って鏡に飛び込むように入る。
鏡の出口である勤め先の鏡の間に出てわたしは耐えきれなく涙が零れた。
学生の頃、幼い恋をしていた頃、いつも交わしていた別れの挨拶。また彼と交わせるとは思っていなかった。そして、年甲斐もなく心臓が恋に一喜一憂していた少女のように忙しない。
「あ、ああ、やっぱり愛しているわ……デイヴィス」
いつなんどきだって忘れられない恋しい人。わたしは束の間学生時代の恋する少女に戻り涙を零した。
* * *
【二日目】
鏡に映るのは腫れぼったい目をした酷い顔をした自分。
「さいあく……」
あの後、泣きに泣き腫らして適当に化粧を落として眠ってしまったのがいけない。普段ならどんなに酷い様子で帰ってもそんなことしたことないのに。
とりあえず冷やそう。だが、これではいつものメイクが出来ない。
「はぁ。この顔で行くのか」
柔らかな顔立ちの自分の顔は決して嫌いではない。だが、執行官の仕事では苦労はした。この柔らかな顔立ちは相対する皆が悉く舐めるのだ。お蔭で油断した犯人もいたが舐められるのは腹立たしい。
それから徐々に勝気に見えるようにメイクしていたが今日は出来ない。
「はぁ。まぁ、もう学校の先生だし……いいか」
ならば、服装も改めなければいけない。今日は朝からやることが多すぎる。お弁当は作れないかもしれない、と肩を落として準備を始めた。
出迎えたデイヴィスが目を丸くさせて驚いていた。そして、視線を彷徨わしてからいつもの皮肉に満ちた笑みで「まぁまぁだな」と言い放った。
流石に愛している人でもそれはない。わたしはこめかみに青筋を立てて彼の綺麗な革靴を踏んづけてやった。デイヴィスの青くなった顔に気分は少しだけ気分が良くなった。
朝から年甲斐もないことをしつつ今は二年生の飛行術に参加している。流石に二年生も多くが乗りこなせている中――若干名乗りこなせていない生徒がいる。
視線の先にいるのは前傾姿勢すぎやしないかというほど生徒。その傍には緊張しているのか姿勢が強張っている背の高い生徒もいる。その向かいには急上昇と急降下を繰り返すもう一人背の高い生徒とよく似た顔立ちの背の高い生徒がいる。
あの三人は報告を貰った生徒にいた。そして、あの前傾姿勢を取っている生徒がオーバーブロットした子だ。
――アズール・アーシェングロットくんね。二年生で寮長をしているし優秀な生徒。ユニーク魔法もかなり貴重な部類のもの……。
アーシェングロットくんは珊瑚の海出身の人魚だという。まだ陸に上がって二年目だと思うとなるほど頷ける。なにせ、自分の学校でも珊瑚の海出身の生徒で飛行術や体力育成が苦手な子がいた。あの生徒も同じようだ。
――それにしてもハラハラしてくるわね。
あんまりにも不安定な飛び方にもっとこう、こうよ、とコツを心の中で呟く。すると、それを察知されたのか。
「先生! すまんがアーシェングロットを見てくれんか! そこの前傾姿勢の生徒だ!」
バルガスが他の生徒を見ながらアーシェングロットくんを指した。それにアーシェングロットくんが分かりやすく顔を歪めるがすぐに澄ました顔に戻る。
年頃らしい反応に同情しつつ、わたしは言われた通りにアーシェングロットくんに近づく。来るなというオーラを放つアーシェングロットくんだが諦めてほしい。
彼の前になってにっこりと有無を言わせない笑みを浮かべる。
「貴方がアーシェングロットくんよね。バルガス先生からの御指名だから諦めてね」
報告によると彼は十七歳のわりには一筋縄ではいかない性格らしい。警戒されているなと思っているが彼は諦めたとはまた違う雰囲気で話し出した。
「……先生はブルームノヴァからいらしたんですよね」
「ええ。まだまだ新米教師よ」
ふぅん、といった様子の少年の面影の強い青年、そして同じようにこちらを窺う背の高い双子。明らかにこちらの出方を窺っている。
何か聞き出したいのだろうか。ならば、ここでは場所が悪い。
「ねぇ。アーシェングロットくん。わたしと空のデートに洒落こみましょう」
「は?」
ぽかんと口を開ける少年を無視してわたしは彼が乗っている箒の後ろにまたがる。
「ちょ、何しているんですか!」
「いいから。ほら、そんな前傾姿勢だから飛ばないのよ」
よいしょっとアーシェングロットくんの肩を掴んで姿勢を正してやる。バキって音が鳴った気がするが今は無視してしまおう。ついでに彼の何とも言えない呻き声も。
「ほらほら。頑張って箒を握って。いい? わたしの魔力で飛ばすからね? でも、感覚はわかるようにしておくからしっかり勉強なさいよ」
「ちょ、え、ま」
「はーい! 行きまーす!」
「ヒッ!」
彼の返事を待たないでわたしは地面を蹴って空高く飛んだ。先ほどの飛んでいるとは言い難い飛行術とは全然違う。
「ほら。ちゃんと飛べたでしょ?」
「と、とべ、飛べましたけど! 何でこんな強引な!」
「そうしなきゃ話せないのよ。それに貴方も何か話したいんでしょ」
肩越しに振り返った涙目の彼に意味深長に微笑む。だが、敏い彼は目を瞠って細めて唇の端をつり上げた。それは少年らしくないが話が進めやすい。
「では、まず先生からどうぞ」
「今回のわたしの仕事はオーバーブロットした生徒への聴取。ま、個人的には適当に話すつもりだったんだけど」
こんな感じに、とあっけからんと言う。アーシェングロットくんは「……何ですか、それ」と肩透かしを食らったような顔をした。それに苦笑を浮かべる。
「思わせぶりしてごめんなさいね。さて、そんなことよりも貴方の方が何かあるのでしょう?」
目を僅かに見開いた彼は危なっかしい手つきで眼鏡をかけ直す。
「ええ。では、まず対価は何ですか?」
その言葉に目を瞬かせるが報告資料を思い出す。こういうところはまだ直らないようだ。いや、長年の性質とはそうそう簡単に直らない。
「そうね。ラウンジの一番高い料理でいいわよ」
「……それでいいんですか?」
怪訝に眉を上げる彼に頷く。
「いいわよ。で、訊きたいことって何ですか?」
先生らしく聞いて見たら彼の眉間に皺が寄った。険しい顔に何かいけないことを踏んだかと思ったが――。
「彼女の〝髪〟を取り返して欲しいんです」
「彼女? 髪?」
意味の分からない単語に今度はこちらが眉を顰める。アーシェングロットくんも自分の言葉がすぐに伝わるものだとは思っていなかったようで説明が口から零れた。
「僕のオーバーブロットの代償として僕の幼馴染の髪の毛が取引されたんです」
それって、とすぐに卒業生リストを捲る。そして、アーシェングロットくんの関係者でうちの学校の卒業生の目ぼしがつく。
――確か、真珠のように輝く歌姫って言われていたわね。
真珠のように輝くほど美しい歌姫とも呼ばれていた。確か、母方がセイレーンの末裔だと言う話を聞いたことがある。なるほど、それで髪の毛が取引にされたのか。
「いや、でも、彼女はセイレーンの力はないって公言していたわよね」
「はい。だから、わざわざ彼女の髪を代償として求めるのは僕も不思議に思っていたのですが……」
ぶわっと怒りの具現化したようなものが見えた。目の錯覚だろうが。彼は余程怒りを抱いていることは分かった。
「あー、アーシェングロットくん?」
「彼女の髪がどうやらよく分らん変態富豪爺に渡ったらしんですよ!」
「ちょ、ちょっと」
怒りの籠った言葉に箒が揺れる。何とか制御して彼の話しに耳を傾ける。
「学園長だか、どこの組織か分からないけれど、せめて実験に使ってくれればいいものを、彼女のファンを豪語する変態クソ爺の手に渡っているなんて悪寒を通り越して怒りしかわない! 分かりますか!」
「あ、あ、ええ」
引き攣りながら何とか頷く。それでもアーシェングロットくんの怒りは持続することはなかった。我に返った彼は咳払いをしてにっこりと愛想笑いを浮かべた。
「で、彼女の髪を回収してほしいんです。流石に僕でも手が出せないクソ爺なので」
「は、はぁ。まぁ、何とかし――」
「お願いしますよ」
「あ、うん、はい」
食い気味の彼に無理とは言えない。仕方ない。面倒くさい親戚筋の力を借りるとしよう。
こうして偶然にもオーバーブロットした生徒の聴取を一人終えた。ちなみに、気の抜けた彼はこの後、箒から落ちかけた。
* * *
【三日目】
久々に会えるのが嬉しくて駆け足になったのを覚えている。いつもの待ち合わせ場所にある大木に背中を預けて貴方はいた。それでもその横顔を見てわたしは弾む気持ちが萎んでいった。
いつも綺麗な横顔は辛さを耐えるように怖かった。それでも美しさは変わらないけれどわたしはその横顔が見たかったわけではない。
――何で、なんて、辛い顔をしているの。
抱いた感情を口に出さず駆け足になっていた速度を緩めて歩き出した。でも、彼の傍に行きたくないと初めて思った。
彼に会ったらなんて言えばいいのか。いつもならすぐに話したい内容が浮かんだのにその時のわたしは何も答えが見つからず彼の傍に立った。
僅かな希望を抱えていつものように軽口を叩き合うように挨拶をした。いつもみたいに冗談を言って笑い合いたくて話し出すとしだけれど――できなかった。
――そんな痛そうな顔をさせたくないのよ。
わたしを見る彼の痛々しい顔。辛そうな貴方なんて見たくない。それでも彼を護れたことわたしの誇りだった。でも、それはわたしのエゴだった。
苦しめるつもりなどなかったのに。でも、それで貴方が苦しむならわたしは傍にいたくない。だから――。
「別れましょう。デイヴィス」
心が痛い、痛い。いつもなら貴方が治してくれる痛みはきっと、もう治らない。
久々に見た辛い記憶をもとにした夢。あまりに辛くて目尻から涙が滲み出た。いい大人が恥ずかしい。
一粒零れた涙を拭いながら起き上がる。時計を見ればあと五分もすれば起床時間だ。こういうときは少し惜しい気持ちが湧く。
「二度寝も出来ないし……はぁ。起きよう」
サクッと準備をして今日も頑張ろうと気合を入れる。
授業を見学しながら一人の生徒を植物園で捕まえる。
「貴方、今授業中じゃないのかしらキングスカラーくん?」
整った綺麗な寝顔から一転彼は瞼を上げて不機嫌な顔をする。
レオナ・キングスカラー。夕焼けの草原の第二王子でオーバーブロットしたうちの生徒の一人。しかも、留年して本来は卒業している年のはずだ。
わたしとも顔なじみの男の妹が彼の許嫁だ。そして、わたしの後輩でもある。真面目で成績も優秀な女性を持たせるなんて罪な男だ。
「また、卒業できなくなるわよ」
「チッ。何の用だ」
グルっと威嚇するように喉を鳴らしながら起き上がる。それで怖気づくほど精神は細くない。図太くいなければ執行官なんてやっていられない。
「警戒しないでよ」
「ハッ。他所から来た元執行官のセンセイがよく言う」
そのことは学園の中でもクロウリー学園長と、デイヴィスしか知らないはずだ。いや、でもここは魔法士養成学校の中でも屈指の名門だ。卒業生にもたくさんの魔法執行官がいるし、それを兄や姉で魔法執行官がいてもおかしくない。でも、部署はたくさんあるしおそんなことはあるのか。
「アンタ優秀な魔法執行官だったらしいな。検索すれば名前出て来るぜ」
「あぁ。なるほど」
自分の名声などとんと気にしたことがなかった。大取り物の記事に名前が出ていたのかもしれない。ありえなくはない。
「なら単刀直入に言うわ。わたしの今回の目的はオーバーブロットした生徒の聴取よ」
「魔法庁が介入しようとしてんのか?」
眉間の皺を深くさせながら訊ねるキングスカラーくんに首を振る。
「そこまでは知らないわ。ただ、辞めたはずのわたしに監査指令が出ただけ」
「ふぅん。そうかよ。で、何が聞きてぇんだ」
あっさりと聞く体勢になった彼に肩透かしを食らいながら首をまた横に振る。
「別にないわ。貴方も授業をサボりながら健やかに過ごしている様子だし。けど、本当に授業でないと卒業できないし――貴方の許嫁さんも愛想つかすかもしれないわよ」
綺麗な眉毛をピクと跳ねさせると「うるせぇ」と呻く様な声で言った。どうやら少し効いたらしい。
「話しは終わりか」
「ええ。じゃ、いいこと。次の授業は出なさいよ」
ひらひら手を振って植物園を後にした。その背後に動く気配がしたが振り返らなかった。
腹の探り合いをするかと思った獅子があっさりと終わった。ならばさくっと次に行こう。最後、始めにオーバーブロットしった薔薇のような髪をした生徒。でも、すぐに行動するにはどうにも億劫だ。
「とりあえずお昼ね」
朝、用意したサンドウィッチを持って場所探しに歩き回っていると――。
「先生!」
周りを見ても教員はいない。となると自分が呼ばれたのだろう。振り返れば駆け寄って来る監督生さんとグリムがいた。
「あら。監督生さんにグリムじゃない」
最初の授業以来懐かれた二人に会うのは久々な気がした。息を整えた監督生さんは可愛らしい笑みを浮かべて「先生もお昼ですか?」と訊ねる。
「ええ。貴方も?」
「はい! 今日は天気がいいので外でと思って」
「わたしも。でも、いつもの子たちは?」
「あいつらは居残りなんだゾ!」
オレ様はあいつらと違ってないんだけどな、と胸を張るグリム。それはきっと貴方が乗っている肩の子のお蔭だろう。
「グリム。貴方はもう少しこの子に感謝なさい」
異世界で一人頑張って、猫のお世話までして大変だ。監督生さんに感謝しなさいと言えば監督生は恥ずかしそうにはにかむんだ。その後に監督生は「あの、先生、良かったら一緒に食べませんか?」と言う。
窺うように見上げている瞳は緊張に満ち溢れている。その緊張をほぐしてあげたくてつとめて柔らかく微笑む。
「ええ。一緒に食べましょう」
瞬間に輝かんばかりの笑顔になるこの子に誰が拒めるものか。
そうして、その日はつつがなく終わりを迎えた。
2へ続く