叶わない愛のはずだった
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私の愛、我が君へ
私が恋をしたのはこの国で貴い身分にいるお方。雲の上の人――と言われれば一族の序列を考えればそうではない。けれど、私から見ればとても遠くにいる人。隣にいても隣にいないようなお方。
そのお方と私は許嫁の関係にある。年齢や身分を考えれば私が選ばれることに間違いはない。でも、他にも年頃の娘はいたはずだし、年下の娘だって問題はない。家柄なのだろうか。家柄ひとつであのお方は私を許嫁にしなければいけなかったと考えると申し訳なさが込み上げる。けど、社交界に出れば好きな娘の一人や二人できると思っていた。私も好きな殿方が出来ると思っていた。けれど、やっぱり私の好きな殿方はあのお方から変わりそうもない。
私は許嫁であられるお方を好いている。幼い頃から初恋破れてもなおずっと好き。一途になんで可愛いもんじゃない。ただ初恋を拗らせているだけ。もう二十歳を迎えたというのに幼い頃に抱いた恋心を捨てられずにいる愚かな女。
こんな私でも何度か殿方に想いを告げられたこともある。けれど心動くことはなかった。とても素敵な人だっていたのに私の中であの方が不動なのだ。
「でも、きっとこれがいい機会」
手にした紙を魔法で燃やしていく。煌めく炎で燃えていく紙には、ナイトレイブンカレッジで起きている事件のことについて書かれている。そして、その起きている事の中心にあの方がいるらしい。いや、あのお方こそが黒幕らしい。
紙の最後に〝いかがいたしましょう〟と言葉で締めくくられていた。迷いのない力強い字に私は困ったように笑った。もう決まっているでしょうに、と。
燃えきって手紙を見送って、真っ白な便箋を取り出して一言書く。
〝レオナ様の言うように動きなさい〟
書き終わり息を吹きかけて折りたたみ真っ白な封筒に仕舞う。それから侍女を呼んですぐに手紙を出すように命じる。
手紙を持って去っていく侍女を見送って席を立つ。
夕焼けの草原は今日も晴天だった。雨季がない限り雨も降らない。乾燥した土地。とはいえ、近年は開発も進み緑豊かな場所も増えてきた。豊かな場所になりつつある国ではあるけれどスラム街は一向に減らない。王都では見かけなくなったが少し外れればスラムや貧富の差が垣間見える村も出てくる。
まだまだ発展途上の国なのだけれど、いかんせんまだ頭の固い上層部たちが多い。国王様や側近が頭を悩ませる種だ。排除しようにも無駄に名家ばかりで中々うまくいかないらしい。
国王様が建国に功績のあった一族を見捨てることができようか。それが出来るのはやはり――と思って私は浮かんだあのお方の顔を振り払う。
「いけない。あの方を頼りにしてはいけない」
今回の出来事が止まってしまっているあの方の足を進めるだろう。そんな確信がある。ならば、この国にあの方を縛り付けてはいけない。
「もっと、もっと自由になるべきなのよ」
あのお方はもう何にも縛られることなく飛び立つときが来たのだ。なら、足枷は少なければ少ない方がいい。
「私が足枷になっているかわからないけれど」
意外にあの方はこの国でのことを気にするお方だから。可能性となるすべての芽を摘み取っておくべきだ。
「まずはレオナ様にお話を通さなければ」
物事には順序がある。だから当事者になりうるレオナ様に話を聞いてもらわなければいけない。
「会いに行くのは……寮対抗マジカルシフト大会ならレオナ様も出場するし、観戦の名目でお願いすれば外出ができそうね」
今の私はレオナ様の許嫁として宮殿に住んでいる。毎日毎日、王弟の横に並ぶに相応しい妃になるべく教育カリキュラムをこなしている。そして、それを元に私の一日のスケジュールが決まる。他にも、警護の都合もあるから外出許可はとても大切だ。
机の傍に行きスマホに手を伸ばす。ナイトレイブンカレッジのホームページを開いて、マジフト大会の特設頁を開き日時を確認する。
「大会は一週間後……何とか調節できるかしら」
まずは侍女長にかけあってみよう。それから後宮を統べる王妃様に許可を貰い、国王陛下に許可を貰う。途方もなく道のりが長い。
「はぁ。前は気軽に行けたのに」
王族になったわけでもないのに気が遠くなりそうだ。
もう一度深く息をついてスマホを操作する。アルバムの中にあるひっそりとある一枚の写真。一回だけ観戦したときにこっそりと撮ったレオナ様の写真。
兄に頭を撫でられて年相応に顔を崩し笑っているその姿。その姿に胸が締め付けられる。
「早く貴方様が自由になれれば……」
そう願わずにはいられない。
「さて。侍女長を呼ばないと」
大会はもう来週なのだから。私はスマホを閉じて「誰かいない?」と声を上げた。
* * *
去っていく背中を見つめながら私は深く息をついて両手で目を覆う。
まさか、レオナ様がオーバーブロットするまで追いつめられているとは想像していなかった。いや、あのお方を見ていればわかることだろう。
それでも気づけなかった。私は気づかなかった。気づいていたつもりであったけれど気づかなかった。とはいえ、深く暗い想いに気づいたからといって救えるなんて不相応なことを考えてもいない。あのお方の見えない傷を癒せるとも思っていない。私はあのお方にとって救いや癒しを与えられる立場の人ではないのだから。
出来るのはきっと慈愛に満ちた優しいお方なのだ。私ではない。そう王妃様のような優しいお方。
「……ジェマ様。ご気分でも?」
離れたところにいたはずの護衛が遠慮がちに声をかけてきた。
両手から顔をあげて首を緩く左右に動かす。「いいえ、大丈夫よ」と返事をする。何か言いたげな護衛だったけれど口を閉ざし「チェカ様がお待ちです」とだけ告げる。
「わかったわ。行きましょう」
頷く護衛は私の傍に立ち辺りを警戒し出す。きっと、この学園の妙な騒めきに警戒しているのだろう。
ようやく学園の落ち着きのなさがわかった。てっきり、大会があるからだと思ったけれどレオナ様が率いるサバナクロー寮の狡計があったからだ。さらに、それが失敗に終わったと直後にレオナ様のオーバーブロットが重なってどこか落ち着きないのだ。
観客たちは何も知らないようだから学園長が上手く隠したのだろう。相変わらず食えない人だ。
徐々に冷静になっていく中で来賓の席へと戻る。そこで、つまらなそうに尻尾をプラプラさせているチェカ様がいた。どうやら相当待たせてしまったようだ。
申し訳なさに駆られながらすぐに傍に行き声をかける。
「チェカ様。お待たせしました」
「ジェマ!」
ピンと真っ直ぐに伸びた尻尾がふわふわと動き出す。素直な尾に頬が緩む。
「お隣失礼いたします」
「うん! どーぞ!」
「ありがとうございます」
チェカ様の隣に座るとギュッと温かな腕が絡まって来た。腕に感じる温かい体温といじらしい行動に愛おしさが込み上げる。
「もうすぐ、なんか、えーっと、なんか始まるって!」
なんだっけ、と身体をぴったりとくっつけたままチェカ様が背後にいる警護に訊ねる。
警護の者は生真面目な顔で「エキシビションです」と答えた。そして、鋭い眼差しが私に移動して「どうやらレオナ様が出場するようです」と続ける。
え、という私の声はチェカ様の「おじたん!」という愛称で掻き消えた。
声を上げたチェカ様は顔をぐりんと動かして私の顔を覗き込んだ。琥珀のような大きな瞳が輝いている。あまりにも穢れを知らない大きな瞳が美しく輝いている。
「ジェマ! おじたんが出るんだって! 楽しみだねぇ~」
「……ええ。そうですね」
頷くとチェカ様は満足げに尾を振る。その無垢な反応に私は胸が締め付けられる。
未来の国王。いつか、その無垢すら消えるだろう。けれど、今だけはその美しい瞳であの人を焼き付けてほしい。そして、将来その人のことを愛おしげに語ってほしい。
「あっ! おじたんだぁ!」
チェカ様の声と共にあちらこちらから歓声が上がる。
いつもならこの声に耳が痛くなるけれど今日はどうしてか痛みなど感じなかった。きっと、やるべきことがあるからだろう。
私はエキシビションに登場したレオナ様を見る。遠目からでもわかるくらいには草臥れているご様子だった。けれど、その表情はどこか楽しそうだった。
オーバーブロットしたのは数時間前だと報告で聞いた。大量の魔力と体力を削ったというのに彼は伸び伸びとプレイしている。そのプレイの様子は何時ぞやの姿を思わせる。
「わぁ! おじたん、すごぉい! あ! すごい! ね、ね! ジェマ、ジェマ見た!」
興奮した高い声と引っ張る強い力に我に戻る。そして、グラウンドから目を逸らすことなく「はい。すごかったですね」と中身のない返事を返す。
「ね! すごい! すごい! おじたん、すごい! カッコイイ!」
素直に称賛の言葉を出すチェカ様が羨ましい。私はそういう称賛の言葉を出すことさえ憚れるというのに。五歳の仔ライオンに少しだけ嫉妬しまう。情けない。
無邪気な歓声をあげられない私は大人しくレオナ様を見つめる。
軽々とした身のこなし。指示を飛ばしている姿も凛々しく眩しい。
あのお方はオーバーブロットして変わられたのだろうか。何か変わったのだろうか。それとも結局変わらない境遇を諦めたのだろうか。どういう思いをいまして輝いているのか。
「けど、貴方様が清濁すべてを飲み込めてしまったならそれでいいのでしょう」
なら、やはり、今回はよい機会だった。きっと巡り合わせに違いない。
「ジェマ、大会が終わったらおじたんに会いに行ってもいいかな?」
いいよね、というおねだりに私は微笑んで「はい、行きましょう」と答えた。
* * *
「おじたーん!」
護衛の人々を巻くように飛んでいくチェカ様を追いかける。その勢いで私も危うく保健室に飛び込みそうになった。寸でのところで踏みとどまり壁に手をつき乱れた息を整える。
「はぁ、はっ、はぁー、ッ」
久々の駆け足に息が切れる。なんて無様な。以前だったらこれくらい走っても息切れなど起さなかった。座学ばかりしていたせいで体力が下ったのだろうか。宮殿に戻ったら鍛錬の時間を貰おう。
そんなことを考えながら廊下から保健室を覗き込む。
保健室は意外に賑やかだった。その中で見知った顔は一人。丸くて大きな耳を持ったハイエナの獣人属で名前は確かラギー・ブッチと言ったはずだ。学園でレオナ様の世話を仰せつかっていると、報告ついでに写真も見せてもらったことがある。
他は見たことが少年たちばかりだ。ラギー・ブッチのことを先輩と呼んでいるところから一年生だろう。それにしても狸のような、猫のような生き物は何だろうか。その傍にいる薄らぼんやりしている生徒の使い魔だろうか。
じぃっとレオナ様の周りを観察していると――。
「ジェマ おいでよ!」
念願のレオナ様に会えて興奮している高い声に呼ばれる。ビクと情けなく身体を跳ねさせる私に一斉に視線が向けられる。こうした視線は好まない。けれど呼ばれたならば姿を見せなければいけない。
視線を一斉に向けられる中、おずおずと保健室の入り口に立つ。すると、レオナ様が目を見開いて「ジェマ」と私を呼んだ。
久々に呼ばれた名前に胸がキュッとしまった。こういう瞬間、好きで、好きでとても愛おしくてたまらない、と心が叫ぶ。
けど、それに浸っている時間はなかった。ラギー・ブッチが「あ、レオナさんの許嫁様ッスよね」と言った瞬間、保健室にいる少年たちが「許嫁ぇっっ!」と叫んだからだ。
許嫁という存在が新鮮なのか。はたまた時代的に珍しく見えるのか少年たちは目を白黒させている。そうした視線に居心地を悪くしていると。
「ジェマ!」
「はい」
呼ばれて顔を下に向ければいつの間にかチェカ様がいらっしゃっていた。小さな手が私の手を握りくいと引く。
「ジェマはさ、おじたんにお話しがあるんでしょ?」
「え、」
いつそんなことを言ったのだろうか。
チェカ様はフワフワと笑って私の手を引いていく。弱いのに荒げない小さな力に引っ張られるままレオナ様の元へと連れて行かれた。
傍まで行くと小さな手が離れる。
「こういうとき僕、知ってるよ! ごゆっくり、でしょ!」
いつの間にそんなことを覚えたのか。でも、実践できて誇らしいのか得意げに胸を張るチェカ様は可愛らしい。この間会った姪っ子を思い出す。
それにしてもこのような形でレオナ様と対面するとは考えていなかった。
困惑が漏れたのかラギー・ブッチが「あー、オレら出ます?」と気を遣い始める。それにすかさず首を横に振った。
「構いません。皆さんもお身体辛いでしょう。それに私の個人的な用ですから……ですが、魔法を使わせていただきます」
失礼します、と一言添えて指を鳴らす。すると、指輪にはめ込まれた魔法石が輝き、そこから透明なシールドがベッドを四方に囲う。さらに、もう一度指を鳴らし今度はシールドに真っ白なカーテンをかける。
「これで会話も聞こえませんし、中の様子を窺うこともできません」
「へぇ。すげぇじゃあねぇか」
疲れの滲む掠れた声に私は苦笑を零す。
「これくらい誰でもできます」
大した魔法は使っていない。私は傍にある丸椅子を引き寄せてベッドの傍に座る。そして、久々に近くでレオナ様の顔を見た。
レオナ様の様子を窺う。エキシビションの後も何試合にも出場していたためかさらに草臥れ、整った顔からは疲れが滲んでいる。それもそうだ。オーバーブロットして体力を消耗したうえで沢山の試合に出たのだ。
「……お久しぶりです。お体の方は?」
一拍置いて訊ねればレオナ様は手のひらを握って開いてからプラプラ振った。
「疲れてはいるがそれ以外何ともねぇよ。つか、その感じだと俺がオーバーブロットしたのは知っているみてぇだな」
「はい。レオナ様も気づいていると思いますが一族の者が在籍していますので」
「フン……で、兄貴には報告したのかよ」
私は首を緩く振った。それにレオナ様は「そうかよ」とだけ答えた。
しんと落ちる沈黙の間。いい機会だと私は例の件を話し出そうと口を開くが、先にレオナ様が口を開けた。
「お前は俺を卑怯者と責めるか」
真っ直ぐに見据える鮮やかな緑の瞳。魔力を宿したと言われてもおかしくない。それほどまで美しい瞳で一瞬見惚れて言いかけた言葉を一度飲み込む。
「臣下の身分でどうして責められましょうか?」
「テメェは臣下じゃねぇ」
「ただの臣下の娘ですが……しかし、貴方様がお望みならばただのジェマ・レヴィとしての答えをお待ちならお答えいたします」
お許しください、と言ってから私は告げる。
「スポーツマンシップ的には完全アウトでございます」
「だろうな」
「はい。ですが、私は別にスポーツを生業にしている人間ではありません。なので、そこは気にしていません。どちらかといえば今回のレオナ様方の計画は〝狩り〟として見ていますので」
レオナ様は目を細めて「へぇ、狩りか」と呟く。頷いて話を続ける。
「狩りとしては順当だったと思います。力のある獲物をひとり、ひとり、消していく。群れ自体を弱らせることはよい案だったと思います。そして、それをカモフラージュにして一番大物を狙う。けど、ひとつ詰めが甘かったゆえに失敗したのでしょう」
「……お前ほんとうにこういうとき容赦ねぇよな」
半眼のレオナ様の丸い耳が些か元気をなくして伏せていた。私は口を噤んで「お許しを」と頭を下げる。
「まぁ、俺も草食動物がここに来て邪魔して来るなんて思わなかったからな」
「草食動物?」
「ほら、エキシビションでディスクが頭に直撃した奴がいんだろ。あいつだ」
顎をしゃくって前方を見るレオナ様。このベッドの体面を思い出す。確か薄らぼんやりとした印象の少年風のヒト属が寝ていた気がする。多くのヒト属の中に埋もれてしまいそうな印象の薄い子だ。
「あの、薄らぼんやりしていた子どもですか?」
「クッ、ハハハッ! おう! あの薄らぼんやりした草食動物になっ!」
「俺の計画は邪魔された」と口角を上げるレオナ様。信じられなくてカーテンの向こうにいる子とレオナ様を交互に見る。
「なんと、なんと、それは確かに見過ごしてしまうほどの存在ですね」
「ああ。ここまで邪魔しくるイレギュラーになるなんて誰が思うかよ」
「ま、他にもいたけどな」どこか楽しげな様子に胸を撫で下ろす。
「元気なようでよろしかったです。ですが、暫らく魔法は控えてくださいませ」
「ん。俺もさすがに少しだけ休む」
含みの言い方に半眼で睨んでも意に介すことはないだろう。このお方はそればっかり、と半ば呆れ悟っていると。
「で、あいつも言ってたが俺になんの用だ」
口角を下げたレオナ様は真面目な顔でこちらを見る。
真っ直ぐ向けられる瞳は何時ぶりだろうか。今の今まで緊張していなかったのに緊張が僅かに込み上げる。
「今、宮殿に住んでんだろ? 何かあったか?」
「兄貴にも、義姉さんにも言えないのか」レオナ様の優しい気遣いの心が見える。根っこは本当に優しい人だ。その優しさは本当に僅かな人しか知らないのだろう。その僅かに入っていることを誇りに思いながら口を開ける。
「レオナ様。わたくしたち婚約解消いたしましょう」
いつも気だるげに緩められた鮮やかな緑を宿す目が見開く。だが、すぐに柳眉をギュッと中心に寄せて鋭く私を射抜く。
「どういう了見だ」
低く唸る声に訊ねられて僅かに身がすくむ。今まで向けられたことがない鋭い視線。やはり、いきなり問題を切り出すのはいけなかっただろうか。
私は指を鳴らす。魔法石が光るとポンと音を立てて手のひらにA4サイズのファイルが落ちる。そのファイルの先頭のページを開く。
「では、ひとつずつ説明させていただきます」
「ぁ? おい、待て、待て、この馬鹿」
張り詰めた空気が霧散した。レオナ様は呆れた顔で前髪を掻き上げて手を振った。
いきなりの馬鹿扱いに眉を顰める。
「馬鹿とは酷い言いようではありませんか。わたくしは真剣に考えたのです。婚約解消した方がレオナ様には大きなメリットがある、と」
「ふぅん」
すごくどうでもいいという反応された。もう飽きている。早くはないだろうか。開始一分だってまだ経っていないのに。
「レオナ様! わたくし、本気なのですよ!」
「へぇ」
こちらに向けられていた視線が斜め上に逃げていく。駄目だ。本気に受け取ってくれない。ファイルがいけなかったのか。フリップじゃないから駄目だったのか。いや、フリップ芸とかにならないように配慮したというのに。
「……お前、好きな雄 でも出来たのかよ」
逸れていた視線が戻った。若干苛立ちを孕んだ視線に私は不思議に思いつつ首を振る。
「いいえ。好きな殿方などおりま――あっ、いえ、出来ました!」
「お前、今すっげぇ名案みたいな顔していたから嘘だってバレてっからな」
馬鹿じゃねぇのか、と言わんばかりの眼差しに私も流石に馬鹿だと思った。
「申し訳ありません。嘘です。好きな殿方が出来たわけではありません」
「フン。ならこのままでいいだろ」
「いけません!」
駄目なのだと力強く訴える。
このままではレオナ様はずっと縛られる。学園にいる間は自由でいられる。けれど、卒業すれば私との結婚がすぐに待ち受けている。下手をしたら内政に無理矢理引っ張り込まれるかもしれない。内政ではなく軍部の方にだって可能性はなくはない。さらに、国王ファレナ様に不満を持つ派閥に担がれるかもしれない。第二王子で魔力も強く賢い。目の前のお方はすぐに縛り付ける材料は沢山あるのだ。ならば、さくっと自由になるためにまずは私との婚約関係を解消しなければいけない。
私の強い訴えにレオナ様の柳眉が再び寄る。
「今になって第二王子の妃じゃ嫌だってか」
「そうではありません」
「じゃあなんだ」
はっきりと言えと暗に圧力をかけるレオナ様に逡巡する。けれど、はっきりと伝えて婚約解消の手助けをしてくれるならば。
「不敬であることを承知で申していることです」
「お話しいたします」と言う唇が戦慄く。何ということか。ここに来て初めて恐怖を感じた。話したら鋭く尖った言葉を投げかけられることなど承知なのに、嫌われる覚悟だってあるのに。
震えるなと案じで一度唇を噛んで叱責する。何とか唇が震えないように私は言葉を紡ぐ。
「私は……貴方様に自由になってほしいのです」
余計なお世話だろう。けど、貴方様には羽ばたくだけの才能があるのだ。余計な枷を取り払って広い草原に飛び出してほしい。
真っ直ぐ鮮やかな瞳を見つめて募る想いを向ける。
「貴方様は自身の努力が実らないといいます。第二王子という立場では何をしたってどうにもならない、と。けど、それは夕焼けの草原だからでございます。貴方様と国王様を延々と比べ続ける愚かな者たちばかり周りいるからでございます」
そんな環境がいいとは思えない。一歩宮殿を出れば状況は違うかもしれない。歳若い国民はレオナ様の整った顔立ちに黄色い声をあげているし、決して万民に嫌われているわけではない。けれど、だけど、やはりどうしても第二王子の悪評を広めようとしている人間がいる。そして、信じてしまう国民もいる。故に、どうにも居心地が悪いのだ。
「レオナ様……王族とはいえ今は数多の選択肢があります。だから、どうかご自分で選び取ってください。自由におなりください」
王族に産まれた人間、国を担う人間として産まれたなら国を愛すべきなのだろう。けど、私は目の前のお方どうしても幸せになってほしいから構っていられない。妃となる人間としてはあるまじき考えだというのも十分理解している。
「私は貴方様に自由になってほしい。だから、婚約解消しましょう」
それに許嫁や婚約者など時代錯誤なのだ。幼い頃から許嫁がいて成人して結婚して子どもを成す。王族として当たり前のことでも年齢を重ねてからだっていいし、結婚する相手だって自由に決めていいのだ。
「貴方様が誰に恋をしてもいいのです。一生涯共に過ごす人を貴方様は自由に決めていいのです」
すべてのしがらみから抜け出して己のプライドラインを持ってほしい。
愛おしい人だから〝幸せ〟になってほしい。酷いエゴなのもわかっている。余計なお世話だと言われてもいいから受け入れてほしい。
どうか聞き入れてくださいと縋るような眼差しを向けるが逸らされる。
「レオナ様!」
「うるせぇな」
鬱陶しげな顔に私は立ち上がって詰め寄る。
「レオナ様、真剣にお考えください。貴方様がわたしくしを気に入らないと言えばどうとでもなるのです」
「……お前、それは本気で言っているのか?」
「え」
剣呑とした緑に見られて「どういう意味ですか」と訊ねられる前に腕を引かれて、頭を掴まれた。同時に唇に渇いた柔らかいモノが押し付けられた。
瞬時にそれがなんであるか理解して掴まれていない腕でレオナ様の身体を押す。すると、あっさりと解放される。その反動で一歩下がって唇を覆い、信じられないものを見るように目の前のお方を見る。
「な、なにをするのです」
「お前が寝ぼけているから目を覚まさせてやっただけだ」
カラリと哂うレオナ様に身体の血が沸騰し体温が上昇する。
「か、からかわないでください」
「からかってねぇよ。で、お前は俺が何でもできるように見えているようだがそうじゃねぇ。なにせ第二王子だからな。それにお前が許嫁の座を辞退したところですぐに身分の高い娘を与えられるだけだ」
首を振るレオナ様にそれでも引かなかった。
「けれど、それこそ許嫁などいらないと言えばいいでしょう」
「無理だ。頭が固い年寄り連中が許さねぇ」
「国王様なら考えてくれるかもしれません」
「無理だ。あの兄貴だって年寄り連中に手古摺ってんだ」
ふと、宮殿に入る前に見た疲れた様子の来た兄上を思い出す。法案が通らないとそのとき零していた。
古い慣習とはそうたやすく打破されない。打破されていたらもっと憲法も、法律も、もっと改訂されている。そうレオナ様は言いたいのだろう。
ならばどうすればいい、と考えて私の頭の中に名案が閃く。
「では、わかりました。婚約解消は先に延ばしましょう。レオナ様が学園を卒業して発言権を得るまで虫除けになります」
結婚適齢期などこのご時世あってないようなもの。そもそも成人して二十代前半で結婚など早すぎる。
「レオナ様、とりあえずそうしましょう」
「待て、何一人で話し進めてんだ」
俺の意見も聞けと目を据わらせる。それに一人盛り上がっていたことを謝罪する。私の謝罪にレオナ様は深く息をついて前髪を掻き上げた。
様になる姿に鼓動が高鳴るが今はそれどころではない。
「俺はお前を虫除けにするつもりはねぇ。婚約解消の話も聞かなかったことにする」
これで終いだ、と強くこちらを射抜かれる。
けどこれでお終いでは困る。これでは私の拗れた恋心も終われない。そこで強烈な自己嫌悪に襲われる。
私はこの婚約解消を身勝手な理由で使おうとしている。いけない。それは違う。自分の恋心を終わらせるのは二の次だ。それを目的にしてはいけない。
目的を違えてはいけない、とギュギュウ心臓を締めつける罪悪感が訴える。ならば、大人しく引くこう。
「……わかりました。レオナ様がそうおっしゃるならば。けれど、貴方様に恋しいお方が出来たあかつきにはご相談ください」
私も力になりますと言えば目の前の方は顔を顰める。
「だから、なんでテメェはそっちに考えがいくんだ。普通は俺とお前がそういう関係になればいいって思うだろうが」
フンと鼻を鳴らした殿下は布団に潜り込む。寝ようとしているのはわかるがちょっと待ってほしい。
「待ってくださいませ。今の意味はどういうことです」
横になってさぁ寝ますといった身体を揺さぶる。けれどレオナ様は目を空けることもなく「テメェで考えろ」としか言わない。
「いえ。考えてもわかりません。ですから、教えてください」
「ダメだ。ちったぁ考えろ。あーそうだな。ウィンターホリデーに帰る」
「それまで考え続けろ」最後にそれだけを言って健やかな寝息が零れる。
「……寝てしまわれたわ」
意味がわからない。全然考えてもわからない。
私はレオナ様から離れて呆然としつつ四方を囲んでいた魔法を解く。
魔法を解くと興味津々な視線が突き刺さる。その中を平然としながらベッドに近づいたのはやはりチェカ様だった。
「あれ? おじたん、寝ちゃったの?」
「はい。お疲れの様子なのでそっとしておきましょう」
チェカ様は少し不満気に唇を尖らせながらも「はーい」と返事をした。
「次のホリデーには帰るようなのでたくさん遊んでもらえばよろしいですよ」
「っ! うん! 遊んでもらう!」
キラキラの笑顔に微笑ましげに見つめながら視線を向ける人たちに振り返った。ビクッと身体を跳ねる中にいる黒い髪の少年めいた顔立ちの子を見る。
このヒト属がレオナ様の完璧な計画を崩したというのがなかなかどうして信じられない。どんな魔法士見習いなのかと見てみるが何とも感じられない。
不思議なことだな、と思いながらここにいる人々に頭を下げる。
「療養中にお騒がせしました。今後ともレオナ様をよろしくお願いします」
頭を上げてチェカ様を呼ぶ。チェカ様は元気よく返事をして私のところにやって来る。そして、あの小さくて温かい手で掴む。
「帰りましょう」
「うん!」
「挨拶をしましょう」といって挨拶を促すとチェカ様は「おじゃましました」と丁寧に頭を下げて言う。私ももう一度頭を下げて小さな手を引いて背を向けた。
その背を向ける一瞬だけレオナ様を見る。あのお方は相変らず寝ていたが耳が少し動いている。どうやら寝たふりをしているらしい。
気づいてしまったからだろうか。ふいに口をついたのは「レオナ様、お帰りお待ちしていますよ」という言葉だった。
ピククと大きく動く耳に笑いながらチェカ様の驚きの声を無視するように抱き上げる。
「さ、行きましょう」
「え、おじたん起きていたの?」
「いいえ。寝ていますよ」
「でも、」というチェカ様に「しぃ」と指を立てる。すると、チェカ様は小さな手で口を隠す。それに満足して「もう寝てしまわれました」と言って話をやめさせる。
もう時間も差し迫っているし、子どものねぇねぇ攻撃には慣れている。だから、とりあえず今日もう帰ろう。そして、あのお方が言ったことを考えよう。まだごちゃごちゃする頭の中を早く整理したいと思いながら保健室を出た。
2021.02.05 一部文章修正
私が恋をしたのはこの国で貴い身分にいるお方。雲の上の人――と言われれば一族の序列を考えればそうではない。けれど、私から見ればとても遠くにいる人。隣にいても隣にいないようなお方。
そのお方と私は許嫁の関係にある。年齢や身分を考えれば私が選ばれることに間違いはない。でも、他にも年頃の娘はいたはずだし、年下の娘だって問題はない。家柄なのだろうか。家柄ひとつであのお方は私を許嫁にしなければいけなかったと考えると申し訳なさが込み上げる。けど、社交界に出れば好きな娘の一人や二人できると思っていた。私も好きな殿方が出来ると思っていた。けれど、やっぱり私の好きな殿方はあのお方から変わりそうもない。
私は許嫁であられるお方を好いている。幼い頃から初恋破れてもなおずっと好き。一途になんで可愛いもんじゃない。ただ初恋を拗らせているだけ。もう二十歳を迎えたというのに幼い頃に抱いた恋心を捨てられずにいる愚かな女。
こんな私でも何度か殿方に想いを告げられたこともある。けれど心動くことはなかった。とても素敵な人だっていたのに私の中であの方が不動なのだ。
「でも、きっとこれがいい機会」
手にした紙を魔法で燃やしていく。煌めく炎で燃えていく紙には、ナイトレイブンカレッジで起きている事件のことについて書かれている。そして、その起きている事の中心にあの方がいるらしい。いや、あのお方こそが黒幕らしい。
紙の最後に〝いかがいたしましょう〟と言葉で締めくくられていた。迷いのない力強い字に私は困ったように笑った。もう決まっているでしょうに、と。
燃えきって手紙を見送って、真っ白な便箋を取り出して一言書く。
〝レオナ様の言うように動きなさい〟
書き終わり息を吹きかけて折りたたみ真っ白な封筒に仕舞う。それから侍女を呼んですぐに手紙を出すように命じる。
手紙を持って去っていく侍女を見送って席を立つ。
夕焼けの草原は今日も晴天だった。雨季がない限り雨も降らない。乾燥した土地。とはいえ、近年は開発も進み緑豊かな場所も増えてきた。豊かな場所になりつつある国ではあるけれどスラム街は一向に減らない。王都では見かけなくなったが少し外れればスラムや貧富の差が垣間見える村も出てくる。
まだまだ発展途上の国なのだけれど、いかんせんまだ頭の固い上層部たちが多い。国王様や側近が頭を悩ませる種だ。排除しようにも無駄に名家ばかりで中々うまくいかないらしい。
国王様が建国に功績のあった一族を見捨てることができようか。それが出来るのはやはり――と思って私は浮かんだあのお方の顔を振り払う。
「いけない。あの方を頼りにしてはいけない」
今回の出来事が止まってしまっているあの方の足を進めるだろう。そんな確信がある。ならば、この国にあの方を縛り付けてはいけない。
「もっと、もっと自由になるべきなのよ」
あのお方はもう何にも縛られることなく飛び立つときが来たのだ。なら、足枷は少なければ少ない方がいい。
「私が足枷になっているかわからないけれど」
意外にあの方はこの国でのことを気にするお方だから。可能性となるすべての芽を摘み取っておくべきだ。
「まずはレオナ様にお話を通さなければ」
物事には順序がある。だから当事者になりうるレオナ様に話を聞いてもらわなければいけない。
「会いに行くのは……寮対抗マジカルシフト大会ならレオナ様も出場するし、観戦の名目でお願いすれば外出ができそうね」
今の私はレオナ様の許嫁として宮殿に住んでいる。毎日毎日、王弟の横に並ぶに相応しい妃になるべく教育カリキュラムをこなしている。そして、それを元に私の一日のスケジュールが決まる。他にも、警護の都合もあるから外出許可はとても大切だ。
机の傍に行きスマホに手を伸ばす。ナイトレイブンカレッジのホームページを開いて、マジフト大会の特設頁を開き日時を確認する。
「大会は一週間後……何とか調節できるかしら」
まずは侍女長にかけあってみよう。それから後宮を統べる王妃様に許可を貰い、国王陛下に許可を貰う。途方もなく道のりが長い。
「はぁ。前は気軽に行けたのに」
王族になったわけでもないのに気が遠くなりそうだ。
もう一度深く息をついてスマホを操作する。アルバムの中にあるひっそりとある一枚の写真。一回だけ観戦したときにこっそりと撮ったレオナ様の写真。
兄に頭を撫でられて年相応に顔を崩し笑っているその姿。その姿に胸が締め付けられる。
「早く貴方様が自由になれれば……」
そう願わずにはいられない。
「さて。侍女長を呼ばないと」
大会はもう来週なのだから。私はスマホを閉じて「誰かいない?」と声を上げた。
* * *
去っていく背中を見つめながら私は深く息をついて両手で目を覆う。
まさか、レオナ様がオーバーブロットするまで追いつめられているとは想像していなかった。いや、あのお方を見ていればわかることだろう。
それでも気づけなかった。私は気づかなかった。気づいていたつもりであったけれど気づかなかった。とはいえ、深く暗い想いに気づいたからといって救えるなんて不相応なことを考えてもいない。あのお方の見えない傷を癒せるとも思っていない。私はあのお方にとって救いや癒しを与えられる立場の人ではないのだから。
出来るのはきっと慈愛に満ちた優しいお方なのだ。私ではない。そう王妃様のような優しいお方。
「……ジェマ様。ご気分でも?」
離れたところにいたはずの護衛が遠慮がちに声をかけてきた。
両手から顔をあげて首を緩く左右に動かす。「いいえ、大丈夫よ」と返事をする。何か言いたげな護衛だったけれど口を閉ざし「チェカ様がお待ちです」とだけ告げる。
「わかったわ。行きましょう」
頷く護衛は私の傍に立ち辺りを警戒し出す。きっと、この学園の妙な騒めきに警戒しているのだろう。
ようやく学園の落ち着きのなさがわかった。てっきり、大会があるからだと思ったけれどレオナ様が率いるサバナクロー寮の狡計があったからだ。さらに、それが失敗に終わったと直後にレオナ様のオーバーブロットが重なってどこか落ち着きないのだ。
観客たちは何も知らないようだから学園長が上手く隠したのだろう。相変わらず食えない人だ。
徐々に冷静になっていく中で来賓の席へと戻る。そこで、つまらなそうに尻尾をプラプラさせているチェカ様がいた。どうやら相当待たせてしまったようだ。
申し訳なさに駆られながらすぐに傍に行き声をかける。
「チェカ様。お待たせしました」
「ジェマ!」
ピンと真っ直ぐに伸びた尻尾がふわふわと動き出す。素直な尾に頬が緩む。
「お隣失礼いたします」
「うん! どーぞ!」
「ありがとうございます」
チェカ様の隣に座るとギュッと温かな腕が絡まって来た。腕に感じる温かい体温といじらしい行動に愛おしさが込み上げる。
「もうすぐ、なんか、えーっと、なんか始まるって!」
なんだっけ、と身体をぴったりとくっつけたままチェカ様が背後にいる警護に訊ねる。
警護の者は生真面目な顔で「エキシビションです」と答えた。そして、鋭い眼差しが私に移動して「どうやらレオナ様が出場するようです」と続ける。
え、という私の声はチェカ様の「おじたん!」という愛称で掻き消えた。
声を上げたチェカ様は顔をぐりんと動かして私の顔を覗き込んだ。琥珀のような大きな瞳が輝いている。あまりにも穢れを知らない大きな瞳が美しく輝いている。
「ジェマ! おじたんが出るんだって! 楽しみだねぇ~」
「……ええ。そうですね」
頷くとチェカ様は満足げに尾を振る。その無垢な反応に私は胸が締め付けられる。
未来の国王。いつか、その無垢すら消えるだろう。けれど、今だけはその美しい瞳であの人を焼き付けてほしい。そして、将来その人のことを愛おしげに語ってほしい。
「あっ! おじたんだぁ!」
チェカ様の声と共にあちらこちらから歓声が上がる。
いつもならこの声に耳が痛くなるけれど今日はどうしてか痛みなど感じなかった。きっと、やるべきことがあるからだろう。
私はエキシビションに登場したレオナ様を見る。遠目からでもわかるくらいには草臥れているご様子だった。けれど、その表情はどこか楽しそうだった。
オーバーブロットしたのは数時間前だと報告で聞いた。大量の魔力と体力を削ったというのに彼は伸び伸びとプレイしている。そのプレイの様子は何時ぞやの姿を思わせる。
「わぁ! おじたん、すごぉい! あ! すごい! ね、ね! ジェマ、ジェマ見た!」
興奮した高い声と引っ張る強い力に我に戻る。そして、グラウンドから目を逸らすことなく「はい。すごかったですね」と中身のない返事を返す。
「ね! すごい! すごい! おじたん、すごい! カッコイイ!」
素直に称賛の言葉を出すチェカ様が羨ましい。私はそういう称賛の言葉を出すことさえ憚れるというのに。五歳の仔ライオンに少しだけ嫉妬しまう。情けない。
無邪気な歓声をあげられない私は大人しくレオナ様を見つめる。
軽々とした身のこなし。指示を飛ばしている姿も凛々しく眩しい。
あのお方はオーバーブロットして変わられたのだろうか。何か変わったのだろうか。それとも結局変わらない境遇を諦めたのだろうか。どういう思いをいまして輝いているのか。
「けど、貴方様が清濁すべてを飲み込めてしまったならそれでいいのでしょう」
なら、やはり、今回はよい機会だった。きっと巡り合わせに違いない。
「ジェマ、大会が終わったらおじたんに会いに行ってもいいかな?」
いいよね、というおねだりに私は微笑んで「はい、行きましょう」と答えた。
* * *
「おじたーん!」
護衛の人々を巻くように飛んでいくチェカ様を追いかける。その勢いで私も危うく保健室に飛び込みそうになった。寸でのところで踏みとどまり壁に手をつき乱れた息を整える。
「はぁ、はっ、はぁー、ッ」
久々の駆け足に息が切れる。なんて無様な。以前だったらこれくらい走っても息切れなど起さなかった。座学ばかりしていたせいで体力が下ったのだろうか。宮殿に戻ったら鍛錬の時間を貰おう。
そんなことを考えながら廊下から保健室を覗き込む。
保健室は意外に賑やかだった。その中で見知った顔は一人。丸くて大きな耳を持ったハイエナの獣人属で名前は確かラギー・ブッチと言ったはずだ。学園でレオナ様の世話を仰せつかっていると、報告ついでに写真も見せてもらったことがある。
他は見たことが少年たちばかりだ。ラギー・ブッチのことを先輩と呼んでいるところから一年生だろう。それにしても狸のような、猫のような生き物は何だろうか。その傍にいる薄らぼんやりしている生徒の使い魔だろうか。
じぃっとレオナ様の周りを観察していると――。
「ジェマ おいでよ!」
念願のレオナ様に会えて興奮している高い声に呼ばれる。ビクと情けなく身体を跳ねさせる私に一斉に視線が向けられる。こうした視線は好まない。けれど呼ばれたならば姿を見せなければいけない。
視線を一斉に向けられる中、おずおずと保健室の入り口に立つ。すると、レオナ様が目を見開いて「ジェマ」と私を呼んだ。
久々に呼ばれた名前に胸がキュッとしまった。こういう瞬間、好きで、好きでとても愛おしくてたまらない、と心が叫ぶ。
けど、それに浸っている時間はなかった。ラギー・ブッチが「あ、レオナさんの許嫁様ッスよね」と言った瞬間、保健室にいる少年たちが「許嫁ぇっっ!」と叫んだからだ。
許嫁という存在が新鮮なのか。はたまた時代的に珍しく見えるのか少年たちは目を白黒させている。そうした視線に居心地を悪くしていると。
「ジェマ!」
「はい」
呼ばれて顔を下に向ければいつの間にかチェカ様がいらっしゃっていた。小さな手が私の手を握りくいと引く。
「ジェマはさ、おじたんにお話しがあるんでしょ?」
「え、」
いつそんなことを言ったのだろうか。
チェカ様はフワフワと笑って私の手を引いていく。弱いのに荒げない小さな力に引っ張られるままレオナ様の元へと連れて行かれた。
傍まで行くと小さな手が離れる。
「こういうとき僕、知ってるよ! ごゆっくり、でしょ!」
いつの間にそんなことを覚えたのか。でも、実践できて誇らしいのか得意げに胸を張るチェカ様は可愛らしい。この間会った姪っ子を思い出す。
それにしてもこのような形でレオナ様と対面するとは考えていなかった。
困惑が漏れたのかラギー・ブッチが「あー、オレら出ます?」と気を遣い始める。それにすかさず首を横に振った。
「構いません。皆さんもお身体辛いでしょう。それに私の個人的な用ですから……ですが、魔法を使わせていただきます」
失礼します、と一言添えて指を鳴らす。すると、指輪にはめ込まれた魔法石が輝き、そこから透明なシールドがベッドを四方に囲う。さらに、もう一度指を鳴らし今度はシールドに真っ白なカーテンをかける。
「これで会話も聞こえませんし、中の様子を窺うこともできません」
「へぇ。すげぇじゃあねぇか」
疲れの滲む掠れた声に私は苦笑を零す。
「これくらい誰でもできます」
大した魔法は使っていない。私は傍にある丸椅子を引き寄せてベッドの傍に座る。そして、久々に近くでレオナ様の顔を見た。
レオナ様の様子を窺う。エキシビションの後も何試合にも出場していたためかさらに草臥れ、整った顔からは疲れが滲んでいる。それもそうだ。オーバーブロットして体力を消耗したうえで沢山の試合に出たのだ。
「……お久しぶりです。お体の方は?」
一拍置いて訊ねればレオナ様は手のひらを握って開いてからプラプラ振った。
「疲れてはいるがそれ以外何ともねぇよ。つか、その感じだと俺がオーバーブロットしたのは知っているみてぇだな」
「はい。レオナ様も気づいていると思いますが一族の者が在籍していますので」
「フン……で、兄貴には報告したのかよ」
私は首を緩く振った。それにレオナ様は「そうかよ」とだけ答えた。
しんと落ちる沈黙の間。いい機会だと私は例の件を話し出そうと口を開くが、先にレオナ様が口を開けた。
「お前は俺を卑怯者と責めるか」
真っ直ぐに見据える鮮やかな緑の瞳。魔力を宿したと言われてもおかしくない。それほどまで美しい瞳で一瞬見惚れて言いかけた言葉を一度飲み込む。
「臣下の身分でどうして責められましょうか?」
「テメェは臣下じゃねぇ」
「ただの臣下の娘ですが……しかし、貴方様がお望みならばただのジェマ・レヴィとしての答えをお待ちならお答えいたします」
お許しください、と言ってから私は告げる。
「スポーツマンシップ的には完全アウトでございます」
「だろうな」
「はい。ですが、私は別にスポーツを生業にしている人間ではありません。なので、そこは気にしていません。どちらかといえば今回のレオナ様方の計画は〝狩り〟として見ていますので」
レオナ様は目を細めて「へぇ、狩りか」と呟く。頷いて話を続ける。
「狩りとしては順当だったと思います。力のある獲物をひとり、ひとり、消していく。群れ自体を弱らせることはよい案だったと思います。そして、それをカモフラージュにして一番大物を狙う。けど、ひとつ詰めが甘かったゆえに失敗したのでしょう」
「……お前ほんとうにこういうとき容赦ねぇよな」
半眼のレオナ様の丸い耳が些か元気をなくして伏せていた。私は口を噤んで「お許しを」と頭を下げる。
「まぁ、俺も草食動物がここに来て邪魔して来るなんて思わなかったからな」
「草食動物?」
「ほら、エキシビションでディスクが頭に直撃した奴がいんだろ。あいつだ」
顎をしゃくって前方を見るレオナ様。このベッドの体面を思い出す。確か薄らぼんやりとした印象の少年風のヒト属が寝ていた気がする。多くのヒト属の中に埋もれてしまいそうな印象の薄い子だ。
「あの、薄らぼんやりしていた子どもですか?」
「クッ、ハハハッ! おう! あの薄らぼんやりした草食動物になっ!」
「俺の計画は邪魔された」と口角を上げるレオナ様。信じられなくてカーテンの向こうにいる子とレオナ様を交互に見る。
「なんと、なんと、それは確かに見過ごしてしまうほどの存在ですね」
「ああ。ここまで邪魔しくるイレギュラーになるなんて誰が思うかよ」
「ま、他にもいたけどな」どこか楽しげな様子に胸を撫で下ろす。
「元気なようでよろしかったです。ですが、暫らく魔法は控えてくださいませ」
「ん。俺もさすがに少しだけ休む」
含みの言い方に半眼で睨んでも意に介すことはないだろう。このお方はそればっかり、と半ば呆れ悟っていると。
「で、あいつも言ってたが俺になんの用だ」
口角を下げたレオナ様は真面目な顔でこちらを見る。
真っ直ぐ向けられる瞳は何時ぶりだろうか。今の今まで緊張していなかったのに緊張が僅かに込み上げる。
「今、宮殿に住んでんだろ? 何かあったか?」
「兄貴にも、義姉さんにも言えないのか」レオナ様の優しい気遣いの心が見える。根っこは本当に優しい人だ。その優しさは本当に僅かな人しか知らないのだろう。その僅かに入っていることを誇りに思いながら口を開ける。
「レオナ様。わたくしたち婚約解消いたしましょう」
いつも気だるげに緩められた鮮やかな緑を宿す目が見開く。だが、すぐに柳眉をギュッと中心に寄せて鋭く私を射抜く。
「どういう了見だ」
低く唸る声に訊ねられて僅かに身がすくむ。今まで向けられたことがない鋭い視線。やはり、いきなり問題を切り出すのはいけなかっただろうか。
私は指を鳴らす。魔法石が光るとポンと音を立てて手のひらにA4サイズのファイルが落ちる。そのファイルの先頭のページを開く。
「では、ひとつずつ説明させていただきます」
「ぁ? おい、待て、待て、この馬鹿」
張り詰めた空気が霧散した。レオナ様は呆れた顔で前髪を掻き上げて手を振った。
いきなりの馬鹿扱いに眉を顰める。
「馬鹿とは酷い言いようではありませんか。わたくしは真剣に考えたのです。婚約解消した方がレオナ様には大きなメリットがある、と」
「ふぅん」
すごくどうでもいいという反応された。もう飽きている。早くはないだろうか。開始一分だってまだ経っていないのに。
「レオナ様! わたくし、本気なのですよ!」
「へぇ」
こちらに向けられていた視線が斜め上に逃げていく。駄目だ。本気に受け取ってくれない。ファイルがいけなかったのか。フリップじゃないから駄目だったのか。いや、フリップ芸とかにならないように配慮したというのに。
「……お前、好きな
逸れていた視線が戻った。若干苛立ちを孕んだ視線に私は不思議に思いつつ首を振る。
「いいえ。好きな殿方などおりま――あっ、いえ、出来ました!」
「お前、今すっげぇ名案みたいな顔していたから嘘だってバレてっからな」
馬鹿じゃねぇのか、と言わんばかりの眼差しに私も流石に馬鹿だと思った。
「申し訳ありません。嘘です。好きな殿方が出来たわけではありません」
「フン。ならこのままでいいだろ」
「いけません!」
駄目なのだと力強く訴える。
このままではレオナ様はずっと縛られる。学園にいる間は自由でいられる。けれど、卒業すれば私との結婚がすぐに待ち受けている。下手をしたら内政に無理矢理引っ張り込まれるかもしれない。内政ではなく軍部の方にだって可能性はなくはない。さらに、国王ファレナ様に不満を持つ派閥に担がれるかもしれない。第二王子で魔力も強く賢い。目の前のお方はすぐに縛り付ける材料は沢山あるのだ。ならば、さくっと自由になるためにまずは私との婚約関係を解消しなければいけない。
私の強い訴えにレオナ様の柳眉が再び寄る。
「今になって第二王子の妃じゃ嫌だってか」
「そうではありません」
「じゃあなんだ」
はっきりと言えと暗に圧力をかけるレオナ様に逡巡する。けれど、はっきりと伝えて婚約解消の手助けをしてくれるならば。
「不敬であることを承知で申していることです」
「お話しいたします」と言う唇が戦慄く。何ということか。ここに来て初めて恐怖を感じた。話したら鋭く尖った言葉を投げかけられることなど承知なのに、嫌われる覚悟だってあるのに。
震えるなと案じで一度唇を噛んで叱責する。何とか唇が震えないように私は言葉を紡ぐ。
「私は……貴方様に自由になってほしいのです」
余計なお世話だろう。けど、貴方様には羽ばたくだけの才能があるのだ。余計な枷を取り払って広い草原に飛び出してほしい。
真っ直ぐ鮮やかな瞳を見つめて募る想いを向ける。
「貴方様は自身の努力が実らないといいます。第二王子という立場では何をしたってどうにもならない、と。けど、それは夕焼けの草原だからでございます。貴方様と国王様を延々と比べ続ける愚かな者たちばかり周りいるからでございます」
そんな環境がいいとは思えない。一歩宮殿を出れば状況は違うかもしれない。歳若い国民はレオナ様の整った顔立ちに黄色い声をあげているし、決して万民に嫌われているわけではない。けれど、だけど、やはりどうしても第二王子の悪評を広めようとしている人間がいる。そして、信じてしまう国民もいる。故に、どうにも居心地が悪いのだ。
「レオナ様……王族とはいえ今は数多の選択肢があります。だから、どうかご自分で選び取ってください。自由におなりください」
王族に産まれた人間、国を担う人間として産まれたなら国を愛すべきなのだろう。けど、私は目の前のお方どうしても幸せになってほしいから構っていられない。妃となる人間としてはあるまじき考えだというのも十分理解している。
「私は貴方様に自由になってほしい。だから、婚約解消しましょう」
それに許嫁や婚約者など時代錯誤なのだ。幼い頃から許嫁がいて成人して結婚して子どもを成す。王族として当たり前のことでも年齢を重ねてからだっていいし、結婚する相手だって自由に決めていいのだ。
「貴方様が誰に恋をしてもいいのです。一生涯共に過ごす人を貴方様は自由に決めていいのです」
すべてのしがらみから抜け出して己のプライドラインを持ってほしい。
愛おしい人だから〝幸せ〟になってほしい。酷いエゴなのもわかっている。余計なお世話だと言われてもいいから受け入れてほしい。
どうか聞き入れてくださいと縋るような眼差しを向けるが逸らされる。
「レオナ様!」
「うるせぇな」
鬱陶しげな顔に私は立ち上がって詰め寄る。
「レオナ様、真剣にお考えください。貴方様がわたしくしを気に入らないと言えばどうとでもなるのです」
「……お前、それは本気で言っているのか?」
「え」
剣呑とした緑に見られて「どういう意味ですか」と訊ねられる前に腕を引かれて、頭を掴まれた。同時に唇に渇いた柔らかいモノが押し付けられた。
瞬時にそれがなんであるか理解して掴まれていない腕でレオナ様の身体を押す。すると、あっさりと解放される。その反動で一歩下がって唇を覆い、信じられないものを見るように目の前のお方を見る。
「な、なにをするのです」
「お前が寝ぼけているから目を覚まさせてやっただけだ」
カラリと哂うレオナ様に身体の血が沸騰し体温が上昇する。
「か、からかわないでください」
「からかってねぇよ。で、お前は俺が何でもできるように見えているようだがそうじゃねぇ。なにせ第二王子だからな。それにお前が許嫁の座を辞退したところですぐに身分の高い娘を与えられるだけだ」
首を振るレオナ様にそれでも引かなかった。
「けれど、それこそ許嫁などいらないと言えばいいでしょう」
「無理だ。頭が固い年寄り連中が許さねぇ」
「国王様なら考えてくれるかもしれません」
「無理だ。あの兄貴だって年寄り連中に手古摺ってんだ」
ふと、宮殿に入る前に見た疲れた様子の来た兄上を思い出す。法案が通らないとそのとき零していた。
古い慣習とはそうたやすく打破されない。打破されていたらもっと憲法も、法律も、もっと改訂されている。そうレオナ様は言いたいのだろう。
ならばどうすればいい、と考えて私の頭の中に名案が閃く。
「では、わかりました。婚約解消は先に延ばしましょう。レオナ様が学園を卒業して発言権を得るまで虫除けになります」
結婚適齢期などこのご時世あってないようなもの。そもそも成人して二十代前半で結婚など早すぎる。
「レオナ様、とりあえずそうしましょう」
「待て、何一人で話し進めてんだ」
俺の意見も聞けと目を据わらせる。それに一人盛り上がっていたことを謝罪する。私の謝罪にレオナ様は深く息をついて前髪を掻き上げた。
様になる姿に鼓動が高鳴るが今はそれどころではない。
「俺はお前を虫除けにするつもりはねぇ。婚約解消の話も聞かなかったことにする」
これで終いだ、と強くこちらを射抜かれる。
けどこれでお終いでは困る。これでは私の拗れた恋心も終われない。そこで強烈な自己嫌悪に襲われる。
私はこの婚約解消を身勝手な理由で使おうとしている。いけない。それは違う。自分の恋心を終わらせるのは二の次だ。それを目的にしてはいけない。
目的を違えてはいけない、とギュギュウ心臓を締めつける罪悪感が訴える。ならば、大人しく引くこう。
「……わかりました。レオナ様がそうおっしゃるならば。けれど、貴方様に恋しいお方が出来たあかつきにはご相談ください」
私も力になりますと言えば目の前の方は顔を顰める。
「だから、なんでテメェはそっちに考えがいくんだ。普通は俺とお前がそういう関係になればいいって思うだろうが」
フンと鼻を鳴らした殿下は布団に潜り込む。寝ようとしているのはわかるがちょっと待ってほしい。
「待ってくださいませ。今の意味はどういうことです」
横になってさぁ寝ますといった身体を揺さぶる。けれどレオナ様は目を空けることもなく「テメェで考えろ」としか言わない。
「いえ。考えてもわかりません。ですから、教えてください」
「ダメだ。ちったぁ考えろ。あーそうだな。ウィンターホリデーに帰る」
「それまで考え続けろ」最後にそれだけを言って健やかな寝息が零れる。
「……寝てしまわれたわ」
意味がわからない。全然考えてもわからない。
私はレオナ様から離れて呆然としつつ四方を囲んでいた魔法を解く。
魔法を解くと興味津々な視線が突き刺さる。その中を平然としながらベッドに近づいたのはやはりチェカ様だった。
「あれ? おじたん、寝ちゃったの?」
「はい。お疲れの様子なのでそっとしておきましょう」
チェカ様は少し不満気に唇を尖らせながらも「はーい」と返事をした。
「次のホリデーには帰るようなのでたくさん遊んでもらえばよろしいですよ」
「っ! うん! 遊んでもらう!」
キラキラの笑顔に微笑ましげに見つめながら視線を向ける人たちに振り返った。ビクッと身体を跳ねる中にいる黒い髪の少年めいた顔立ちの子を見る。
このヒト属がレオナ様の完璧な計画を崩したというのがなかなかどうして信じられない。どんな魔法士見習いなのかと見てみるが何とも感じられない。
不思議なことだな、と思いながらここにいる人々に頭を下げる。
「療養中にお騒がせしました。今後ともレオナ様をよろしくお願いします」
頭を上げてチェカ様を呼ぶ。チェカ様は元気よく返事をして私のところにやって来る。そして、あの小さくて温かい手で掴む。
「帰りましょう」
「うん!」
「挨拶をしましょう」といって挨拶を促すとチェカ様は「おじゃましました」と丁寧に頭を下げて言う。私ももう一度頭を下げて小さな手を引いて背を向けた。
その背を向ける一瞬だけレオナ様を見る。あのお方は相変らず寝ていたが耳が少し動いている。どうやら寝たふりをしているらしい。
気づいてしまったからだろうか。ふいに口をついたのは「レオナ様、お帰りお待ちしていますよ」という言葉だった。
ピククと大きく動く耳に笑いながらチェカ様の驚きの声を無視するように抱き上げる。
「さ、行きましょう」
「え、おじたん起きていたの?」
「いいえ。寝ていますよ」
「でも、」というチェカ様に「しぃ」と指を立てる。すると、チェカ様は小さな手で口を隠す。それに満足して「もう寝てしまわれました」と言って話をやめさせる。
もう時間も差し迫っているし、子どものねぇねぇ攻撃には慣れている。だから、とりあえず今日もう帰ろう。そして、あのお方が言ったことを考えよう。まだごちゃごちゃする頭の中を早く整理したいと思いながら保健室を出た。
2021.02.05 一部文章修正