愛の蕾
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我が君に愛を捧げましょう
清々しいとまではいかないけれどここ数年で一番いい顔で殿下は空を飛んでいた。一昨年、昨年のマジフト大会の負けと、今回の負けはきっと彼の中で違うのだろう。
何が彼の心に影響を与えたのだろうか。ホリデーで帰る度にどうしようも消化できない苛立ちを孕んでいた殿下。
許嫁である私にどうすることも出来なかった。私は国家の防衛を担う家の末娘。貴族の娘であるけれど彼は王族で当代の王弟で、王位を継承継ぐことがなくなった第二王子だ。何もかも立場が違う。一介の貴族の娘である私が彼の心内が分かりえるだろうか。
彼の神聖な心を踏み荒らしたくない。そんなのいい訳だ。私は怖気づいたのだ。ただ、寄り添うことしか出来ない、と言い訳のように繰り返した結果、彼は――。
以前、ラギー・ブッチから貰った手紙を思い出す。殿下がオーバーブロットしたという一文。それでも一命はとりとめ事なきを得たとさらっと書いてあった。
私は自分の情けなさと罪深き怠慢を呪った。許嫁として私は殿下の心を解きほぐし苛立ちを納めなければいけなかった。しかし、私は怖気づいて出来なかった。なんて怠慢だろうか。踏み荒らしたくない、なんて戯言だ。しかし、後悔に苛まれている時間はない。手紙が来た数日後にはマジフト大会がある。私は第二王子の許嫁という立場のもと王子たちと同行してナイトレイブンカレッジにやって来た。
「レオナおじたんかっこいいね!」
幼い声に引き戻された意識。隣に座る未来の王が純真無垢な瞳でこちらを見上げていた。この瞳に殿下も何だかんだ弱いのだろう。苛立つ存在だろうにこの小さな未来の王を邪険にしているところを見たことがない。
私は未来の王に頷いて答える。素敵でしたね、と。王子はキョトンと目を丸くさせた。真ん丸な目がさらに丸い。可愛らしい反応ではあるけれど私は何故王子がこのような反応するのが分からない。
「チェカ王子?」
「おねぇたんは? おねぇたんはおじたんかっこいいって思わなかったの?」
今度はこちらが首を傾げる番だ。
「レオナ殿下は素敵でしたよ?」
「かっこいくなかった?」
じぃっと大きな瞳がこちらを見上げる。何だか必死さも感じる瞳に私は気づく。幼い王子には素敵とかっこいいは繋がらないのだと。私としては同じ気持ちで答えたのだが。
私は内心慌てつつなるべく平静に「殿下、とっても格好良かったです」と返す。
王子は私の答えに満足したのか可愛らしい笑顔を浮かべた。
「だよね! レオナおじたん、かっこいいね!」
「はい、とっても」
「かっこいいよね!」
「はい、かっこいいです」
このやり取りを王子が満足するまで続いた。正直、ちょっとだけ周りの目が辛かった。
* * *
大会が終わった後、私は王子とともに保健室に訪れていた。殿下と話す機会を窺っていたのでありがたいところだった。
保健室に着くと王子は無邪気に殿下に向かって駆け出した。それから和やかな空気はさらに和やかになる。
気だるげなまま気安く会話をする殿下を見て私はぷっつりと途切れた。何の糸が切れたのか分からない。だが、何故か今なら何でも殿下に言える気がした。
私は一歩踏み出す。カツンと先ほどまで耳にすることが出来なかったヒールの音がする。母が「おめかしよ!」と張り切って新調したハイヒールだ。一歩踏み出すと絡みつくのは同じく父が同じく張り切って購入した上等な生地で靴と同じく新調したドレスの裾だ。他にも義姉たちがプレゼントしてくれたアクセサリーを身に着けている。今日の私は最強の装備を身に纏っているのだ。最強よ、私、と心の中で唱えながら赤く色づいている唇を動かす。
「レオナ殿下、お久しゅうございます」
王子を腹に乗せたまま殿下がこちらを見た。いつも鋭い瞳が驚きに満ちて「おまえ、なんで」と声まで驚きで掠れていてつい笑ってしまう。
「チェカ王子。申し訳ありませんがレオナ殿下と話しがしたく、少々お時間いただけますか?」
殿下の腹に乗ったままの王子は腕を組んで考えるふりをする。子どもらしい仕草に微笑ましくて大人しく王子の返事を待つ。だが、待つこともなく王子は可愛らしい笑顔で「いいよ!」といそいそと殿下の腹から降りた。
「はい! どーぞ! おねぇたん!」
「……おい。チェカ、俺はおじたんで、なんであいつはおねぇたんなんだよ」
「だって、まだ、おばたんじゃないもん」
「ね」と可愛らしく確認されても「そうですね」と苦笑しか零せない。
「……場所移すか」
「いえ」
まだ身体が本調子ではない彼に動いてもらうつもりはなかった。ここは幸い仕切りのカーテンもある。ならば、防音にさらに目隠しのシールドを張れば問題はない。
殿下の傍に行きカーテンで閉めてさらに指輪に触れて呪文を唱える。これで立派な個室の出来上がりだ。
「おまえ、随分便利な呪文覚えたな」
「そうですか?」
魔法士養成学校を卒業すればこれくらい誰でも出来る。現に殿下だって出来たはずだ。それでも今回は私がするべきなので私がした。
私は彼の傍にある丸い椅子に座って同じくらいの目線で真っ直ぐ見据える。すると、意外なことに彼も真っ直ぐ見つめ返してきた。
気だるげな色を湛える瞳に見つめ返されると少しドキッとする。頬が熱くなる前に私は口早に唇を動かした。
「ラギーさんに聞きましたよ。オーバーブロットした、と」
「ああ? 何であいつと知り合いなんだよ?」
途端に眉間に皺を寄せる殿下に私は説明する。彼が学校で殿下の世話をしていると小耳に挟んだことを。そこから小遣い稼ぎの感覚で報告を欲しいと。彼は一も、二もなく請け負ってくれた。
「チッ。余計なことしやがって」
「ええ。余計な真似をしてしまい申し訳ありません」
知らない間に自分の情報が流されていたのだ。不快な気分になるのも分かる。
「でも、彼は本当にたまに何かあったときだけです。今回久々の連絡だったのでもう私すごく驚きました」
彼は何も言わない。ただの、名ばかりの許嫁に言うことはないだろう。
「殿下。今日のマジフト大会楽しかったですか?」
「はぁ? 負けて楽しいわけねぇだろ」
と、言いつつ去年よりもすっきりとした顔をしている。彼はもう大丈夫なのだろう。
「なに笑ってやがる」
「いいえ。でも、憑き物が落ちた顔をしていますからオーバーブロットで楽になったのかと」
「お前、オーバーブロットが何か忘れたのかぁ?」
怪訝の眼差しに首を横に振って「理解しております」と答える。それでも溜まりに溜まったものがなくなったのだ。もうオーバーブロットさまさまだ。
「……なんか、話しが見ねぇな」
「失礼しました」
苛立った様子の殿下に一礼して私は改めて姿勢を正す。
「殿下。実はお願いがあります」
彼は目で先を促す。私の心臓は今更になって緊張に逸る。落ち着きたくて一度息を吐いて気合を入れて声を出す。
「婚約を破棄していただけませんでしょうか」
眉間の皺が寄って彼の鋭い犬歯がチラリと覗く。
「どういう了見だ?」
圧のある声に一瞬怯むが私は目を逸らさない。
「今回のオーバーブロットによりわたしくしは改めて自分が未熟者であると痛感いたしました。許嫁のわたしくしは殿下の御心に寄り添い、支えることが役目だと思っておりました。ですが、わたしくし、臆病者で目を背けてしまいました」
憑き物の落ちた殿下の顔を見やる。この殿下の顔を見ればもう理解した。幼い頃に決められた私は不必要なのだ。
「お前、本当に臆病者なんだな」
嘲笑うような瞳に私は何も言い返せない。
「ええ。臆病者の雌ライオンでございます」
だからこそ、今の私はあなたの傍にいることは出来ない。
「臆病者はもう一度出直したいってことか」
「っ!」
驚きに目を瞠る。すると、先ほどの嘲りを消しつつもどこか馬鹿者を見るような殿下がいた。そして、今この瞬間すべてのことが見透かされた。
「はっ。お前、馬鹿だな!」
喉を震わせて笑う殿下に私は言い返すことができない。寧ろ悔しい思いだ。
「おい。ここに座れ」
ポンポンとベッドの端を叩く殿下に言われるままに座ると――。
「っ!」
いきなり腕を引かれて寝たままの殿下の胸に上半身だけ飛び込む形になった。
「な、なにを」
驚いて顔を上げればとてつもなく愉快だと言わんばかりの殿下の顔があった。相変わらず野性味の溢れた整った顔立ちをしている。当代の王と、第二王子で貴族の娘たちが黄色い声を上げていたことを思い出す。そして、耐えられず私の頬は熱を帯びた。
「お前、俺に惚れているだろう」
楽しげな殿下の質問に私は答えない。とはいえ、無言は肯定と同じだ。
「婚約を破棄したところでお前は鍛え直すとか抜かして俺が卒業した頃に求婚しにでも来るつもりだったんじゃねぇか?」
これは愉快、愉快と言う声に私は顔を真っ赤にさせて黙りこくる。
そう。私は自分が不釣合いだと抜かしながら一から出直したあとに彼に求婚するつもりだった。過去に身分の低い男が王の娘である姫君に求婚したことがあると文献で残っている。ならば、私だってしても可笑しくないのではと。今度こそ彼を受け入れられるほど大きくなってみせると意気込んでいたことを見透かされてしまった。
「婚約破棄が不敬とか抜かす癖に、求婚はいいのかよ? あ?」
「くくっ、笑えるぜ」と喉を震わせてかみ殺したように笑う殿下に私の顔が下る。しかし、それも殿下に阻まれて無理矢理顔を上げられた。
「はっ! 顔が真っ赤だなぁ?」
「うっ、ぅ」
もう呻くことしかできない。
「耳が下ってるぜ」
「ひっ」
ペタンと伏せている耳がいきなり触れられた。そこに触れられたことなどない。異性は勿論、家族にだってない。
「さ、触らないでっ、くだ」
顔を振って振り払いたいが耳の付け根を触れられて力が出ない。寧ろ力がどんどん抜けていく。
「で、でんかぁっ」
「いいだろ。俺たち未熟者の婚約者同士だ」
「な、っ、殿下が未熟者なっ! ひっぅっ」
「あ? お前と同い年でダブってるライオンだぞ?」
未熟者だろ、と抜かす殿下にこれはフォロー出来なかった。
「おい。そこは違いますっていうところだろ」
「さ、流石に、それは……」
「あ?」
「ひぅ、あっぁ」
遠慮なく耳の付け根が弄られる。結婚前にこんなあられもない姿を見せるなど言語道断だ。ここが踏ん張りどきだ。
私はありったけの力を使って何とか殿下の悪戯に耐えた。暫くすると耳が解放された。息が乱れるのを何とか整えて殿下を睨むが彼はにやつくばかり。
「睨んでも迫力ねぇぞ」
笑う殿下に私は思い出したように先ほどの話しをする。
「で、殿下。それで婚約破棄の件は――」
「聞かなかったことにする。もう二度とその話はするな」
「殿下っ!」
声を張り上げるが彼はひと睨みするだけで終わる。私もこれ以上は何も言うことが出来なかった。項垂れたくなるが殿下の前でそのような姿を見せられない。
「殿下……言うときは早くしてくださいな」
「ふん。無駄な期待を持つな」
どういう意味の期待なのだろうか。言いたげな眼差しを向けていると殿下が不敵に笑った。今日はよく笑うな、と余裕をかましていたら目の前に殿下がいた。
「でん――」
彼を呼ぼうとした唇がにわかに塞がれた。不意に塞がれた唇はすぐに解放された。何が起きたことが分からなかったほどの年齢ではないけれど。
「なんだ、あんまり騒がねぇんだな」
つまらなそうに私の腕を解放する殿下。拘束から解放されると私はすぐに彼の上から退く。そして退いて頭を下げてシールドを解いて仕切りとなっていたカーテンから飛び出た。
王子の驚く声、殿下の学友たちの声も聞こえた。ついでに、高らかに笑う殿下の声も聞こえた。だけど、私はそれどころではない。それどころではないのだ。
私は走り続けた私は結局ナイトレイブンカレッジで迷子になるという恥ずかしい話を残してしまったのだった。
清々しいとまではいかないけれどここ数年で一番いい顔で殿下は空を飛んでいた。一昨年、昨年のマジフト大会の負けと、今回の負けはきっと彼の中で違うのだろう。
何が彼の心に影響を与えたのだろうか。ホリデーで帰る度にどうしようも消化できない苛立ちを孕んでいた殿下。
許嫁である私にどうすることも出来なかった。私は国家の防衛を担う家の末娘。貴族の娘であるけれど彼は王族で当代の王弟で、王位を継承継ぐことがなくなった第二王子だ。何もかも立場が違う。一介の貴族の娘である私が彼の心内が分かりえるだろうか。
彼の神聖な心を踏み荒らしたくない。そんなのいい訳だ。私は怖気づいたのだ。ただ、寄り添うことしか出来ない、と言い訳のように繰り返した結果、彼は――。
以前、ラギー・ブッチから貰った手紙を思い出す。殿下がオーバーブロットしたという一文。それでも一命はとりとめ事なきを得たとさらっと書いてあった。
私は自分の情けなさと罪深き怠慢を呪った。許嫁として私は殿下の心を解きほぐし苛立ちを納めなければいけなかった。しかし、私は怖気づいて出来なかった。なんて怠慢だろうか。踏み荒らしたくない、なんて戯言だ。しかし、後悔に苛まれている時間はない。手紙が来た数日後にはマジフト大会がある。私は第二王子の許嫁という立場のもと王子たちと同行してナイトレイブンカレッジにやって来た。
「レオナおじたんかっこいいね!」
幼い声に引き戻された意識。隣に座る未来の王が純真無垢な瞳でこちらを見上げていた。この瞳に殿下も何だかんだ弱いのだろう。苛立つ存在だろうにこの小さな未来の王を邪険にしているところを見たことがない。
私は未来の王に頷いて答える。素敵でしたね、と。王子はキョトンと目を丸くさせた。真ん丸な目がさらに丸い。可愛らしい反応ではあるけれど私は何故王子がこのような反応するのが分からない。
「チェカ王子?」
「おねぇたんは? おねぇたんはおじたんかっこいいって思わなかったの?」
今度はこちらが首を傾げる番だ。
「レオナ殿下は素敵でしたよ?」
「かっこいくなかった?」
じぃっと大きな瞳がこちらを見上げる。何だか必死さも感じる瞳に私は気づく。幼い王子には素敵とかっこいいは繋がらないのだと。私としては同じ気持ちで答えたのだが。
私は内心慌てつつなるべく平静に「殿下、とっても格好良かったです」と返す。
王子は私の答えに満足したのか可愛らしい笑顔を浮かべた。
「だよね! レオナおじたん、かっこいいね!」
「はい、とっても」
「かっこいいよね!」
「はい、かっこいいです」
このやり取りを王子が満足するまで続いた。正直、ちょっとだけ周りの目が辛かった。
* * *
大会が終わった後、私は王子とともに保健室に訪れていた。殿下と話す機会を窺っていたのでありがたいところだった。
保健室に着くと王子は無邪気に殿下に向かって駆け出した。それから和やかな空気はさらに和やかになる。
気だるげなまま気安く会話をする殿下を見て私はぷっつりと途切れた。何の糸が切れたのか分からない。だが、何故か今なら何でも殿下に言える気がした。
私は一歩踏み出す。カツンと先ほどまで耳にすることが出来なかったヒールの音がする。母が「おめかしよ!」と張り切って新調したハイヒールだ。一歩踏み出すと絡みつくのは同じく父が同じく張り切って購入した上等な生地で靴と同じく新調したドレスの裾だ。他にも義姉たちがプレゼントしてくれたアクセサリーを身に着けている。今日の私は最強の装備を身に纏っているのだ。最強よ、私、と心の中で唱えながら赤く色づいている唇を動かす。
「レオナ殿下、お久しゅうございます」
王子を腹に乗せたまま殿下がこちらを見た。いつも鋭い瞳が驚きに満ちて「おまえ、なんで」と声まで驚きで掠れていてつい笑ってしまう。
「チェカ王子。申し訳ありませんがレオナ殿下と話しがしたく、少々お時間いただけますか?」
殿下の腹に乗ったままの王子は腕を組んで考えるふりをする。子どもらしい仕草に微笑ましくて大人しく王子の返事を待つ。だが、待つこともなく王子は可愛らしい笑顔で「いいよ!」といそいそと殿下の腹から降りた。
「はい! どーぞ! おねぇたん!」
「……おい。チェカ、俺はおじたんで、なんであいつはおねぇたんなんだよ」
「だって、まだ、おばたんじゃないもん」
「ね」と可愛らしく確認されても「そうですね」と苦笑しか零せない。
「……場所移すか」
「いえ」
まだ身体が本調子ではない彼に動いてもらうつもりはなかった。ここは幸い仕切りのカーテンもある。ならば、防音にさらに目隠しのシールドを張れば問題はない。
殿下の傍に行きカーテンで閉めてさらに指輪に触れて呪文を唱える。これで立派な個室の出来上がりだ。
「おまえ、随分便利な呪文覚えたな」
「そうですか?」
魔法士養成学校を卒業すればこれくらい誰でも出来る。現に殿下だって出来たはずだ。それでも今回は私がするべきなので私がした。
私は彼の傍にある丸い椅子に座って同じくらいの目線で真っ直ぐ見据える。すると、意外なことに彼も真っ直ぐ見つめ返してきた。
気だるげな色を湛える瞳に見つめ返されると少しドキッとする。頬が熱くなる前に私は口早に唇を動かした。
「ラギーさんに聞きましたよ。オーバーブロットした、と」
「ああ? 何であいつと知り合いなんだよ?」
途端に眉間に皺を寄せる殿下に私は説明する。彼が学校で殿下の世話をしていると小耳に挟んだことを。そこから小遣い稼ぎの感覚で報告を欲しいと。彼は一も、二もなく請け負ってくれた。
「チッ。余計なことしやがって」
「ええ。余計な真似をしてしまい申し訳ありません」
知らない間に自分の情報が流されていたのだ。不快な気分になるのも分かる。
「でも、彼は本当にたまに何かあったときだけです。今回久々の連絡だったのでもう私すごく驚きました」
彼は何も言わない。ただの、名ばかりの許嫁に言うことはないだろう。
「殿下。今日のマジフト大会楽しかったですか?」
「はぁ? 負けて楽しいわけねぇだろ」
と、言いつつ去年よりもすっきりとした顔をしている。彼はもう大丈夫なのだろう。
「なに笑ってやがる」
「いいえ。でも、憑き物が落ちた顔をしていますからオーバーブロットで楽になったのかと」
「お前、オーバーブロットが何か忘れたのかぁ?」
怪訝の眼差しに首を横に振って「理解しております」と答える。それでも溜まりに溜まったものがなくなったのだ。もうオーバーブロットさまさまだ。
「……なんか、話しが見ねぇな」
「失礼しました」
苛立った様子の殿下に一礼して私は改めて姿勢を正す。
「殿下。実はお願いがあります」
彼は目で先を促す。私の心臓は今更になって緊張に逸る。落ち着きたくて一度息を吐いて気合を入れて声を出す。
「婚約を破棄していただけませんでしょうか」
眉間の皺が寄って彼の鋭い犬歯がチラリと覗く。
「どういう了見だ?」
圧のある声に一瞬怯むが私は目を逸らさない。
「今回のオーバーブロットによりわたしくしは改めて自分が未熟者であると痛感いたしました。許嫁のわたしくしは殿下の御心に寄り添い、支えることが役目だと思っておりました。ですが、わたしくし、臆病者で目を背けてしまいました」
憑き物の落ちた殿下の顔を見やる。この殿下の顔を見ればもう理解した。幼い頃に決められた私は不必要なのだ。
「お前、本当に臆病者なんだな」
嘲笑うような瞳に私は何も言い返せない。
「ええ。臆病者の雌ライオンでございます」
だからこそ、今の私はあなたの傍にいることは出来ない。
「臆病者はもう一度出直したいってことか」
「っ!」
驚きに目を瞠る。すると、先ほどの嘲りを消しつつもどこか馬鹿者を見るような殿下がいた。そして、今この瞬間すべてのことが見透かされた。
「はっ。お前、馬鹿だな!」
喉を震わせて笑う殿下に私は言い返すことができない。寧ろ悔しい思いだ。
「おい。ここに座れ」
ポンポンとベッドの端を叩く殿下に言われるままに座ると――。
「っ!」
いきなり腕を引かれて寝たままの殿下の胸に上半身だけ飛び込む形になった。
「な、なにを」
驚いて顔を上げればとてつもなく愉快だと言わんばかりの殿下の顔があった。相変わらず野性味の溢れた整った顔立ちをしている。当代の王と、第二王子で貴族の娘たちが黄色い声を上げていたことを思い出す。そして、耐えられず私の頬は熱を帯びた。
「お前、俺に惚れているだろう」
楽しげな殿下の質問に私は答えない。とはいえ、無言は肯定と同じだ。
「婚約を破棄したところでお前は鍛え直すとか抜かして俺が卒業した頃に求婚しにでも来るつもりだったんじゃねぇか?」
これは愉快、愉快と言う声に私は顔を真っ赤にさせて黙りこくる。
そう。私は自分が不釣合いだと抜かしながら一から出直したあとに彼に求婚するつもりだった。過去に身分の低い男が王の娘である姫君に求婚したことがあると文献で残っている。ならば、私だってしても可笑しくないのではと。今度こそ彼を受け入れられるほど大きくなってみせると意気込んでいたことを見透かされてしまった。
「婚約破棄が不敬とか抜かす癖に、求婚はいいのかよ? あ?」
「くくっ、笑えるぜ」と喉を震わせてかみ殺したように笑う殿下に私の顔が下る。しかし、それも殿下に阻まれて無理矢理顔を上げられた。
「はっ! 顔が真っ赤だなぁ?」
「うっ、ぅ」
もう呻くことしかできない。
「耳が下ってるぜ」
「ひっ」
ペタンと伏せている耳がいきなり触れられた。そこに触れられたことなどない。異性は勿論、家族にだってない。
「さ、触らないでっ、くだ」
顔を振って振り払いたいが耳の付け根を触れられて力が出ない。寧ろ力がどんどん抜けていく。
「で、でんかぁっ」
「いいだろ。俺たち未熟者の婚約者同士だ」
「な、っ、殿下が未熟者なっ! ひっぅっ」
「あ? お前と同い年でダブってるライオンだぞ?」
未熟者だろ、と抜かす殿下にこれはフォロー出来なかった。
「おい。そこは違いますっていうところだろ」
「さ、流石に、それは……」
「あ?」
「ひぅ、あっぁ」
遠慮なく耳の付け根が弄られる。結婚前にこんなあられもない姿を見せるなど言語道断だ。ここが踏ん張りどきだ。
私はありったけの力を使って何とか殿下の悪戯に耐えた。暫くすると耳が解放された。息が乱れるのを何とか整えて殿下を睨むが彼はにやつくばかり。
「睨んでも迫力ねぇぞ」
笑う殿下に私は思い出したように先ほどの話しをする。
「で、殿下。それで婚約破棄の件は――」
「聞かなかったことにする。もう二度とその話はするな」
「殿下っ!」
声を張り上げるが彼はひと睨みするだけで終わる。私もこれ以上は何も言うことが出来なかった。項垂れたくなるが殿下の前でそのような姿を見せられない。
「殿下……言うときは早くしてくださいな」
「ふん。無駄な期待を持つな」
どういう意味の期待なのだろうか。言いたげな眼差しを向けていると殿下が不敵に笑った。今日はよく笑うな、と余裕をかましていたら目の前に殿下がいた。
「でん――」
彼を呼ぼうとした唇がにわかに塞がれた。不意に塞がれた唇はすぐに解放された。何が起きたことが分からなかったほどの年齢ではないけれど。
「なんだ、あんまり騒がねぇんだな」
つまらなそうに私の腕を解放する殿下。拘束から解放されると私はすぐに彼の上から退く。そして退いて頭を下げてシールドを解いて仕切りとなっていたカーテンから飛び出た。
王子の驚く声、殿下の学友たちの声も聞こえた。ついでに、高らかに笑う殿下の声も聞こえた。だけど、私はそれどころではない。それどころではないのだ。
私は走り続けた私は結局ナイトレイブンカレッジで迷子になるという恥ずかしい話を残してしまったのだった。
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