短編
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夜空に輝く大きくて丸くて明るい月。
現世では見たことないくらい明るいそれは夜だというのに影を作るくらい明るく空に留まっていた。
今日は満月。
この時代の夜は本当の闇だけれど、月が満ちているだけでこんなにも明るい。昔の人が月をよく詠んだのも納得だ。りんりんと耳を揺らす虫の声も相待って、照らされた全てが昼間とは別世界のよう。
「月見酒ですか」
「…頼重様」
縁側に一人座って酒を嗜んでいたら仕事を終えて私室へ戻るのだろう屋敷の主人が通りかかる。おなごがひとりでこんなところで、と小言をちょうだいしたのでここが一番綺麗に見えるものですから、と返す。この廊下を彼が通ればいいな、という下心もあったがここが一番綺麗に月を見上げられるスポットなのは本当だ。月を見ながら杯を傾ける私の横の板がぎしり、と鳴る。拳ふたつぶんくらいの近距離に頼重が座ったのでギョッと仰け反る。通ればいいな会えたらいいなとは思ったけどまさか隣に座ってくるとは。ご一緒しても?と形ばかりの伺いを立てられて赤べこのように頭を上下に揺らす。しまった、杯がひとつしかない。
気まずげに杯を見下ろして視線を彷徨わせる私に気づいた男はフ、と息を吐いて私の手の中の杯を攫う。え、と目で追えば手にした杯をこちらへずいと寄越して「私も一杯いただけまするか」と柔らかく笑んだ。白く照らされてこの世のものとは思えないほど美しい。神様みたい。あ、神様だった。
この時代の人って間接キスとか気にしないのかな、と思いつつ御当主様へ酒をねだられ拒否するわけにもいかず先ほどまで自分が口をつけていた杯へとくとくとお酌する。月を映した小さな泉を愛でるように見つめた男はグイッと一気に煽った。その一連のさまが全て美しかった。
酒も入ってほわほわと幸せなあたたかさに包まれていた私はずいぶん無防備に見惚れていたようだ。ばちり、と目が合い、やっと恥ずかしくなって空へと目を逸らした。
りんりんりんりん。
深い闇から声がする。その上にはやわらかく全てを照らす月。頰を掠める風が心地よい。
「…月が綺麗ですね」
心からの言葉だった。文字通りの意味だった。
現世では別の意味が有名すぎて気楽に口にできなくなったけれど、ここではそんな意味知る人もなし。ストレートに褒め言葉としてこのフレーズを言えるのって幸せだな。だって本当に綺麗なんだもの。思ったことをそのまま言いたい。なんてノンストレス。
静かな夜に似合う静かな賛辞だった。のに。
からぁん
耳障りな高い音が響いて驚いて横を見ると酒が少し残った杯が廊下に転がっていた。頼重が落としたのだ。あらあら、もう酔ったんですか?濡れてませんか?そう笑って杯を拾い、持ち主の顔を見上げれば、耳まで赤く染めて綺麗な瞳が溢れんばかりに見開かれた頼重と視線が絡む。え、もうそんな酔ったんですか?たった一杯で?とは言えない表情の彼に全身がざわめいた。
「そ、れは…未来的な意味で…?」
ここでは意味を知る人などいないはずだったのに。そういう意味ではなかったのに。
動揺した私は「そのままの意味で!」と大きな声で食い気味に返事をした。こちらの肝が潰れそうなくらい傷ついた顔になってしまった目の前の神様は渇いた笑い声を上げると誤魔化すように明るい声で言った。
「いやはや、未来では好意を伝えるのにそういう言い回しをすると拾いまして!はやとちりお恥ずかしい!そもそもこれは貴女のいた時代よりは過去の話のようですな!」
もう使わない表現でしたか!?そういうのを未来では死語というらしいですな!
滝のような汗をかきながら満面の笑みでベラベラ喋る男の、一寸前の顔が忘れられない。恥をかかせてしまった。どうしよう。黙ってしまった私と、喋ることがなくなってしまってそのままの表情で固まった頼重の間にしん…と気まずい空気が流れる。
りんりんりんりん。
虫だけがおしゃべりだ。
どくどくどくどく。
そんな虫の声が聞こえなくなるくらい、己の鼓動がうるさい。からからに乾いた唇を舐め、なんとか声を絞り出す。
「……月が、綺麗ですね」
「そうですな!今宵は一層明るく!」
「今のは未来的な意味です」
「は」
月ではなく虫のいるであろう闇を睨みつけている私の視界の端で白い物が跳ねた。間抜けな音を出して跳ねた後ぴくりとも動かなくなったソレに、ゆっくりと目線を向ける。
どくどくどくどく。
息をするのも忘れて、ギギギギと壊れた機械のようにぎこちなく隣へ顔を向ければ、先ほどとは比べ物にならないくらい首も耳も顔も真っ赤に染めた男の動揺して潤んだ瞳に自分が映った。口を袖で覆ったまま固まっている男と、自分の心音しか聞こえなくなった私。瞬きもできず見つめ合う。
月明かりに包まれて、世界に二人きり。
ああ、月よりも美しいなこの神様は。
遠くで人が話し合う声がして、静かな世界は唐突に現実へと戻った。
どちらも息を止めていたため、軽く咳き込み、二人でゲホゴホ咽せているのがおかしくてどちらともなく笑い出す。先ほどまでの静かな夜が嘘のようだ。ひとしきり笑った後、目尻の涙を拭った神様は「それで、」と優しく切り出した。
「嬉しい気持ちをお返しするのに何と言うのが作法なのか教えてくださいますか。そこまでは拾えておらぬゆえ」
「『死んでもいいわ』と返すのがお洒落とされていますね」
「なんと!…私は貴女と生きたいですけれど」
主に捧げた命ではあれど、悲願を達成させるその日まで、願わくばそのあとも、共に在りたい、出来れば隣で。
比喩もなくストレートに伝えられて、酒で上気していた頰が更に赤くなる。あつい、あつい。指先までどくどくと血が巡って波打っている。先ほどまで真っ赤になってフリーズしていたくせにどうしてそんな口説き文句をすらすら言えるの。ずるい男だ。
「月へ帰らず共に生きてくれるか?かぐや姫」
「あなたが私の月になるなら」
負けじと口説き返してやれば、驚いた顔のあと心底幸せそうに顔中に三日月を浮べる男に抱き寄せられた。至近距離で見上げた翡翠に自分が映る。白く照らされた端正な面が降ってくる。ああ、月よりも綺麗ですね。
受け入れるために目を閉じた。
現世では見たことないくらい明るいそれは夜だというのに影を作るくらい明るく空に留まっていた。
今日は満月。
この時代の夜は本当の闇だけれど、月が満ちているだけでこんなにも明るい。昔の人が月をよく詠んだのも納得だ。りんりんと耳を揺らす虫の声も相待って、照らされた全てが昼間とは別世界のよう。
「月見酒ですか」
「…頼重様」
縁側に一人座って酒を嗜んでいたら仕事を終えて私室へ戻るのだろう屋敷の主人が通りかかる。おなごがひとりでこんなところで、と小言をちょうだいしたのでここが一番綺麗に見えるものですから、と返す。この廊下を彼が通ればいいな、という下心もあったがここが一番綺麗に月を見上げられるスポットなのは本当だ。月を見ながら杯を傾ける私の横の板がぎしり、と鳴る。拳ふたつぶんくらいの近距離に頼重が座ったのでギョッと仰け反る。通ればいいな会えたらいいなとは思ったけどまさか隣に座ってくるとは。ご一緒しても?と形ばかりの伺いを立てられて赤べこのように頭を上下に揺らす。しまった、杯がひとつしかない。
気まずげに杯を見下ろして視線を彷徨わせる私に気づいた男はフ、と息を吐いて私の手の中の杯を攫う。え、と目で追えば手にした杯をこちらへずいと寄越して「私も一杯いただけまするか」と柔らかく笑んだ。白く照らされてこの世のものとは思えないほど美しい。神様みたい。あ、神様だった。
この時代の人って間接キスとか気にしないのかな、と思いつつ御当主様へ酒をねだられ拒否するわけにもいかず先ほどまで自分が口をつけていた杯へとくとくとお酌する。月を映した小さな泉を愛でるように見つめた男はグイッと一気に煽った。その一連のさまが全て美しかった。
酒も入ってほわほわと幸せなあたたかさに包まれていた私はずいぶん無防備に見惚れていたようだ。ばちり、と目が合い、やっと恥ずかしくなって空へと目を逸らした。
りんりんりんりん。
深い闇から声がする。その上にはやわらかく全てを照らす月。頰を掠める風が心地よい。
「…月が綺麗ですね」
心からの言葉だった。文字通りの意味だった。
現世では別の意味が有名すぎて気楽に口にできなくなったけれど、ここではそんな意味知る人もなし。ストレートに褒め言葉としてこのフレーズを言えるのって幸せだな。だって本当に綺麗なんだもの。思ったことをそのまま言いたい。なんてノンストレス。
静かな夜に似合う静かな賛辞だった。のに。
からぁん
耳障りな高い音が響いて驚いて横を見ると酒が少し残った杯が廊下に転がっていた。頼重が落としたのだ。あらあら、もう酔ったんですか?濡れてませんか?そう笑って杯を拾い、持ち主の顔を見上げれば、耳まで赤く染めて綺麗な瞳が溢れんばかりに見開かれた頼重と視線が絡む。え、もうそんな酔ったんですか?たった一杯で?とは言えない表情の彼に全身がざわめいた。
「そ、れは…未来的な意味で…?」
ここでは意味を知る人などいないはずだったのに。そういう意味ではなかったのに。
動揺した私は「そのままの意味で!」と大きな声で食い気味に返事をした。こちらの肝が潰れそうなくらい傷ついた顔になってしまった目の前の神様は渇いた笑い声を上げると誤魔化すように明るい声で言った。
「いやはや、未来では好意を伝えるのにそういう言い回しをすると拾いまして!はやとちりお恥ずかしい!そもそもこれは貴女のいた時代よりは過去の話のようですな!」
もう使わない表現でしたか!?そういうのを未来では死語というらしいですな!
滝のような汗をかきながら満面の笑みでベラベラ喋る男の、一寸前の顔が忘れられない。恥をかかせてしまった。どうしよう。黙ってしまった私と、喋ることがなくなってしまってそのままの表情で固まった頼重の間にしん…と気まずい空気が流れる。
りんりんりんりん。
虫だけがおしゃべりだ。
どくどくどくどく。
そんな虫の声が聞こえなくなるくらい、己の鼓動がうるさい。からからに乾いた唇を舐め、なんとか声を絞り出す。
「……月が、綺麗ですね」
「そうですな!今宵は一層明るく!」
「今のは未来的な意味です」
「は」
月ではなく虫のいるであろう闇を睨みつけている私の視界の端で白い物が跳ねた。間抜けな音を出して跳ねた後ぴくりとも動かなくなったソレに、ゆっくりと目線を向ける。
どくどくどくどく。
息をするのも忘れて、ギギギギと壊れた機械のようにぎこちなく隣へ顔を向ければ、先ほどとは比べ物にならないくらい首も耳も顔も真っ赤に染めた男の動揺して潤んだ瞳に自分が映った。口を袖で覆ったまま固まっている男と、自分の心音しか聞こえなくなった私。瞬きもできず見つめ合う。
月明かりに包まれて、世界に二人きり。
ああ、月よりも美しいなこの神様は。
遠くで人が話し合う声がして、静かな世界は唐突に現実へと戻った。
どちらも息を止めていたため、軽く咳き込み、二人でゲホゴホ咽せているのがおかしくてどちらともなく笑い出す。先ほどまでの静かな夜が嘘のようだ。ひとしきり笑った後、目尻の涙を拭った神様は「それで、」と優しく切り出した。
「嬉しい気持ちをお返しするのに何と言うのが作法なのか教えてくださいますか。そこまでは拾えておらぬゆえ」
「『死んでもいいわ』と返すのがお洒落とされていますね」
「なんと!…私は貴女と生きたいですけれど」
主に捧げた命ではあれど、悲願を達成させるその日まで、願わくばそのあとも、共に在りたい、出来れば隣で。
比喩もなくストレートに伝えられて、酒で上気していた頰が更に赤くなる。あつい、あつい。指先までどくどくと血が巡って波打っている。先ほどまで真っ赤になってフリーズしていたくせにどうしてそんな口説き文句をすらすら言えるの。ずるい男だ。
「月へ帰らず共に生きてくれるか?かぐや姫」
「あなたが私の月になるなら」
負けじと口説き返してやれば、驚いた顔のあと心底幸せそうに顔中に三日月を浮べる男に抱き寄せられた。至近距離で見上げた翡翠に自分が映る。白く照らされた端正な面が降ってくる。ああ、月よりも綺麗ですね。
受け入れるために目を閉じた。
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