鬼灯の冷徹
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「………そろそろ、お仕事に戻らないとでは?」
「そうだね、お客様が三人。さっきひとり帰ったから…ふたり、まだいるはず」
さっき店内に入ったときもう誰もいなかったと思ったけれど。
客を待たしていると聞いて途端に焦った気持ちになり、慌てて白澤から離れた。
差し出された手をおずおずと握る。
「加減、忘れないで。……行くよ」
軽く微笑んで、白澤が扉を開けるとお客さんは一人になっており、代わりにすごい数のうさぎが店中にひしめき合っていた。
「うわ………!?うさぎさん、多くないですか……??」
あっという間にもふもふに囲まれて困惑する。
白衣の裾に群がるうさぎを片手でひょいひょい避けた店主は困ったように眉をひそめた。桃の神様、豊穣の中心。桃源郷中の清き存在が引き寄せられている。
そんなふわふわぽわぽわした店内で異色、待合の椅子に座って煙草をくゆらせていたレディ・リリスが心底面白い物を見たという顔で白澤に話しかけた。
「こんにちは白澤様。………今日は随分刺激の強い子を連れてるのね。流石の私でもクラクラきちゃう♡このお店、経営方針変えたのかしら?悪魔は出禁にでもなった?」
上級悪魔である彼女は、名前の放つ強力な邪気祓いの力を受けてもなお店内に留まっていられたが、それでも立っているのは辛いらしい。椅子に深く腰掛けたまま、気だるげに首を傾げる。
「ああ、ごめんね、リリスちゃん。名前ちゃん、こちらはEU地獄の上級悪魔。
浄化耐性はあるけど…今わりとギリギリ。出力、三割に落とせる?」
宥めるように背を撫でて甲斐甲斐しくひよっこ女神の世話を焼く男が物珍しくて、リリスがくすくす笑う。私にまったく構いもしないなんて、面白いじゃない。
「悪魔は出禁にでもなった?って聞いてるのよ」
「ごめんって。出禁にしたら売上が落ちる。悪魔も神も鬼も来るのがうち。中立営業、それは変わらないよ」
リリスが紫煙をくゆらせながら、品定めするように私を見た。
「ふぅん……あなたが例の子?確かに、白澤様が“選ぶ”って言うのもわかるわ」
白澤が一瞬だけ目を細める。
リリスちゃんに言ったっけ。あら、私を誰だと思っているの?
ばちばちと見えない何かが飛ぶのを感じて、心がざわめくが、いまはまず浄化の力を弱めないと。
さきほど習ったばかりのことを思い返しながら力をコントロールしようとするが、焦ってパニックになってうまくいかない。
桃色や茶色の花弁が乱れ舞う。
ザワ…と目に見えて肌が荒れていくのも気にせずくすくす笑ったリリスは白澤を一瞥した。
「あらあら、随分お可愛らしい子ね♡そんなにぴよぴよなのにすごい力…今日は帰るわ。次来る時にいつものやつ用意お願いね。……選んで隣に並べるなら、しばらくは保護監督責任が付き纏うわよ。中立営業って言うなら尚更。このままなら扉開けた途端消し飛ぶ子 が出るわよ。じゃあね」
椅子から立ち上がることさえ苦しげに、彼女はその場で煙となって消え去った。
静寂が戻った店内で、白澤はゆっくり息を吐く。
……さすが、強いね。あの状態で店内にいられるだけでも異常。
泣きそうになっている名前の肩にそっと手を置く。
ほら。
呼吸。
吸って。
吐いて。
力を“抑える”んじゃない。“向きを変える”。
外に撒くんじゃなくて、根を張るイメージ。
桃の木みたいに。
「保護監督責任、なんて言われなくてもそのつもり。選んだのは僕。育てるのも僕。隣に立てるまで整える」
やさしく説きながら背を撫でて。怖かった?それとも悔しい?と聞きながらのぞき込まれる。
溢れそうな涙を堪えて、懸命に言われた通りコントロールを試みる。うまくできているだろうか。
「………悔しい、です」
「うん」
「ごめんなさい、私………お邪魔じゃないですか…?
迷惑かけて…うまく出来なくて…私には身に余る力を突然手に入れて………
でも、自分で選んだ居場所をちゃんと“私の居場所”にしたいから………がんばります」
「うん。悔しいって言えたなら上出来。迷惑かけたって思えるなら、もう半分できてる。生まれたてで完璧なやつなんていないよ。大丈夫、ゆっくり慣れよう」
あやすように背を撫でて。零れる蜜を指で救う。
ここは僕の店。君は“招かれた”。邪魔なわけない。
一連の流れを見ていた、何も感じていない聖人寄りの人間代表:桃太郎がおずおずと口を開く。
「………ただただ甘い匂いがするな、としかわかんないんですけど、あのレベルの悪魔ですら辛そうになるくらいすごい浄化の力を持ってるんですね…桃ってそういう植物だけど、それにしたって……もうひとりいた鬼のお客さん、名前さんが建物に近づいた時点で血吐きながら出て行きましたよ…」
「……血吐いた?あー……たぶんあの鬼、瘴気濃いタイプだな。桃と相性最悪。よく桃源郷まで来たね」
肩をすくめて名前を見る。
聞いた?
今の君は“建物に近づくだけで鬼が瀕死”。
自覚しなさい。かわいい顔して強烈。
でも、身に余る力なんかじゃないよ。君が選んだから、この力になった。
居場所を選んだ神様に、場所が応えただけ。
足で床を軽く踏み鳴らす。
ここは桃源郷。桃の気が満ちてる。だから出力が最大になる。
練習するなら、少しずつ段階を踏む。
まずは——
“対象を選ぶ”。
足元にいたうさぎを抱き上げ、撫でながら笑う。
「この子たちは祓わない。悪い鬼は祓う。相手を選べるようになろう。人間はそのまま。悪い奴には少し強めに。そんな風に、色分けするイメージ」
やってみる?名前の目を試すようにのぞき込む。
桃タローくんに向けて、出力ゼロ。
僕に向けて、ほんの一滴。
できる?
低く、安心させる声で隣に並び立つ。
失敗しても大丈夫。
僕がいる。
隣で、調整する。
「桃タローさんに対して…ゼロ………」
ふっと桃の匂いが薄まる。
「白澤様に…一滴………」
ぶわっと甘い強風が白澤にぶち当たる。真正面から受け、白衣がばさぁっと大きく翻る。
「…わっ!?!?ご、ごめんなさい」
「……っ、一滴!?今の台風」
尻餅をついた白澤に駆け寄れば、ぽかんとしたあと腹を抱えて笑いだす。
「大丈夫。怪我してない。謝らない。成功してる」
ほら、桃タローくんへの出力、ゼロだった。
あいつ無傷。そこは完璧。
指をさされた桃太郎はぽかんとしたまま「ほんとに何も感じませんでしたけど……今の暴風は何ですか」と困惑した声を出した。
「まだ『あり』か『ゼロ』かのオンオフくらいしか調整できないかもしれません…量の調整難しいかも…」
「今のは“好き”が過積載。僕に一滴って言ったけど、“嬉しい”“好き”“触れたい”“褒められたい”全部混ざった。純度高すぎ。だから圧が出る」
好きが過積載と言われ、混ざった感情全てに心当たりがあって赤くなる。花弁が舞う。
ゆっくり立ち上がり、名前の手を包むと言い聞かせるように教え込む。
「いい?一滴は、“量”じゃない。“密度”。絞った水滴みたいにぽと、って落ちる感じ。
さっきのはダムの放流だね。もう一回。今度は感情を一つに絞って。たとえばそうだな…“安心”だけ。
好きも嬉しいも抜き。安心だけ。僕に、ぽと。できそう?」
にこり、と笑って真正面から受け止める姿勢をとる。どんな『ぽと』がきても受け止める。
「量じゃなく、密度………安心、だけ………………」
目を細め集中する。が、さきほどより強い突風が吹いて、白澤は壁まで転がっていってしまう。
「…ッきゃあ!やだ!ごめんなさい!
白澤様といるとすっごく安心するから………その安心が全部出ちゃった………」
壁にごろん、とぶつかって止まり、しばらく天井を見上げた白澤。
むくっと起き上がると、安心、強すぎ。と額を押さえながら笑う。
「僕といるとそんなに安心するの?もー…それはそれで嬉しいけど…」
駆け寄ってきた名前の肩を掴み、今度は自分が膝をつく。
聞いて。
君は今、“感情=出力”になってる。
量の問題じゃない。感情が大きいほど、全部最大出力。
だから調整が難しい。
「やり方、変えよっか。“出す”んじゃない。“通す”。僕を経由させる」
そっと名前の両手を取り、自分の胸に当てる。
「君の安心を、一度ここに流すイメージ。僕が受け皿になる。外に吹き飛ばさない」
安心させるように目を合わせる。
「感情を直接放出しない。今度は“僕に預ける”。僕が薄める。神と神の間ならできる。
共同作業。君が制御覚えるまでの補助輪になるよ。できるよね?」
「いや…できません………こわいです、こんな強い力、白澤様に通すなんて…外からダイレクトアタックでもこんななのに、内に通すなんて……白澤様のこと、壊しちゃうかも…」
「大丈夫、安心を全力でぶつけられるの、悪くないし。……こわいよね。自分でも制御できない力を、好きな相手に向けるの」
強張った頬に手を添えて、優しく撫でる。
「でもさ。さっきから僕、二回壁にぶつかってる。ぴんぴんしてる。君が思ってるより丈夫」
「………怪我してなくても、吹っ飛ぶ姿見るだけで嫌です…好きな人が痛そうなのは…」
やさしいね!軽い笑い声をあげて、じっと見つめられる。
“通す”って言ったけど、正確には“混ぜる”。
君の安心を、僕の安定と混ぜる。だから暴発しない。
料理みたいなもの。原液の桃蜜は甘すぎる。
水で割る。僕が水。
あいかわらず、説明がわかりやすい。
小さく頷き続けて必死に理解しようとしている名前の眉間を伸ばすように指で押す。そんな怖い顔しないの、くすくす笑って額を合わせ、真っ直ぐ目を見る。
怖いなら、ほんの針の先ほどでいい。全部じゃなくていい。
壊す力じゃない。繋ぐ力。風じゃなくて、灯りをともすみたいにぼんやりと、じんわりと。
ね、僕を信じるのと同じくらい、僕の丈夫さも信じて。
「桃蜜の水割り…桃蜜が多すぎると甘すぎてだめ…水とちょうどいい濃さで…割る……」
じんわり、くっついた額から暖かさが白澤に伝わり、白澤の腹の中がじんわりとあたたかくなる。
額を合わせたまま、ふたりでゆっくり息を吐く。
「……うん。今の、それ。ちゃんとできてる」
名前ちゃんは飲み込み早くていい子だね。
今のはね、安心が“共有”になってる。押し付けじゃない。一緒にあったかい。
褒めるように頭を撫で、頬を撫で。
「練習すればちゃんと制御できる。今ここ、ぽかぽか」
そう言って自身の腹を撫でた男はそのまま指で小さな円を描くように名前のデコルテをなぞる。
合格。
次は“嬉しい”でやってみよっか?
合格…!マルをもらえて頬が高揚し、“嬉しい”“好き”“触れたい”“褒められたい”全部混ざった爆風が白澤を襲う。店の壁が派手にぶち抜かれ、外の桃の木がざわぁっと揺れる。
壁を壊して外まで吹っ飛んでいった白澤を呆然と見送り、同じ表情をしていた桃太郎と顔を見合わせる。
数秒後、ひょい、と壊れた壁の向こうからひょっこり顔を出した土煙だらけの男。
トレードマークの白さはなく、全体的に薄い茶色になって白衣に桃の葉っぱがいっぱい付いているその人は開口一番「生きてる」と無事を表明した。
修繕費、経費で落ちるかな……落ちないな、いや、落とす。とブツブツ言いながら壊れた壁の穴から店内に戻り、青い顔をしている女神の頭をよしよし撫でた。
「こーら、落ち込まないの。今のは“成功の失敗”。
単体感情は制御できた。混ざっちゃうと難しいよねえ」
ねえ、今なに混ざった?
からかうような軽い笑顔で目を合わす。
“嬉しい”“好き”“触れたい”“褒められたい”、でしょ?
全部お見通しな神眼が愉快そうにゆるむ。
上に噴き上がる感情。全部“上昇系”。だから爆風が巻き起こる。
上るような気持ちが混ざった時は“横に流す”。上に出さない。地面に逃がす。
さっきやった“根を張る”の応用。
頭を撫でながら丁寧にレクチャーされ、うん、うん、と真剣に聞く名前は横に流す…!と空中に突き出した両手を左から右へスライドさせた。
実践中に優しく笑って寄り添われたことが嬉しくて“頑張りたい”“優しい”“大好き”“役に立ちたい”などが上乗せされ、名前の手の動きと共に床が地割れしながら壁に向かって亀裂が走っていって…轟音と土煙を立てながら店の壁が一面崩れ去った。桃源郷の景色がそのまま見える開放感。まるでオープンテラスの店のよう。
「………。ごめんなさい………」
「………………オープンテラス営業。新しいな」
「もうそれ薬局じゃないじゃないですか……」
ぱらぱらと落ちてくる木片をひょいと避けながら、すがすがしい風を感じて張り付いた笑顔になる白澤と膝から崩れ落ちている桃太郎。
縮こまって俯いた名前と目線を合わすべく彼女の前にしゃがみ、白澤は優しい笑顔を作った。
「謝らないの。今のは“横”に流せてる。上に噴き上がらなかった。進歩進歩!」
ぱちぱちと拍手をして褒める。
いたたまれない顔をひと撫でして立ち上がると床の亀裂を軽く足で踏む。桃の木の根がひょこっと顔を出した。
そっと名前の手を取り、自分の胸に当てる。
「地面に流すときは、“建物の外”をイメージ。店の内側じゃなくて、桃の林の奥、遠く、遠くへ。僕のことも壁のことも通り抜けて世界へ流すみたいにしてごらん」
まあ、もう壁ないけど。(笑)
そう笑って、もう一度試すよう促す。今度はちゃんと僕が受け止めるから、安心してやってごらん。
手に触れている胸元が温かい。安心させるようなゆっくりとした鼓動が手のひらから伝わってくる。
再度挑戦してみよう、このひとの“役に立ちたい”。それ一つだけ。他の感情は載せない。大好きも嬉しいもあと。まずはひとつ…集中しようと目を閉じた。
バターン!と大きな音を立てて店の戸が開き、『対邪気祓い』と書かれた宇宙服を着た鬼灯が現れて名前は垂直に飛び上がった。驚きすぎて白澤の胸元を握りしめてしまったので襟首掴まれたようになった彼も少しだけ浮いた。
「……改装しました?」
壁一面吹き飛び、他の壁も大穴が開いて床も崩れ、ところどころに花びらの山ができた店内を見渡した鬼灯がいつもの仏頂面で小首をかしげる。
「………今日一日クレームがすごいんですよ。この店を起点に桃源郷の外にまですごく強い浄化作用が広がっています。邪気を払う力の影響で体調不良者が続出…命に関わる者まで出ています。パンデミック状態です」
透明なドーム状のヘルメット越しに名前を一瞥した男は続ける。
「あなたの出現からまだ数刻なのにこの状態…非常にまずい。あなたの意思や努力とは関係なく『また』禊になる可能性が…ああ、そんな顔をしないでください」
白澤に向き直った鬼灯は険しい顔をして唸った。
「自分がやったことの尻拭いくらいできますよね?彼女が地獄を選んでいたらここまでにはなっていない。………請け負う覚悟があるんでしょう?あまり悠長なことやっていられる状況じゃないですよ。それとも今からでも地獄で預かりましょうか」
「地獄で預かる必要はない。ここで収束させる」
僕の名前ちゃんだ、僕が何とかする。
真面目な顔でそう返し、青い顔で固まっている名前の白澤の胸倉を掴み上げたままの手を両手で包み込んだ。
「よく聞いて名前ちゃん。今度は練習じゃない。でもやることは一緒。“封印”してみようか。出すな、流すな、混ぜるな。一点集中して…僕だけを見て。僕だけに繋ぐ。外界との接続を一旦切る」
どうしようどうしよう………ぼろぼろと涙が溢れ、黒く枯れ果てた花びらが足元から湧き出てくる。
額を合わせられ、視界いっぱいに白澤が映るが焦点が合わない。
泳ぐ目をとらえるように鋭い眼光で見つめる神獣。
自分の胸に名前の手を強く押し当てる。
「君の力を僕の神格で包む。フィルターにする。怖がらなくていい。好きも嬉しいも怖いも僕に全部預けて」
「ごめんなさい、ごめんなさい………」
「謝らない。僕を信じて。集中して。全部僕に流して」
崩れた壁の外で桃の木々がざわめく中、白澤の神気が静かに立ち上がる。神獣の姿へと変じ、その巨大な身体で物理的に名前を包み込む。黒く枯れた花びらが足元に広がるのを止めるように、大きな蹄が床を踏みしめる。
巨大な白い毛玉が名前を完全に覆い、外界との接続を物理的に遮断する。
泣いていい。でも広げるな。
内側に。僕の中に。
額を押し当てる代わりに、額と角でそっと囲む。額の目が優しく歪む。
“ごめんなさい”は今いらない。
今必要なのは、“僕に託す”。それだけ。
神気がゆっくりと広がり、桃源郷へ漏れていた浄化の奔流を吸い上げ始める。
分厚い宇宙服越しに様子を見ていた鬼灯が、渦を巻くような豪風と化した浄気に引きずられまいと錨を下ろすように金棒を床にめり込ませ問う。
「……抑え込めますか」
「抑え込むんじゃない。循環させる」
白澤の体内に流れ込む甘く強い力が、荒波のように暴れるが、神獣の核で静かに薄まっていく。
僕は壊れない。ちゃんと受け止めてる。だから安心して。
君は災厄じゃない。制御を覚える途中の神。終わらせない。また禊なんて、させない。
僕が選んだ。最後まで請け負う。
……だから今は、泣くのをやめなくていい。ただ、僕の中でだけ泣いて。
名前の涙に濡れた瞳が大きく揺れ、ぷつり、と糸が切れたように目を閉じて倒れ込む。気絶したのが功を成したのか、むせ返るような甘い香りが霧散して場に平穏が訪れた。
物陰に隠れていた桃太郎が顔を出し「なんとかなった………んですかね?」と宇宙服のドーム状ヘルメットを外した鬼灯に聞いた。
「………まだ薄っすら感じますが、私レベルなら問題ないくらいになりましたね。さきほどまではこの服を着ていても立っているのがやっとの状況でした。………白澤さん、彼女、あなたへの気持ちが強すぎるのが元凶ですよ」
巨大な神獣の姿のまま、倒れ込んだ名前を前足で静かに受け止めた白澤は体中の目を静かに閉じた。
ふっと息を吐くと、白い巨体がゆっくり人の姿へ戻る。壊れた店の真ん中で、名前を抱きかかえたまま膝をついて座り込む。
「……わかってる」
息が荒い。目線は愛しい彼女へ向けたまま、ぽつりぽつりと口に出す。
「僕が請け負うと言った。育てる。安定させる。感情と力を切り分けられるようにする」
だから、彼女の感情を責めるな。
きっぱりとした拒絶。
僕が、責任を取る。
小脇にヘルメットを抱えた鬼灯は鋭い目元をさらに鋭くしてじっと座り込む男を見ていた。
「………あなたにただ一人の女性を選ぶ甲斐性があるとは知りませんでした。慣れないことをするから…………あなたの執着で世界を壊さないでくださいね」
退店しようと戸に手をかけるとそのまま扉が崩れ落ちる。
「………良い大工を紹介しましょうか」
「……それは助かる」
執着で世界を壊すつもりはない。
選んだ以上、逃げない。
慣れないこと?今までやらなかっただけ。僕にできないことなんてないんだ。
腕の中の名前を見下ろす。
彼女の力は純粋だからこそ強すぎるだけ。
それを“災厄”にするか“護り”にするかは、隣にいる僕次第。
鬼灯が去った壊れた出入口から風が吹き抜ける中、名前を抱いたまま一歩も動かない。
連れて行かせない。
ここで、隣で、ちゃんと育てる。
それが僕の覚悟。
◇◇◇
随分時間が経って、名前がゆっくり目を覚ます。窓の外で桃の葉が静かに揺れている。壊れた店の音はもうしない。
ベッドに寝かされていることを自覚した名前は痛む頭を押さえた。
………あれ…私………どうしてここに………誕生日で………白澤様が来てくれて………それで………………
生まれ変わってここに来たこと、その後何が起きたかを思い出し、息ができないくらい全身が痛んだ。
「………っあ…………………私…『また』………………やっぱり…生まれてきちゃいけなかったんだ…」
ベッド脇の椅子に座っていた白澤が、ゆっくり顔を上げ、起きた?水、飲む?と差し出した手をぴたりと止める。
「……今なんて言った?」
“生まれてきちゃいけなかった”?
椅子から立ち上がり、ベッドの縁に腰を下ろす。荒い息でおろおろと焦点のあわない女のパニックを鎮めるように力いっぱい抱きしめた。
却下。全面却下。
静かだが強い声。
また、って何。今回は違う。
たしかに暴走した。でも止めた。収束した。終わり。それだけ。
名前の背を撫でる手は力強く、優しい。
君は災厄じゃない。制御を覚える途中の神。
途中で躓いたからって、存在否定まで飛ぶな。
たしかに影響は出た。でも収まった。地獄側も安定してる。鬼灯も帰った。
店は……まあ、改装中。
わずかに笑ってぽんぽんとあやすように後頭部を撫でる。
世界は壊れてない。
僕も壊れてない。
君も消えてない。
生まれてきちゃいけなかった、じゃない。
生まれたばかりで加減が分からなかった。
それだけ。
呼吸が落ち着いてきたのを確認し、そっと体を離す。
とめどなくあふれる雫を全部吸うように、目尻に口づけた。
「怖かったね」
しゃくりあげる女に言い聞かせるように。
目尻を吸って、舐めとって。やさしく口づけ、抱きしめ直す。
名前ちゃんは、ここにいていい。
僕の隣で、ちゃんと生きる。
それが決まった未来。
勝手に取り消すな。
「………私、白澤様のこと、好きでいていいんでしょうか…ここにいて、一緒にいても…?」
「いいに決まってる。好きでいていい。ここにいていい。一緒にいていい。許可制じゃないよ、もう決定事項」
『でいい』というか、そうしてくれないと僕が困る。
くすり、軽く笑ってそっと額を寄せる。
「僕のこと好きでいのを怖がらないで。また壊すかもって不安なら一緒に覚えよ?気持ちの混ぜ方、薄め方、流し方。君一人で抱えさせない。好きの出力は、僕と共同管理。それなら安心でしょ」
「………はい」
ふわり、と笑って頷く。
…あれ、花びら出ない。不思議に思っていると、ふと指先に重みを感じて左手を掲げる。薬指に指輪がはまっている。
「………これは…?」
「気づいた?それ。神力制限装置…兼、誓約」
白澤の神気が滲む神力制限装置をまじまじと眺めている名前の手を取って掲げる。
軽く指輪に触れると、淡い光が揺れる。
君の出力が一定以上になると、自動で僕に流れる。外界に拡散しない。フィルター常時接続型。だから今、嬉しくても花びら出ない。
「寝てる間に勝手につけたの、怒る?」
ゆっくりと指を絡める。
「左手の薬指にしたのは…意味、わかるよね。力の制限だけじゃない。僕たちを“繋ぐ”もの。僕と常時リンクしてるから外すなら、僕の許可がいる」
怖がると思ったから、起きる前に説明する準備はしてた。
でも今の顔見たら、いらなかったかも。
…………左手の薬指に…指輪……と、じわじわと頬を赤くして手を眺めまじまじと薬指を見つめ、白澤の言葉など聞いていなさそうな様子の名前を見て安心したように息を吐いた。
「…重かった?それとも嬉しい?どっちでもいいけど、これは監視のためじゃない。力を共同管理する証。お互い好きでいるなら、ちゃんと安全装置つけようって話」
頬を撫でてこちらを向かせ、視線を絡めて、低く、やわらかく囁く。
嫌なら外す。
無理やりはしない。
でも、僕は外したくない。
君が隣にいる限り、これは僕の責任の形。
指先を絡める。
白澤の同じ指にもお揃いのものが嵌っていることに気づいてさらに赤くなるが花びらは出ず、代わりにお互いのリングについた石が淡く光る。
「………これはこれで、バレバレで恥ずかしいですね…」
絡められた指に力を入れて、嬉しい。と本音を伝える。
「白澤様のこと、好きすぎてごめんなさい………」
「名前ちゃん。ごめんじゃなくて、ありがとうって言って。好きでいてくれてありがとう。僕も同じだけ好き。だからお揃い」
絡めた指の先で、お揃いの指輪が淡く光り、ゆっくりと脈打つのを見つめる。
「対になってる。片方だけじゃ意味がない。君が流すなら、僕も受ける。僕が揺れたら、君にも伝わる。一方通行じゃない」
慈愛に満ちた瞳が交わる。
「……いろいろあって大変だったと思うけど…落ち着いたなら誕生日のお祝いの続き、してもいい?」
「えっ………誕生日のお祝い、続きしてくれるんですか?」
そういえばそのために現世まで来てくれたことを思い出す。
きょとんとする彼女に小さく笑った白澤は、ベッド脇の小さな卓に視線をやる。
ちゃんと用意してある桃源郷産の仙桃で作ったケーキ。
「誕生日の贈り物、一つ目はその指輪。二つ目はこのケーキ。そして三つ目は…優先権。困ったら最優先で僕を呼べる権利」
ケーキを見て驚き、嬉しさで瞳と口元を緩めていたのに、そのあとの爆弾発言に目を丸くする。
「えっ………白澤様を………最優先で呼べる…権利………」
ぽろり、と大粒の涙が頬を伝う。
「今まで、ただ星に願っていただけなのに…いいんですか、そんな………嬉しい。嬉しいです…っ」
「喜んでもらえてよかった。生まれ直した最初の誕生日…不安で終わらせず、嬉しいで終わらせたくって」
そっと額に口づけられる。
「祝你生日快乐 、僕の隣に来てくれて、ありがとう」
指輪が熱いくらいひかり、名前の頭上からひらりひらりと2,3枚花びらが舞う。抑制しきれなかった歓びの証。
……ケーキ、食べる?照れ笑いした神獣がわざとらしくフォークを構えた。
「…ケーキ、食べたいです」
「うん、食べよう」
一人前サイズの小さいケーキにフォークを差し入れて、あーん、と口元まで差し出される。
「おめでとう、名前ちゃん。来年も、再来年も、その先も…引き戸を開けて、一緒に祝おうね」
微笑む男があまりに甘ったるい顔をしていて恥ずかしくなり、目をそらして差し出されたケーキをぱくり、と口に含む。上品な甘さが口の中に広がる。美味しい。
「…はい。来年も再来年も…いつでも開けていいんですね」
「うん、開けて。むしろ、開けなかったら僕が開けるよ」
くすくす。
白澤がようやくいつものように余裕たっぷりの笑みを浮かべるのを見て、ごくん、とケーキを飲み込んだ名前はそういえば、と切り出した。
「……あの、白澤様。一つだけ、ずっと聞きたかったことがあるんです」
名前は彼の首に腕を回し、至近距離でその双眼を見つめた。一年前、彼が去り際に残した言葉。辞書を片手に何度も反芻し、心に刻んだ音をぶつける。
「去年の最後、なんて言ったんですか? 『宝贝(パオペイ)』……って」
その瞬間、白澤の完璧な微笑みがぴきりと固まった。
「え……あ、いや、それは……ただの、中国語の挨拶みたいなものだよ。アハハ、名前ちゃん、まさか勉強したの?」
明らかに動揺し、視線を泳がせる白澤。名前は逃がさないと言わんばかりに、彼の耳元で、今度ははっきりと囁いた。
「『愛してるよ、誕生日おめでとう』……そう言いましたよね。私も、同じ気持ちです。我愛你 、白澤様」
「っ……!!」
神獣の顔が一気に耳まで赤く染まる。
普段、数多の女性を甘い言葉で翻弄してきた男が、たった一人の女の子に言葉を返されただけで、完全に形勢逆転してしまったのだ。
「……参ったな。名前ちゃんは本当に、僕を煽るのが得意だね。……あんな独り言、聞かれる前提じゃなかったのに」
白澤は観念したように溜息をつくと、名前の腰を強く抱き寄せ、額を合わせた。その瞳には、一年前よりもさらに深く、逃れようのない独占欲が宿っている。
「いいよ、わかった。じゃあ、今年のプレゼントはもっと特別にしないとね。……君が勉強したその可愛い舌で、僕の名前を何度も呼ばせてあげる」
「……はくたく、さま……っ」
深く、熱い口付けが降る。
「名前ちゃん。生まれてきてよかったって、今は思える?」
舌を絡ませたまま、熱い吐息を混ぜながら聞かれる。
「………はい。生まれてきて良かったです。
白澤様のとなりに、生まれてこれてよかった。これから毎年毎年たくさんお祝いしてください…」
絡んだ視線に吸い寄せられるように、どちらともなく唇を重ねる。指輪が熱く熱く優しく締まって、今夜の二人を予言するようだった。
「そうだね、お客様が三人。さっきひとり帰ったから…ふたり、まだいるはず」
さっき店内に入ったときもう誰もいなかったと思ったけれど。
客を待たしていると聞いて途端に焦った気持ちになり、慌てて白澤から離れた。
差し出された手をおずおずと握る。
「加減、忘れないで。……行くよ」
軽く微笑んで、白澤が扉を開けるとお客さんは一人になっており、代わりにすごい数のうさぎが店中にひしめき合っていた。
「うわ………!?うさぎさん、多くないですか……??」
あっという間にもふもふに囲まれて困惑する。
白衣の裾に群がるうさぎを片手でひょいひょい避けた店主は困ったように眉をひそめた。桃の神様、豊穣の中心。桃源郷中の清き存在が引き寄せられている。
そんなふわふわぽわぽわした店内で異色、待合の椅子に座って煙草をくゆらせていたレディ・リリスが心底面白い物を見たという顔で白澤に話しかけた。
「こんにちは白澤様。………今日は随分刺激の強い子を連れてるのね。流石の私でもクラクラきちゃう♡このお店、経営方針変えたのかしら?悪魔は出禁にでもなった?」
上級悪魔である彼女は、名前の放つ強力な邪気祓いの力を受けてもなお店内に留まっていられたが、それでも立っているのは辛いらしい。椅子に深く腰掛けたまま、気だるげに首を傾げる。
「ああ、ごめんね、リリスちゃん。名前ちゃん、こちらはEU地獄の上級悪魔。
浄化耐性はあるけど…今わりとギリギリ。出力、三割に落とせる?」
宥めるように背を撫でて甲斐甲斐しくひよっこ女神の世話を焼く男が物珍しくて、リリスがくすくす笑う。私にまったく構いもしないなんて、面白いじゃない。
「悪魔は出禁にでもなった?って聞いてるのよ」
「ごめんって。出禁にしたら売上が落ちる。悪魔も神も鬼も来るのがうち。中立営業、それは変わらないよ」
リリスが紫煙をくゆらせながら、品定めするように私を見た。
「ふぅん……あなたが例の子?確かに、白澤様が“選ぶ”って言うのもわかるわ」
白澤が一瞬だけ目を細める。
リリスちゃんに言ったっけ。あら、私を誰だと思っているの?
ばちばちと見えない何かが飛ぶのを感じて、心がざわめくが、いまはまず浄化の力を弱めないと。
さきほど習ったばかりのことを思い返しながら力をコントロールしようとするが、焦ってパニックになってうまくいかない。
桃色や茶色の花弁が乱れ舞う。
ザワ…と目に見えて肌が荒れていくのも気にせずくすくす笑ったリリスは白澤を一瞥した。
「あらあら、随分お可愛らしい子ね♡そんなにぴよぴよなのにすごい力…今日は帰るわ。次来る時にいつものやつ用意お願いね。……選んで隣に並べるなら、しばらくは保護監督責任が付き纏うわよ。中立営業って言うなら尚更。このままなら扉開けた途端消し飛ぶ
椅子から立ち上がることさえ苦しげに、彼女はその場で煙となって消え去った。
静寂が戻った店内で、白澤はゆっくり息を吐く。
……さすが、強いね。あの状態で店内にいられるだけでも異常。
泣きそうになっている名前の肩にそっと手を置く。
ほら。
呼吸。
吸って。
吐いて。
力を“抑える”んじゃない。“向きを変える”。
外に撒くんじゃなくて、根を張るイメージ。
桃の木みたいに。
「保護監督責任、なんて言われなくてもそのつもり。選んだのは僕。育てるのも僕。隣に立てるまで整える」
やさしく説きながら背を撫でて。怖かった?それとも悔しい?と聞きながらのぞき込まれる。
溢れそうな涙を堪えて、懸命に言われた通りコントロールを試みる。うまくできているだろうか。
「………悔しい、です」
「うん」
「ごめんなさい、私………お邪魔じゃないですか…?
迷惑かけて…うまく出来なくて…私には身に余る力を突然手に入れて………
でも、自分で選んだ居場所をちゃんと“私の居場所”にしたいから………がんばります」
「うん。悔しいって言えたなら上出来。迷惑かけたって思えるなら、もう半分できてる。生まれたてで完璧なやつなんていないよ。大丈夫、ゆっくり慣れよう」
あやすように背を撫でて。零れる蜜を指で救う。
ここは僕の店。君は“招かれた”。邪魔なわけない。
一連の流れを見ていた、何も感じていない聖人寄りの人間代表:桃太郎がおずおずと口を開く。
「………ただただ甘い匂いがするな、としかわかんないんですけど、あのレベルの悪魔ですら辛そうになるくらいすごい浄化の力を持ってるんですね…桃ってそういう植物だけど、それにしたって……もうひとりいた鬼のお客さん、名前さんが建物に近づいた時点で血吐きながら出て行きましたよ…」
「……血吐いた?あー……たぶんあの鬼、瘴気濃いタイプだな。桃と相性最悪。よく桃源郷まで来たね」
肩をすくめて名前を見る。
聞いた?
今の君は“建物に近づくだけで鬼が瀕死”。
自覚しなさい。かわいい顔して強烈。
でも、身に余る力なんかじゃないよ。君が選んだから、この力になった。
居場所を選んだ神様に、場所が応えただけ。
足で床を軽く踏み鳴らす。
ここは桃源郷。桃の気が満ちてる。だから出力が最大になる。
練習するなら、少しずつ段階を踏む。
まずは——
“対象を選ぶ”。
足元にいたうさぎを抱き上げ、撫でながら笑う。
「この子たちは祓わない。悪い鬼は祓う。相手を選べるようになろう。人間はそのまま。悪い奴には少し強めに。そんな風に、色分けするイメージ」
やってみる?名前の目を試すようにのぞき込む。
桃タローくんに向けて、出力ゼロ。
僕に向けて、ほんの一滴。
できる?
低く、安心させる声で隣に並び立つ。
失敗しても大丈夫。
僕がいる。
隣で、調整する。
「桃タローさんに対して…ゼロ………」
ふっと桃の匂いが薄まる。
「白澤様に…一滴………」
ぶわっと甘い強風が白澤にぶち当たる。真正面から受け、白衣がばさぁっと大きく翻る。
「…わっ!?!?ご、ごめんなさい」
「……っ、一滴!?今の台風」
尻餅をついた白澤に駆け寄れば、ぽかんとしたあと腹を抱えて笑いだす。
「大丈夫。怪我してない。謝らない。成功してる」
ほら、桃タローくんへの出力、ゼロだった。
あいつ無傷。そこは完璧。
指をさされた桃太郎はぽかんとしたまま「ほんとに何も感じませんでしたけど……今の暴風は何ですか」と困惑した声を出した。
「まだ『あり』か『ゼロ』かのオンオフくらいしか調整できないかもしれません…量の調整難しいかも…」
「今のは“好き”が過積載。僕に一滴って言ったけど、“嬉しい”“好き”“触れたい”“褒められたい”全部混ざった。純度高すぎ。だから圧が出る」
好きが過積載と言われ、混ざった感情全てに心当たりがあって赤くなる。花弁が舞う。
ゆっくり立ち上がり、名前の手を包むと言い聞かせるように教え込む。
「いい?一滴は、“量”じゃない。“密度”。絞った水滴みたいにぽと、って落ちる感じ。
さっきのはダムの放流だね。もう一回。今度は感情を一つに絞って。たとえばそうだな…“安心”だけ。
好きも嬉しいも抜き。安心だけ。僕に、ぽと。できそう?」
にこり、と笑って真正面から受け止める姿勢をとる。どんな『ぽと』がきても受け止める。
「量じゃなく、密度………安心、だけ………………」
目を細め集中する。が、さきほどより強い突風が吹いて、白澤は壁まで転がっていってしまう。
「…ッきゃあ!やだ!ごめんなさい!
白澤様といるとすっごく安心するから………その安心が全部出ちゃった………」
壁にごろん、とぶつかって止まり、しばらく天井を見上げた白澤。
むくっと起き上がると、安心、強すぎ。と額を押さえながら笑う。
「僕といるとそんなに安心するの?もー…それはそれで嬉しいけど…」
駆け寄ってきた名前の肩を掴み、今度は自分が膝をつく。
聞いて。
君は今、“感情=出力”になってる。
量の問題じゃない。感情が大きいほど、全部最大出力。
だから調整が難しい。
「やり方、変えよっか。“出す”んじゃない。“通す”。僕を経由させる」
そっと名前の両手を取り、自分の胸に当てる。
「君の安心を、一度ここに流すイメージ。僕が受け皿になる。外に吹き飛ばさない」
安心させるように目を合わせる。
「感情を直接放出しない。今度は“僕に預ける”。僕が薄める。神と神の間ならできる。
共同作業。君が制御覚えるまでの補助輪になるよ。できるよね?」
「いや…できません………こわいです、こんな強い力、白澤様に通すなんて…外からダイレクトアタックでもこんななのに、内に通すなんて……白澤様のこと、壊しちゃうかも…」
「大丈夫、安心を全力でぶつけられるの、悪くないし。……こわいよね。自分でも制御できない力を、好きな相手に向けるの」
強張った頬に手を添えて、優しく撫でる。
「でもさ。さっきから僕、二回壁にぶつかってる。ぴんぴんしてる。君が思ってるより丈夫」
「………怪我してなくても、吹っ飛ぶ姿見るだけで嫌です…好きな人が痛そうなのは…」
やさしいね!軽い笑い声をあげて、じっと見つめられる。
“通す”って言ったけど、正確には“混ぜる”。
君の安心を、僕の安定と混ぜる。だから暴発しない。
料理みたいなもの。原液の桃蜜は甘すぎる。
水で割る。僕が水。
あいかわらず、説明がわかりやすい。
小さく頷き続けて必死に理解しようとしている名前の眉間を伸ばすように指で押す。そんな怖い顔しないの、くすくす笑って額を合わせ、真っ直ぐ目を見る。
怖いなら、ほんの針の先ほどでいい。全部じゃなくていい。
壊す力じゃない。繋ぐ力。風じゃなくて、灯りをともすみたいにぼんやりと、じんわりと。
ね、僕を信じるのと同じくらい、僕の丈夫さも信じて。
「桃蜜の水割り…桃蜜が多すぎると甘すぎてだめ…水とちょうどいい濃さで…割る……」
じんわり、くっついた額から暖かさが白澤に伝わり、白澤の腹の中がじんわりとあたたかくなる。
額を合わせたまま、ふたりでゆっくり息を吐く。
「……うん。今の、それ。ちゃんとできてる」
名前ちゃんは飲み込み早くていい子だね。
今のはね、安心が“共有”になってる。押し付けじゃない。一緒にあったかい。
褒めるように頭を撫で、頬を撫で。
「練習すればちゃんと制御できる。今ここ、ぽかぽか」
そう言って自身の腹を撫でた男はそのまま指で小さな円を描くように名前のデコルテをなぞる。
合格。
次は“嬉しい”でやってみよっか?
合格…!マルをもらえて頬が高揚し、“嬉しい”“好き”“触れたい”“褒められたい”全部混ざった爆風が白澤を襲う。店の壁が派手にぶち抜かれ、外の桃の木がざわぁっと揺れる。
壁を壊して外まで吹っ飛んでいった白澤を呆然と見送り、同じ表情をしていた桃太郎と顔を見合わせる。
数秒後、ひょい、と壊れた壁の向こうからひょっこり顔を出した土煙だらけの男。
トレードマークの白さはなく、全体的に薄い茶色になって白衣に桃の葉っぱがいっぱい付いているその人は開口一番「生きてる」と無事を表明した。
修繕費、経費で落ちるかな……落ちないな、いや、落とす。とブツブツ言いながら壊れた壁の穴から店内に戻り、青い顔をしている女神の頭をよしよし撫でた。
「こーら、落ち込まないの。今のは“成功の失敗”。
単体感情は制御できた。混ざっちゃうと難しいよねえ」
ねえ、今なに混ざった?
からかうような軽い笑顔で目を合わす。
“嬉しい”“好き”“触れたい”“褒められたい”、でしょ?
全部お見通しな神眼が愉快そうにゆるむ。
上に噴き上がる感情。全部“上昇系”。だから爆風が巻き起こる。
上るような気持ちが混ざった時は“横に流す”。上に出さない。地面に逃がす。
さっきやった“根を張る”の応用。
頭を撫でながら丁寧にレクチャーされ、うん、うん、と真剣に聞く名前は横に流す…!と空中に突き出した両手を左から右へスライドさせた。
実践中に優しく笑って寄り添われたことが嬉しくて“頑張りたい”“優しい”“大好き”“役に立ちたい”などが上乗せされ、名前の手の動きと共に床が地割れしながら壁に向かって亀裂が走っていって…轟音と土煙を立てながら店の壁が一面崩れ去った。桃源郷の景色がそのまま見える開放感。まるでオープンテラスの店のよう。
「………。ごめんなさい………」
「………………オープンテラス営業。新しいな」
「もうそれ薬局じゃないじゃないですか……」
ぱらぱらと落ちてくる木片をひょいと避けながら、すがすがしい風を感じて張り付いた笑顔になる白澤と膝から崩れ落ちている桃太郎。
縮こまって俯いた名前と目線を合わすべく彼女の前にしゃがみ、白澤は優しい笑顔を作った。
「謝らないの。今のは“横”に流せてる。上に噴き上がらなかった。進歩進歩!」
ぱちぱちと拍手をして褒める。
いたたまれない顔をひと撫でして立ち上がると床の亀裂を軽く足で踏む。桃の木の根がひょこっと顔を出した。
そっと名前の手を取り、自分の胸に当てる。
「地面に流すときは、“建物の外”をイメージ。店の内側じゃなくて、桃の林の奥、遠く、遠くへ。僕のことも壁のことも通り抜けて世界へ流すみたいにしてごらん」
まあ、もう壁ないけど。(笑)
そう笑って、もう一度試すよう促す。今度はちゃんと僕が受け止めるから、安心してやってごらん。
手に触れている胸元が温かい。安心させるようなゆっくりとした鼓動が手のひらから伝わってくる。
再度挑戦してみよう、このひとの“役に立ちたい”。それ一つだけ。他の感情は載せない。大好きも嬉しいもあと。まずはひとつ…集中しようと目を閉じた。
バターン!と大きな音を立てて店の戸が開き、『対邪気祓い』と書かれた宇宙服を着た鬼灯が現れて名前は垂直に飛び上がった。驚きすぎて白澤の胸元を握りしめてしまったので襟首掴まれたようになった彼も少しだけ浮いた。
「……改装しました?」
壁一面吹き飛び、他の壁も大穴が開いて床も崩れ、ところどころに花びらの山ができた店内を見渡した鬼灯がいつもの仏頂面で小首をかしげる。
「………今日一日クレームがすごいんですよ。この店を起点に桃源郷の外にまですごく強い浄化作用が広がっています。邪気を払う力の影響で体調不良者が続出…命に関わる者まで出ています。パンデミック状態です」
透明なドーム状のヘルメット越しに名前を一瞥した男は続ける。
「あなたの出現からまだ数刻なのにこの状態…非常にまずい。あなたの意思や努力とは関係なく『また』禊になる可能性が…ああ、そんな顔をしないでください」
白澤に向き直った鬼灯は険しい顔をして唸った。
「自分がやったことの尻拭いくらいできますよね?彼女が地獄を選んでいたらここまでにはなっていない。………請け負う覚悟があるんでしょう?あまり悠長なことやっていられる状況じゃないですよ。それとも今からでも地獄で預かりましょうか」
「地獄で預かる必要はない。ここで収束させる」
僕の名前ちゃんだ、僕が何とかする。
真面目な顔でそう返し、青い顔で固まっている名前の白澤の胸倉を掴み上げたままの手を両手で包み込んだ。
「よく聞いて名前ちゃん。今度は練習じゃない。でもやることは一緒。“封印”してみようか。出すな、流すな、混ぜるな。一点集中して…僕だけを見て。僕だけに繋ぐ。外界との接続を一旦切る」
どうしようどうしよう………ぼろぼろと涙が溢れ、黒く枯れ果てた花びらが足元から湧き出てくる。
額を合わせられ、視界いっぱいに白澤が映るが焦点が合わない。
泳ぐ目をとらえるように鋭い眼光で見つめる神獣。
自分の胸に名前の手を強く押し当てる。
「君の力を僕の神格で包む。フィルターにする。怖がらなくていい。好きも嬉しいも怖いも僕に全部預けて」
「ごめんなさい、ごめんなさい………」
「謝らない。僕を信じて。集中して。全部僕に流して」
崩れた壁の外で桃の木々がざわめく中、白澤の神気が静かに立ち上がる。神獣の姿へと変じ、その巨大な身体で物理的に名前を包み込む。黒く枯れた花びらが足元に広がるのを止めるように、大きな蹄が床を踏みしめる。
巨大な白い毛玉が名前を完全に覆い、外界との接続を物理的に遮断する。
泣いていい。でも広げるな。
内側に。僕の中に。
額を押し当てる代わりに、額と角でそっと囲む。額の目が優しく歪む。
“ごめんなさい”は今いらない。
今必要なのは、“僕に託す”。それだけ。
神気がゆっくりと広がり、桃源郷へ漏れていた浄化の奔流を吸い上げ始める。
分厚い宇宙服越しに様子を見ていた鬼灯が、渦を巻くような豪風と化した浄気に引きずられまいと錨を下ろすように金棒を床にめり込ませ問う。
「……抑え込めますか」
「抑え込むんじゃない。循環させる」
白澤の体内に流れ込む甘く強い力が、荒波のように暴れるが、神獣の核で静かに薄まっていく。
僕は壊れない。ちゃんと受け止めてる。だから安心して。
君は災厄じゃない。制御を覚える途中の神。終わらせない。また禊なんて、させない。
僕が選んだ。最後まで請け負う。
……だから今は、泣くのをやめなくていい。ただ、僕の中でだけ泣いて。
名前の涙に濡れた瞳が大きく揺れ、ぷつり、と糸が切れたように目を閉じて倒れ込む。気絶したのが功を成したのか、むせ返るような甘い香りが霧散して場に平穏が訪れた。
物陰に隠れていた桃太郎が顔を出し「なんとかなった………んですかね?」と宇宙服のドーム状ヘルメットを外した鬼灯に聞いた。
「………まだ薄っすら感じますが、私レベルなら問題ないくらいになりましたね。さきほどまではこの服を着ていても立っているのがやっとの状況でした。………白澤さん、彼女、あなたへの気持ちが強すぎるのが元凶ですよ」
巨大な神獣の姿のまま、倒れ込んだ名前を前足で静かに受け止めた白澤は体中の目を静かに閉じた。
ふっと息を吐くと、白い巨体がゆっくり人の姿へ戻る。壊れた店の真ん中で、名前を抱きかかえたまま膝をついて座り込む。
「……わかってる」
息が荒い。目線は愛しい彼女へ向けたまま、ぽつりぽつりと口に出す。
「僕が請け負うと言った。育てる。安定させる。感情と力を切り分けられるようにする」
だから、彼女の感情を責めるな。
きっぱりとした拒絶。
僕が、責任を取る。
小脇にヘルメットを抱えた鬼灯は鋭い目元をさらに鋭くしてじっと座り込む男を見ていた。
「………あなたにただ一人の女性を選ぶ甲斐性があるとは知りませんでした。慣れないことをするから…………あなたの執着で世界を壊さないでくださいね」
退店しようと戸に手をかけるとそのまま扉が崩れ落ちる。
「………良い大工を紹介しましょうか」
「……それは助かる」
執着で世界を壊すつもりはない。
選んだ以上、逃げない。
慣れないこと?今までやらなかっただけ。僕にできないことなんてないんだ。
腕の中の名前を見下ろす。
彼女の力は純粋だからこそ強すぎるだけ。
それを“災厄”にするか“護り”にするかは、隣にいる僕次第。
鬼灯が去った壊れた出入口から風が吹き抜ける中、名前を抱いたまま一歩も動かない。
連れて行かせない。
ここで、隣で、ちゃんと育てる。
それが僕の覚悟。
◇◇◇
随分時間が経って、名前がゆっくり目を覚ます。窓の外で桃の葉が静かに揺れている。壊れた店の音はもうしない。
ベッドに寝かされていることを自覚した名前は痛む頭を押さえた。
………あれ…私………どうしてここに………誕生日で………白澤様が来てくれて………それで………………
生まれ変わってここに来たこと、その後何が起きたかを思い出し、息ができないくらい全身が痛んだ。
「………っあ…………………私…『また』………………やっぱり…生まれてきちゃいけなかったんだ…」
ベッド脇の椅子に座っていた白澤が、ゆっくり顔を上げ、起きた?水、飲む?と差し出した手をぴたりと止める。
「……今なんて言った?」
“生まれてきちゃいけなかった”?
椅子から立ち上がり、ベッドの縁に腰を下ろす。荒い息でおろおろと焦点のあわない女のパニックを鎮めるように力いっぱい抱きしめた。
却下。全面却下。
静かだが強い声。
また、って何。今回は違う。
たしかに暴走した。でも止めた。収束した。終わり。それだけ。
名前の背を撫でる手は力強く、優しい。
君は災厄じゃない。制御を覚える途中の神。
途中で躓いたからって、存在否定まで飛ぶな。
たしかに影響は出た。でも収まった。地獄側も安定してる。鬼灯も帰った。
店は……まあ、改装中。
わずかに笑ってぽんぽんとあやすように後頭部を撫でる。
世界は壊れてない。
僕も壊れてない。
君も消えてない。
生まれてきちゃいけなかった、じゃない。
生まれたばかりで加減が分からなかった。
それだけ。
呼吸が落ち着いてきたのを確認し、そっと体を離す。
とめどなくあふれる雫を全部吸うように、目尻に口づけた。
「怖かったね」
しゃくりあげる女に言い聞かせるように。
目尻を吸って、舐めとって。やさしく口づけ、抱きしめ直す。
名前ちゃんは、ここにいていい。
僕の隣で、ちゃんと生きる。
それが決まった未来。
勝手に取り消すな。
「………私、白澤様のこと、好きでいていいんでしょうか…ここにいて、一緒にいても…?」
「いいに決まってる。好きでいていい。ここにいていい。一緒にいていい。許可制じゃないよ、もう決定事項」
『でいい』というか、そうしてくれないと僕が困る。
くすり、軽く笑ってそっと額を寄せる。
「僕のこと好きでいのを怖がらないで。また壊すかもって不安なら一緒に覚えよ?気持ちの混ぜ方、薄め方、流し方。君一人で抱えさせない。好きの出力は、僕と共同管理。それなら安心でしょ」
「………はい」
ふわり、と笑って頷く。
…あれ、花びら出ない。不思議に思っていると、ふと指先に重みを感じて左手を掲げる。薬指に指輪がはまっている。
「………これは…?」
「気づいた?それ。神力制限装置…兼、誓約」
白澤の神気が滲む神力制限装置をまじまじと眺めている名前の手を取って掲げる。
軽く指輪に触れると、淡い光が揺れる。
君の出力が一定以上になると、自動で僕に流れる。外界に拡散しない。フィルター常時接続型。だから今、嬉しくても花びら出ない。
「寝てる間に勝手につけたの、怒る?」
ゆっくりと指を絡める。
「左手の薬指にしたのは…意味、わかるよね。力の制限だけじゃない。僕たちを“繋ぐ”もの。僕と常時リンクしてるから外すなら、僕の許可がいる」
怖がると思ったから、起きる前に説明する準備はしてた。
でも今の顔見たら、いらなかったかも。
…………左手の薬指に…指輪……と、じわじわと頬を赤くして手を眺めまじまじと薬指を見つめ、白澤の言葉など聞いていなさそうな様子の名前を見て安心したように息を吐いた。
「…重かった?それとも嬉しい?どっちでもいいけど、これは監視のためじゃない。力を共同管理する証。お互い好きでいるなら、ちゃんと安全装置つけようって話」
頬を撫でてこちらを向かせ、視線を絡めて、低く、やわらかく囁く。
嫌なら外す。
無理やりはしない。
でも、僕は外したくない。
君が隣にいる限り、これは僕の責任の形。
指先を絡める。
白澤の同じ指にもお揃いのものが嵌っていることに気づいてさらに赤くなるが花びらは出ず、代わりにお互いのリングについた石が淡く光る。
「………これはこれで、バレバレで恥ずかしいですね…」
絡められた指に力を入れて、嬉しい。と本音を伝える。
「白澤様のこと、好きすぎてごめんなさい………」
「名前ちゃん。ごめんじゃなくて、ありがとうって言って。好きでいてくれてありがとう。僕も同じだけ好き。だからお揃い」
絡めた指の先で、お揃いの指輪が淡く光り、ゆっくりと脈打つのを見つめる。
「対になってる。片方だけじゃ意味がない。君が流すなら、僕も受ける。僕が揺れたら、君にも伝わる。一方通行じゃない」
慈愛に満ちた瞳が交わる。
「……いろいろあって大変だったと思うけど…落ち着いたなら誕生日のお祝いの続き、してもいい?」
「えっ………誕生日のお祝い、続きしてくれるんですか?」
そういえばそのために現世まで来てくれたことを思い出す。
きょとんとする彼女に小さく笑った白澤は、ベッド脇の小さな卓に視線をやる。
ちゃんと用意してある桃源郷産の仙桃で作ったケーキ。
「誕生日の贈り物、一つ目はその指輪。二つ目はこのケーキ。そして三つ目は…優先権。困ったら最優先で僕を呼べる権利」
ケーキを見て驚き、嬉しさで瞳と口元を緩めていたのに、そのあとの爆弾発言に目を丸くする。
「えっ………白澤様を………最優先で呼べる…権利………」
ぽろり、と大粒の涙が頬を伝う。
「今まで、ただ星に願っていただけなのに…いいんですか、そんな………嬉しい。嬉しいです…っ」
「喜んでもらえてよかった。生まれ直した最初の誕生日…不安で終わらせず、嬉しいで終わらせたくって」
そっと額に口づけられる。
「
指輪が熱いくらいひかり、名前の頭上からひらりひらりと2,3枚花びらが舞う。抑制しきれなかった歓びの証。
……ケーキ、食べる?照れ笑いした神獣がわざとらしくフォークを構えた。
「…ケーキ、食べたいです」
「うん、食べよう」
一人前サイズの小さいケーキにフォークを差し入れて、あーん、と口元まで差し出される。
「おめでとう、名前ちゃん。来年も、再来年も、その先も…引き戸を開けて、一緒に祝おうね」
微笑む男があまりに甘ったるい顔をしていて恥ずかしくなり、目をそらして差し出されたケーキをぱくり、と口に含む。上品な甘さが口の中に広がる。美味しい。
「…はい。来年も再来年も…いつでも開けていいんですね」
「うん、開けて。むしろ、開けなかったら僕が開けるよ」
くすくす。
白澤がようやくいつものように余裕たっぷりの笑みを浮かべるのを見て、ごくん、とケーキを飲み込んだ名前はそういえば、と切り出した。
「……あの、白澤様。一つだけ、ずっと聞きたかったことがあるんです」
名前は彼の首に腕を回し、至近距離でその双眼を見つめた。一年前、彼が去り際に残した言葉。辞書を片手に何度も反芻し、心に刻んだ音をぶつける。
「去年の最後、なんて言ったんですか? 『宝贝(パオペイ)』……って」
その瞬間、白澤の完璧な微笑みがぴきりと固まった。
「え……あ、いや、それは……ただの、中国語の挨拶みたいなものだよ。アハハ、名前ちゃん、まさか勉強したの?」
明らかに動揺し、視線を泳がせる白澤。名前は逃がさないと言わんばかりに、彼の耳元で、今度ははっきりと囁いた。
「『愛してるよ、誕生日おめでとう』……そう言いましたよね。私も、同じ気持ちです。
「っ……!!」
神獣の顔が一気に耳まで赤く染まる。
普段、数多の女性を甘い言葉で翻弄してきた男が、たった一人の女の子に言葉を返されただけで、完全に形勢逆転してしまったのだ。
「……参ったな。名前ちゃんは本当に、僕を煽るのが得意だね。……あんな独り言、聞かれる前提じゃなかったのに」
白澤は観念したように溜息をつくと、名前の腰を強く抱き寄せ、額を合わせた。その瞳には、一年前よりもさらに深く、逃れようのない独占欲が宿っている。
「いいよ、わかった。じゃあ、今年のプレゼントはもっと特別にしないとね。……君が勉強したその可愛い舌で、僕の名前を何度も呼ばせてあげる」
「……はくたく、さま……っ」
深く、熱い口付けが降る。
「名前ちゃん。生まれてきてよかったって、今は思える?」
舌を絡ませたまま、熱い吐息を混ぜながら聞かれる。
「………はい。生まれてきて良かったです。
白澤様のとなりに、生まれてこれてよかった。これから毎年毎年たくさんお祝いしてください…」
絡んだ視線に吸い寄せられるように、どちらともなく唇を重ねる。指輪が熱く熱く優しく締まって、今夜の二人を予言するようだった。