16:やっと……
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レンが水樹が通っていた高校に進学して間もない頃だった。
この頃のレンは学校指定のスカートを履いて通学していた。
その日、前触れはなかった。
夕暮れのバス停で水樹と待ち合わせをしていたが、突然、懐かしい声に名前を呼ばれて振り返る。
「……おとーさん…」
少し離れたところに立っていたのは、実の父親だった。
懐かしい姿につい、あの頃と同じように名を呼んでしまった。
それから、人目を気にしてバス停から離れた。
「話したい」と言われたが、カフェや飲食店でゆっくりと向き合って話す気にはなれず、目を付けたのは近くにある3階建ての廃ビルだ。
改築中なのか、取り壊し中なのか、ガードフェンスに囲まれていた。
誰もいないか確認したあと、レンはビルの1階に足を踏み入れる。匂いもホコリ臭い。工事に使う道具がそのまま床に放置されていた。
レンは奥まで進んでから振り返り、刺々しい声で言い放つ。
「今更なんの用だよ。さっさと要件だけ済ませて帰れ」
コンクリートの壁に声がわずかに反響した。
父親は目尻を下げて笑う。
「レン…、大きくなったな…。あいつにそっくりだ…」
「アンタと顔が似なくてよかったと思ってる」
間髪入れず冷たく返され、目を伏せた。
「……すまなかった…。レンと、あいつと離れ離れになって思い知ったんだ…。オレにはやっぱり…おまえ達が必要だ…。信じてくれ。今度こそ……」
懇願するように言われても、見てくれからして今でも真っ当な職に就いているとは思えず、信用することはまったくできない。
昔から父親は母親を殴ったあと、「悪かった」「もうしない」と泣いては同じことを繰り返していた。幼少期から眺めていたレンからすれば、信用性など元々ゼロなのだ。
父親は顔立ちはいい方だが、無精ひげやこけた頬がそれらを台無しにしている。年齢は四十代前半だが、白髪が多い。
格好も色あせた白いシャツに破れたジーンズとくたびれていた。
極めつけはタバコと酒の臭いがきつく、レンは思わず顔をしかめる。
「要件がそれだけなら帰ってくれ。あたしと母さんはもう、新しい家族がいるんだ。こっちはアンタの暴力から解放されて幸せに暮らしてるんだよ」
優しい義父と水樹の顔を思い浮かべる。
暴力のない家庭を、誰が手放すというのか。
「あいつがそれを言ったのか? オレと離れてよかったって?」
「………それ…は……」
言い淀む。暴力から解放されたあとも聞いたことがなかったからだ。
そもそも、一緒に暮らしていた時も、母親の口から「逃げたい」などの弱音は一言も耳にしたことがない。
「あいつは今も苦しんでいるんだ…。言ってたぜ…」
「!? 母さんと会ったのか!?」
父親と母親が最後に会ったのは、幼いレンが家を飛び出して助けを求めたあの日だと、レンはそう思っていた。
答えは、父親は口角を上げて口にする。
「今でも手紙のやり取りはしてるんだ。……知らなかったのか?」
一瞬の、思考の停止。
とっくに縁を切っていたと思っていた父親と母親が、娘に隠れて文通をしていた事実を受け止めることができない。
「え…」
「かわいそうに…。今の旦那が、死んだ前妻と比較してくるってさ…。顔も、声も、仕草も、料理の味も、好みの化粧や服装も…。―――なあ、そんなに似てるのか?」
仏壇にある、前妻の遺影。瓜二つまでは言わないが、母親と面影は確かにある。
義父は今でも、母親の名前を言い間違う。それに対して水樹は何度も厳しく注意した。
「ヒドいよなぁ…。あいつはあいつなのに…」
母親から不満を吐露されたことは一度もない。言いたくなかったのだろう。
父親に言われて初めてどれほど苦悩していたか知らされてしまう。
しかしレンは奥歯を噛みしめて頭を振り、父親を睨んで拒絶を示した。
「それでも…、アンタといた時よりはだいぶマシだ! あたしと母さんに2度と関わるな!! ……アンタも母さんと同じように、別の誰かと新しい人生を歩きなよ」
そう言い放って父親の横を通過し、廃ビルの外へと向かおうとする。
これ以上、何も聞きたくなかった。文通の事実があまりにも堪えた。
本当は、思い切り殴るつもりだったが、今の、みすぼらしい哀れな姿を見て、すっかり気が萎えてしまったのだ。
「レン…」
消え入りそうな声だったが、振り返らない。
一刻も早く、今の家に帰りたかった。
「レン!!」
突然の鋭い声にびっくりして振り返りそうになった時、
ガッ!!
レンの頭部に衝撃が走った。
父親に、工事用のスコップで背後から撲られたからだ。
目の前がチカッと光り、体勢を崩して突っ伏す。割れた箇所から流れ出る生温かい血が伝い、頬を汚した。
「ぐ…っ、うう…っ」
脳に響くほどの鈍い痛みと安定しない視界に吐き気を覚える。
そんなレンを見下ろし、父親は唾を飛ばしながら泣きそうな顔で喚きだした。
「こんなに愛しているのに!! 謝ってるだろうが!! なぁ!? もう一度やり直そうって…。オレだって頑張ったんだ…。他の奴とやり直そうとした…。それなのに、どいつもこいつもオレの隙を見て逃げ出すんだ。オレを受け入れてくれるのは、あいつだ…! あいつだけだ…! 今でもオレはあいつのことが好きなんだ!!」
目が血走っている。正気ではない様子に背筋がゾッとした。
もう、暴力でしか愛情を表現することができないのだ。
そんな父親を、母親は痣塗れの腫れた顔で「大丈夫」と受け入れるのだろう。
慈愛というには、異質を通り越してもはや病気だった。
発症するたび、何度も何度も娘は真っ暗な押入れに押し込まれるのだ。
レンは今でも電気を消して眠ることができない。
「愛してるなら…、殴るなよ…」
ぐつぐつと腸が煮える感覚を覚える。煮立たせているのは、藻掻いても藻掻いても変えることができない現実に対する恐怖と怒りだ。
レンは歯を食いしばってふらふらと立ち上がり、
「やり直したいなら変わってくれよ!!」
声を張り上げて父親の方へ弾かれるように飛び掛かり、工事用のスコップの柄をつかんで取り上げようとした。
父親も取られてたまるかと後ろへ強く引く。
傍から見れば、醜い揉み合いだ。
たとえ再び一緒に暮らしたとしても、なにも変わらない。
あの時、幼い自分は、助けを呼ばずに父親に殴り殺されていればよかったのか。
それで母親は目を覚まして変わってくれたのだろうか。父親は悔恨のあまり変わってくれたのだろうか。
「あたしが大好きだったのは、遊園地で遊んだあの頃の…!」
迷子になった幼いレンを迎えに来て、星形の缶バッジを渡した優しい父親は確かにいた。手放しがたい思い出だ。成長しても、あの日の星形の缶バッジは手元にある。
「う……」
どれだけ変化を望んでもあの頃の家族には戻れない、と思い知らされた途端に感情が爆発し、興奮したことで頭部から流れ出る出血は悪化してしまい、レンは不意に工事用のスコップの柄から手を放してしまう。
急に引っ張り合いから解放された父親は勢いよく後ろに倒れた。その際、嫌な音がした。
「……え…?」
レンは目の前の光景を疑う。
スコップの刃先が、父親の首に突き刺さっていたのだ。
「おと……さ……」
噴き出す血液がレンの制服を汚し、レンは糸が切れたように、へたり、と座り込む。
がぼがぼと父親は自らの血泡で溺れそうになっていた。魚のようにビクビクと痙攣する姿に、レンの中で恐怖が津波となって襲う。
「あ…っ、ああ…っ! おとーさん!! おとーさん!!」
顔を真っ青にしながら激しく動揺し、這いながら父親に手を伸ばした時、横から伸びた別の手がレンの手首をつかんだ。
「!!」
そこにいたのは、水樹だった。
片膝をつき、触るな、と窘めるように目を細める水樹。
「あ…、兄貴…!」
「悪いな。ここに入ってったのが見えて、しばらく様子見してた…」
レンが撲られた辺りから飛び出そうとはしていたが、文通の話を聞いて固まったのは水樹も同じだったのだ。
「きゅ…、救急車を呼んでくれ…! このままだと…!」
「……………」
訴えるレンをよそに、水樹は静かに立ち上がり、父親に近付いて首に突き刺さったままのスコップの柄をつかみ、さらに押し込んだ。
ひと際大きく跳ねる父親の体。さらに噴き出す血液。
そして、父親は硬直したように動かなくなった。
水樹が一体なにをしたのか、レンは理解が遅れる。
「あ…にき……?」
「病院に行くのはおまえだ、レン。こいつはどうせ助からなかっただろうし、トドメを刺したのはオレだ。助けられたとしても…、確実に、オレ達“家族”の邪魔になる」
父親から離れる水樹はゆっくりとした足取りでレンに近付き、しゃがんで目を合わせた。
いつもの、頼りになる兄としての顔を見せる。口調も落ち着いていた。
「あとはオレに任せろ。遺体は絶対に残さないし、キレーに片付ける。……人間ひとり…、ましてや…、こんな奴をいなかったことにするなんて、“前”に比べれば全然……」
そう言って目を伏せる。
「ま…、前……?」
知ってはいけないとわかっていても、レンは聞かずにはいられない。
「オレの母さんを轢き殺した奴だよ」
自嘲気味に笑いながら言う、その口調は淡々としていた。
「―――親父は結局、許せなかったんだ。居眠り運転、会社からの強制労働、優しい家族…。免罪符にもならなかったらしい。…親父の執念は恐ろしい…。そいつの住所を突き止めて、出所して家族と笑い合って暮らしているところを目撃したんだ。やっと解放されたって胸を撫で下ろしているようで……人を轢き殺したことなんてなかったことにされたようだって言ってた…。そんなの聞かされたら…オレだって…、母さんと…、おなかにいた…生まれてくるはずだった妹を殺されて許せるはずがないだろ…!」
当時のことを思い出したのか、水樹の語気が強くなった。
レンは眩暈を覚え、ああ、と悟る。
水樹と義父がひとりの人間を殺害してからだろう、レンとその母親に出会ったのは。
まるで他人とは思えないほど気にかけ、尽くしてくれたのだ。
生き甲斐ともいえる父親と引き離れたことで虚ろになっていた母親に、義父は手を差し伸べた。
理由はシンプルに、前の妻に面影が似ているからだ。そこへ水樹よりも年下の娘がいれば、嫌でも重ねてしまったはずだ。
そのままの意味で義父は家族をやり直そうとしていた。
レンはどこか異常だと心のどこかでわかっていたが、前の暴力にまみれた非日常が当たり前だったため、感覚がマヒしていたのだ。
「レン、死んだらなにも残らないんだ。そう思わないと……」
わずかに震えている水樹の体が、この時ばかりは小さく見えた。
水樹は一体どれほどの間、自分自身に言い聞かせてきただろうか。
「オレ達は、ただ…作り直したいだけなのに……」
水樹の声が遠くに聞こえる。
レンは限界だった。
意識が彼方へ飛び、目覚めた時には病院のベッドに寝かされていた。
頭部の傷は数針縫われ、負傷の原因は、学生同士の喧嘩に巻き込まれたと水樹が医者に説明してくれた。元々、治安の悪い学校に在学しているため、あまり疑われなかった。
他にも、血で汚れてしまった制服はすでに処分され、代わりに水樹のおさがりをもらったのだ。ズボンで通学するようになったのはその頃だった。
当然のように日常は過ぎ去り、ふと思い立ってあのビルへ足を運んだが、血の痕も残っていなかった。
本当に、人間がひとり、消えてしまったのだ。
そもそも、あれは夢ではなかったのか。日々を過ごすにつれ、夢だと認識した記憶が徐々に薄れた。
レンは帽子越しに傷痕に触れる。強く押すと未だに痛んだ。
帽子には、かつて優しかった父親に貰った星形の缶バッジをつけていた。事情を知らない水樹に捨てられることはなかった。
母親も、義父も、水樹も、レンも、食卓を4人で囲って他愛のないを話をして、日々を過ごした。平穏に。
「気色悪い…」
フィルムが止まったように、家族団欒の静止画を眺めていたレンは、吐き捨てる。
「傍から見れば、確かに……こんな最低な家族ごっこ、見たことねーよ…。誰も幸せになってない…」
笑い合っている顔が、仮面にしか見えない。歪だと頭では理解していたのに、変化を恐れてそのままを残そうとした。
父親が訪れたせいで、何もかも知ってしまった挙句、全部夢だったと切り捨て忘れようとしたのだ。
ポストを毎日数回は確認する母親。父親からの手紙が来なくなったことに、鬱々としていたのではないか。
仏壇の遺影は伏せられたままだった。いつまで経っても前妻の影を追う義父は、毎日やきもきしていたのではないか。
どのような方法で跡形も残さなかったのか。あの日のことなどなかったことにするように振舞う水樹は、まったく自責の念を感じなかったのか。
「こんなの…見たくなかった…。思い出したくなかった…。みんな死んで…、壊れた方がよかったなんて…思いたくなかった…!」
どこで間違えたのだろう、と考えることも億劫だった。
目の前の、家族団欒の静止画に亀裂が走り、バラバラに砕け、無残に散らばる。
レンは膝をついて拾おうとしたが、つかむだけで黒い泥となって崩れた。
「残すことばかりに固執してたくせに…、結局…、全部…!」
気付けば、暗闇に独り。
自分にとって都合の良いところばかり残そうと足掻いたところで、すべてが無駄だったと思い知らされる。
「……あたしが、残る価値なんて…なかったんだ。いない方が…よかったんだ…。…ははは…、あはははははは」
導かれた答えに、レンは泣きながら壊れたように笑う。
今はただ、終わらせたかった。
この命を。
“心臓”がレンの体を通り抜けてから大した時間は経過していない。
銀夜は、虚ろな表情で笑うレンの顔を確認したあと、持っていた拳銃をレンの目の前に放り投げた。
「……………」
レンの視線が拳銃を捉え、彷徨うように安定しない手がふらふらとそれを拾った。
「心は死んだ。あとは肉体が死ねばいい」
銀夜はほくそ笑む。
レンは拳銃を両手につかみ、自身の額に銃口を押し付け、引き金に指を掛けた。
「やっと……」
そう呟いて、幸せそうな笑みを浮かべる。
パァンッ!
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