00-A:A story you never knew
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7か、8歳の時だろうか。
当時は子どもを中心に風邪が流行していた。
僕も、高熱を出したのを覚えている。
息がうまくできない、悪寒と咳は止まらない、食欲もない、起き上がることもできない。
学校を休んでベッドで3日間、寝て過ごした。
親は1日も休まず仕事だ。
戻ってきてよ、私は仕事があるから、いつも押しつけないで。
寝込んだ1日目の夜、ぼんやりとした意識の中で、母の苛立った電話中の声が、1階のリビングから2階の僕の部屋まで聞こえた。
『食事は冷蔵庫に入ってるから、温めて食べて。決められた時間に薬を飲むのも忘れないで。ひとりで出来るわね?』
2日目の朝、ベッドに横になったままの僕が頷くと、母は家を出た。
出張中の父親からは一切連絡はない。
『親』というものは、仕事が忙しいから家には長く滞在できないものだと思っていた。
ずっと泳ぎ続けていなければならない魚みたいに、仕事をしていなければ、死んでしまうものだと。
学校に復帰すると、僕と同じく風邪で学校を休んでいた生徒も復帰していた。
『風邪だいじょうぶか?』
登校して席に着いた時、隣の男子が、その友人に声をかけられていた。
『うん。おかーさんがお仕事休んで、ずっといてくれたから』
僕はランドセルから教科書を取り出して、引き出しの中にしまいながら聞いていた。
高校生の今でも、たまにふと思い出す時がある。
9月21日金曜日、今日のは特に鮮明だ。
もう過去の事なのに、不必要にイライラする。
「最悪…」
朝起きて感じた悪寒。
着替えるのも億劫で、朝食もうまく喉を通らなかったし、通学路を歩く足取りも、鎖付きの鉄球でも引きずっているかのように重かった。
意識すればするほど、身体の重みは増し、咳も出てきた。
教師の声も、まともに耳が受け取らない。
鉛筆の動きも止まってしまう。
誰かにノートを写させてもらう愚行ができるわけがなく、意識と鉛筆をしっかりと握りしめた。
抑えてても咳は漏れたが、教師は気にも留めない。
気にしろよって思うわけじゃないけど、この気配りの怠りが学級閉鎖の元になるかもしれない。
昼休みを過ぎれば体育だ。
それは休もう。
無事に昼休みを迎えた。
教師が去った教室は、頭に響いて不快なほどうるさい。
机を支えに立ち上がり、保健室へと向かう。
しんどい。
「あ…」
手すりにつかまって階段を下りながら思い出す。
いつもの図書室、今日も彼女が来てるかもしれないが、声をかけた方がいいのだろうか。
保健室に行くから今日は行けないって。
…何を言ってるんだ。
僕らはそんな関係じゃないはずだ。
僕がいなくても、彼女はいつもの席で自分で勉強するだろう。
らしくない思いつきに、イライラする。
風邪のせいだ。
1階の保健室の前に到着し、ドアを開ける。
「わああああ!! もう死にたい~~~!!」
言葉と声が面白いほど対照的だ。
「うんうん。その人はあなたの素敵なところが見つけられなかっただけよ」
保健室には、両手を顔に当てて泣きわめいている女子生徒と、相槌をうつ女の保健医が向かい合って椅子に座っていた。
「あら、どうしたの?」
圧倒されて棒立ちになっている僕に、保健医が気付く。
「え…と」
熱に侵された頭でも、僕は理解が早い。
今、ベッドで寝かせてもらえたとして、男にフラれて傷心中の女子生徒の相談を子守歌にしなければならないのか。
その生徒がこちらをジロッと睨んでいる。
聞かれたくないことだから出て行け、と目が言っている。
居た堪れない空気に無意識に足が下がった。
その時、ぽん、と背中に誰かの手のひらが当たった。
「先輩が具合悪そうなので、ベッドを貸してください」
突然現れた彼女は、僕の横を通って前に出た。
「君、なんで…」
保健医が「ホントに?」と、僕と、相談中の生徒を交互に見る。
状況的に、今、相談している最中の号泣生徒を教室に戻すのはよくない。
生徒の睨む矛先が彼女に変更された。
フラれた身としては、さぞ面白くない光景だろう。
「先生、お話し中のところすみません。先輩を静かに休ませてあげたいんです。昼休みの間なら、あたしここにいますから」
彼女は、保健室の留守番を提案し、遠回しに生徒を別の教室に移動させようとした。
相談だけなら、確かに場所は保健室じゃなくてもいいはずだ。
「仮病使って、保健室でイケナイことしたいだけじゃないの」
小さな声だがはっきり刺々しく聞こえた。
保健医は「ちょっと」と軽く叱咤する。
やさぐれすぎだ。
腹が立つのを通り越して呆れてしまう。
男女の組み合わせが全員敵に見えるのだろう。
僕はチラッと彼女の顔を見ようとしたが、その前に彼女が生徒のもとへ歩み寄った。
「羨ましいんですか?」
空気が凍りついたのは言うまでもない。
彼女のこんなに冷めた声も今まで聞いたことがない。
どんな顔で言ったのか。
「は…あ?」
指摘された生徒は、羞恥や怒りが沸々と湧いてきた様子だ。
でも彼女の顔を見て臆しているようにも見える。
最初に帯びていた悲嘆はどこにも見当たらない。
「想像力豊かなんですね。大丈夫です。保健室は正しく使いますから。当たり前です」
「先生! 行きましょ!」
勢いよく立ち上がった生徒は保健室を出た。
思わず避けた僕は、再び泣きそうになっている顔を見てしまう。
「た、頼んでもいいかしら」
「はい」
保健医に快く頷く彼女は、僕の目から見れば、やはりどこか冷めている。
一時の嵐は過ぎ、どっと疲れて倒れそうになった。
その前に、彼女は僕の袖を引いてベッドまで誘導してくれた。
「先輩、布団かけますね。熱も計ってください」
口を挟めないほどてきぱきしている。
布団をかけられて、体温計を渡されたところでようやく言葉が出た。
「君、何でここにきたの」
体温計を脇に挟んでから、眼鏡を取り、枕の横に置く。
「先輩が保健室に向かってるの廊下の窓から目撃して…。というか、登校の時も見かけてましたけど、すでにフラフラでしたよ」
そんなところまで見られてたのか。
みっともない。
「よかったら、どうぞ。飲めますか?」
スカートのポケットから取り出されたのは、リンゴジュースの入った紙パックだ。
「気を遣わなくていいのに」
そう言いながら僕は受け取る。
「弱った先輩を目の当たりにしてるのに、無茶言わないでください」
見ないふりをすればいいだけなのに、彼女は「無茶」と言い切った。
飲もうとしてストローをさそうとしたが、力が入らない。
彼女は黙ったまま僕の手から軽い力で取り、ストローをさしてから再び渡してくれた。
喉を通る、飲みなれないリンゴの甘い味。
かなり喉が渇いていたから、パックがすぐに萎む。
ピピピ…、と体温計が知らせた。
脇から体温計を取り出してみると、表示されたのは38度。
「やっぱり熱あった」
僕は「げほっ、げほっ」と咳き込む。
「うつるから教室に戻りなよ」
「留守番を名乗り出たのに、戻ったら怒られるじゃないですか。無責任な人間になるつもりはありません」
ベッド脇から移動した彼女は、「どこかにのど飴ないかな」と保健室に設置された棚を覗いている。
「至れり尽くせりだね。面倒臭そうな生徒も追っ払ってくれたし。でもまさか君が喧嘩を買うとは思わなかった」
同じクラスの女子だったらどうする気だったのか。
面倒だから、安易に敵を作りたがらないクセに。
「思わず叩きつけてしまいました。でも後悔はしてないです」
少しすっきりした顔をしている。
「…欲しいものとかあったら言ってくださいね」
そう言って保健医の椅子に座った。
キャスター付きで、コロコロと音がして動く。
「ひとりで出来るよ。君こそ、昼休み、もうすぐ終わるけどいいの?」
「授業に出ないからって、死にはしませんよ」
目を伏せて言ったその言葉に、不意に心臓が跳ねた。
「次は音楽ですし」と言う彼女だが、たとえ普通の授業でも、ここに残っていたのではないか。
一度しか会ってないが、彼女の母親はきっと、彼女が熱を出せば傍にいてくれる人なのかもしれない。
「あのさ…」
「ん?」
「……いや」
僕も、あの時だけは親にわがままを言ってもよかったはずだ。
ずっといっしょに…。
「先輩…、あたし、ここにいますから」
熱は上がったかもしれないが、優しい声色は胸の内を通り、柔らかい眠気を連れてきた。
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