第一章 ウィンクルム社
街の一角にある高校。
校舎内に今日の授業が全て終わったことを知らせる鐘の音が響く。ホームルームを終えた生徒達は羽根を伸ばすように力を抜き、部活へ向かったり教室で駄弁ったりし始めた。
「あー、終わった終わったあ。」
「焔ー、帰り一緒にマック行かねえー?」
無造作なくすんだ赤髪を短く結った少年焔 は、自分を呼んだ生徒達の方に顔を向けると首を横に振った。
「…行かない。行くところ、あるから。バイト先の…社長のお見舞い。」
「そっかあ。」
「お前ほんと真面目だよなあ。」
苦笑する生徒達の言葉を聞いた焔の瞳が微かに揺れた。
「焔。」
教室の出入り口から別の声がかかり、皆は見る。青みがかったショートヘアの少年が、睨むような表情で立っていた。生徒達は体を緊張させ、焔はホッと息を吐いた。
「…和泉 。」
「行くぞ。」
和泉と呼ばれた青い少年がそれだけ言うと、焔は勉強道具をまとめていたリュックを背負い、立ち上がった。
「…じゃあ、また明日。」
「お、おう。また明日…。」
焔の別れの挨拶に生徒達がぎこちなく返すと、焔は和泉と共に教室を離れた。
二人がいなくなった後、生徒達は教室で顔を見合わせる。
「焔、大丈夫なのかな…。」
「あの『人でなし』和泉に呼ばれて、一緒に帰ってるって…。」
「何か、弱みでも握られてんのか…?」
「さあ…?」
生徒達は理解出来ないといった様子で、首をひねっていた。
校舎から出て歩きながら、焔は隣を歩く和泉に声をかけた。
「…和泉。また授業サボったのか?」
「そうだけど、どうした?」
和泉が何でもないことのように返すと、焔は少し小さな声で話した。
「…先生に言われた。オレが注意すれば、いくらかマシになるかもって。」
「教師が自分で出来ないこと、焔にさせる気はない。」
和泉がはっきりと返した言葉を受け、焔は暖かい小さな声で呟いた。
「…そっか。」
「お前もお前だ。教師に言われたからオレに言うとか…。」
「ん…ごめん…。」
焔の声がわずかに弱くなる。和泉は僅か焔を見やると、言い辛そうに口を開いた。
「…別に、怒ってるわけじゃない。」
「…そっか。」
焔はまた安心したように、眼差しを緩ませた。
やがて二人がたどり着いたのは、街にある総合病院の前だった。和泉は焔に確認する。
「今回は何号室だったか?」
「二〇四号室。…兄貴、大丈夫かな…。」
心配そうに建物を見上げる焔に、和泉は呆れ顔をした。
「大丈夫だろ。あれから大分経ったし、来週には退院だって言ってたろ。」
「…でも、これからもきっと兄貴は、怪我させられるから。」
思うように建物を見上げ続けている焔を見ながら、和泉は深い声で返した。
「…そうだな。」
二〇四号室の病室では、短い髪をツインテールにした少女がリンゴを剥いていた。皮を剥き終わったリンゴを切ると、一切れをそばにいる兎耳の生えた毛玉に与えた。
「はい、フィロ副社長。」
「ん。ナイフの使い方、上手くなったな疾風。」
フィロと呼ばれた兎耳の生えた毛玉はリンゴを咀嚼した。
疾風 と呼ばれた少女は、手元を見ながらため息をついた。
「上手くもなりますよ。…何回もこの病院に来て、何回も剥いてますから。」
「疾風ちゃんは星さんが怪我する度、この病院に付き添って来てるからね。」
隣に座っている、くしゃくしゃの短い髪型をした少年は、疾風を気遣うように苦笑した。疾風は少年を見上げると、訴えるように話す。
「だって陸先輩、私心配なんです。お兄ちゃんは何度も何度も、あいつらに襲われて怪我させられて…。お兄ちゃんは私や焔先輩達を助けてくれたのに、あいつらは…。」
「…あの人達にも、事情があることは解るよね。」
少年…陸 がまた気遣うように笑むと、疾風は視線を落とした。
「…でも…。」
「何の話ししてるの?」
体のあちこちに包帯を巻いた、黒髪に青い瞳の青年が病室に入ってきた。
「あ…。」
疾風が言い淀んでいると、フィロはすました様子で口を開いた。
「社員達はサボっていないか、という話をしていた。」
「そうなの?」
青年が首を傾げる。疾風は懸命に頷いた。
「はいっ。」
「大丈夫だよ、きっと。」
ふわりと笑んで言い切った青年に、フィロは呆れ声をかけた。
「星、お前な…。」
「兄貴、いる?」
病室の出入り口から控えめな声が聞こえた。皆が振り向くと出入り口前に焔と和泉が立っていた。疾風は明るい声を上げた。
「焔先輩、和泉先輩!」
「やあ焔、和泉。」
青年…星 がにこっと笑むと、和泉も呆れ顔をし、紙袋を突き出した。
「やあじゃないっての…ほら兄さん。これ社員のみんなから見舞い。暇つぶし用の本と、今日中にハンコほしい書類だとさ。」
「ほら、みんな頑張ってたよ? 先生。」
星が笑顔でフィロに向き直ると、フィロはますます呆れた声を出した。
「…お前な…。」
「あ、これ読みたかった本だ。」
紙袋の中を漁る星に、和泉がきつい声を飛ばす。
「まずハンコ。」
「兄貴、これハンコと朱肉。」
「ありがとう、焔。」
椅子に座り、書類と向かい合う星を見、フィロは密かにため息を吐いた。
病院の敷地内にある庭で、白いゆったりとした長袖シャツと短いプリーツスカートを身につけた細身の若者が、二〇四号室を見上げていた。
「あいつは例によって、この病院に入院中か。」
呟かれた声は多少トーンが高いが、焔達と同じ年頃の少年のものだった。
細身の少年の脳裏に、女性の声が響く。
『いましたか、スリダ。』
「はい、いつも入院してる病院です。相変わらず部下達もいます。」
スリダと呼ばれた、女性ものの服を身につけている少年は、また呟くように報告する。
脳裏に響く女性の声は続けた。
『そうですか…。引き続き時間まで監視してください。チャンスがあれば、速やかにポーラを捕らえてください。』
「はい、ヴァスク様。」
スリダがそばにある、大きな長い布袋に手をやろうとすると、きつい声が脳裏に飛んだ。
『スリダ。そこは病院の敷地内でしょう。あなたはそちらの世界の人々を侮辱するつもりですか。』
「…解りました。ポーラが敷地内から外出ることあったら、捕らえます。」
『迎えにはトールを行かせます。それでは。』
脳裏に声が響かなくなると、スリダは盛大にため息を吐いた。
「…ったく…今日は暴れられそうにねえな…。」
「ねえ、彼女ー。」
「良かったらオレ達とお茶しなーい?」
明らかにナンパと思われる声が、背後から聞こえてくる。スリダは面倒臭そうに振り返り、声を出した。
「あぁ?」
明らかな男の声に、ナンパしてきた男達は目を丸くする。スリダはにやりと攻撃的に笑み、問うた。
「オレ、こーいうモンだけどいいの?」
「し、失礼しましたっ。」
男達が逃げていくと、スリダはまたため息を吐いた。
「…やれやれ。」
スリダは小さな本を広げつつ、二〇四号室を見上げ続けた。
日が暮れかけた時間。
星への見舞いを終えた焔と和泉は、病院の建物から出て歩いていた。
「兄貴、元気になってたみたいで良かった。」
「そーだな。」
焔の安心したような言葉に、和泉は適当に返す。
そして、病院の門とは違う方向に歩き出した。
「和泉、そっち…。」
「いいから付いて来い。」
戸惑う焔に構わず、和泉はずんずん歩く。
やがて、病院の庭に出た。焔と和泉の少し先では、細身の女性と思われる人物がベンチに座っていた。
和泉は黙って近づいて行き、手を一瞬小さく振る。氷で出来た刀が手の中に現れた。
和泉はそのまま人物に向かい、刀で突きを出した。人物は首を曲げて和泉の一撃を避けると振り返り、にやりと笑った。
「よお。」
人物…スリダの顔を確認した和泉は、苛立ちを隠さず吐き出した。
「何か見られてると思ったら…やっぱりお前か、女装野郎。」
「誰かと思えば、大罪人ポーラの部下か。今日もお勤め、ご苦労さんっ!」
スリダはそばに置いていた布袋から、大きな青龍刀を引っ張り出した。和泉に向かい、刀身を思い切り振り回す。
「ひゃはは! 今日は暴れられないかと思ってたけど、これは正当防衛ってことでいいよなぁ!!」
「何言ってる。過剰防衛だろ。」
スリダの攻撃を避けながら、和泉は冷めた声で吐き捨てた。焔は慌てて和泉に叫ぶ。
「和泉、ここ病院…!」
「解ってる!」
和泉は低い塀を跳び越え、病院の敷地から駆け出した。スリダと焔も後を追って飛び出す。薄暗い路地裏を和泉はひた走った。
やがて和泉は夕闇の中、街中の公園に出た。息を切らせながら、周囲を見回す。
「女装野郎は…。」
「和泉!」
和泉の真上から襲ってきたスリダの腹に、焔の拳が直撃した。スリダは呻き声を上げ、腹を抑えながら距離をとった。
「大丈夫か、和泉!」
「焔、助かった!」
和泉が焔に礼を言うと、スリダは攻撃的に笑んだ。
「やるねえやるねえ! じゃあこれはどうだぁ!!」
スリダは今度は焔に向かい、青龍刀を思い切りぶん回した。和泉が焔の前に出、氷の刀で受け止める。
だが大きな青龍刀の遠心力で思い切り押され、焔と和泉は吹っ飛ばされた。
「うあ!」
「く!」
「はははぁ!!」
スリダは青龍刀を振り上げ、二人に迫る。焔は立ち上がると和泉の前に出、構えていた手を降ろした。
「焔!」
和泉が慌てる中、スリダの刃が焔に迫る。青龍刀が焔の体を断ち切るかと思われた次の瞬間、スリダは目を見張った。
炎を纏った焔の手が、青龍刀の刀身をしっかりと掴んでいた。スリダは焔の手から青龍刀を離そうと引っ張るが、青龍刀は徐々に熱を帯びていく。
「この! 熱っ!」
「聞きたいことがある。兄貴のこと、そこまでして捕まえないといけないのか?」
唐突に問いを発した焔に、和泉は思わず声を上げた。
「焔! 何言って…!」
「兄貴は確かに酷いことしたと思う。でも兄貴だって…。」
「それでも許せない気持ち、解らないわけじゃねえんだろ。」
焔に言い返したスリダの瞳は、ただ昏い光を宿していた。
「時間だ、スリダ。」
低い声が響き、焔の首元に鋼の刃が突きつけられた。焔は思わず息を呑み、青龍刀から手を離した。
「解った解った、トール。帰る時間な。」
スリダが焔から離れると、鋼の刃も焔から離れた。
スリダがトールと呼んだ、紫の長髪を頭の上で束ねた少年は、得物の日本刀を鞘に収めた。
和泉はトールを睨みつける。
「ポニテ野郎か…。」
「…オレの同志を引き取りにきた。用件はそれだけだ。」
トールは焔と和泉を忌々しげに睨むと、スリダと共に数歩歩く。次には風が吹いたように、二人はその場から消え去った。
公園のそばにあるビルの屋上から、焔達を見下ろしている青年がいた。
スリダとトールが消えたのを確認し、黒づくめの服に大鎌を手にした青年はホッと息をついた。
「…帰ったか…。」
「メテオラ。」
背後から声をかけられ、青年はばっと振り返る。視線の先にはフィロがいた。
「…フィロか。」
「私達の仲間を見守ってくれたのだろう。…感謝する。」
フィロが兎耳の生えた頭を下げると、メテオラと呼ばれた青年は苦笑した。
「そんな感謝されることしちゃいない。あの子らが傷つけばポーラが悲しむ。それだけだ。」
「…お前らしいな。」
フィロは小さく笑い声を立て、改めてメテオラを見上げる。
「メテオラ。星…ポーラに会わないか?」
フィロに問われ、メテオラは一層苦く笑った。
「オレの姿見ろよ。…あいつを苦しめるだけだ。じゃあな。」
メテオラはその場から大きく跳び上がると、闇の中に消えた。
「…全く…。」
フィロは弱く息を吐き、ただ輝いている星空を見上げた。
「この世界は…あまり星が見えんのだな…。」
フィロの呟き声は、星空に消えていった。
「助けて…っ…焔…!」
土煙と焼ける熱の中から、絞り出すような女性の声が聞こえた。死ぬことに怯えている声だった。焔は声のする方向を見ながら、腰を抜かしたように座り込んでいる。
後ろには和泉がいた。和泉は土煙の中、焔に叫ぶ。
「焔! お前何腰抜かして…!」
懸命に体を動かし、焔のそばによろよろと歩いた和泉は焔の表情を見、息を呑んだ。
「和泉…いず、みっ…。」
和泉の背後から、別の女性が苦しげに呼ぶ声が響いた。
和泉は声に向かい振り返ると、また叫んだ。
「都合のいい時だけ助けてもらえると思うな! この阿婆擦れが!!」
和泉の叫びを聞いた焔は顔を上げる。揺れる瞳で和泉を見た。和泉はただ、焔と視線を合わせる。
焔の瞳から涙が溢れ出した時、また大きな爆発が起こり、二人は灼かれた。
焔が目を開けると、和泉が見下ろしていた。
「…焔、大丈夫か。」
気遣う声音に、焔は二段ベッドの下から起き上がった。身体は嫌な汗をかいていた。
焔は先程まで夢に見ていた光景を思い返す。
「…和泉。…前の夢、見てた…。」
「…そうか。」
和泉がそれだけ返すと、焔は思うように黙ってから、口を開いた。
「…和泉。兄貴は…こんなオレを助けてくれたけど…やっぱり兄貴のこと、許せない奴らも沢山いるんだな。」
焔の言葉を聞き、和泉もわずかの間考えてから頷いた。
「…そりゃそうだろうな。それと。」
続いた言葉に焔が疑問符を浮かべると、和泉ははっきりと口にした。
「兄さんはこんなオレまで助けたんだ。だから『こんなオレ達』だろ。」
「…そっか。」
焔はホッとしたように眼差しを緩ませる。和泉は二段ベッドの上に入った。
「もう寝ろ。オレも寝る。」
「お休み、和泉。」
「…お休み。」
部屋の灯りが消される。
やがて二人分の寝息が、部屋に響き始めた。
校舎内に今日の授業が全て終わったことを知らせる鐘の音が響く。ホームルームを終えた生徒達は羽根を伸ばすように力を抜き、部活へ向かったり教室で駄弁ったりし始めた。
「あー、終わった終わったあ。」
「焔ー、帰り一緒にマック行かねえー?」
無造作なくすんだ赤髪を短く結った少年
「…行かない。行くところ、あるから。バイト先の…社長のお見舞い。」
「そっかあ。」
「お前ほんと真面目だよなあ。」
苦笑する生徒達の言葉を聞いた焔の瞳が微かに揺れた。
「焔。」
教室の出入り口から別の声がかかり、皆は見る。青みがかったショートヘアの少年が、睨むような表情で立っていた。生徒達は体を緊張させ、焔はホッと息を吐いた。
「…
「行くぞ。」
和泉と呼ばれた青い少年がそれだけ言うと、焔は勉強道具をまとめていたリュックを背負い、立ち上がった。
「…じゃあ、また明日。」
「お、おう。また明日…。」
焔の別れの挨拶に生徒達がぎこちなく返すと、焔は和泉と共に教室を離れた。
二人がいなくなった後、生徒達は教室で顔を見合わせる。
「焔、大丈夫なのかな…。」
「あの『人でなし』和泉に呼ばれて、一緒に帰ってるって…。」
「何か、弱みでも握られてんのか…?」
「さあ…?」
生徒達は理解出来ないといった様子で、首をひねっていた。
校舎から出て歩きながら、焔は隣を歩く和泉に声をかけた。
「…和泉。また授業サボったのか?」
「そうだけど、どうした?」
和泉が何でもないことのように返すと、焔は少し小さな声で話した。
「…先生に言われた。オレが注意すれば、いくらかマシになるかもって。」
「教師が自分で出来ないこと、焔にさせる気はない。」
和泉がはっきりと返した言葉を受け、焔は暖かい小さな声で呟いた。
「…そっか。」
「お前もお前だ。教師に言われたからオレに言うとか…。」
「ん…ごめん…。」
焔の声がわずかに弱くなる。和泉は僅か焔を見やると、言い辛そうに口を開いた。
「…別に、怒ってるわけじゃない。」
「…そっか。」
焔はまた安心したように、眼差しを緩ませた。
やがて二人がたどり着いたのは、街にある総合病院の前だった。和泉は焔に確認する。
「今回は何号室だったか?」
「二〇四号室。…兄貴、大丈夫かな…。」
心配そうに建物を見上げる焔に、和泉は呆れ顔をした。
「大丈夫だろ。あれから大分経ったし、来週には退院だって言ってたろ。」
「…でも、これからもきっと兄貴は、怪我させられるから。」
思うように建物を見上げ続けている焔を見ながら、和泉は深い声で返した。
「…そうだな。」
二〇四号室の病室では、短い髪をツインテールにした少女がリンゴを剥いていた。皮を剥き終わったリンゴを切ると、一切れをそばにいる兎耳の生えた毛玉に与えた。
「はい、フィロ副社長。」
「ん。ナイフの使い方、上手くなったな疾風。」
フィロと呼ばれた兎耳の生えた毛玉はリンゴを咀嚼した。
「上手くもなりますよ。…何回もこの病院に来て、何回も剥いてますから。」
「疾風ちゃんは星さんが怪我する度、この病院に付き添って来てるからね。」
隣に座っている、くしゃくしゃの短い髪型をした少年は、疾風を気遣うように苦笑した。疾風は少年を見上げると、訴えるように話す。
「だって陸先輩、私心配なんです。お兄ちゃんは何度も何度も、あいつらに襲われて怪我させられて…。お兄ちゃんは私や焔先輩達を助けてくれたのに、あいつらは…。」
「…あの人達にも、事情があることは解るよね。」
少年…
「…でも…。」
「何の話ししてるの?」
体のあちこちに包帯を巻いた、黒髪に青い瞳の青年が病室に入ってきた。
「あ…。」
疾風が言い淀んでいると、フィロはすました様子で口を開いた。
「社員達はサボっていないか、という話をしていた。」
「そうなの?」
青年が首を傾げる。疾風は懸命に頷いた。
「はいっ。」
「大丈夫だよ、きっと。」
ふわりと笑んで言い切った青年に、フィロは呆れ声をかけた。
「星、お前な…。」
「兄貴、いる?」
病室の出入り口から控えめな声が聞こえた。皆が振り向くと出入り口前に焔と和泉が立っていた。疾風は明るい声を上げた。
「焔先輩、和泉先輩!」
「やあ焔、和泉。」
青年…
「やあじゃないっての…ほら兄さん。これ社員のみんなから見舞い。暇つぶし用の本と、今日中にハンコほしい書類だとさ。」
「ほら、みんな頑張ってたよ? 先生。」
星が笑顔でフィロに向き直ると、フィロはますます呆れた声を出した。
「…お前な…。」
「あ、これ読みたかった本だ。」
紙袋の中を漁る星に、和泉がきつい声を飛ばす。
「まずハンコ。」
「兄貴、これハンコと朱肉。」
「ありがとう、焔。」
椅子に座り、書類と向かい合う星を見、フィロは密かにため息を吐いた。
病院の敷地内にある庭で、白いゆったりとした長袖シャツと短いプリーツスカートを身につけた細身の若者が、二〇四号室を見上げていた。
「あいつは例によって、この病院に入院中か。」
呟かれた声は多少トーンが高いが、焔達と同じ年頃の少年のものだった。
細身の少年の脳裏に、女性の声が響く。
『いましたか、スリダ。』
「はい、いつも入院してる病院です。相変わらず部下達もいます。」
スリダと呼ばれた、女性ものの服を身につけている少年は、また呟くように報告する。
脳裏に響く女性の声は続けた。
『そうですか…。引き続き時間まで監視してください。チャンスがあれば、速やかにポーラを捕らえてください。』
「はい、ヴァスク様。」
スリダがそばにある、大きな長い布袋に手をやろうとすると、きつい声が脳裏に飛んだ。
『スリダ。そこは病院の敷地内でしょう。あなたはそちらの世界の人々を侮辱するつもりですか。』
「…解りました。ポーラが敷地内から外出ることあったら、捕らえます。」
『迎えにはトールを行かせます。それでは。』
脳裏に声が響かなくなると、スリダは盛大にため息を吐いた。
「…ったく…今日は暴れられそうにねえな…。」
「ねえ、彼女ー。」
「良かったらオレ達とお茶しなーい?」
明らかにナンパと思われる声が、背後から聞こえてくる。スリダは面倒臭そうに振り返り、声を出した。
「あぁ?」
明らかな男の声に、ナンパしてきた男達は目を丸くする。スリダはにやりと攻撃的に笑み、問うた。
「オレ、こーいうモンだけどいいの?」
「し、失礼しましたっ。」
男達が逃げていくと、スリダはまたため息を吐いた。
「…やれやれ。」
スリダは小さな本を広げつつ、二〇四号室を見上げ続けた。
日が暮れかけた時間。
星への見舞いを終えた焔と和泉は、病院の建物から出て歩いていた。
「兄貴、元気になってたみたいで良かった。」
「そーだな。」
焔の安心したような言葉に、和泉は適当に返す。
そして、病院の門とは違う方向に歩き出した。
「和泉、そっち…。」
「いいから付いて来い。」
戸惑う焔に構わず、和泉はずんずん歩く。
やがて、病院の庭に出た。焔と和泉の少し先では、細身の女性と思われる人物がベンチに座っていた。
和泉は黙って近づいて行き、手を一瞬小さく振る。氷で出来た刀が手の中に現れた。
和泉はそのまま人物に向かい、刀で突きを出した。人物は首を曲げて和泉の一撃を避けると振り返り、にやりと笑った。
「よお。」
人物…スリダの顔を確認した和泉は、苛立ちを隠さず吐き出した。
「何か見られてると思ったら…やっぱりお前か、女装野郎。」
「誰かと思えば、大罪人ポーラの部下か。今日もお勤め、ご苦労さんっ!」
スリダはそばに置いていた布袋から、大きな青龍刀を引っ張り出した。和泉に向かい、刀身を思い切り振り回す。
「ひゃはは! 今日は暴れられないかと思ってたけど、これは正当防衛ってことでいいよなぁ!!」
「何言ってる。過剰防衛だろ。」
スリダの攻撃を避けながら、和泉は冷めた声で吐き捨てた。焔は慌てて和泉に叫ぶ。
「和泉、ここ病院…!」
「解ってる!」
和泉は低い塀を跳び越え、病院の敷地から駆け出した。スリダと焔も後を追って飛び出す。薄暗い路地裏を和泉はひた走った。
やがて和泉は夕闇の中、街中の公園に出た。息を切らせながら、周囲を見回す。
「女装野郎は…。」
「和泉!」
和泉の真上から襲ってきたスリダの腹に、焔の拳が直撃した。スリダは呻き声を上げ、腹を抑えながら距離をとった。
「大丈夫か、和泉!」
「焔、助かった!」
和泉が焔に礼を言うと、スリダは攻撃的に笑んだ。
「やるねえやるねえ! じゃあこれはどうだぁ!!」
スリダは今度は焔に向かい、青龍刀を思い切りぶん回した。和泉が焔の前に出、氷の刀で受け止める。
だが大きな青龍刀の遠心力で思い切り押され、焔と和泉は吹っ飛ばされた。
「うあ!」
「く!」
「はははぁ!!」
スリダは青龍刀を振り上げ、二人に迫る。焔は立ち上がると和泉の前に出、構えていた手を降ろした。
「焔!」
和泉が慌てる中、スリダの刃が焔に迫る。青龍刀が焔の体を断ち切るかと思われた次の瞬間、スリダは目を見張った。
炎を纏った焔の手が、青龍刀の刀身をしっかりと掴んでいた。スリダは焔の手から青龍刀を離そうと引っ張るが、青龍刀は徐々に熱を帯びていく。
「この! 熱っ!」
「聞きたいことがある。兄貴のこと、そこまでして捕まえないといけないのか?」
唐突に問いを発した焔に、和泉は思わず声を上げた。
「焔! 何言って…!」
「兄貴は確かに酷いことしたと思う。でも兄貴だって…。」
「それでも許せない気持ち、解らないわけじゃねえんだろ。」
焔に言い返したスリダの瞳は、ただ昏い光を宿していた。
「時間だ、スリダ。」
低い声が響き、焔の首元に鋼の刃が突きつけられた。焔は思わず息を呑み、青龍刀から手を離した。
「解った解った、トール。帰る時間な。」
スリダが焔から離れると、鋼の刃も焔から離れた。
スリダがトールと呼んだ、紫の長髪を頭の上で束ねた少年は、得物の日本刀を鞘に収めた。
和泉はトールを睨みつける。
「ポニテ野郎か…。」
「…オレの同志を引き取りにきた。用件はそれだけだ。」
トールは焔と和泉を忌々しげに睨むと、スリダと共に数歩歩く。次には風が吹いたように、二人はその場から消え去った。
公園のそばにあるビルの屋上から、焔達を見下ろしている青年がいた。
スリダとトールが消えたのを確認し、黒づくめの服に大鎌を手にした青年はホッと息をついた。
「…帰ったか…。」
「メテオラ。」
背後から声をかけられ、青年はばっと振り返る。視線の先にはフィロがいた。
「…フィロか。」
「私達の仲間を見守ってくれたのだろう。…感謝する。」
フィロが兎耳の生えた頭を下げると、メテオラと呼ばれた青年は苦笑した。
「そんな感謝されることしちゃいない。あの子らが傷つけばポーラが悲しむ。それだけだ。」
「…お前らしいな。」
フィロは小さく笑い声を立て、改めてメテオラを見上げる。
「メテオラ。星…ポーラに会わないか?」
フィロに問われ、メテオラは一層苦く笑った。
「オレの姿見ろよ。…あいつを苦しめるだけだ。じゃあな。」
メテオラはその場から大きく跳び上がると、闇の中に消えた。
「…全く…。」
フィロは弱く息を吐き、ただ輝いている星空を見上げた。
「この世界は…あまり星が見えんのだな…。」
フィロの呟き声は、星空に消えていった。
「助けて…っ…焔…!」
土煙と焼ける熱の中から、絞り出すような女性の声が聞こえた。死ぬことに怯えている声だった。焔は声のする方向を見ながら、腰を抜かしたように座り込んでいる。
後ろには和泉がいた。和泉は土煙の中、焔に叫ぶ。
「焔! お前何腰抜かして…!」
懸命に体を動かし、焔のそばによろよろと歩いた和泉は焔の表情を見、息を呑んだ。
「和泉…いず、みっ…。」
和泉の背後から、別の女性が苦しげに呼ぶ声が響いた。
和泉は声に向かい振り返ると、また叫んだ。
「都合のいい時だけ助けてもらえると思うな! この阿婆擦れが!!」
和泉の叫びを聞いた焔は顔を上げる。揺れる瞳で和泉を見た。和泉はただ、焔と視線を合わせる。
焔の瞳から涙が溢れ出した時、また大きな爆発が起こり、二人は灼かれた。
焔が目を開けると、和泉が見下ろしていた。
「…焔、大丈夫か。」
気遣う声音に、焔は二段ベッドの下から起き上がった。身体は嫌な汗をかいていた。
焔は先程まで夢に見ていた光景を思い返す。
「…和泉。…前の夢、見てた…。」
「…そうか。」
和泉がそれだけ返すと、焔は思うように黙ってから、口を開いた。
「…和泉。兄貴は…こんなオレを助けてくれたけど…やっぱり兄貴のこと、許せない奴らも沢山いるんだな。」
焔の言葉を聞き、和泉もわずかの間考えてから頷いた。
「…そりゃそうだろうな。それと。」
続いた言葉に焔が疑問符を浮かべると、和泉ははっきりと口にした。
「兄さんはこんなオレまで助けたんだ。だから『こんなオレ達』だろ。」
「…そっか。」
焔はホッとしたように眼差しを緩ませる。和泉は二段ベッドの上に入った。
「もう寝ろ。オレも寝る。」
「お休み、和泉。」
「…お休み。」
部屋の灯りが消される。
やがて二人分の寝息が、部屋に響き始めた。