第十七話 三年前の十一月編 血に濡れた約束
…声が、聞こえる。
…ろ…おきろ…
「…起きろ…起きろっつってんだよ!!」
雷のような叫び声と共に、身体に衝撃と痛みが来て、来螺裕治は目を開けた。
「った! …何だお前か。」
ベッドに寝ていた来螺が目を開けると、寮の隣室である江利井晶良が拳を握り、睨みながら見下ろしていた。江利井が口を開く。
「お前かじゃねえよ。てめえ、放っといたらまた授業さぼるだろがよ。ほら行くぞ。」
「…へーへー真面目な事で結構ですね!!」
来螺は江利井を忌々し気に睨みつけると、身体を起こした。
寮から出て、江利井と来螺は共に歩く。向かう先は学園中等科校舎。江利井と来螺は、共に学園の中等科二年生だ。
今は十一月だが、暖かい日が続いたからか、学園に植えられている桜が満開に近い状態で狂い咲いていた。
学園の前庭に現れた江利井と来螺を見て、いかにも素行のよろしくない雰囲気の生徒達が、ひそひそと話をする。
「…おいあれ。」
「あー、あいつな。能力全然無いって奴。」
彼らが見ているのは、江利井の隣でしかめ面をして歩いている来螺だった。彼らは明らかに馬鹿にした様子で来螺を見、話を続ける。
「能力無いなんて異常だぜ異常。」
「あんな生意気面しやがって…シメてくるか…うおっ!」
話していた生徒の一人が、衝撃を受けて尻餅をつく。
「何だ! …!」
見上げた生徒が体を強張らせた。目の前では、生徒に思い切りタックルを喰らわせた江利井が、見下ろしながら睨みつけていた。
「…ワリイな。」
来螺の事を話していた生徒達は、何も言わずにそそくさと逃げていく。
来螺は彼らの一連の様子を、しかめ面のまま黙って見ていた。江利井が来螺のそばに帰って来る。
「…よお。」
「何ですかあー?」
江利井のぶっきらぼうな声に、来螺が間延びした声で返すと、江利井は呟くように口にした。
「…さぼるか。」
「はあ? …何だよ。」
校舎とは逆の方向に歩き出した江利井に、来螺は意味が解らない、という様子で付いていった。
学園近くの河原。
江利井と来螺は、そこに座ってぼんやりとしていた。
川の向こうには学園都市が広がる。その向こうには、何も見えないもやがかかっている。
二人は長い事、黙ってぼんやりしていたが、不意に江利井が口を開いた。
「あー…。狭い世界だよなあ。」
「いきなり何だ?」
投げやりに来螺が返すと、江利井がまたぼんやりと口にする。
「何となく。狭い、世界だなーと。」
二人はしばらく黙った。
やがて、また江利井が話し出す。
「…知ってっか? 『裏側の世界』って。」
「ん? 何だそれ。」
来螺が顔をしかめて疑問符を浮かべると、江利井は考えながら説明した。
「よく解んねーけど、こことは違う世界があるって話。都市伝説だけど。」
「裏側の世界」。この世界にある、都市伝説の一つだ。
この世界には、こことは違う別の世界に繋がる場所がある、という事柄が共通している噂話。人によって様々に言われているが、どれも噂の域を出ない話で、実際に「裏側の世界」を確認した人間はいない。
「…ふうん。」
来螺は大して興味が無さそうに答え、二人は三度沈黙した。
陽が高く登った頃、二人はまだ河原でぼんやりとしていた。
今度は来螺が口を開いた。
「…お前、何でオレの監視役なんかやってる訳? 学園都市創設者の息子サマ?」
中等科に上がった時、来螺には「監視役」が付けられた。それが江利井だ。
来螺は皆が特殊能力を持っている事が当たり前であるこの「世界」で、全く能力を持っていない。そんな彼の学園生活をサポートする為の生徒、と学園からは説明されていた。
江利井は来螺を睨み、返す。
「てめえだって、創設者の息子だろが。」
「いやいや、お前には及びませんよ? 何せオレ能力無いし?」
投げやりな、馬鹿にした調子の来螺の発言に、江利井はため息をついた。
「このひねくれモン…。ちくしょ。出来る事なら、てめえみてえなムカつく野郎となんざいたくねえよ。」
「じゃあ、何でいる訳?」
来螺の問いに、江利井はしばし沈黙した。来螺はふんと鼻を鳴らし、眉間にしわを寄せてまた問う。
「やっぱり創設者の息子サマとして、秩序とやらを守るため、ですか?」
江利井は黙って、前に広がる川を見つめていた。…真っ直ぐに。様子を見た来螺が疑問符を浮かべると、江利井は前を見つめたまま、言った。
「…てめえは…放っとくと、いつか他人の血を流しそうだから。」
江利井と来螺が教室に入ったのは、昼休みの時間だった。
江利井と来螺のクラスメイト三人が、二人の姿を認めて笑う。
「おはよう、江利井、来螺。」
「こんにちはだろ、今の時間じゃ。」
「よお、重役出勤だなー。」
「…おはよう、四谷。山本。浅瀬石。」
江利井が一つ息を付きつつ答えると、浅瀬石が二人に授業のノートを差し出した。
「ほら、ノート写せ。お前らどうせ昨日も喧嘩して、宿題どころじゃなかったんだろ?」
「お、サンキュ。」
江利井は頭を軽く下げると、ノートを受け取った。
来螺は江利井を後ろで黙って見ていたが、山本が来螺にノートを差し出した。
「ほら、来螺。お前も。」
「……サンキュ!」
来螺は目を細めて明るい声で返し、ノートを受け取った。
放課後。
教師に頼まれた用事を済ませた江利井が、教室に戻って来た。
「やっと終わった…おい、来螺は?」
教室に居残っていたのは、昼間に江利井と来螺と話した三人のクラスメイト、四谷、山本、浅瀬石だった。
山本が返答する。
「あ、先帰っちゃったぜ。」
「ったく…。」
「…なあ、江利井。」
呆れた様子を見せる江利井を四谷が呼ぶ。江利井が顔を上げると、彼は深い声で話をした。
「来螺って、何で能力って呼べるモノ、無いんだろうな。」
「…うん。オレもそれ思ってた。」
浅瀬石が同調する。
江利井は少し間を置いて、呟くように返した。
「…解んねえ。」
四谷は心配そうに話す。
「…大丈夫なのかな、あいつ。…オレ達皆、能力ってモノがある中で…あいつだけ無いって…しんどいモノ、ないかな?」
「…何でオレには…あるんだろう…。」
江利井の口がぽつりと言葉を漏らした。聞き取れなかった三人が疑問符を浮かべる。
「え?」
「…あ、何でも。」
江利井はハッとして首を横に振る。三人はそれ以上追求せず、来螺の話に戻った。
「…でも、何か解るよな。来螺の奴、相当気い張って生きてるの。」
「…そうだな。」
四谷の言葉に山本は頷き、苦笑気味に言った。
「…あいつはオレ達の事、ホントは嫌いみたいだしな。」
「あの笑顔…笑ってねえもん。」
浅瀬石の言葉に江利井は、午後にノートを貸された時の、来螺の「笑顔」を思い出す。
注意してよく見ると、ただ目を薄くし、顔を歪ませているようにしか見えない笑顔を。
江利井は静かな声で、口を開いた。
「…でも、お前らは…あいつの友達でいるんだな。」
江利井の言葉を聞き、三人は一様に笑みを見せた。
「心配だし…見てて面白いし。お前ら二人。」
「何だかんだで、お前達いいコンビだと思うぜ?」
「そうそう。」
彼らが口々に話した言葉に、江利井はまた呆れ顔をした。
「…あの野郎とコンビかよ…。」
来螺は一人、寮に向かって歩いていた。歩きながら顔を歪め、吐き捨てるように呟く。
「…胸くそ悪い…。」
目を見れば解るんだ。何となく。
…そう、何となく…でもはっきりと伝わってくる、周りのオレに対する意志。
オレと同じ年頃のは、大体侮蔑。能力の無い、オレに対する。
教師達のそれは、拒絶。オレの存在を恐れ、拒否している。
…教師達のあの目を見ると、頭の隅で聞こえる言葉がある。
「おとなしくしていてくれ」
遠い昔に、何度も聞いた気がする、そんな言葉。
オレだって、学園側の話をまんま信じる程、馬鹿じゃない。
…オレにあの「監視役」を付けたのは、オレを恐れたから。
侮蔑。拒絶。皆そうだ。
…ああ、一つだけあったか。
…そのどちらも持っていない、あのいけ好かない目…。
思考に入っていた来螺の身体を、衝撃が襲った。
「がっ!!」
道の塀に身体を叩き付けられた来螺が顔を上げると、朝に来螺を嘲る言葉を吐いていた生徒達が、歪んだ顔で笑っていた。
「何だ、今日はあの野郎いないのか。」
生徒の一人が来螺の腹に拳をめり込ませた。
「ぐは…!」
来螺が苦痛に目を見開き、身体を崩す。生徒達は来螺の胸倉を掴み上げ、更に拳を浴びせる。
「がっ! ぐ! あ…!」
嘲笑しながら、生徒達は来螺に殴る蹴るの暴行を続ける。
「いつもいつも生意気な面しやがって…気に入らねえんだよ!!」
「あ…っ!!」
来螺の身体が地面に叩き付けられる。来螺が見上げると、彼らの一人が、言葉を吐いた。
「あの野郎に守られてないと、生きられない無能が!!」
聞いた瞬間、来螺の目の前が一瞬真っ暗になった。
頭の中に、言葉が響く。
あのいけ好かない奴に
守られていないと
生きられない
無能力者
来螺の視界に、きらりと光るものが映った。
それが何かを認識した来螺は跳ね起き、それをもぎ取った。生徒の一人が身につけていた、小さなナイフだった。
来螺は、叫んだ。
「……っざけんなあああああ!!」
来螺はナイフを逆手に握りしめ、生徒の一人の肩から腹を斜めに切り裂いた。
「ぎゃあああああ!?」
激痛に生徒が絶叫し、倒れた。斜めに切られた身体からは、血が溢れている。
「う、うわああああ!!」
「こ、こいつ!?」
他の生徒達が逃げようとした時には、来螺は一人の片腕を切り裂き、もう一人の背中にナイフを突き立てていた。皆倒れ、痛みに踞る。
彼らが怯えた顔で見上げると、来螺が見下ろしていた。
「…わ、わるか、た…ゆるし…!」
生徒達の震える声に構わず、来螺はナイフを振り上げる。血を流す生徒達の身体に切りつけた。彼らは新たな痛みに声を上げる。来螺はまた切りつけた。血を流し続けた。
いつしか、雨が降っていた。地面を叩く、激しい雨が。
来螺を暴行した生徒達は、ナイフで散々傷つけられて身体はずたずた、声も出せない状態で倒れていた。
生徒達の血で出来た海に、来螺は立っていた。ただ、立っていた。
不意に、来螺は顔を上げた。雨粒が来螺の顔を容赦なく打ち、濡らした。
ああ、すっきりする…これで…。
…これで…あの、ムカつくあいつも…あの侮蔑も、拒絶もして来ない、あいつも…。
「ふ…ふふ…はは…はははは…ひゃはははははは!!」
雨粒に叩かれながら、来螺は空に向かって笑い声を上げた。雨に濡れ、くしゃくしゃになった顔で笑い続ける来螺の頬を、雫が後から後から伝って流れていった。
翌朝。
江利井が一人で教室に入ると、山本が声をかけて来た。
「おはよう、来螺は?」
「…帰ってねえんだよ。部屋に。」
江利井がぶっきらぼうに答えると、浅瀬石が話した。
「おはよう、知ってるか? ウチの学年の奴で…誰かにナイフでずたずたに切られて、病院運ばれた奴いるって…。」
「知ってる。口も聞けない状態にされてるらしいよな。」
友人達が話す中、江利井は黙って思考に入った。
…やったのは、来螺だ。
昨日、寮のあいつの部屋に行ったら、大きな血のシミが部屋の絨毯にあって、血まみれの制服が、無造作に放り出されていた。
そして、あいつの姿は何処にもなかった。
学園都市に通り魔が現れるようになったのは、そのすぐ後だった。
深夜に学園都市内をふらふらしている、不良学園生徒が主な被害者で、彼らは死ぬ一歩手前まで、ナイフで身体中をずたずたに切られていた。
…来螺は部屋に戻って来る様子は無かった。学園にも姿を見せない。
教師達も、来螺に関して何も言う気配はない。
江利井は来螺の事をほとんど口に出さず、生活を続けた。
深夜の街中。
「…そお。あんがとさーん。」
来螺は目の前の若者にそう言うと、ナイフを振り抜いた。
「ぎゃああ!! っひい!!」
怯え、叫ぶ声の中、来螺は若者の身体を切り刻み続けた。
若者がぐったりとした頃、来螺は手を止めた。にたりと笑い、呟く。
「…そうか…やっぱり、学園にあるのかあ…。」
…その日は、朝から地面を強く叩く雨が降っていた。
先日の雨の後、残っていた狂い咲きの桜も、この雨で散ってしまうだろうと思われた。
授業が始まる前、四谷が江利井に声をかけた。
「…なあ江利井。来螺、何処行ったんだ?」
「…解らねえ。」
江利井が呟くように答えると、浅瀬石は不安気な様子を見せた。
「心配だよ…通り魔被害続いてるしさ…。」
…通り魔の被害者達に吐かせてみたら、皆答えは同じだった。
夜中、ふらふらしてた来螺に絡んだら「裏側の世界」都市伝説のことについて…聞かれたらしい。
そして…問答無用でずたずたにされたらしい。
…被害者達が持っていた、都市伝説の断片を重ねてみた。
「裏側の世界」都市伝説…それに繋がる場所は…。
『全校生徒の皆さん。この近辺で続いている通り魔事件の被害拡大防止の為、今日の授業はホームルームのみとします。』
校内放送が流れ、思考に入っていた江利井はハッと我に返った。
「え、そうなの?」
「早く帰れる?」
生徒達が疑問符を浮かべる中、江利井はふと窓の外を見た。
次の瞬間、江利井は目を見開き、がたんと音を立てて立ち上がり、教室を飛び出した。
「江利井!?」
クラスメイト達が驚く中、江利井は走り、雨の降る前庭に出た。
そして、目の前を見据える。
…そこには、来螺が立っていた。
江利井は大きく息を吸い、呼吸を無理矢理整えると、来螺を睨んだ。
「…久しぶりだな、来螺。」
来螺は黙って、江利井の目の前にいる。江利井は続けて口を開く。
「今まで何やって…。」
「邪魔。」
来螺が腕を横に振る。次の瞬間、江利井の制服の胸が赤く染まった。
江利井は不意打ちの痛みに目を見開き、その場に踞る。来螺は小さなナイフを握りしめ、校舎に向かって走り出す。校内は騒然となった。
「来螺!?」
「何で!?」
四谷達が衝撃と戸惑いに声を上げた。
校舎に飛び込んだ来螺は、目の前を塞ぐ生徒達を片っ端からナイフで薙ぎ払いながら、真っ直ぐに、ある方向に向かって走っていった。
江利井は血が流れる胸を抑え、痛みに身体を歪ませながら、後を追った。
追いながら江利井は、思い出す。
「裏側の世界」都市伝説…その世界に繋がるともっぱらの噂の場所は…学園の中で、生徒の立ち入り厳禁の場所…職員室!!
「来螺君! 止めないか!! あああっ!!」
「うわああ!!」
「ぎゃあっ!!」
生徒も教師も、無差別にナイフで切りつけながら、来螺は職員室に向かってひた走った。
「ら、来螺!!」
聞き覚えのある声の持ち主が、来螺の前に立ちはだかった。
来螺が足を止めると、そこには四谷、山本、浅瀬石がいた。彼らは必死で来螺に訴える。
「止めろよ、来螺!!」
「止めてくれよ!!」
来螺は彼らに向かい、さらりと口にした。
「…何で?」
あまりにもあっけらかんとした言葉に、三人は戸惑いつつも訴える。
「何でって…。」
「…友達が、こんな事してんの嫌なんだっ…。」
「…友達…。」
来螺は呟くと、三人にゆっくりと歩み寄った。
そして、片腕を思い切り振った。…ナイフを持った腕だった。切りつけられた三人は驚きと苦痛に声を上げ、その場に崩れた。
「いらないんですけど。そんなモン。」
来螺は彼らを見下ろし、吐き捨てると、走って行った。
しばらくして、江利井が三人の元に駆けて来た。血を流す彼らを見て、江利井は声を上げる。
「お前ら!!」
「江利井…。」
江利井が助け起こした浅瀬石は、血が流れる傷を抑えながら苦笑した。
「あいつ、爆発しちゃったな…はは…。」
江利井が苦しげに顔を歪ませると、山本は言った。
「江利井…あいつを止めてくれ…。それと…。」
山本の言葉の続きを、四谷が引き受けた。
「…あいつを、救ってくれ。多分、お前にしか出来ないよ…。」
江利井は短い間、黙った。血を流し、訴えた彼らを見て。
「…解った。」
江利井は小さな声ではっきりと言うと、立ち上がり、走り出した。
来螺はひた走る。職員室に向かって。
「後少し…。」
来螺の目には、職員室の先にある「何か」しか、見えていないようだった。
「後少しで、オレは…!」
来螺の口が笑みを作った時。
「だあっ!」
顔面に衝撃を受け、来螺は吹っ飛ばされた。
「っ…!!」
来螺が痛みを堪え、身体を起こすと、来螺の顔面に飛び蹴りを喰らわせた江利井が、来螺の前に立ちはだかった。江利井が叫ぶ。
「…だから…何やってんだって、言ってんだろうが!!」
「何だ…創設者の息子サマか。生憎、お前に構ってる暇無いんだ。」
来螺は立ち上がり、江利井に向かってナイフを振り下ろす。江利井はその一閃を、左腕を上げて受け止める。壁を叩くような音がした。来螺は一瞬目を見開く。
「オレにはそれ効かねえぜ。オレの能力、知ってんだろ。」
来螺を睨む江利井の身体が、青い光を纏っている。江利井が能力、自身を守る硬化コーティングを使っている証だった。
それを見た来螺はぎり、と歯噛みし、身体を震わせる。
「…能力…能力…そんなん持ってる奴がそんなに偉いのか!!」
来螺は激昂し、江利井に叫ぶ。
「オレは能力が無いってだけで、一生怯えて、お前に守られて生きてかなきゃならないのか!! …お前みたいな…お前なんかに…!!」
来螺は一瞬、顔をくしゃくしゃに歪ませた後、江利井を睨み、叫んだ。
「そんな世界、オレはもうごめんなんだ!! だからオレは、別の世界へ行ってやる!!」
江利井は黙って、来螺の叫びを聞いた。来螺を真っ直ぐに見て。小さな、だが通る声で、口を開いた。
「…オレは、この力でてめえより優れてるなんて思った事ねえし、むしろオレには、何で能力なんてあんだろうなって思った。」
…江利井の真っ直ぐな瞳が、震えるように揺れた。
「それと…てめえの事は、何だかんだで嫌いになりきれなかった。てめえのひねくれた口聞いてると…退屈しなかった。」
来螺の血走った眼差しが僅か、戸惑いに揺れる。
江利井の声が震え始める。
「でもな…オレが駆けてきた道…皆、血溜まり出来ててよ…。もう、足下真っ赤じゃねえか…。」
江利井の制服のズボンと内履きは、来螺が流した学園の生徒達の血で、赤く染まっていた。
来螺が僅かな戸惑いのまま、問う。
「…だから…何だってんだ。」
「…言ってなかったけどよ…。オレはな…血を見るのが大嫌いなんだよ!!」
言うや否や、江利井は来螺の腕を掴み、窓にぶつけるように来螺の身体を投げた。窓ガラスが破られ、来螺の身体は雨の降る前庭に叩き付けられた。
江利井は破った窓から、前庭に飛び出す。来螺の前に立つと、来螺は泥だらけになりながら、身体を起こした。
江利井を見る来螺の瞳は、憎しみに燃えるようだった。
「…解った。お前の相手してから、イイ世界行ってやる。お前の事本気でいけ好かなかったんだ。お前なんか…本気でオレなんかに構ってきやがるお前なんか!!」
「…上等!! …落とし前は付けてもらう!!」
来螺はナイフを握り直し、江利井は拳を握りしめる。二人は思い切り踏み出し、お互いに向かって行った。
雨が地面を激しく叩き、桜を散らす中、江利井と来螺は対峙する。
来螺は江利井に向かってナイフを思い切り振り、江利井は拳で来螺を打ち抜こうとする。
江利井が拳を振りかぶりながら叫ぶ。
「てめえここ数日で、どんだけ他人の血流してんだ!! 何やってんだよてめえは!!」
江利井の拳が来螺の身体に重く当たる。痛みを堪え、来螺もナイフを振り下ろし、叫び返す。
「知るか! あんな奴らの血、幾ら流れたってオレの知った事じゃない!!」
来螺のナイフが江利井の肩を切り裂こうとするが、硬化コーティング能力で覆われた江利井の身体には効かない。江利井は再び拳を握る。
「勝手に頭に血上らせてる奴に巻き込まれるこっちは、堪ったもんじゃねーんだよ!!」
「血上らせたのはお前達能力持った奴らだ!! お前達が全部…!」
来螺が叫んだ言葉を聞き、江利井は僅か身を退いた。
「能力…か。この能力が気に入らねえなら、使わねえでいてやる。ほら、切ってみろ。」
江利井は来螺に、自分の腕を差し出した。来螺は江利井を憎々し気に睨む。
「ふん。」
来螺が江利井の腕にナイフを振り下ろすと、江利井の肉が裂け、血が溢れた。
来螺は僅か、目を見開く。江利井の身体の青い光は、完全に消えていた。
江利井は血が流れる腕を抑え、来螺を睨んだ。
「これで、勝負は五分だよな…!!」
「…死んでも知らないからな!!」
来螺が憎しみに目を血走らせ、江利井に思い切りナイフを振り下ろす。江利井の肩が切り裂かれ、血が噴き出す。
「…っ!」
江利井はそれでも拳を握りしめ、思い切り一歩踏み出すと、来螺の頬に思い切りパンチを喰らわせた。
来螺が衝撃に吹っ飛ばされる。来螺はよろめきながら立ち上がり、江利井に向かって行く。江利井が迎え撃とうと拳を繰り出したのをかわし、江利井の太ももにナイフを突き立てた。
「…あ…っ!」
江利井の顔が苦痛に歪む。来螺が容赦なくナイフを引き抜くと、血が溢れた。来螺は更に、ナイフを江利井の顔面に突き立てようとする。江利井の手が伸び、来螺のナイフを持った手首を掴む。
「っ!!」
握りつぶさんとするような力で手首を掴まれ、来螺が僅か顔を歪めると、江利井は来螺の腹に全力で拳を見舞った。
「ぐほっ…!!」
来螺の身体が衝撃で曲がる。来螺は痛みで思うように動けない状態で、無理矢理ナイフを振り、自身にめり込んだ江利井の拳に突き刺した。
「あああ…っ!!」
江利井が激痛に声を上げる。それでも江利井は無事な方の拳を握り、来螺のこめかみに渾身の力を込めてぶつけた。
「があっ…!!」
脳に衝撃を受け、来螺の身体が大きく揺らぐ。江利井は更に拳を喰らわせようとする。来螺はふらつきながら、江利井の首元を狙ってナイフを振る。それは江利井の肩にあった傷を抉る形になった。
「あああ!!」
殺し合い。
…それしか当てはまる言葉が無い程に、二人の戦いは凄惨な光景だった。
来螺は江利井の全力の拳を、身体中に受けた。江利井も来螺のナイフに何度も切られ、刺された。
ぼろぼろになっても、二人は激しい雨の中、なおも立っていた。
来螺は思っていた。
…何でだ…。
江利井が来螺に向かい、また思い切り踏み出す。
来螺は迎え撃つ為、江利井の血にまみれたナイフを握り、振り下ろす。ナイフは江利井の胸を更に切り裂く。
江利井は新たな激痛に顔を歪めながら、来螺の頬に拳を直撃させた。
重い一撃に、来螺は倒れそうになる。
…何でだ…。
どんだけ、切っても…ぶっ刺しても…。
来螺が懸命に踏ん張ると、青い制服を己の血で真っ赤に染めた江利井が、来螺を真っ直ぐに、射抜くように見ていた。
「…あ!」
来螺がナイフを振る。ナイフは江利井の頬を切った。
苦痛を表しはするものの、江利井の眼差しは、来螺を見たまま、揺らぐ事は無かった。
…何で、こいつ倒れないんだ!!
その思考に至った来螺の背中が、一瞬寒気を覚えた。動きがほんの僅かの間、止まった。
その一瞬で、江利井の拳が来螺の顔面に迫っていた。ナイフを構えようとした時には、来螺は思い切り拳の衝撃を受けていた。来螺は踏ん張り、立った体勢を何とか保った。
そして、江利井に向かって行こうとしたが。
「…っ!?」
来螺の足は動かなかった。視界は歪み、身体には力が入らなかった。
度重なる拳の衝撃を受けた来螺の身体が、限界を訴えた。
立ち尽くしながら、来螺は思う。
…身体、動かない…。
負けんのか…オレは…。こんな、いけ好かない奴、に…。
「…う…っ…。」
来螺の耳に、雨音に混じって声が聞こえた。
…?
来螺が視線を動かすと、そこには、拳を振りかぶる江利井の顔があった。
「…ぐっ…ひっ…。」
声は、江利井の喉から漏れ出ていた。
…これは…。
「ぐうっ…。」
来螺の目の前で、江利井は顔をくしゃくしゃに歪ませ、歯を食いしばり、苦しげに声を出していた。
来螺はその声を表す言葉を、思った。
…嗚咽…。
「ひぐっ…。」
小さく声を上げながら、江利井は来螺を真っ直ぐに見ていた。その瞳は震えていた。
傷ついた江利井の頬に、雫が後から後から流れ落ちる。
それが雨なのか、来螺が思っているモノなのか区別はつかなかったが、来螺は思った。
…何だ…。お前、泣いてんのか…。
バカか…泣いてんじゃないって…。こんな事で…オレの、事なんかで…。
江利井が拳を振り抜く。
来螺の頬を直撃し、来螺の身体が傾ぐ。倒れながら、来螺は思った。
…オレの事なんかで、泣くんだな…お前は…。
雨が地面を叩く中、来螺は倒れた。絞り出すような声を発する。
「ちくしょ…お…。」
「…だから…言っただろが…オレは…血を見るのが大嫌いなんだよ…!」
血を流しながら来螺の前に立つ江利井は、腕で目の辺りを拭い、口を開いた。
「…てめえが傷つけた奴の中には、てめえを友達だと思ってた奴もいたんだ。」
来螺が黙っていると、江利井は続ける。
「てめえが仲良くする振りしてるの解ってて、それでも友達でいようとしてたんだよ。あいつらの血を流しても、てめえは何とも思わなかったんだよな。」
江利井はぎりと歯噛みし、吐き捨てるように言う。
「…マジで最悪だ、てめえ。」
来螺が倒れたまま、ゆっくりと顔を上げると、江利井は叫んだ。
「オレはな、そんなてめえが嫌いだ!! てめえの変な企みは、全部オレが潰してやる!! デカいのも、小さいのも、片っ端から!!」
来螺が江利井を思わずギッと睨んだ時。
「…その代わり。」
あまりにも静かに続いた言葉に、来螺が疑問符を浮かべた。江利井は小さな、通る声で言った。
「てめえが憎むモノは、オレが全部潰してやる。」
来螺がひゅ、と息を飲み、戸惑いを投げかける。
江利井は睨みを消した、どこか泣きそうに穏やかな顔をしていた。
「またこんな事されたら、堪らねえから。またこんな、他人の血流されたら堪ったもんじゃねえ。…元々、てめえの面倒見てる身だ。だからてめえの憎しみ、オレが引き受けてやる。…てめえが憎むモノは何だ? てめえを虐げた奴か? 能力か? それとも…。」
江利井は親指を、自分に向けて指した。
来螺の目が、ゆっくりと見開かれる。大きく開いた目で、江利井を見た。顔を歪ませ、笑い声を立てる。
「…ハッ。お前、よく解ってるだろうが。」
来螺は江利井を見上げ、問う。
「…お前、本当に自分潰せるのか?」
「てめえが二度と人の血流さねえって、完全保証されるなら、いくらでも。」
江利井は来螺の目を見て答えた。来螺は鼻を鳴らした。
「ふん。…因果応報って、知ってるか?」
「? いつか行いが自分に返って来るって、あれか?」
江利井が問うと、来螺は頷く。
「そう。それで行くと、お前を潰したら、オレも潰れないといけなくなる。…だから、今は潰れなくていい。…でもオレは、お前なんか大嫌いだ。お前なんか潰れろと、思い続けてやる。…だからっ…。」
そこまで言うと、来螺は言葉を切った。くしゃくしゃに顔を歪ませ、江利井を見た。絞り出すような、震える声で言った。
「…江利井…お前が潰れる時はっ…お前、オレを潰せ…!」
江利井は一瞬、驚いたように目を開いた。その次にまた、涙が零れそうな程に、酷く穏やかな眼差しを来螺に向けた。
「…解った。約束してやる。オレが潰れる時は、てめえを潰してから、潰れてやる。」
江利井の言葉を聞いた来螺は、気が抜けたように身体を崩し、意識を失った。江利井もほぼ同時に身体を倒し、目を閉じた。
散った桜の花びらが
血の海に染まり
大粒の雨に叩かれる
暗い空の下で
…闇の中で、江利井は声を聞いた。
「…最悪の事態になってしまったわね…。」
「今度の操作は、徹底的にやらなければいけませんね…。」
…? 何言ってんだ…?
その声は、酷く冷たい声だった。
「この世界を守る為…もう一度、今度は全てを、忘れてもらわなければ…。」
…おい…何、勝手な事しようと…。
何かが迫って来るのを感じ、江利井の意識は途絶えた。
To Be Continued
…ろ…おきろ…
「…起きろ…起きろっつってんだよ!!」
雷のような叫び声と共に、身体に衝撃と痛みが来て、来螺裕治は目を開けた。
「った! …何だお前か。」
ベッドに寝ていた来螺が目を開けると、寮の隣室である江利井晶良が拳を握り、睨みながら見下ろしていた。江利井が口を開く。
「お前かじゃねえよ。てめえ、放っといたらまた授業さぼるだろがよ。ほら行くぞ。」
「…へーへー真面目な事で結構ですね!!」
来螺は江利井を忌々し気に睨みつけると、身体を起こした。
寮から出て、江利井と来螺は共に歩く。向かう先は学園中等科校舎。江利井と来螺は、共に学園の中等科二年生だ。
今は十一月だが、暖かい日が続いたからか、学園に植えられている桜が満開に近い状態で狂い咲いていた。
学園の前庭に現れた江利井と来螺を見て、いかにも素行のよろしくない雰囲気の生徒達が、ひそひそと話をする。
「…おいあれ。」
「あー、あいつな。能力全然無いって奴。」
彼らが見ているのは、江利井の隣でしかめ面をして歩いている来螺だった。彼らは明らかに馬鹿にした様子で来螺を見、話を続ける。
「能力無いなんて異常だぜ異常。」
「あんな生意気面しやがって…シメてくるか…うおっ!」
話していた生徒の一人が、衝撃を受けて尻餅をつく。
「何だ! …!」
見上げた生徒が体を強張らせた。目の前では、生徒に思い切りタックルを喰らわせた江利井が、見下ろしながら睨みつけていた。
「…ワリイな。」
来螺の事を話していた生徒達は、何も言わずにそそくさと逃げていく。
来螺は彼らの一連の様子を、しかめ面のまま黙って見ていた。江利井が来螺のそばに帰って来る。
「…よお。」
「何ですかあー?」
江利井のぶっきらぼうな声に、来螺が間延びした声で返すと、江利井は呟くように口にした。
「…さぼるか。」
「はあ? …何だよ。」
校舎とは逆の方向に歩き出した江利井に、来螺は意味が解らない、という様子で付いていった。
学園近くの河原。
江利井と来螺は、そこに座ってぼんやりとしていた。
川の向こうには学園都市が広がる。その向こうには、何も見えないもやがかかっている。
二人は長い事、黙ってぼんやりしていたが、不意に江利井が口を開いた。
「あー…。狭い世界だよなあ。」
「いきなり何だ?」
投げやりに来螺が返すと、江利井がまたぼんやりと口にする。
「何となく。狭い、世界だなーと。」
二人はしばらく黙った。
やがて、また江利井が話し出す。
「…知ってっか? 『裏側の世界』って。」
「ん? 何だそれ。」
来螺が顔をしかめて疑問符を浮かべると、江利井は考えながら説明した。
「よく解んねーけど、こことは違う世界があるって話。都市伝説だけど。」
「裏側の世界」。この世界にある、都市伝説の一つだ。
この世界には、こことは違う別の世界に繋がる場所がある、という事柄が共通している噂話。人によって様々に言われているが、どれも噂の域を出ない話で、実際に「裏側の世界」を確認した人間はいない。
「…ふうん。」
来螺は大して興味が無さそうに答え、二人は三度沈黙した。
陽が高く登った頃、二人はまだ河原でぼんやりとしていた。
今度は来螺が口を開いた。
「…お前、何でオレの監視役なんかやってる訳? 学園都市創設者の息子サマ?」
中等科に上がった時、来螺には「監視役」が付けられた。それが江利井だ。
来螺は皆が特殊能力を持っている事が当たり前であるこの「世界」で、全く能力を持っていない。そんな彼の学園生活をサポートする為の生徒、と学園からは説明されていた。
江利井は来螺を睨み、返す。
「てめえだって、創設者の息子だろが。」
「いやいや、お前には及びませんよ? 何せオレ能力無いし?」
投げやりな、馬鹿にした調子の来螺の発言に、江利井はため息をついた。
「このひねくれモン…。ちくしょ。出来る事なら、てめえみてえなムカつく野郎となんざいたくねえよ。」
「じゃあ、何でいる訳?」
来螺の問いに、江利井はしばし沈黙した。来螺はふんと鼻を鳴らし、眉間にしわを寄せてまた問う。
「やっぱり創設者の息子サマとして、秩序とやらを守るため、ですか?」
江利井は黙って、前に広がる川を見つめていた。…真っ直ぐに。様子を見た来螺が疑問符を浮かべると、江利井は前を見つめたまま、言った。
「…てめえは…放っとくと、いつか他人の血を流しそうだから。」
江利井と来螺が教室に入ったのは、昼休みの時間だった。
江利井と来螺のクラスメイト三人が、二人の姿を認めて笑う。
「おはよう、江利井、来螺。」
「こんにちはだろ、今の時間じゃ。」
「よお、重役出勤だなー。」
「…おはよう、四谷。山本。浅瀬石。」
江利井が一つ息を付きつつ答えると、浅瀬石が二人に授業のノートを差し出した。
「ほら、ノート写せ。お前らどうせ昨日も喧嘩して、宿題どころじゃなかったんだろ?」
「お、サンキュ。」
江利井は頭を軽く下げると、ノートを受け取った。
来螺は江利井を後ろで黙って見ていたが、山本が来螺にノートを差し出した。
「ほら、来螺。お前も。」
「……サンキュ!」
来螺は目を細めて明るい声で返し、ノートを受け取った。
放課後。
教師に頼まれた用事を済ませた江利井が、教室に戻って来た。
「やっと終わった…おい、来螺は?」
教室に居残っていたのは、昼間に江利井と来螺と話した三人のクラスメイト、四谷、山本、浅瀬石だった。
山本が返答する。
「あ、先帰っちゃったぜ。」
「ったく…。」
「…なあ、江利井。」
呆れた様子を見せる江利井を四谷が呼ぶ。江利井が顔を上げると、彼は深い声で話をした。
「来螺って、何で能力って呼べるモノ、無いんだろうな。」
「…うん。オレもそれ思ってた。」
浅瀬石が同調する。
江利井は少し間を置いて、呟くように返した。
「…解んねえ。」
四谷は心配そうに話す。
「…大丈夫なのかな、あいつ。…オレ達皆、能力ってモノがある中で…あいつだけ無いって…しんどいモノ、ないかな?」
「…何でオレには…あるんだろう…。」
江利井の口がぽつりと言葉を漏らした。聞き取れなかった三人が疑問符を浮かべる。
「え?」
「…あ、何でも。」
江利井はハッとして首を横に振る。三人はそれ以上追求せず、来螺の話に戻った。
「…でも、何か解るよな。来螺の奴、相当気い張って生きてるの。」
「…そうだな。」
四谷の言葉に山本は頷き、苦笑気味に言った。
「…あいつはオレ達の事、ホントは嫌いみたいだしな。」
「あの笑顔…笑ってねえもん。」
浅瀬石の言葉に江利井は、午後にノートを貸された時の、来螺の「笑顔」を思い出す。
注意してよく見ると、ただ目を薄くし、顔を歪ませているようにしか見えない笑顔を。
江利井は静かな声で、口を開いた。
「…でも、お前らは…あいつの友達でいるんだな。」
江利井の言葉を聞き、三人は一様に笑みを見せた。
「心配だし…見てて面白いし。お前ら二人。」
「何だかんだで、お前達いいコンビだと思うぜ?」
「そうそう。」
彼らが口々に話した言葉に、江利井はまた呆れ顔をした。
「…あの野郎とコンビかよ…。」
来螺は一人、寮に向かって歩いていた。歩きながら顔を歪め、吐き捨てるように呟く。
「…胸くそ悪い…。」
目を見れば解るんだ。何となく。
…そう、何となく…でもはっきりと伝わってくる、周りのオレに対する意志。
オレと同じ年頃のは、大体侮蔑。能力の無い、オレに対する。
教師達のそれは、拒絶。オレの存在を恐れ、拒否している。
…教師達のあの目を見ると、頭の隅で聞こえる言葉がある。
「おとなしくしていてくれ」
遠い昔に、何度も聞いた気がする、そんな言葉。
オレだって、学園側の話をまんま信じる程、馬鹿じゃない。
…オレにあの「監視役」を付けたのは、オレを恐れたから。
侮蔑。拒絶。皆そうだ。
…ああ、一つだけあったか。
…そのどちらも持っていない、あのいけ好かない目…。
思考に入っていた来螺の身体を、衝撃が襲った。
「がっ!!」
道の塀に身体を叩き付けられた来螺が顔を上げると、朝に来螺を嘲る言葉を吐いていた生徒達が、歪んだ顔で笑っていた。
「何だ、今日はあの野郎いないのか。」
生徒の一人が来螺の腹に拳をめり込ませた。
「ぐは…!」
来螺が苦痛に目を見開き、身体を崩す。生徒達は来螺の胸倉を掴み上げ、更に拳を浴びせる。
「がっ! ぐ! あ…!」
嘲笑しながら、生徒達は来螺に殴る蹴るの暴行を続ける。
「いつもいつも生意気な面しやがって…気に入らねえんだよ!!」
「あ…っ!!」
来螺の身体が地面に叩き付けられる。来螺が見上げると、彼らの一人が、言葉を吐いた。
「あの野郎に守られてないと、生きられない無能が!!」
聞いた瞬間、来螺の目の前が一瞬真っ暗になった。
頭の中に、言葉が響く。
あのいけ好かない奴に
守られていないと
生きられない
無能力者
来螺の視界に、きらりと光るものが映った。
それが何かを認識した来螺は跳ね起き、それをもぎ取った。生徒の一人が身につけていた、小さなナイフだった。
来螺は、叫んだ。
「……っざけんなあああああ!!」
来螺はナイフを逆手に握りしめ、生徒の一人の肩から腹を斜めに切り裂いた。
「ぎゃあああああ!?」
激痛に生徒が絶叫し、倒れた。斜めに切られた身体からは、血が溢れている。
「う、うわああああ!!」
「こ、こいつ!?」
他の生徒達が逃げようとした時には、来螺は一人の片腕を切り裂き、もう一人の背中にナイフを突き立てていた。皆倒れ、痛みに踞る。
彼らが怯えた顔で見上げると、来螺が見下ろしていた。
「…わ、わるか、た…ゆるし…!」
生徒達の震える声に構わず、来螺はナイフを振り上げる。血を流す生徒達の身体に切りつけた。彼らは新たな痛みに声を上げる。来螺はまた切りつけた。血を流し続けた。
いつしか、雨が降っていた。地面を叩く、激しい雨が。
来螺を暴行した生徒達は、ナイフで散々傷つけられて身体はずたずた、声も出せない状態で倒れていた。
生徒達の血で出来た海に、来螺は立っていた。ただ、立っていた。
不意に、来螺は顔を上げた。雨粒が来螺の顔を容赦なく打ち、濡らした。
ああ、すっきりする…これで…。
…これで…あの、ムカつくあいつも…あの侮蔑も、拒絶もして来ない、あいつも…。
「ふ…ふふ…はは…はははは…ひゃはははははは!!」
雨粒に叩かれながら、来螺は空に向かって笑い声を上げた。雨に濡れ、くしゃくしゃになった顔で笑い続ける来螺の頬を、雫が後から後から伝って流れていった。
翌朝。
江利井が一人で教室に入ると、山本が声をかけて来た。
「おはよう、来螺は?」
「…帰ってねえんだよ。部屋に。」
江利井がぶっきらぼうに答えると、浅瀬石が話した。
「おはよう、知ってるか? ウチの学年の奴で…誰かにナイフでずたずたに切られて、病院運ばれた奴いるって…。」
「知ってる。口も聞けない状態にされてるらしいよな。」
友人達が話す中、江利井は黙って思考に入った。
…やったのは、来螺だ。
昨日、寮のあいつの部屋に行ったら、大きな血のシミが部屋の絨毯にあって、血まみれの制服が、無造作に放り出されていた。
そして、あいつの姿は何処にもなかった。
学園都市に通り魔が現れるようになったのは、そのすぐ後だった。
深夜に学園都市内をふらふらしている、不良学園生徒が主な被害者で、彼らは死ぬ一歩手前まで、ナイフで身体中をずたずたに切られていた。
…来螺は部屋に戻って来る様子は無かった。学園にも姿を見せない。
教師達も、来螺に関して何も言う気配はない。
江利井は来螺の事をほとんど口に出さず、生活を続けた。
深夜の街中。
「…そお。あんがとさーん。」
来螺は目の前の若者にそう言うと、ナイフを振り抜いた。
「ぎゃああ!! っひい!!」
怯え、叫ぶ声の中、来螺は若者の身体を切り刻み続けた。
若者がぐったりとした頃、来螺は手を止めた。にたりと笑い、呟く。
「…そうか…やっぱり、学園にあるのかあ…。」
…その日は、朝から地面を強く叩く雨が降っていた。
先日の雨の後、残っていた狂い咲きの桜も、この雨で散ってしまうだろうと思われた。
授業が始まる前、四谷が江利井に声をかけた。
「…なあ江利井。来螺、何処行ったんだ?」
「…解らねえ。」
江利井が呟くように答えると、浅瀬石は不安気な様子を見せた。
「心配だよ…通り魔被害続いてるしさ…。」
…通り魔の被害者達に吐かせてみたら、皆答えは同じだった。
夜中、ふらふらしてた来螺に絡んだら「裏側の世界」都市伝説のことについて…聞かれたらしい。
そして…問答無用でずたずたにされたらしい。
…被害者達が持っていた、都市伝説の断片を重ねてみた。
「裏側の世界」都市伝説…それに繋がる場所は…。
『全校生徒の皆さん。この近辺で続いている通り魔事件の被害拡大防止の為、今日の授業はホームルームのみとします。』
校内放送が流れ、思考に入っていた江利井はハッと我に返った。
「え、そうなの?」
「早く帰れる?」
生徒達が疑問符を浮かべる中、江利井はふと窓の外を見た。
次の瞬間、江利井は目を見開き、がたんと音を立てて立ち上がり、教室を飛び出した。
「江利井!?」
クラスメイト達が驚く中、江利井は走り、雨の降る前庭に出た。
そして、目の前を見据える。
…そこには、来螺が立っていた。
江利井は大きく息を吸い、呼吸を無理矢理整えると、来螺を睨んだ。
「…久しぶりだな、来螺。」
来螺は黙って、江利井の目の前にいる。江利井は続けて口を開く。
「今まで何やって…。」
「邪魔。」
来螺が腕を横に振る。次の瞬間、江利井の制服の胸が赤く染まった。
江利井は不意打ちの痛みに目を見開き、その場に踞る。来螺は小さなナイフを握りしめ、校舎に向かって走り出す。校内は騒然となった。
「来螺!?」
「何で!?」
四谷達が衝撃と戸惑いに声を上げた。
校舎に飛び込んだ来螺は、目の前を塞ぐ生徒達を片っ端からナイフで薙ぎ払いながら、真っ直ぐに、ある方向に向かって走っていった。
江利井は血が流れる胸を抑え、痛みに身体を歪ませながら、後を追った。
追いながら江利井は、思い出す。
「裏側の世界」都市伝説…その世界に繋がるともっぱらの噂の場所は…学園の中で、生徒の立ち入り厳禁の場所…職員室!!
「来螺君! 止めないか!! あああっ!!」
「うわああ!!」
「ぎゃあっ!!」
生徒も教師も、無差別にナイフで切りつけながら、来螺は職員室に向かってひた走った。
「ら、来螺!!」
聞き覚えのある声の持ち主が、来螺の前に立ちはだかった。
来螺が足を止めると、そこには四谷、山本、浅瀬石がいた。彼らは必死で来螺に訴える。
「止めろよ、来螺!!」
「止めてくれよ!!」
来螺は彼らに向かい、さらりと口にした。
「…何で?」
あまりにもあっけらかんとした言葉に、三人は戸惑いつつも訴える。
「何でって…。」
「…友達が、こんな事してんの嫌なんだっ…。」
「…友達…。」
来螺は呟くと、三人にゆっくりと歩み寄った。
そして、片腕を思い切り振った。…ナイフを持った腕だった。切りつけられた三人は驚きと苦痛に声を上げ、その場に崩れた。
「いらないんですけど。そんなモン。」
来螺は彼らを見下ろし、吐き捨てると、走って行った。
しばらくして、江利井が三人の元に駆けて来た。血を流す彼らを見て、江利井は声を上げる。
「お前ら!!」
「江利井…。」
江利井が助け起こした浅瀬石は、血が流れる傷を抑えながら苦笑した。
「あいつ、爆発しちゃったな…はは…。」
江利井が苦しげに顔を歪ませると、山本は言った。
「江利井…あいつを止めてくれ…。それと…。」
山本の言葉の続きを、四谷が引き受けた。
「…あいつを、救ってくれ。多分、お前にしか出来ないよ…。」
江利井は短い間、黙った。血を流し、訴えた彼らを見て。
「…解った。」
江利井は小さな声ではっきりと言うと、立ち上がり、走り出した。
来螺はひた走る。職員室に向かって。
「後少し…。」
来螺の目には、職員室の先にある「何か」しか、見えていないようだった。
「後少しで、オレは…!」
来螺の口が笑みを作った時。
「だあっ!」
顔面に衝撃を受け、来螺は吹っ飛ばされた。
「っ…!!」
来螺が痛みを堪え、身体を起こすと、来螺の顔面に飛び蹴りを喰らわせた江利井が、来螺の前に立ちはだかった。江利井が叫ぶ。
「…だから…何やってんだって、言ってんだろうが!!」
「何だ…創設者の息子サマか。生憎、お前に構ってる暇無いんだ。」
来螺は立ち上がり、江利井に向かってナイフを振り下ろす。江利井はその一閃を、左腕を上げて受け止める。壁を叩くような音がした。来螺は一瞬目を見開く。
「オレにはそれ効かねえぜ。オレの能力、知ってんだろ。」
来螺を睨む江利井の身体が、青い光を纏っている。江利井が能力、自身を守る硬化コーティングを使っている証だった。
それを見た来螺はぎり、と歯噛みし、身体を震わせる。
「…能力…能力…そんなん持ってる奴がそんなに偉いのか!!」
来螺は激昂し、江利井に叫ぶ。
「オレは能力が無いってだけで、一生怯えて、お前に守られて生きてかなきゃならないのか!! …お前みたいな…お前なんかに…!!」
来螺は一瞬、顔をくしゃくしゃに歪ませた後、江利井を睨み、叫んだ。
「そんな世界、オレはもうごめんなんだ!! だからオレは、別の世界へ行ってやる!!」
江利井は黙って、来螺の叫びを聞いた。来螺を真っ直ぐに見て。小さな、だが通る声で、口を開いた。
「…オレは、この力でてめえより優れてるなんて思った事ねえし、むしろオレには、何で能力なんてあんだろうなって思った。」
…江利井の真っ直ぐな瞳が、震えるように揺れた。
「それと…てめえの事は、何だかんだで嫌いになりきれなかった。てめえのひねくれた口聞いてると…退屈しなかった。」
来螺の血走った眼差しが僅か、戸惑いに揺れる。
江利井の声が震え始める。
「でもな…オレが駆けてきた道…皆、血溜まり出来ててよ…。もう、足下真っ赤じゃねえか…。」
江利井の制服のズボンと内履きは、来螺が流した学園の生徒達の血で、赤く染まっていた。
来螺が僅かな戸惑いのまま、問う。
「…だから…何だってんだ。」
「…言ってなかったけどよ…。オレはな…血を見るのが大嫌いなんだよ!!」
言うや否や、江利井は来螺の腕を掴み、窓にぶつけるように来螺の身体を投げた。窓ガラスが破られ、来螺の身体は雨の降る前庭に叩き付けられた。
江利井は破った窓から、前庭に飛び出す。来螺の前に立つと、来螺は泥だらけになりながら、身体を起こした。
江利井を見る来螺の瞳は、憎しみに燃えるようだった。
「…解った。お前の相手してから、イイ世界行ってやる。お前の事本気でいけ好かなかったんだ。お前なんか…本気でオレなんかに構ってきやがるお前なんか!!」
「…上等!! …落とし前は付けてもらう!!」
来螺はナイフを握り直し、江利井は拳を握りしめる。二人は思い切り踏み出し、お互いに向かって行った。
雨が地面を激しく叩き、桜を散らす中、江利井と来螺は対峙する。
来螺は江利井に向かってナイフを思い切り振り、江利井は拳で来螺を打ち抜こうとする。
江利井が拳を振りかぶりながら叫ぶ。
「てめえここ数日で、どんだけ他人の血流してんだ!! 何やってんだよてめえは!!」
江利井の拳が来螺の身体に重く当たる。痛みを堪え、来螺もナイフを振り下ろし、叫び返す。
「知るか! あんな奴らの血、幾ら流れたってオレの知った事じゃない!!」
来螺のナイフが江利井の肩を切り裂こうとするが、硬化コーティング能力で覆われた江利井の身体には効かない。江利井は再び拳を握る。
「勝手に頭に血上らせてる奴に巻き込まれるこっちは、堪ったもんじゃねーんだよ!!」
「血上らせたのはお前達能力持った奴らだ!! お前達が全部…!」
来螺が叫んだ言葉を聞き、江利井は僅か身を退いた。
「能力…か。この能力が気に入らねえなら、使わねえでいてやる。ほら、切ってみろ。」
江利井は来螺に、自分の腕を差し出した。来螺は江利井を憎々し気に睨む。
「ふん。」
来螺が江利井の腕にナイフを振り下ろすと、江利井の肉が裂け、血が溢れた。
来螺は僅か、目を見開く。江利井の身体の青い光は、完全に消えていた。
江利井は血が流れる腕を抑え、来螺を睨んだ。
「これで、勝負は五分だよな…!!」
「…死んでも知らないからな!!」
来螺が憎しみに目を血走らせ、江利井に思い切りナイフを振り下ろす。江利井の肩が切り裂かれ、血が噴き出す。
「…っ!」
江利井はそれでも拳を握りしめ、思い切り一歩踏み出すと、来螺の頬に思い切りパンチを喰らわせた。
来螺が衝撃に吹っ飛ばされる。来螺はよろめきながら立ち上がり、江利井に向かって行く。江利井が迎え撃とうと拳を繰り出したのをかわし、江利井の太ももにナイフを突き立てた。
「…あ…っ!」
江利井の顔が苦痛に歪む。来螺が容赦なくナイフを引き抜くと、血が溢れた。来螺は更に、ナイフを江利井の顔面に突き立てようとする。江利井の手が伸び、来螺のナイフを持った手首を掴む。
「っ!!」
握りつぶさんとするような力で手首を掴まれ、来螺が僅か顔を歪めると、江利井は来螺の腹に全力で拳を見舞った。
「ぐほっ…!!」
来螺の身体が衝撃で曲がる。来螺は痛みで思うように動けない状態で、無理矢理ナイフを振り、自身にめり込んだ江利井の拳に突き刺した。
「あああ…っ!!」
江利井が激痛に声を上げる。それでも江利井は無事な方の拳を握り、来螺のこめかみに渾身の力を込めてぶつけた。
「があっ…!!」
脳に衝撃を受け、来螺の身体が大きく揺らぐ。江利井は更に拳を喰らわせようとする。来螺はふらつきながら、江利井の首元を狙ってナイフを振る。それは江利井の肩にあった傷を抉る形になった。
「あああ!!」
殺し合い。
…それしか当てはまる言葉が無い程に、二人の戦いは凄惨な光景だった。
来螺は江利井の全力の拳を、身体中に受けた。江利井も来螺のナイフに何度も切られ、刺された。
ぼろぼろになっても、二人は激しい雨の中、なおも立っていた。
来螺は思っていた。
…何でだ…。
江利井が来螺に向かい、また思い切り踏み出す。
来螺は迎え撃つ為、江利井の血にまみれたナイフを握り、振り下ろす。ナイフは江利井の胸を更に切り裂く。
江利井は新たな激痛に顔を歪めながら、来螺の頬に拳を直撃させた。
重い一撃に、来螺は倒れそうになる。
…何でだ…。
どんだけ、切っても…ぶっ刺しても…。
来螺が懸命に踏ん張ると、青い制服を己の血で真っ赤に染めた江利井が、来螺を真っ直ぐに、射抜くように見ていた。
「…あ!」
来螺がナイフを振る。ナイフは江利井の頬を切った。
苦痛を表しはするものの、江利井の眼差しは、来螺を見たまま、揺らぐ事は無かった。
…何で、こいつ倒れないんだ!!
その思考に至った来螺の背中が、一瞬寒気を覚えた。動きがほんの僅かの間、止まった。
その一瞬で、江利井の拳が来螺の顔面に迫っていた。ナイフを構えようとした時には、来螺は思い切り拳の衝撃を受けていた。来螺は踏ん張り、立った体勢を何とか保った。
そして、江利井に向かって行こうとしたが。
「…っ!?」
来螺の足は動かなかった。視界は歪み、身体には力が入らなかった。
度重なる拳の衝撃を受けた来螺の身体が、限界を訴えた。
立ち尽くしながら、来螺は思う。
…身体、動かない…。
負けんのか…オレは…。こんな、いけ好かない奴、に…。
「…う…っ…。」
来螺の耳に、雨音に混じって声が聞こえた。
…?
来螺が視線を動かすと、そこには、拳を振りかぶる江利井の顔があった。
「…ぐっ…ひっ…。」
声は、江利井の喉から漏れ出ていた。
…これは…。
「ぐうっ…。」
来螺の目の前で、江利井は顔をくしゃくしゃに歪ませ、歯を食いしばり、苦しげに声を出していた。
来螺はその声を表す言葉を、思った。
…嗚咽…。
「ひぐっ…。」
小さく声を上げながら、江利井は来螺を真っ直ぐに見ていた。その瞳は震えていた。
傷ついた江利井の頬に、雫が後から後から流れ落ちる。
それが雨なのか、来螺が思っているモノなのか区別はつかなかったが、来螺は思った。
…何だ…。お前、泣いてんのか…。
バカか…泣いてんじゃないって…。こんな事で…オレの、事なんかで…。
江利井が拳を振り抜く。
来螺の頬を直撃し、来螺の身体が傾ぐ。倒れながら、来螺は思った。
…オレの事なんかで、泣くんだな…お前は…。
雨が地面を叩く中、来螺は倒れた。絞り出すような声を発する。
「ちくしょ…お…。」
「…だから…言っただろが…オレは…血を見るのが大嫌いなんだよ…!」
血を流しながら来螺の前に立つ江利井は、腕で目の辺りを拭い、口を開いた。
「…てめえが傷つけた奴の中には、てめえを友達だと思ってた奴もいたんだ。」
来螺が黙っていると、江利井は続ける。
「てめえが仲良くする振りしてるの解ってて、それでも友達でいようとしてたんだよ。あいつらの血を流しても、てめえは何とも思わなかったんだよな。」
江利井はぎりと歯噛みし、吐き捨てるように言う。
「…マジで最悪だ、てめえ。」
来螺が倒れたまま、ゆっくりと顔を上げると、江利井は叫んだ。
「オレはな、そんなてめえが嫌いだ!! てめえの変な企みは、全部オレが潰してやる!! デカいのも、小さいのも、片っ端から!!」
来螺が江利井を思わずギッと睨んだ時。
「…その代わり。」
あまりにも静かに続いた言葉に、来螺が疑問符を浮かべた。江利井は小さな、通る声で言った。
「てめえが憎むモノは、オレが全部潰してやる。」
来螺がひゅ、と息を飲み、戸惑いを投げかける。
江利井は睨みを消した、どこか泣きそうに穏やかな顔をしていた。
「またこんな事されたら、堪らねえから。またこんな、他人の血流されたら堪ったもんじゃねえ。…元々、てめえの面倒見てる身だ。だからてめえの憎しみ、オレが引き受けてやる。…てめえが憎むモノは何だ? てめえを虐げた奴か? 能力か? それとも…。」
江利井は親指を、自分に向けて指した。
来螺の目が、ゆっくりと見開かれる。大きく開いた目で、江利井を見た。顔を歪ませ、笑い声を立てる。
「…ハッ。お前、よく解ってるだろうが。」
来螺は江利井を見上げ、問う。
「…お前、本当に自分潰せるのか?」
「てめえが二度と人の血流さねえって、完全保証されるなら、いくらでも。」
江利井は来螺の目を見て答えた。来螺は鼻を鳴らした。
「ふん。…因果応報って、知ってるか?」
「? いつか行いが自分に返って来るって、あれか?」
江利井が問うと、来螺は頷く。
「そう。それで行くと、お前を潰したら、オレも潰れないといけなくなる。…だから、今は潰れなくていい。…でもオレは、お前なんか大嫌いだ。お前なんか潰れろと、思い続けてやる。…だからっ…。」
そこまで言うと、来螺は言葉を切った。くしゃくしゃに顔を歪ませ、江利井を見た。絞り出すような、震える声で言った。
「…江利井…お前が潰れる時はっ…お前、オレを潰せ…!」
江利井は一瞬、驚いたように目を開いた。その次にまた、涙が零れそうな程に、酷く穏やかな眼差しを来螺に向けた。
「…解った。約束してやる。オレが潰れる時は、てめえを潰してから、潰れてやる。」
江利井の言葉を聞いた来螺は、気が抜けたように身体を崩し、意識を失った。江利井もほぼ同時に身体を倒し、目を閉じた。
散った桜の花びらが
血の海に染まり
大粒の雨に叩かれる
暗い空の下で
…闇の中で、江利井は声を聞いた。
「…最悪の事態になってしまったわね…。」
「今度の操作は、徹底的にやらなければいけませんね…。」
…? 何言ってんだ…?
その声は、酷く冷たい声だった。
「この世界を守る為…もう一度、今度は全てを、忘れてもらわなければ…。」
…おい…何、勝手な事しようと…。
何かが迫って来るのを感じ、江利井の意識は途絶えた。
To Be Continued