100m(mytgmy)

ふたり


 俺の人生の分岐にいつも小宮君がいた。駆け抜けた後のクールダウンみたいなゆるやかさで小宮君を意識した。初めて電話をした日、小宮君の声に驚くほど吸い寄せられて、それから十年間の空白を埋めていくみたいに少しずつ歩み寄った。会う約束をする時、物理的な距離はなにも問題がなかった。俺たちが話すことはたかが知れていたけど、小宮君を間近で感じることに大きな意味があった。
 目を閉じても小宮君を思い浮かべることが増えた。きっかけは本当に些細なことで、たまたま肩と指が触れたとか、そんなようなことだった。触れた先から火がついて、じわじわと燃えていくのが自分でわかる。ゆらめきに見惚れていると、もう彼に会いたくなっている。恋とか愛とか、上滑りしていくような感覚とは違った。ザラザラしていて、重苦しくて、落ちつかない。馬鹿らしいなと鼻で笑った。翻弄されたくなくて冷めた自分を演じた。火はなかなか消えなかった。
 
 もっと小宮君に近づきたいと思うほど、必ず同じくらいの熱量の視線を送ってくることに俺はぼんやりと気づいた。それが偶然なのかどうか、寒い冬の日に鼻先をぶつけるようなキスをすることで確かめてみた。彼が受け身な性格なのを利用した。小宮君は唖然として、ずっと喋らなかった。そのまま駅まで歩いた。でも別れ際に不器用に下唇に噛みつかれて、俺はその感触と白い溜息をしばらく忘れることができなかった。



 通り雨が斜めに線を描いて強く降った。逃げるように入った喫茶店は客がほとんどいなくて、悲しいくらい静かだった。クラシックが小さく流れている。たまにティーカップに当たるスプーンの音が聞こえた。案内された窓際の席で二人してアイスコーヒーを頼んだけど、思ったよりも室内が寒くて少し後悔した。
「降られたね」
 小宮君は呟きながら、肩口についた水滴に気がついてそれを手で払った。髪の毛や肌にも落ちている水滴には無頓着で、手を伸ばして拭ってやろうか考えた。向かい合った位置からは遠すぎて、伸ばしかけた手をバレないように下ろした。
「雨なんて久しぶりだ」
「すぐに止むと良いね」
 小宮君は雨を見つめた。傘を持っていない俺たちは仕方なくここへ入った。とても俺と小宮君が入れるように思えない趣の喫茶店だった。内緒話をするために作られた小さい空間、オレンジ色の照明、アーチ型の窓。俺自身とそれ以上に小宮君の無精髭が特にアンバランスで、思わず笑いが混じった息を吐いた。
「どうしたの?」
「俺たちこの空間似合わないなーって」
 思って。言うより先にまた笑いが込み上げてきた。小宮君は店内をぐるっと見渡した。
「ずいぶんおしゃれな場所だね……」
 小宮君は気まずそうに体を縮めた。
 
 コーヒーがなみなみと注がれたグラスを、女性の店員がひとつずつテーブルに置いた。細い指先が伝票を伝票立てに入れるのをじっと見て、小宮君に視線を戻した。
「どうにも落ち着かない」
「僕もだよ」
「なにか、食べる?」
「平気…トガシ君は?」
「俺もまぁいいや」
 まだ少し、体が浮つく。店内の空気をとりあえず吸い込む。コーヒーの匂いがする。あと何かの焦げた匂い。それ以外はよく分からなかった。手書きのメニュー表を開いて、手持ち無沙汰に眺める。トーストが美味そうに見える。普段甘いものを食べないからケーキも美味そうに見えた。置かれたアイスコーヒーを、小宮君がお互いの目の前に動かした。
「脚はどう?」
 小宮君が俺を見つめて呟いた。
「まずまず」
「…そう」
 俺は肩を竦めた。テーブルの下の左脚をついでに動かしてみる。日常生活を送るには悪くない。これからも走ることを想定するなら良くはない。絶対安静のあとには途方もないリハビリがある。それを終えてもきっとすぐには走れない。あんな無茶苦茶をして耐えられるほど、俺の体は強靭には出来ていないみたいだった。ストローを袋から取り出して、それをグラスにゆっくり刺した。
「自業自得だよ」
「うん」
「こうなるって分かってて走ったし」
 崩れ落ちた時のことを思い返す。悲鳴に似た歓声。唸るような拍手。自分の意思ではびくともしない左脚。
「時間がかかっても治るならそれでいい」
「うん」
「目処が立たないと気持ちも落ち着かないしさ」
 小宮君はいつも俺の脚を気にかけて、俺はいつも強がりに似たことを言った。今もそうだった。左脚をぶらつかせながらストローで氷をかき混ぜる。グラスの中で爽やかな音がした。
「そうだ、休んでる間でちょっと太った」
「……見えないけど」
「そのあと焦って戻したから」
「頑張ってるね」
「さっきケーキ美味そうだなって思ったけどね」
 たぶんチョコレートのケーキ。乾いた笑いのあと小宮君も少しだけ微笑んで、それからテーブルに視線をやった。
「最近、トガシ君の役に立ちたいと考えることがあるんだ」
「え?」
「役に立ちたいって言葉が…合ってるかわからないけど」
「俺の?」
「うん」
 考えがまとまらない様子が声色にそのまま乗っていた。小宮君の主張があまりにも突然で、反射的にコーヒーを一口飲んだ。グラスに張りついた水滴が落ちて、テーブルを濡らした。
「脚のことで色々気にしてくれてる?」
「それもあるよ」
 俺たちはいつも、これまでの十年とそれ以前のことを話しながら外を歩いた。俺が進路相談めいたことを話すと、小宮君は俺以上に真摯に考えた。申し訳なくなって言葉を遮ってからは、俺からそういう話を持ち込むのをやめた。自分の未来予想図に答えを委ねるのはあまりにも無責任で、小宮君になんのメリットもないように思えた。
「治らないわけじゃないし、きっとどうとでもなる」
 限りなくグレー色に近い未来予想図でも、少しくらいなら変えられる。自信はまだある。
「俺結構、しつこいし」
「ケガと関係あるの?」
「粘り強いってこと。それに役に立って欲しくて君に会ってるわけじゃない」 
「もちろん…分かってる。けどそれだけじゃなくて」 
 小宮君の抑揚のない話し方の中に、少し苛立ちがあった。
「君のために何かしたい」
「なんだよ、それ」
「言葉通りだよ。なんでもしたい」
「なんか急に恥ずかしいな」
「迷惑かな」
「迷惑とかじゃなくてさ」
 あまりにもまっすぐな目にあてられて、俺はそれから嘘みたいに黙ってしまった。
 小宮君から放たれる言葉だけが心にすんなり落ちてくる。その言葉で俺自身がどんどん弱くなっていくのがよくわかる。彼なりのやり方で俺にやさしいものを投げかけるとき、へらへらした顔面も、なんとか維持している肉体も、すべて投げ捨てたくなる。その胸に飛び込んでわんわん泣いてやりたくなる。
 自分の目が水で溢れそうなことに気がついて、思わず下を向いた。
「ごめん突然」
 小宮君は小さく頭を下げた。手つかずのアイスコーヒーの氷が溶け出して薄く層になっている。小宮君はストローを刺してそれを雑にかき混ぜた。
「いや、いいんだ」
 俺は動揺していた。小宮君に気づかれないように涼しい顔を作った。対照的に体はものすごく熱くて、喫茶店に入った時の肌寒さをすっかり忘れてしまった。小宮君の声だけ、自分の内側でずっと響いている。
 君のために何かしたいなんて、まるで献身的な愛じゃないか。

 その後もずっと俺のために何かしようと伺っている小宮君とは、アイスコーヒー二杯分の代金を払ってもらうことでとりあえず手を打った。雨はもう止んでいた。
 


 雨を伴った雲はあっという間に流れて、青かった空は時間と共に暗く濃くなる。冬を越えて少しずつ春らしくなっていることを、優しい風に吹かれることでやっと気づいた。俺たちは駅の方へ向かって歩いた。
「この駅の周りのこと、だいぶ覚えてきた」
「僕も…大体は」
「こないだ行った、西口出てすぐの定食屋」
 昔ながらの店構えで、魚の定食が美味かった。小鉢がたくさんついていて、ご飯はおかわりが無料だった。
「ああ、あそこは良かったね」
「あとその近くのパン屋」
「コロッケパン?」
「そ。俺コロッケ好きなのかも」
「イワシの…高校の時に食べてたってやつは?」
「そういえばあれもコロッケだな」
 イワシコロッケパン。実物を見たことがない小宮君は、字面だけを頼りに想像を巡らせ、ついに想像が出来なくて少し不満そうな顔をしていた。
 俺たちの行動パターンはいつも同じだった。降りた駅の周辺を散策して、近くで飯を食べた。本屋に行ったり映画を見たりした。わかりやすいアクション映画を見て、俳優のあの体は陸上向きじゃないとかなんとか、周りが聞いたら興の冷めそうなことを二人で語った。
 互いを自分の家に招こうとしたこともあった。でもだいたい次の日はどちらも予定を抱えていて『何もないもう一日』を確保することが難しかった。どうせなら次の日だって休みの方が良いのに、『小宮君と会える一日』をどうにか捻出するので精一杯だった。小宮君は常に試合と合宿に追われ、たまに海外にも行った。それでも俺との予定を決めることを躊躇わなかった。いつも大体同じ場所で会うことに文句のひとつも言わなかった。
 見慣れた駅の入り口に差しかかると、歩くスピードがわかりやすく遅くなる。まだ帰りたくない気持ちが露骨に歩幅に現れる。それを俺たちは今更隠す気にもならなくて、苦笑いを交わした。いつも改札より少し手前の隅で立ち止まって話をした。都会的な駅前とそこを行き交う人たちは、二人のことを適度に放っておいてくれた。
「もう、帰る?」
 小宮君が改札の方を見た。夕方の帰宅時間も相まって、改札の辺りは人でごった返している。駅の中にあるいちばん大きい電光掲示板が、発車時刻を狂いなく正確に表示し続けていた。
「特に急いでないよ」
「そう」
 遠くのほうで改札を通るICカードのタッチ音がひっきりなしに鳴っている。
「合宿を……控えてて」
「海外だっけ」
「次に会えるのは結構先になりそうなんだ」
「うん」
「それでも良ければ僕はトガシ君にまた会いたい」
 小宮君のいう『結構先』は本当に結構先で、俺はたまに忘れられてるんじゃないかと疑ってかかった。それが俺の単なる思い込みで、電話口で小宮君の申し訳なさそうな謝罪を聞くのがお決まりだった。
「次会った時、役に立ちたいなんて言うなよ」
 喫茶店での小宮君を思い出した。時間が空くほど、小宮君は語気を強めてまた同じことを言うだろうと思った。
「でも嘘じゃない」
 小宮君はちょっと困ったような顔で俺を見ている。
「その頃にはこの脚も良くなる」
 左脚の太ももを軽く叩いた。
「トガシ君のために何かしたいのに変わりないさ」
「今日はずっと恥ずかしいことばっかり言うな」
「しばらく、会えないから」
 小宮君が一歩踏み出すと、自分の顔に影ができるのがわかった。それに気を取られているうちに小宮君の唇が俺の唇に触れた。一瞬掠めただけだった。冬の日、我ながら卑怯なやり方で唇を奪った。彼への気持ちをどう名付けようかと黙って考えるより、一足飛びに近づいてしまおうと思った。俺たちは気軽に会えないから。
 小宮君のキスは、前回よりもっとずっと静かで自然だった。
「こないだのお返し」
 離れた先で小宮君が囁く。俺は自分の下唇を少し舐めた。
「こないだは噛んできた」
「少し、勉強した」
「実地で?」
「………調べた」
「はは」
「次はもうちょっと良くなる」
「待てなくて会いに行くかもな」 
 まだ触れ合えそうな距離で俺は笑った。少しの勉強でこんなに優しくて印象的なら、ちょっと良くなった次はどうなってしまうんだろう。今でさえこんなにも胸がいっぱいなのに。
「会いに来てくれるの」
「海外まで追いかけてきたらどうする」
「その時はもっとキスが上手くなってる」
「なぁ小宮君」
 名前を呼ばれて、小宮君は片方の眉を少し上げた。普段は髪の毛で隠れて見えないけど、今の距離ならしっかり見えた。
「君と離れるのってこんなに辛いんだな」
 声が震えた。少しずつ歩み寄って、少しずつ積み重ねた愛しさを毎日大切に抱きしめて眠った。でも寂しさの方が加速度的に積み重なっていくことを俺は知らなかった。誰かに教えてもらうこともなかった。寂しさをどこかに放り投げることも出来なくて、会えば会うほど夜が悲しかった。顔を見る日までは強がって、顔を見たら自分の気持ちが決壊しそうだった。
「泣きそうじゃないか」
 小宮君が俺の顔を心配そうに覗き込む。いつから俺はこんなに弱くなったのか。小宮君に会ってからだ。
「まだ泣いてない」
「泣いて良いよ」 
「俺も君に何かしたい」
 俺はもう半分泣いていた。
「じゃあもう少しだけ一緒にいて」
 小宮君が俺の手を取る。手なんか大して触れたこともなかった。一度偶然当たったきり。でもそれが俺に火をつけて、燻り続けて、ずっと消えない。小宮君の手を握った。大きくて乾燥した手のひらが熱い。小宮君が俺に重なって、今日二回目のキスをした。人の波が寄せては引いていく。誰も二人の内緒話に気づかない。俺だって君になにかしたい。してやりたい。この距離なら伝わるだろうか。どうか伝わっていてほしい。そう強く思った。
 
 
 
1/5ページ