100m(tgkbtg)

冬のブルー

 
「いっぱい食べなよカバキくん」
「トガシさん口に米ついてます」
 トガシさんは昼の社食のカレーを山のように盛り付けて、それを満足そうに頬張った。口の端に米粒をくっつけている。俺が指摘した少しあとでそれを指でつまんで、なんてことない顔で食べた。いっぱい食べなよなんて、ばあちゃんからしか聞いたことがない。
「カバキくん、成人式行った?」トガシさんが言う。つい最近のことだった。そんなんあったな、そういえば。と思う。
「行きましたよ。友達とちょっと顔合わせて終わりましたけど」
「成人式ってどんな感じ」
「フツー」
「フツーね」
「フツーの式典です。あとはただの同窓会」
 市民会館で市長が挨拶をしているのを見ていた。室内がほんのり暖かくて、前の列の同級生が首に巻いている白いふわふわが暖房の風で揺れていて、それを見ながら俺は今にも寝てしまいそうだった。「オレ誕生日二月」と後ろで誰かがぼやいている声で、なんとか目を覚ました。
「大人になったって思った?」
「なんすかその質問」
 トガシさんは肩を竦めた。
「俺行かなかったから。成人式出ると気持ちが違うのかなって」
「特に、なにも」
 俺は眠気と戦って少し負けたし、市長の挨拶もろくに覚えていない。式が終わってホールの扉が開くと、ロビーでは進路とか、ファッションのこととか、今からカラオケに行くとか、彼女ができたとか、そんなしょーもない、心底どうでもいい話ばかり飛び交っていた。会話の内容なんて昨日と大して変わらない。みんな妙に大人ぶっている。帰って自主トレでもした方がいいと思っていた。
「なんならもっとガキっぽくなりました」
「さらに?」
「さらにってなに?」
「すでにワルガキってやつでしょ、君は」
「言いますね」
「かわいいってことだよ」
 かわいい、ね。同じこと誰にでも言うてんのかなと疑う。
「なんで成人式行かなかったんです」
「まあ…いろいろ」
「有名人だからですか」
「そんな感じかもね」
 もっとずっと子供だった頃、昼下がりになんとなくテレビを眺めていた。あのアニメ何時からやっけ?なんか眠たなってきた。気だるい体のままザッピングを始めると、目の前を風が通り抜けた。それを運んできたのがトガシさんだった。巻き起こった風のまわりに光が散らばって、いつまでも俺の瞳の中を泳いでいた。テレビに映し出されたトガシさんの横顔すら輝いて見えたのを、まるで昨日のことのように思い出せる。
 運動だったら大体人より抜けてなんでも上手かったと思う。ちやほやもされた。親にも先生にも褒められたけど、退屈でしかなかった。それがトガシさんを見てから面白いように変わった。ホログラムのレアカードなんてどうでも良くて、俺はあのきらきらだけが欲しかった。学校のグラウンド、公園、家族で行った名前もわからんテーマパーク、友達の家までの道のり、その帰り。いつも熱に浮かされたように走った。
 テレビで放映されるということは有名な大会だからで、トガシさんが普通とは違うと気づいたのはもっと後だった。トガシさんとの現実的な距離を、俺はやっと理解した。憧れは、自分の手には到底届かない、空より星より遠いものかもしれないと思った。
「トガシさんは自分のこと大人だって思いますか」
 自分の盛り付けたカレーが冷めそうだと思いつつ、美味いもんは冷めても美味いからええかと諦めて話を続けた。
「思ったことないよ」
「俺から見たらけっこう、大人に見えますけど」
「見えるだけでしょ」
「違いますか」
「カバキくんが思ってるようないいもんじゃないよ」
 トガシさんが鼻で笑う。
「じゃあここにいるトガシさんは偽物ですか」
「そうかもね」
「本物はどこで何をしてるんすか」
「いろいろ」
 いろいろ。曖昧な言い方ではぐらかそうとする時、トガシさんは俺の目を見ない。
「それにさ、大人ってこんな大盛りのカレー食うかな」
 トガシさんの持つスプーンがカレーの山を指す。
「美味そうに食ってますね」
「俺カレー大好きだもん」
 言い終わるより先に、漫画かなんかで描けそうなほど大きい口を開けてカレーを頬張った。
「トガシさんまた、米」
 トガシさんは口元を手で覆いながら目尻にたくさん皺を寄せて、幸せそうに笑った。走っている時には絶対に見ることのできない表情は、やけに綺麗で、やけに悲しい。トガシさんの咀嚼するさまを見ながら、俺はようやくカレーを口に運んだ。

 ◇
 
 彼女はいない。音楽は聞くけどカラオケは行かない。ファッションにもさして興味がない。流行りのコートを買うなら、俺はその金で靴を買う。そういう休日に何も不満がない。次の日、クサシノ陸上部が取材を受けた雑誌の記事を見たくて駅前の本屋に入った。もうだいぶ前のことで、取材を受けたことすら忘れていたぐらいだった。雑誌を手にとって、ぱらぱらと眺める。俺がいて、隣にトガシさんがいた。何がポーズをお願いします、とカメラマンに言われて苦し紛れにガッツポーズをしている。自分のインタビューが文字に起こされたものは気恥ずかしさが勝って、いつもあまり読むことができない。その代わりにトガシさんのインタビューは何回も繰り返して読んだ。
 写真の中のトガシさんと目が合う。何を考えているかいまいち読み取れない、白い歯を見せて笑うトガシさんがいた。
 雑誌を買い、外へ出た。室内との寒暖差に震えながら、小さいベンチに腰かけてスマホを取り出す。
『このトガシさんは本物ですか』
 一文と、トガシさんの顔だけ撮った写真を添付してメッセージを送った。
『けっこう良く撮れてる』
 数分経たずに返信は来た。答えになってない。なんかうざい。
『暇なら会えませんか。メシ奢ります』
 
 いつもしているように音楽を聞き、俯きがちにスマホを見ていた。しばらくすると足元に知らない右足が伸びてきて、爪先をひとつ叩かれた。自分の靴の合皮のところが剥げているのが見えた。
「よう」
「早いですね」
「メシ奢ってくれるっていうから飛んできた」
 トラックの上じゃない、いわゆる一般的な街並みの中にトガシさんがいるのはなんとなく不思議で、まだ慣れない。冬の澄んだ空気の中で、トガシさんの輪郭がいつも以上にはっきりと見える。シンプルなダウンジャケットの中に精悍さを仕舞い込んでいる。普段よりずっと落ち着いた佇まいが、俺をどうしようもなく緊張させた。
「何聴いてたの」
 トガシさんの視線は耳から外したイヤホンのコードをなぞるように追って、最後に俺を覗き込んだ。
「報われない恋の曲」
「そーゆーの好きなの?」
「別に、好きじゃないです」
 ランダム再生で流れてきただけ。だと思う。
「どうせなら報われたいですよ」
 恋じゃなくても。なんでもかんでも。
「それもそうか」
 トガシさんは俯きながら笑った。
 昼飯を食べるにはまだ早く、俺はとりあえずトガシさんの少し前を行き、駅に面した大通りをただ歩いた。まだ正月気分でいるらしい人、仕事が始まって憂鬱さを浮かべる人、俺たちみたいに正月なんてどうでもいい人、すべてが混在して街中を絶えず行き来している。ビル群の隙間から吹き荒ぶ風は目を細めたくなるような冷たさで、俺は見知らぬ人の背中にひっそりと隠れてそれを凌いだ。
「靴を見たい」とだけ伝えると、トガシさんは駅近くにあるスポーツショップを案内してくれた。
 普段履きの靴ひとつ選ぶにも、かなりの時間を使って吟味をした。良さそうな靴を見つけるたび俺はイスに深く腰かけ、足裏のアーチは合っているか?爪先に余裕があるか?甲はきつくないか?履いた感触は?重心は正常な位置にあるか?と心の中でしつこく問いかけた。職業病みたいなものだった。俺がそうしているとき、トガシさんは顔をじっと見つめてきたり、かと思えば靴紐で遊んだりしていた。店の中を見て回ればいいのにと思いつつ、悪い気はしなかった。
「水色が似合ってるね」
 俺の足元に跪いてトガシさんがそう言ったとき、俺はなぜか言葉に詰まって、トガシさんの手入れされた黒髪とつむじをただ眺めることしかできなかった。

 スレートブルーという色の靴を買い、店を出た。トガシさんの一言で、街行く人の身につけるあらゆる水色を目で追った。俺たちは並んで歩いた。
「成人式の日、家のまわりを走ってた」
 トガシさんの声はあまりにも小さくて、俺は思わず肩を寄せた。話しかけてきた気もするし、空気に溶かしただけの気もした。昨日の続きだと思った。いろいろ、の続き。
「俺が聞いてもいい話ですか」
「いろいろって言ったとき、ムカついてただろ」
 口に米つけたあの顔で、俺のことをしっかり把握していたらしい。たまらなく恥ずかしくて、目だけを逸らした。
「…成人式なんて行かなくても生きていけますよ」
「走ってないと不安になることってない?」
「はぁ」
「俺は、よくある」
 追いつかれる恐怖。追いつけないもどかしさ。休めば休むほど鈍っていく体。そう言うものを指しているなら、確かにある。でも俺は追いかける楽しみの方が大きいし、壁は高いほどいい。本当は休みなんてなくてもいい。追い越さなければいけない存在が数え切れないくらいいると思うと、練習にだって精が出た。
「不安だったんですか」
 トガシさんを見る。冷気にさらされた頬や鼻先が少し赤い。過去を思い出しているらしいトガシさんの視線はどこか遠くにあって、俺とは視線が交わらない。
「そうかもね」
 練習で初めて隣を走ったあと、トガシさんは首を傾げていたかもしれない。走りに納得できなかっただろうか。俺みたいなもんに追いつかれるとでも思っただろうか。うつむいたときに落ちる影が、大人っぽさを際立たせていただろうか。 
 トガシさんの不安を理解しようと努めても、おそらく的外れなものにしかならない気がした。憧れに自分を重ねても、きっと半分もわからない。同じにはなれない。
「二十歳の頃なんてもっと遊んでもいいのになぁ」 
「遊ぼうと思ったことなんてあるんですか」
「少しはね」
「…恋人とか、いましたか」
「恋人ねぇ」
 トガシさんは何かを思い出すように低く唸った。
「やっぱ……今のナシ」
「なんだよ、聞いといて」
 胸が痛んで、やめた。「すんません」とだけ言うと、トガシさんは呆れたように笑った。トガシさんの人生にそういう存在がいたであろう事を知ったら、具合が悪くなりそうだった。
「まぁ…結局は遊ばなかったんだけど」
「遊んでるところがイメージできないんですよ」
「遊んでたら、遅くなるだろ」
 脚が、と付け加えると、トガシさんはそこで立ち止まった。飲食店の看板がぽつぽつと見え始め、巨大な交差点に差し掛かったところだった。まるで喧騒の渦の真ん中みたいで、あらゆる音がバカみたいに大きく鳴っている。青信号が点滅している。俺も同じように立ち止まり、その点滅をじっと見た。
「そしたらきっと俺の価値がなくなる」
 俺は黙ってトガシさんの言葉を聞いていた。それは鉛みたいに重くて、俺のすべての動きを鈍らせた。本物のトガシさんは、観客のいない競技場にひとりぼっちで立っている。まばゆい栄光なんかどうでもいい顔で、ずっと遠くを見ている。そんな画が浮かんだ。ぼんやりと寂しくて、かわいそうだなと思う。
 同時に、俺の中からは怒りに似た気持ちも沸いてくる。トガシさんは、自分が周りに与えたものの大きさに全然気づかない。トガシさんという存在が、関西の田舎に住んでいた俺を走らせ、努力させ、こんなところまで連れてきたのに。俺は雑誌の切り抜きをいつまでも持っていて、インタビューの一語一句をだいたい言えるのに。いつも隣でこんなにジタバタしているのに、トガシさんは俺を気にしてなくて、ひとりぼっちを選んでいる。
「トガシさんのアホ」
 俺の呟きは腹の底からまっすぐに出た。
「へ?」
 トガシさんの表情は少しだけ引き攣ったような気がした。いてもたってもいられず、トガシさんの手首を乱暴に取った。温かくて、当たり前にトガシさんが生きているのだと思ったら、少しだけ泣けた。そのまま人の波をかき分けて横断歩道を渡った。次の青信号を待ちながら「そうですか」と大人ぶったりすることは、今の俺には無理だった。渡りきったところで信号は赤に変わって、静寂があった。対角からは人がどんどん押し寄せて、喧騒はどこまでも続く。苛立ったようなクラクションや宣伝カーから流れるやかましい音楽が、ずっと遠くまで聞こえた。
「なんか、怒ってる?」
 トガシさんの声で、俺は反射的に手を離した。手のひらが急に冬の空気に晒されて、昂っていた気分がゆっくり醒めていく。
「怒ってませんよ」
「喋らないから」
「二十歳の頃のトガシさんを想像してただけです」
「がっかりした?」
「別に」
「なんか含みがあるなぁ」
「ガキにもいろいろあるんすよ」
 俺はおそらくトガシさんが好きだ。祝福みたいな淡い光に照らされて、控えめに微笑むだけのトガシさんが好きだ。だからその顔にかかる名前もわからない影を、俺が追っ払ってやりたいと思う。
 上京したとき、降り立った先に憧れていたトガシさんがいて、自分の力でたどり着けたことを誇らしく思った。もっと時が経ったら、俺はトガシさんのひとりぼっちの魂に、どんな声をかけてやれるだろうか。平気な素振りをする偽物も、不安の中をさまよう本物も、全部守りたいから、全部俺にくださいよ。走って息の上がったまま、どさくさに紛れてそんな風に言ったら、トガシさんはどんな顔をするだろうか。
 遠い憧れは熱をもったまま近づいて、いまにも火花が飛びそうな距離まで来てしまった。
「これ、ちょっと持っててください」
「荷物持ち?やっぱ怒ってる?」
 持っていた茶色の手提げ袋をトガシさんに差し出す。袋の中から、箱の角が少し見えた。さっき買った靴が入っている。
「昼、何食べます」
「……カレーかなぁ」
「昨日食うてたやん」
 俺は口を尖らせながら、自由になった両手で上着のポケットからスマホを探し当てた。マップのアプリを開いて、トガシさん好みのカレー屋を検索する。美味そうに食うあの顔を見れるなら、今日はそれでもうええか、と思った。
 
2/3ページ