100m(kbtgkb)
まっくらにレ点
春のパン祭りの応募用紙が落ちていた。既にシールが二枚貼ってある。今は冬だから祭りはやってませんよ。ひとり呟く。半分に折り曲げ、樺木はそれをカバンにしまった。
初めてトガシと対面したとき、ぐんにゃりしている。と樺木は思った。端正な顔立ちも均整のとれた肉体もテレビで見たままだった。けれどなんとも言えない曖昧さがあった。
数ヶ月を共にしてみて分かったことがある。トガシは処世術として、へらへらしていた。現実を生き延びるために自虐していた。輝かしい過去をダシにして。不健全だと樺木は思う。そんな内面を、鍛え抜いた肉体で覆っている。ぐんにゃりしていた。
憧れていたトガシと今のトガシの乖離に樺木は苛立つ。トガシからの飯の誘いを断ることもあった。
更に分かったことがある。トガシはへらへらしながら、逃げない。逃げられないが正しいか。どちらでもいい。「若いっていいね」虫唾が走るセリフを吐いてくる。「それでもまだ負けられないな」と矜持を示してくる。隣を走れば憧れのままのトガシがそこにいる。向かい風すら味方につけたような俊足。勝利だけを見据えた横顔。
樺木は食堂を思い出す。アスリート然とした献立を見てトガシは嬉しそうに「俺これ好きなんだよ」聞いてもいないのに教えてくれた。イワシコロッケパンという不穏な食べ物の話を楽しそうにしていた。高校時代のことを話すと表情がうっすらと明るくなった。やさしい声色が心地よく、もっと聞いていたいと思った。会話を終わらせたくなくて「イワシコロッケパンにパン祭りのシールついてますか?」と聞いた。「ついてないけど?」あまりにも無垢な首の傾げ方に樺木は声を上げて笑った。
樺木はトガシ以外の人の話もよく聞いた。自分のことをあまり話さないから不機嫌そうだと思われた。トガシは決まって「退屈じゃなかった?」と気遣ってきた。「退屈じゃないですよ」と返すと「俺はあの人の話、退屈だった」と顔をくしゃくしゃにして見せてきた。
トガシは変わらずへらへらしている。それが本意でないことを知る。樺木より少し年上の、傷だらけの人間なのだと知る。トガシを知るたび、樺木は冬に拾ったパン祭りの応募用紙をひらく。シールがついていない空白に、ボールペンでレ点を打つ。何の意味もない。このトガシは全部嘘かもしれない。それでもよかった。知らないトガシを見つけるたびに、忘れたくないと思った。走る姿から想像できないくらいによく笑う。美味そうによく食べる。樺木が芳しくないとき、ただ黙って隣にいたこともあった。
そんなトガシを魅力的だと思わないなんて、無理がある。
レ点を打つためだけの空白は、みるみるうちに埋まった。
冬の夕方はすでに暗い。
張りつめた冷たさだけがある。
樺木は室内トレーニングを終えるとさっさと身支度を済ませた。同じ空間にいたトガシは誰かに連れられどこかへ消えた。その場で数分、暇をつぶした。遠くからトガシの笑い声が聞こえる。声がだんだんと大きくなると、慌てて施設の出入り口まで走った。トガシを知るほど、樺木の言動はややこしくなる。姿が見えないと不安なくせに、わざとらしく遠ざかってみたりする。
「樺木くん帰り?」
むなしく見つかる。
樺木がひとつ頷くと「一緒に帰ろうよ」とトガシが誘ってきた。ふたりは家までの進行方向がだいたい同じだった。別にいつものことだった。けれど樺木は緊張していた。
施設から漏れるだいだい色の光が遠くなるにつれ、歩くふたりはどんどん輪郭をなくしていく。樺木はトガシの少し後ろを歩いた。上着のくっきりした青色のところだけよく見えた。
「冬はさ、走れないから結構つまんないんだよね」
「退屈にはなりますね」
「やっぱりそう思う?」
おんなじだ。少しだけ樺木のほうを見やって、トガシが笑った。
「冬は嫌いじゃないよ。こたつで食うみかんとか、いいよね」
「走り関係なくなってますけど」
「こたつでちょっと寝ちゃうやつとか」
「怠惰っすね」
「樺木くんもやってるでしょ絶対」
「やらんすよ」
「嘘だね」
話の最中にも空気はどんどん冷えていく。こたつでまどろんでいるところに猫がやってきたら、あぁしあわせだな、もう動けないな。と思う。樺木は家でのんびりしている愛猫を思い浮かべてわずかに暖をとった。
道なりに進んだ。小学校がある。通学路を守るみたいに並ぶ街灯が、やっと二人を明るく照らした。横目に佇むグラウンドは、対称的にまっくらに見える。あそこに何かを投げ込んだら、もう帰ってこない気がした。
トガシがそこで立ち止まる。トガシの頬骨あたりが一際明かりを受け入れている。樺木はトガシの横顔を特に綺麗だと思う。テレビで初めて見たときから綺麗だった。
「こういう広いところ見てると、走りたくならない?」
トガシの横顔がそう呟いたあと、いたずらな目で樺木を見てきた。走るときも、憧れをもって見つめるときも、どちらもまなざしは一方通行だ。けれどこうしてトガシと交わるとき、樺木はどうしたらいいか途端にわからなくなる。
「不法侵入だけはやめてください」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
生意気のひとつ言ってみても、どこかがいつもくすぐったい。トガシはわざとらしくフェンスを両手で掴んで、登ってやろうかとポーズをとった。こどもみたいだった。
「でもほんとうに、めいっぱい走れるっていいことだよ」
トガシがまっくらなところに言葉を投げ込んだ。心からの言葉にも思えた。
「俺たちめいっぱい走ることしか出来ないですからね」
樺木も続いて投げ込んだ。まっくらなところは静かで、なにもなかった。
「やめやめ。なんか辛気臭い」
トガシが手で追い払うようなふりをする。
「飯の話しましょう」
「いいこというね。俺イワシコロッケパンの話したことあったっけ」
「100回くらい聞いた」
「俺そんなに話した?」
まんまるに見開いたトガシの目に、樺木の笑った顔が映った気がした。
「でも本当に美味いんだよ。いっつもなかなか買えなくてさ」
「そんなに美味いんすね」
「101回目もちゃんと聞いてくれてありがとね」
「俺も食べてみたい」
「食べさせてやりたいよ。樺木くん驚くよ」
100回は言いすぎたかもしれない。でもきっと40回くらいは聞いたように思う。それもたぶん言いすぎだろう。トゲがなくて呑気な会話は、じんわりと樺木の頬を緩めていく。イワシコロッケパンの話をするときのトガシは、それにまつわる思い出そのものをやわらかいなにかで包んで、大事にあたためているようだった。樺木はさらにその上から、見たことのないトガシの高校時代をまるごと抱きしめてやりたい気分になる。
そう遠くない昔のことを思い出しながら、トガシは再び歩き出す。通学路の区角を過ぎると、街灯の数が途端に減っていく。明かりの照度もばらばらで、あんなにはっきり見えていたお互いが、またうやむやにされていく。輪郭が無くなっていく。
「それって春のパン祭りのシールついてますか?」
苦しまぎれに出てきた言葉が、トガシの足を止めた。
「その返しはさすがに覚えてるぞ」
「シール、集めてるんで」
「俺はじめてそれ聞いたとき、ほんとに何言ってんだかわからなかったよ」
「あのときのトガシさんの顔、ほんとに良かった」
「購買のパンにシールついてるかなんて、聞かれると思わないだろ」
樺木はふいにトガシの表情を思い出して、けらけらと笑った。そんなに笑うなよ。笑うところかよ。トガシは口を尖らせる。声は呆れている。トガシの右手が樺木を探すように伸びてきて、顔の前で止まる。まっくらな中を、ひんやりとした指先が樺木の鼻をぎゅっとつまんだ。トガシのささやかな反抗は、樺木の知りうる全ての中でいちばんやさしい感触だった。
樺木は頭の中で慌てて応募用紙をひらく。おそらく最後の空白に、レ点を打った。
「埋まってもうた」
「なに?」
「応募していいすか」
「なんの応募」
「トガシさんの恋人」
トガシがあの時みたいに首を傾げた。
「俺トガシさんのこと好きや」
鼻先に残った反抗のあとがじんじんと熱い。
思わず方言が口をついて出てきて、樺木はそんな自分に驚いた。
春のパン祭りの応募用紙が落ちていた。既にシールが二枚貼ってある。今は冬だから祭りはやってませんよ。ひとり呟く。半分に折り曲げ、樺木はそれをカバンにしまった。
初めてトガシと対面したとき、ぐんにゃりしている。と樺木は思った。端正な顔立ちも均整のとれた肉体もテレビで見たままだった。けれどなんとも言えない曖昧さがあった。
数ヶ月を共にしてみて分かったことがある。トガシは処世術として、へらへらしていた。現実を生き延びるために自虐していた。輝かしい過去をダシにして。不健全だと樺木は思う。そんな内面を、鍛え抜いた肉体で覆っている。ぐんにゃりしていた。
憧れていたトガシと今のトガシの乖離に樺木は苛立つ。トガシからの飯の誘いを断ることもあった。
更に分かったことがある。トガシはへらへらしながら、逃げない。逃げられないが正しいか。どちらでもいい。「若いっていいね」虫唾が走るセリフを吐いてくる。「それでもまだ負けられないな」と矜持を示してくる。隣を走れば憧れのままのトガシがそこにいる。向かい風すら味方につけたような俊足。勝利だけを見据えた横顔。
樺木は食堂を思い出す。アスリート然とした献立を見てトガシは嬉しそうに「俺これ好きなんだよ」聞いてもいないのに教えてくれた。イワシコロッケパンという不穏な食べ物の話を楽しそうにしていた。高校時代のことを話すと表情がうっすらと明るくなった。やさしい声色が心地よく、もっと聞いていたいと思った。会話を終わらせたくなくて「イワシコロッケパンにパン祭りのシールついてますか?」と聞いた。「ついてないけど?」あまりにも無垢な首の傾げ方に樺木は声を上げて笑った。
樺木はトガシ以外の人の話もよく聞いた。自分のことをあまり話さないから不機嫌そうだと思われた。トガシは決まって「退屈じゃなかった?」と気遣ってきた。「退屈じゃないですよ」と返すと「俺はあの人の話、退屈だった」と顔をくしゃくしゃにして見せてきた。
トガシは変わらずへらへらしている。それが本意でないことを知る。樺木より少し年上の、傷だらけの人間なのだと知る。トガシを知るたび、樺木は冬に拾ったパン祭りの応募用紙をひらく。シールがついていない空白に、ボールペンでレ点を打つ。何の意味もない。このトガシは全部嘘かもしれない。それでもよかった。知らないトガシを見つけるたびに、忘れたくないと思った。走る姿から想像できないくらいによく笑う。美味そうによく食べる。樺木が芳しくないとき、ただ黙って隣にいたこともあった。
そんなトガシを魅力的だと思わないなんて、無理がある。
レ点を打つためだけの空白は、みるみるうちに埋まった。
冬の夕方はすでに暗い。
張りつめた冷たさだけがある。
樺木は室内トレーニングを終えるとさっさと身支度を済ませた。同じ空間にいたトガシは誰かに連れられどこかへ消えた。その場で数分、暇をつぶした。遠くからトガシの笑い声が聞こえる。声がだんだんと大きくなると、慌てて施設の出入り口まで走った。トガシを知るほど、樺木の言動はややこしくなる。姿が見えないと不安なくせに、わざとらしく遠ざかってみたりする。
「樺木くん帰り?」
むなしく見つかる。
樺木がひとつ頷くと「一緒に帰ろうよ」とトガシが誘ってきた。ふたりは家までの進行方向がだいたい同じだった。別にいつものことだった。けれど樺木は緊張していた。
施設から漏れるだいだい色の光が遠くなるにつれ、歩くふたりはどんどん輪郭をなくしていく。樺木はトガシの少し後ろを歩いた。上着のくっきりした青色のところだけよく見えた。
「冬はさ、走れないから結構つまんないんだよね」
「退屈にはなりますね」
「やっぱりそう思う?」
おんなじだ。少しだけ樺木のほうを見やって、トガシが笑った。
「冬は嫌いじゃないよ。こたつで食うみかんとか、いいよね」
「走り関係なくなってますけど」
「こたつでちょっと寝ちゃうやつとか」
「怠惰っすね」
「樺木くんもやってるでしょ絶対」
「やらんすよ」
「嘘だね」
話の最中にも空気はどんどん冷えていく。こたつでまどろんでいるところに猫がやってきたら、あぁしあわせだな、もう動けないな。と思う。樺木は家でのんびりしている愛猫を思い浮かべてわずかに暖をとった。
道なりに進んだ。小学校がある。通学路を守るみたいに並ぶ街灯が、やっと二人を明るく照らした。横目に佇むグラウンドは、対称的にまっくらに見える。あそこに何かを投げ込んだら、もう帰ってこない気がした。
トガシがそこで立ち止まる。トガシの頬骨あたりが一際明かりを受け入れている。樺木はトガシの横顔を特に綺麗だと思う。テレビで初めて見たときから綺麗だった。
「こういう広いところ見てると、走りたくならない?」
トガシの横顔がそう呟いたあと、いたずらな目で樺木を見てきた。走るときも、憧れをもって見つめるときも、どちらもまなざしは一方通行だ。けれどこうしてトガシと交わるとき、樺木はどうしたらいいか途端にわからなくなる。
「不法侵入だけはやめてください」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
生意気のひとつ言ってみても、どこかがいつもくすぐったい。トガシはわざとらしくフェンスを両手で掴んで、登ってやろうかとポーズをとった。こどもみたいだった。
「でもほんとうに、めいっぱい走れるっていいことだよ」
トガシがまっくらなところに言葉を投げ込んだ。心からの言葉にも思えた。
「俺たちめいっぱい走ることしか出来ないですからね」
樺木も続いて投げ込んだ。まっくらなところは静かで、なにもなかった。
「やめやめ。なんか辛気臭い」
トガシが手で追い払うようなふりをする。
「飯の話しましょう」
「いいこというね。俺イワシコロッケパンの話したことあったっけ」
「100回くらい聞いた」
「俺そんなに話した?」
まんまるに見開いたトガシの目に、樺木の笑った顔が映った気がした。
「でも本当に美味いんだよ。いっつもなかなか買えなくてさ」
「そんなに美味いんすね」
「101回目もちゃんと聞いてくれてありがとね」
「俺も食べてみたい」
「食べさせてやりたいよ。樺木くん驚くよ」
100回は言いすぎたかもしれない。でもきっと40回くらいは聞いたように思う。それもたぶん言いすぎだろう。トゲがなくて呑気な会話は、じんわりと樺木の頬を緩めていく。イワシコロッケパンの話をするときのトガシは、それにまつわる思い出そのものをやわらかいなにかで包んで、大事にあたためているようだった。樺木はさらにその上から、見たことのないトガシの高校時代をまるごと抱きしめてやりたい気分になる。
そう遠くない昔のことを思い出しながら、トガシは再び歩き出す。通学路の区角を過ぎると、街灯の数が途端に減っていく。明かりの照度もばらばらで、あんなにはっきり見えていたお互いが、またうやむやにされていく。輪郭が無くなっていく。
「それって春のパン祭りのシールついてますか?」
苦しまぎれに出てきた言葉が、トガシの足を止めた。
「その返しはさすがに覚えてるぞ」
「シール、集めてるんで」
「俺はじめてそれ聞いたとき、ほんとに何言ってんだかわからなかったよ」
「あのときのトガシさんの顔、ほんとに良かった」
「購買のパンにシールついてるかなんて、聞かれると思わないだろ」
樺木はふいにトガシの表情を思い出して、けらけらと笑った。そんなに笑うなよ。笑うところかよ。トガシは口を尖らせる。声は呆れている。トガシの右手が樺木を探すように伸びてきて、顔の前で止まる。まっくらな中を、ひんやりとした指先が樺木の鼻をぎゅっとつまんだ。トガシのささやかな反抗は、樺木の知りうる全ての中でいちばんやさしい感触だった。
樺木は頭の中で慌てて応募用紙をひらく。おそらく最後の空白に、レ点を打った。
「埋まってもうた」
「なに?」
「応募していいすか」
「なんの応募」
「トガシさんの恋人」
トガシがあの時みたいに首を傾げた。
「俺トガシさんのこと好きや」
鼻先に残った反抗のあとがじんじんと熱い。
思わず方言が口をついて出てきて、樺木はそんな自分に驚いた。
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