春にして君を想う

風が吹き、頬を何かがかすめた。
その時やっと、バージルは自分が空を仰いでいることに気が付いた。

頭上に広がるのは、青褪めた夜空と、淡く棚引く花霞。
 
バージルの唇からは、ほう、と柔らかな息が漏れていた。


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バージルがこんな極東の島国に来たのには、いくつかの理由がある。
一つには、魔界からの帰還後、バージルが成り行きで始めた便利屋宛てに、この小さな国から悪魔退治の依頼がきたこと。
また一つには、父・スパーダから受け継いだ閻魔刀に似た刀というものの故郷を見てみたいという思いがあった。
とまあ、ここまでは半ば建前。
嘘偽りと言う訳ではないものの、実際のところ、理由はそれだけではない。
一番大きな動機は別にあった。
有り体に言えば、ダンテと派手にやり合った末の決断だった。
原因は、はっきり覚えていない。
敵の止めを横盗りされたことだったかも知れないし、水道を止められたことだったかも知れない。

『ふざけんなよ!』

ダンテはダンテでバージルを責め、声を枯らして怒鳴り散らした。
事態は修羅場の様相を呈したが、きっかけは多分、そう大したことではなかった筈だ。
二人が争う理由など、いつだって瑣末なことばかりなのだから。

もう顔も見たくもない。

そう思ったのは何度目か。
魔界から帰還し、なし崩しで生活を共にし始めてから、まだいくらも経っていないというのに、その回数は数えきれない。
我ながら馬鹿馬鹿しいと、バージルは思う。
しかしどうして、ダンテ相手となった途端、バージルの感情は抑えが効かなくなる。
それはダンテも同じらしく、二人は事務所前に大穴を開けるまで、一歩も引かずにやり合った。
そしてとうとう『キレた』バージルは、半ば勢いで事務所を出て、遠路遥々海を渡り、この地へと降り立つことになったのだ。



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それは、依頼人の屋敷へ向かう途中。
古都と呼ばれる街を行く最中の出来事だった。
複雑な形の文字が並ぶ看板。
コートを翻すぬるい風。
そこここで聞こえる、聞き慣れない言葉。
未視感ジャメヴュ、とでも言うのか。
いや、既視感デジャヴュというべきかも知れない。
街の風景に、匂いに、人々に。
バージルは不思議な感覚を覚え、歩く速度を落としていた。
この国へ来たのは初めてではない。
かつて力を求め、父の足跡を辿る中、バージルはこの国の土を踏んだことがある。
しかしどうして、その時の記憶は曖昧だ。
忘れてしまった、とは少し違う。
たとえば、訪れた街の位置だとか、御した悪魔の名前だとか、そういった記憶ははっきりとある。
けれど街ゆく人はどうだったとか、どんな匂いの季節だったとか、そんな思い出とでもいうべきものが、バージルの中からすっぽりと抜け落ちていた。
別段おかしなことはない。
それらのものは文字通り、当時のバージルの眼中にはなかったのだ。
あの頃の世界は、真っ暗なところだった。
奪われたものが全てに思え、何も見えない直中ただなかを、ひたすらに生きることしか出来なかった。
ただ前に。
ひたすら前に。
そんな生き方をしていたバージルが、周りを見ることがなかったのは、寧ろ自然なことだった。
しかし今はどうだろう。
古風な街並みの瓦に映える、柔らかな日差し。
小さな川辺に繁る柳は薫り、風には笑い合う少女達の声が踊っていた。
街を歩く。
ただそれだけのことで、バージルには溢れんばかりの感覚が流れ込んでくる。
長い年月が経っていた。
街も、そこを行く人々も、変わったことには間違いない。
けれど果たしてそれだけで、こうも世界は変わるだろうか。
バージルは足を止め、そよぐ柳を掬ってみる。
細い枝には花穂が生って、触れればバージルの指を擽った。
墓地でよく見る木だったが、日の下ではこうも嫋やかに萌えるものなのか。
軽い驚きを覚えると共に、やはり何かが違うとバージルは思った。
時の移ろいだけではない。
もっと根源的な何かが、はっきりと変わったのだ。
でなければ、この世界の変わりようは説明出来ない。
バージルはふと、手にした枝から目を逸らす。
視線の先は、自身の隣。
何もないその空間では、きらめく小川を背景に、時折柳が揺れるだけだ。
バージルとて馬鹿ではない。
世界が変わった理由など、およそ察しはついていた。
勿体ぶるのも馬鹿らしい。
どうせこれも、ダンテのせいに決まっているのだ。
あの破天荒な弟は、いつだってバージルを引っ掻き回す。
それこそクリフォトの一件が終わった後も、ダンテは有無を言わさずに、人間界こちらへバージルを連れ帰った。
バージルが世界を滅ぼしかけた、魔王・ユリゼンであるにもかかわらず、だ。
そんなダンテの滅茶苦茶ぶりに、バージルはついつい日和ってしまい、その手を振り解きそびれてしまい、今日の今日まできてしまった。
だからこんな世界が変わったことも、きっとダンテの仕業に違いないと、バージルは殆ど確信していた。
そのこと自体は否定しない。
事実は事実として、歴然とあるのだから。しかしわざわざそうだと認めるのは、やっぱりどうにも腹が立つ。
 特にあんな大喧嘩をした後となれば、その気持ちもひとしおだ。
これはもう、理屈がどうこういう話ではない。
バージルとダンテの関係とは、昔からそういうものなのだ。
「……ふん」
バージルは投げるように枝を離すと、静かにその場を去ろうとする。
その時、光る風が俄かに吹き、バージルが放った枝を掬った。
軽やかに吹き上げられた緑のそれは、そのままふわりとバージルの頭にかかる。
「…………」
小さな橋の向こうで、母親に手を引かれた子供が、バージルを見て笑うのが見えた。
母親はそれを嗜め、しきりに頭を下げている。
バージルはぎゅっと顔を顰める。
そして忌々しげに枝を払うと、足早にその場を後にした。



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豪快でいて、流麗な筆運びの掛物。
黒檀の刀掛に鎮座する、やや反り深い打刀。
そしてそれらの前にちょこんと置かれた、いちごが乗ったピンクの物体。
伝統的な床の間にしては異様とも言える光景に、バージルの目はつい釘付けになってしまった。


依頼人の屋敷に着いたのは、昼を大分過ぎた頃だった。
瓦屋根の小さな門。
そこを潜れば、土壁に隔てられていた庭に出た。
池を中心に低木や石が配されたそこは、酷く厳かな造りに見えたが、どこか安らぐ空気がある。
ここには何かあるのだろうか。
バージルがその感覚を辿れば、景石の隣に植えられた勿忘草や、石灯籠の火袋に置かれた、陶器のうさぎに行き着いた。
どれも伝統的な庭からは浮いた、色や造形のものばかりだ。
しかしバージルはそれぞれの影に、懐かしい母の手を見た。
レッドグレイブの家に広がっていた庭。
そこで母のエヴァは、土を耕し、水を撒き、小鳥の餌台に果物を置くのが日課だった。
母が心を込めた庭は格好の遊び場であり、イースターの時など、溢れ返ったうさぎのオーナメントを巡っては、で卵を探して駆け回ったものだ。
バージルはおもむろに石灯籠へ手を伸ばす。
そして火袋のうさぎを摘み上げると、ちらっとその下へ目をやった。
残念、というか、当然そこには卵はない。
わかりきっていたのにと、バージルは自身の愚行に顔を苦める。
と、そこに、いらっしゃい、と和やかな声が聞こえてきた。
振り返った先。
庭の奥から現れたのは、腰の曲がった一人の老婆。
作業着らしき簡易な服に、つばの大きな帽子を被り、手には小さなスコップを持っている。
どうやら、この庭の主らしい。
バージルはこっそりとうさぎを戻すと、勿体ぶった咳払いをした。
「依頼を請けた者だ」
ぼそりと告げると、老婆はまあまあと大袈裟に驚いてみせ、庭先にスコップやら手袋やらを置きながら、バージルを玄関へと促した。
そして格子戸に手をかけて、家へと招き入れようとした時、老婆はあっと口を開ける。
バージルが訝んでいると、老婆は朗らかに笑い、『でびるめいくらい』、と言ってきた。
「……それは事務所の名だ。『合言葉』ではない」
少し棘を含んだ言葉に老婆は、そうなの、ところころ笑うと、さっさと家へと上がってしまう。
バージルは軽い頭痛を覚えるも、これも仕事だと言い聞かせ、老婆の後を追うことにした。



少し待っていて欲しいとバージルが通されたのは、先程の庭が見える和室だった。
閻魔刀を傍らに、バージルは座して老婆を待つ。
部屋に漂う畳の香りは、干し草とも違う独特の匂いだ。
珍しくはあるものの、不快ではない。
バージルはゆっくりと呼吸をしつつ、部屋の中を見回した。
外の日差しが射す空間は、まるで光を吸い込むようで、灯りがなくともよく映える。
調度の類も質素ながら、決して粗末なものではない。
棚の壺一つをとってみても、地味な茶色いその肌に、細かく刻まれた文様が、複雑な陰と艶を生み出していた。
殺風景に見えて、存外と贅沢な部屋だ。
バージルはひとり感心していたが、それも次の瞬間に一転する。
恐らくはこの部屋で、一番の見どころである筈の床の間。
そこには格言か何かが書かれた軸が掛けられ、深い光沢を持つ鞘に納められた打刀が飾られている。
どちらも謂れのあるものなのだろう。
それはいい。
それはいいが、問題は軸や刀の前に置かれた、場違い過ぎる物体だ。
やや朱が混じる黒塗りの皿に載った、丸みを帯びたピンク色の『何か』。
掌に収まるサイズのそれは、白い粉に塗れており、一瞬マシュマロのように見えたものの、肌はもっと滑らかで、しっとりとした質感のようだ。
もしかしたらダンプリングの亜種かとも思ったが、ほのかな甘い香りからして、きっとこの国の菓子だろう。
その証拠に、ぱっくりと割れたてっぺんには、生クリームが搾られて、おまけにつやつやとしたいちごが一粒、ちょこんと行儀よく座っていた。
これは一体何なのか。
そして何故ここに置かれているのか。
バージルには皆目見当もつかない。
手持ち無沙汰ということもあり、バージルはつい、軸と刀と『何か』に見入ってしまった。
それから暫くして、とんとん、と廊下を歩く音が聞こえてくる。
我に返ったバージルが見たものは、湯呑みと『何か』を盆に載せた、例の老婆の姿だった。
クリーム色の着物に着替えた老婆は、何の迷いもなくバージルへ茶と『何か』を差し出してくる。
となると、やはりこれは茶請けの菓子で間違いなさそうだ。
老婆曰く、『何か』はイチゴダイフクと言い、この国では今の季節、よく出回る菓子の一つだと言う。
 『何か』の正体がわかったことで、バージルは少し胸がすっとした。しかし同時に、新たなもやもやも生まれてきた。
自分は、こんなファンシーなものを食べるように見えるのか。
どこぞの金欠偏食家でもあるまいに。
バージルは密かにショックを受けた。
別に気取るつもりもないが、これを喜んで受け取る程、気さくに振る舞うつもりもない。
どうもこの老婆の感性はわからない。
納得もいかないままに、バージルは床の間の方を再び見た。
そこでは変わらず刀の前に、イチゴダイフクが置かれている。

あの子も好きかと思って。

その声に、バージルは老婆へ向き直る。
「……あの子とは、刀のことか?」
老婆はこくりと頷いた。
そして楽しげに話をし始める。
閻魔刀へイチゴダイフクを差し出して。
その子にも、と笑いながら。
穏やかな口調で、話を始めた。



********************

深閑とした闇の中。
バージルは小さくえずいていた。

老婆の家を出て以降、ずっと胸が焼けている。
原因は明白。
仕事の委細を聞いた後、あのイチゴダイフクを閻魔刀の分まで食べたせいだ。
しくじった、とバージルは思ったが、既に後の祭りだった。
己の愚かさに辟易しつつ、バージルは改めて顔を上げる。
そこは街の北、とある山中の開けた一角。
閻魔刀を伴いやってきたそこは、かつてはぬえという獣の棲家だったらしいが、生憎雲のせいもあり、人間ヒトの目では何も見えない。
半魔のバージルだからこそ、辺りに生える数本の木と、それらに刻まれた異様な爪痕を認めることが出来た。
確かに話に聞いた通り、ここには悪魔が巣喰っているようだ。
バージルは特に深い傷跡に触れながら、老婆の話を思い出す。
曰く、ここは老婆と夫がよく訪ねた場所らしい。
あの刀の主でもある男は、この街で生まれ、この街で死んだという。
そんな男は妻を伴い、街をよく巡ったそうだが、ここはお気に入りだった場所の一つだそうだ。

あなたと一緒に見たいのです。

それが男の口癖だったらしい。
この街に息づく物や営み、そして人を愛した男のことを、老婆は愛おしむように語っていた。
その眼差しは温かく、かつてバージル達に父のことを語っていた母と重なった。
だからこそバージルは、老婆の願いを聞き届けようと思ったのだ。

またあの場所へ行きたい。

ただそれだけの老婆の願いを。

(……尤も、俺には理解し難い感傷だが)
バージルがそう顧みた刹那。
ぶわり、と一陣の風が吹いた。

叢雲が流れ、真っ白な月が顔を出す。

漆黒と青が入り混じる夜空。
傷ついてなお咲き誇る、淡い薄紅の花霞。

静謐な光に暴かれたのは、眩いばかりに鮮やかな世界だった。

さら、と何かがバージルの頬を掠める。
桜の花びらだ。
ああ、自分はこの光景に見入っていたのか。
頬に残る感触にバージルの口から、ほう、と小さく息を漏れた。

と、これを見たかったのか。

『あの子』と呼ばれた刀の主。
名すら知らない男のことを、バージルはほんの少しわかる気がした。
そして男の口癖に、バージルはふと、自身の隣を見る。

――もしここに、ダンテがいたなら。

桜が舞い散るその場所に、ふつりと想いが胸に湧く。
もしもここにダンテがいたら、どんな顔をするだろう。
ずっと怒ったままなのか。
年甲斐もなくはしゃぐのか。
後から後から想いが湧いては、バージルの中に溢れてくる。
どうやら月に暴かれたのは、空と桜ばかりではなかったらしい。
最早誤魔化すのも面倒だと、バージルはいよいよ開き直った。

ダンテをここへ連れて来る。
そして一緒に、これを見る。

胸の想いを言葉にして、バージルははっきりそう決めた。
所詮、瑣末な理由で始めた喧嘩だ。
ならばあの手を引いて来るのも、そんな瑣末な理由でいい筈だ。
(……それも黙っていれば、あの馬鹿にはバレんだろう)
少し風が荒くなり、月が再び隠れだしたが、バージルの心は晴れやかだった。
手にした閻魔刀も心なしか、軽く感じられるような気がした。
「さて。やることは決まった。ならば後は単純だ」
風に枝が大きく揺れ、影が不気味に広がっていく。
眼前ではどす黒く濁った赤い靄が、夜の木々の間で凝結する。
桜は更に大きくしなり、花弁を盛んに散らしていた。
「やめろ。その花は俺達のものだ。貴様如きが触れていいものではない」
酷く底冷えのする声で言い放てば、悪魔は漸く正体を見せた。
猿の顔に虎の体、大蛇の尾。
奇怪な姿をした悪魔は、嗄れた声で威嚇したが、バージルは少しも動じなかった。

こんな雑魚に構っている暇はない。
この桜が散る前に、ダンテを連れて来なければならないのだから。

大きな鉤爪を振るう悪魔を、バージルは冷たく一瞥する。
そして閻魔刀を垂直に構えると、柄に手をかけ悪魔へ告げた。

「――覚悟は出来ているだろうな?」

バージルは不敵に微笑むと、ゆっくりと閻魔刀を抜刀した。
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