ミルクティーを飲みながら
休部日の今日は、放課後に保健室を訪れる生徒は殆どいない。
この部屋の主であるニールは、事務机から体を起こすと、こきこきと肩を鳴らす。
文字相手の仕事は、どうも性に合わない。
ミルクティーが入ったマグカップを机に置き、ニールはうんと伸びをする。
少し体を動かすか。
椅子から立ち上がり、グラウンドに面した窓へと歩いていく。
西日を遮るため、閉められていたカーテン。
それを開ければ灰とも紫とも言える世界で、ひとりぼっちのゴールポストが、風にネットを揺らしていた。
校庭に人影は見えない。
向こうに見える校門に、数人の影法師がたむろしているだけだ。
ニールは腕の時計を見た。
完全下校の時間まで、後少し。
多少の眠気もあるが、さっさと書類を片付けてしまおう。
空気を入れ替えるため、ニールが窓をがらっと開け放った。
ひゅう、と冷たい風が吹き込んでくる。
「うわっ!」
部屋の奥から、大袈裟な声が飛んでくる。
「婆さん寒すぎ!閉めろって!」
喧しい少年の声にニールは、ふう、と肩を竦めた。
「若い癖に生っちょろいね。この程度で文句言うんじゃないよ」
上体を捻って後方を見ると、そこにはベッドの上で両肩を抱き、これ見よがしに腕を摩 る男子生徒がいた。
この銀の髪に碧い目の少年は、ダンテという二年の生徒だ。
服装の規定は守らない。
授業のサボりも日常茶飯事。
つまりは所謂問題児なのだが、生徒指導から目をつけられている反面、明るく思い切りのいい性格から、生徒間の人気は高かった。
多くの教師が手を焼き、時に衝突もするようなダンテだったが、ニールには随分と懐いている。
どんな時もまず生徒の言い分を聞くスタンスが、ダンテの琴線に触れたらしい。
加えてサボりにうってつけの保健室がニールの城とくれば、ダンテの懐きようも納得がいくものだった。
「そもそも寒いなら服をちゃんと着な。いくつボタン開けてんだい」
「固っ苦しいのはヤなんだよ」
「全く、風邪ひいても知らないよ」
「じゃあ早く閉めてくれよ、ソレ。カワイイ生徒が風邪ひいたらかわいそうだろ?」
「呆れた、口の減らない子だよ」
ニールは苦笑しながら窓を閉めた。
少しひんやりとした空気の中、今度はキャビネットの方へと向かう。
天板に置かれたワセリンのチューブや、絆創膏の箱を拾い上げる間、ダンテはスマートフォンを見つめていた。
「やっぱ今日暇だな。全然人来ねぇ」
「そうさ。しかもこんな時間に来る物好きなんて、あんたぐらいしかいないさ」
「そっか?」
「ああ。それに、熱がある訳でもないんだろう?」
「うん。」
「やれやれ。仮病も使わないでベッドを占領するなんて……いい根性してるよ、あんたは」
「いいだろ、別に。それに俺、婆さんには嘘吐かないって決めてるし」
ぴたりとニールの手が止まる。
このダンテはいい加減な風でいて、妙に義理堅いところがある。
今の『嘘を吐かない』というのも、ダンテなりの誠意なのだろう。
少なくとも、ニールはそう受け止めていた。
「——そうかい。で?正直者のダンテ君は、今日は何でここに来たんだい?」
キャビネットの物を収納棚へと移しつつ、ニールはダンテへと尋ねた。
先程までの饒舌さからすれば、ダンテの答えはすぐ返ってくると思われた。
しかし待てど暮らせど、返事は来ない。
部屋に響くのは、エアコンの風音ばかりだ。
ニールは困ったように天井を見上げた。
ダンテは授業をサボりに、よく保健室へ来る。
そう、『サボる時』には。
今はもう放課後。
それも完全下校時刻まで後三十分というところだ。
そんな時間に帰宅部のダンテに、サボるものなどありはしない。
つまりはわざわざここに来るだけの、『何か』があったのだ。
だがダンテは、ニールの問いには答えなかった。
ニールに嘘を吐かないと言ったダンテが、だ。
(上手く誤魔化しゃいいものを)
すっかり歳をとったニールはそう思う。
しかしまだニールの半分も生きていないダンテは、そうは思わないのだろう。
面倒なことだ、と思う自分がいる。
そして同時に、眩しいと思う自分もいる。
ニールは抱えていた資材を全て収納棚へしまい終えると、素知らぬふりをしてダンテへと振り向いた。
「まあいいさ。私は暫く作業させてもらうからね」
「……ん」
ベッドの上で膝を抱え、スマートフォンを眺める顔は、怒っているようにも、いじけているようにも見える。
普段見せないその表情は、ダンテが何か深くて重い感情に沈んでいることを物語っていた。
しかしニールは見て見ぬ振りをする。
何事もないように、眠っているパソコンを叩き起こし、キーボードを叩きだす。
沈黙を和らげるように。
そばにいることを示すように。
わざと大きめの音を立て、目の前のキーをタイプした。
「——……婆さん」
ダンテが口を開いたのは、ニールがマグのミルクティーを飲もうとした時だ。
すっかり冷め切ったそれを机に置くと、ニールは体ごとダンテの方を向いた。
「何だい?」
軽くもなく、重過ぎもせず。
穏やかな声で話しかける。
ダンテはスマートフォンから目を離さない。
先ほどよりも少し悲しそうな、寂しそうな、そんな瞳で見つめている。
「あのさ、今日——」
ぐ、とスマートフォンを握る手に力が入る。
ニールは黙って待つ。
ダンテが話したいことを、ダンテが話したい時に、一言も漏らさずに聴くために。
ニールはただ黙って、ダンテを待った。
かち、と腕に微かな振動が伝わる。
腕時計が、また時が進んだことを報せていた。
「………………やっぱ今のナシ。何でもねえ」
それが、押し黙っていたダンテが出した結論だった。
「——そうかい」
ニールはそう言った。
ダンテは何も言わなかった。
胸の内を、言葉にしないことを選んだのだ。
けれどニールは見逃さなかった。
ダンテが結論を告げる前、微かに動いた唇を。
————バージル。
ああ、やっぱり。
ニールはそう思った。
ダンテが唇だけで呼んだ名前は、ダンテの双子の兄のものだ。
頭は切れるが、口が悪い上に言葉が足りない。
おまけにプライドはエベレスト級という、非常に扱いづらい生徒だ。
そんなバージルにダンテはしょっちゅう突っかかるし、バージルもダンテを邪険にしている。
けれどその癖気がつけば、いつも一緒に連んでおり、はたから見れば、いがみ合うこともありつつも、それなりに仲の良い兄弟という風だった。
けれどニールから見ると、少し違う。
ダンテがバージルを呼ぶ声。
バージルがダンテの背を追う視線。
その端々に、ニールは家族に対する感情とは異なるそれを感じていた。
それはきっと、世間では到底受け入れられない類のものだ。
本人達もわかっているのか、その感情をあからさまにすることはない。
けれどふとした瞬間、その想いは滲み出てしまう。
例えばこんな風に、スマートフォンを見つめる眼差しに、だ。
ニールは再びマグを手にする。
軽く揺らせば消え入りそうな紅茶の香りが、微かに水面からのぼり立った。
職業柄、生徒の悩みに触れることは多い。
進路や親子関係から、目玉焼きにかける調味料まで、実に多種多様な悩みが保健室 には持ち込まれる。
その内容に大小や優劣をつけるつもりもないし、ありがちだと決めつけることもない。
しかし経験上、ニールはそれぞれの悩みがどう解きほぐされるか、何とはなしにわかっていた。
そしてそれは、このダンテの抱えるものについても同じだ。
——誰ならダンテの顔の曇りを、晴らしてやることができるのか。
(私の勘だと、そろそろなんだけどねぇ)
ニールはこくんと、ミルクティーを飲む。
ちらっと見える腕時計は、完全下校の五分前を指していた。
——こんこん。
軽く、小さな音が響いた。
ぎし、とベッドのフレームが鳴る。
「今行くよ」
ニールはさっと立ち上がると、入口へと直行する。
ベッドの方から何か聞こえた気もしたが、気が付かなかった振りをした。
ベージュの引き戸を、がらりと開ける。
一瞬目の前が暗くなったのは、そこにいた人物が見上げるほどの長身だったからだ。
「待たせたね」
ニールはにんまりと笑った。
銀の髪に、薄氷色の瞳。
それは紛うことなきダンテの兄、バージルだった。
「………………」
「よく来たね」
目も合わせず立ち尽くすバージルの頭を、ニールは手を伸ばして撫で回す。
掻き上げられた前髪が、ぐしゃぐしゃとバージルの顔へと落ちていく。
「やめろっ」
ニールは振り払おうとするバージルの手を、紙一重で躱してみせた。
「それで?何をしに来たんだい?」
白々しいニールの質問に、バージルは不快感を露わにする。
「……わかっているだろう」
「さあね。見当もつきやしない」
「貴様……」
「先生に貴様なんて言うもんじゃないよ」
返す言葉もないのか、バージルはぐっと押し黙る。
少しかわいそうな気もしたが、ニールは助け舟を出さなかった。
廊下の冷たい空気が、じわじわと保健室へと入り込んでくる。
「………………ダンテを」
気まずい空気に音を上げたのは、やっぱりバージルだった。
挙動不審気味に目を泳がせ、絞り出すようにニールへ告げる。
「…………ダンテを、迎えに、来た」
空調の音にすら負けそうな囁きは、ベッドのダンテまで届いただろうか。
ニールはいまいち確信できなかったが、今日のところはこれでよしとした。
「——そうかい」
そう言うと、ニールは手に持ったままのマグを見た。
ミルクティーは、まだ半分程残っている。
「……おや、飲み物が切れちまったね。バージル、ちょっと職員室まで行ってくるから、その間留守を頼むよ」
「人の話を聞いていたか?俺は……」
「はいはい、じゃあ行ってくるよ」
バージルの抗議を聞き流し、ニールはその横をすり抜ける。
「ああ、そうだ」
すれ違い様、ニールはくすりと笑う。
「迎えにくるんなら、今度から連絡くらいしておやり」
バージルは、くっと喉を鳴らした。
********************
「ありゃ、これで最後か」
インスタントミルクティーのスティックを手に、ニールは空になった箱を覗き込む。
職員室の片隅。
給湯スペースの一角には、職員が持ち寄ったインスタント飲料が置かれているが、ミルクティーはちょうど品切れになったようだ。
帰りにスーパーで調達しなくては。
そんなことを考えつつ、箱を潰してシンク横の資源ごみ置き場へと突っ込む。
職員室にはまだ数人の教師が残っているが、その数は休部日ということもあり、通常よりも少なかった。
その数人も、後いくらもしないうちに帰るだろう。
「ニール、珍しいじゃないか」
ニールが電気ポットからマグへ湯を注いでいると、背後から声をかけられた。
たまたまやって来た、英語のモリソンだ。
「いつもはこの時間、保健室で作業してるだろ?」
「ああ、飲み物を淹れにね」
「ん?お前さん、保健室 にもポットやら何やら持ち込んでたじゃないか。わざわざここまで来なくてもいいだろうに」
「男が細かいこと気にするもんじゃないよ、モリソン」
ニールはマドラーでマグを混ぜながら、モリソンに含みを持たせた笑みを浮かべる。
目敏いモリソンがそれを見逃すはずもなく、不思議そうに首を傾げた。
「何だ、妙に機嫌が良さそうじゃないか。いいことでもあったのか?」
「おや、そう見えるかい?」
「何となくだがね」
「なるほどね。モリソン、あんた中々いい勘してるよ」
「そいつはどうも。で、何かあったのか?」
「うーん、そうだねぇ」
ニールが目を閉じマグに顔を近づけると、甘く、軽やかな香りが鼻をくすぐる。
ほう、と息を吐いて目を開ければ、白い湯気越しに腕の時計が見えた。
針が指すのは、完全下校時刻から十五分程過ぎた時間だ。
「この先、色々あるかもしれないけど」
まだ熱いミルクティーを、ほんの少し啜る。
ちり、と舌先に感じる熱が、今のニールには心地いい。
「——あの子達なら、多分何とかなるって思っただけさ」
曖昧な言葉に、モリソンは余計困惑した。
「そいつはどういう――」
「ニールはいるか!」
モリソンが重ねて問いかけようとした時、入口から引き戸を開ける音とニールを呼ぶ声がした。
その声色は少年のもので、モリソンはぎょっとしてそちらを向いた。
「生徒か?下校時刻は過ぎてるぞ」
「ああ、いいよ。私が行ってくるから」
ニールはモリソンを手で制すと、そそくさと入口へと歩いて行く。
「おや、バージル、ダンテ。どうしたんだい?」
ニールが職員室の入口で出会したのは、予想通り、バージルとダンテの二人だった。
バージルはイライラを隠そうともせず、ニールをきつく睨みつけている。
後ろにいるダンテは素っ気ない態度で立っているが、その右手がバージルのシャツの裾から、さっと離れたのは気のせいだろう。
「どうしたもこうしたもない。貴様、いつまで部屋を空ける気だ」
「悪いねえ。モリソンと話し込んでたんだよ」
ニールの言い訳に納得する筈もなく、バージルは不愉快そうに目を眇めた。
「そんなことはどうでもいい。俺達は帰る。校門を開けろ」
『俺達は』。
その一言に、ニールの口元は思わず緩んだ。
「ああ、そうか。もう施錠されちまってるんだったね。先に行って待ってな、すぐ鍵を持ってくから」
「早くしろ。バスに乗り遅れる」
バージルは踵を返すと、さっさと薄暗い廊下へと消えていく。
その背中を見送るニールは、やれやれと溜息を吐いた。
「……婆さん」
「うん?」
はたとニールが手前を見れば、未だ職員室の前に立つダンテと目があった。
ダンテはじっとこちらを見ているが、その目元が赤くなっているのを、ニールは気づかないことにした。
「何だい、ダンテ。バージルと一緒に行かないのかい?」
ニールの問いかけに、ダンテはこくんと―頷いた。
「婆さん」
ダンテの口が、きゅっと強張る。
それからぴくりと小さく震えた後、薄く形のいい唇は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「——ありがとな」
ニールは柔らかく微笑んだ。
「さあ、何のことだろうね?」
そう惚けてやると、ダンテは嬉しそうに笑った。
「……ま、いいけどさ。じゃあ、俺も行くから。鍵、早くな」
ダンテは肩の鞄を担ぎ直すと、急いでバージルの跡を追った。
その後ろ姿を、ニールは楽しげに眺めている。
「……さてと。ゆっくり行くかね」
ニールはマグのミルクティーを一口飲むと、キーボックスの方へとのろのろ向かう。
暗く冷たい廊下には、ミルクティーの甘い香りが、いつまでもずっと残っていた。
この部屋の主であるニールは、事務机から体を起こすと、こきこきと肩を鳴らす。
文字相手の仕事は、どうも性に合わない。
ミルクティーが入ったマグカップを机に置き、ニールはうんと伸びをする。
少し体を動かすか。
椅子から立ち上がり、グラウンドに面した窓へと歩いていく。
西日を遮るため、閉められていたカーテン。
それを開ければ灰とも紫とも言える世界で、ひとりぼっちのゴールポストが、風にネットを揺らしていた。
校庭に人影は見えない。
向こうに見える校門に、数人の影法師がたむろしているだけだ。
ニールは腕の時計を見た。
完全下校の時間まで、後少し。
多少の眠気もあるが、さっさと書類を片付けてしまおう。
空気を入れ替えるため、ニールが窓をがらっと開け放った。
ひゅう、と冷たい風が吹き込んでくる。
「うわっ!」
部屋の奥から、大袈裟な声が飛んでくる。
「婆さん寒すぎ!閉めろって!」
喧しい少年の声にニールは、ふう、と肩を竦めた。
「若い癖に生っちょろいね。この程度で文句言うんじゃないよ」
上体を捻って後方を見ると、そこにはベッドの上で両肩を抱き、これ見よがしに腕を
この銀の髪に碧い目の少年は、ダンテという二年の生徒だ。
服装の規定は守らない。
授業のサボりも日常茶飯事。
つまりは所謂問題児なのだが、生徒指導から目をつけられている反面、明るく思い切りのいい性格から、生徒間の人気は高かった。
多くの教師が手を焼き、時に衝突もするようなダンテだったが、ニールには随分と懐いている。
どんな時もまず生徒の言い分を聞くスタンスが、ダンテの琴線に触れたらしい。
加えてサボりにうってつけの保健室がニールの城とくれば、ダンテの懐きようも納得がいくものだった。
「そもそも寒いなら服をちゃんと着な。いくつボタン開けてんだい」
「固っ苦しいのはヤなんだよ」
「全く、風邪ひいても知らないよ」
「じゃあ早く閉めてくれよ、ソレ。カワイイ生徒が風邪ひいたらかわいそうだろ?」
「呆れた、口の減らない子だよ」
ニールは苦笑しながら窓を閉めた。
少しひんやりとした空気の中、今度はキャビネットの方へと向かう。
天板に置かれたワセリンのチューブや、絆創膏の箱を拾い上げる間、ダンテはスマートフォンを見つめていた。
「やっぱ今日暇だな。全然人来ねぇ」
「そうさ。しかもこんな時間に来る物好きなんて、あんたぐらいしかいないさ」
「そっか?」
「ああ。それに、熱がある訳でもないんだろう?」
「うん。」
「やれやれ。仮病も使わないでベッドを占領するなんて……いい根性してるよ、あんたは」
「いいだろ、別に。それに俺、婆さんには嘘吐かないって決めてるし」
ぴたりとニールの手が止まる。
このダンテはいい加減な風でいて、妙に義理堅いところがある。
今の『嘘を吐かない』というのも、ダンテなりの誠意なのだろう。
少なくとも、ニールはそう受け止めていた。
「——そうかい。で?正直者のダンテ君は、今日は何でここに来たんだい?」
キャビネットの物を収納棚へと移しつつ、ニールはダンテへと尋ねた。
先程までの饒舌さからすれば、ダンテの答えはすぐ返ってくると思われた。
しかし待てど暮らせど、返事は来ない。
部屋に響くのは、エアコンの風音ばかりだ。
ニールは困ったように天井を見上げた。
ダンテは授業をサボりに、よく保健室へ来る。
そう、『サボる時』には。
今はもう放課後。
それも完全下校時刻まで後三十分というところだ。
そんな時間に帰宅部のダンテに、サボるものなどありはしない。
つまりはわざわざここに来るだけの、『何か』があったのだ。
だがダンテは、ニールの問いには答えなかった。
ニールに嘘を吐かないと言ったダンテが、だ。
(上手く誤魔化しゃいいものを)
すっかり歳をとったニールはそう思う。
しかしまだニールの半分も生きていないダンテは、そうは思わないのだろう。
面倒なことだ、と思う自分がいる。
そして同時に、眩しいと思う自分もいる。
ニールは抱えていた資材を全て収納棚へしまい終えると、素知らぬふりをしてダンテへと振り向いた。
「まあいいさ。私は暫く作業させてもらうからね」
「……ん」
ベッドの上で膝を抱え、スマートフォンを眺める顔は、怒っているようにも、いじけているようにも見える。
普段見せないその表情は、ダンテが何か深くて重い感情に沈んでいることを物語っていた。
しかしニールは見て見ぬ振りをする。
何事もないように、眠っているパソコンを叩き起こし、キーボードを叩きだす。
沈黙を和らげるように。
そばにいることを示すように。
わざと大きめの音を立て、目の前のキーをタイプした。
「——……婆さん」
ダンテが口を開いたのは、ニールがマグのミルクティーを飲もうとした時だ。
すっかり冷め切ったそれを机に置くと、ニールは体ごとダンテの方を向いた。
「何だい?」
軽くもなく、重過ぎもせず。
穏やかな声で話しかける。
ダンテはスマートフォンから目を離さない。
先ほどよりも少し悲しそうな、寂しそうな、そんな瞳で見つめている。
「あのさ、今日——」
ぐ、とスマートフォンを握る手に力が入る。
ニールは黙って待つ。
ダンテが話したいことを、ダンテが話したい時に、一言も漏らさずに聴くために。
ニールはただ黙って、ダンテを待った。
かち、と腕に微かな振動が伝わる。
腕時計が、また時が進んだことを報せていた。
「………………やっぱ今のナシ。何でもねえ」
それが、押し黙っていたダンテが出した結論だった。
「——そうかい」
ニールはそう言った。
ダンテは何も言わなかった。
胸の内を、言葉にしないことを選んだのだ。
けれどニールは見逃さなかった。
ダンテが結論を告げる前、微かに動いた唇を。
————バージル。
ああ、やっぱり。
ニールはそう思った。
ダンテが唇だけで呼んだ名前は、ダンテの双子の兄のものだ。
頭は切れるが、口が悪い上に言葉が足りない。
おまけにプライドはエベレスト級という、非常に扱いづらい生徒だ。
そんなバージルにダンテはしょっちゅう突っかかるし、バージルもダンテを邪険にしている。
けれどその癖気がつけば、いつも一緒に連んでおり、はたから見れば、いがみ合うこともありつつも、それなりに仲の良い兄弟という風だった。
けれどニールから見ると、少し違う。
ダンテがバージルを呼ぶ声。
バージルがダンテの背を追う視線。
その端々に、ニールは家族に対する感情とは異なるそれを感じていた。
それはきっと、世間では到底受け入れられない類のものだ。
本人達もわかっているのか、その感情をあからさまにすることはない。
けれどふとした瞬間、その想いは滲み出てしまう。
例えばこんな風に、スマートフォンを見つめる眼差しに、だ。
ニールは再びマグを手にする。
軽く揺らせば消え入りそうな紅茶の香りが、微かに水面からのぼり立った。
職業柄、生徒の悩みに触れることは多い。
進路や親子関係から、目玉焼きにかける調味料まで、実に多種多様な悩みが
その内容に大小や優劣をつけるつもりもないし、ありがちだと決めつけることもない。
しかし経験上、ニールはそれぞれの悩みがどう解きほぐされるか、何とはなしにわかっていた。
そしてそれは、このダンテの抱えるものについても同じだ。
——誰ならダンテの顔の曇りを、晴らしてやることができるのか。
(私の勘だと、そろそろなんだけどねぇ)
ニールはこくんと、ミルクティーを飲む。
ちらっと見える腕時計は、完全下校の五分前を指していた。
——こんこん。
軽く、小さな音が響いた。
ぎし、とベッドのフレームが鳴る。
「今行くよ」
ニールはさっと立ち上がると、入口へと直行する。
ベッドの方から何か聞こえた気もしたが、気が付かなかった振りをした。
ベージュの引き戸を、がらりと開ける。
一瞬目の前が暗くなったのは、そこにいた人物が見上げるほどの長身だったからだ。
「待たせたね」
ニールはにんまりと笑った。
銀の髪に、薄氷色の瞳。
それは紛うことなきダンテの兄、バージルだった。
「………………」
「よく来たね」
目も合わせず立ち尽くすバージルの頭を、ニールは手を伸ばして撫で回す。
掻き上げられた前髪が、ぐしゃぐしゃとバージルの顔へと落ちていく。
「やめろっ」
ニールは振り払おうとするバージルの手を、紙一重で躱してみせた。
「それで?何をしに来たんだい?」
白々しいニールの質問に、バージルは不快感を露わにする。
「……わかっているだろう」
「さあね。見当もつきやしない」
「貴様……」
「先生に貴様なんて言うもんじゃないよ」
返す言葉もないのか、バージルはぐっと押し黙る。
少しかわいそうな気もしたが、ニールは助け舟を出さなかった。
廊下の冷たい空気が、じわじわと保健室へと入り込んでくる。
「………………ダンテを」
気まずい空気に音を上げたのは、やっぱりバージルだった。
挙動不審気味に目を泳がせ、絞り出すようにニールへ告げる。
「…………ダンテを、迎えに、来た」
空調の音にすら負けそうな囁きは、ベッドのダンテまで届いただろうか。
ニールはいまいち確信できなかったが、今日のところはこれでよしとした。
「——そうかい」
そう言うと、ニールは手に持ったままのマグを見た。
ミルクティーは、まだ半分程残っている。
「……おや、飲み物が切れちまったね。バージル、ちょっと職員室まで行ってくるから、その間留守を頼むよ」
「人の話を聞いていたか?俺は……」
「はいはい、じゃあ行ってくるよ」
バージルの抗議を聞き流し、ニールはその横をすり抜ける。
「ああ、そうだ」
すれ違い様、ニールはくすりと笑う。
「迎えにくるんなら、今度から連絡くらいしておやり」
バージルは、くっと喉を鳴らした。
********************
「ありゃ、これで最後か」
インスタントミルクティーのスティックを手に、ニールは空になった箱を覗き込む。
職員室の片隅。
給湯スペースの一角には、職員が持ち寄ったインスタント飲料が置かれているが、ミルクティーはちょうど品切れになったようだ。
帰りにスーパーで調達しなくては。
そんなことを考えつつ、箱を潰してシンク横の資源ごみ置き場へと突っ込む。
職員室にはまだ数人の教師が残っているが、その数は休部日ということもあり、通常よりも少なかった。
その数人も、後いくらもしないうちに帰るだろう。
「ニール、珍しいじゃないか」
ニールが電気ポットからマグへ湯を注いでいると、背後から声をかけられた。
たまたまやって来た、英語のモリソンだ。
「いつもはこの時間、保健室で作業してるだろ?」
「ああ、飲み物を淹れにね」
「ん?お前さん、
「男が細かいこと気にするもんじゃないよ、モリソン」
ニールはマドラーでマグを混ぜながら、モリソンに含みを持たせた笑みを浮かべる。
目敏いモリソンがそれを見逃すはずもなく、不思議そうに首を傾げた。
「何だ、妙に機嫌が良さそうじゃないか。いいことでもあったのか?」
「おや、そう見えるかい?」
「何となくだがね」
「なるほどね。モリソン、あんた中々いい勘してるよ」
「そいつはどうも。で、何かあったのか?」
「うーん、そうだねぇ」
ニールが目を閉じマグに顔を近づけると、甘く、軽やかな香りが鼻をくすぐる。
ほう、と息を吐いて目を開ければ、白い湯気越しに腕の時計が見えた。
針が指すのは、完全下校時刻から十五分程過ぎた時間だ。
「この先、色々あるかもしれないけど」
まだ熱いミルクティーを、ほんの少し啜る。
ちり、と舌先に感じる熱が、今のニールには心地いい。
「——あの子達なら、多分何とかなるって思っただけさ」
曖昧な言葉に、モリソンは余計困惑した。
「そいつはどういう――」
「ニールはいるか!」
モリソンが重ねて問いかけようとした時、入口から引き戸を開ける音とニールを呼ぶ声がした。
その声色は少年のもので、モリソンはぎょっとしてそちらを向いた。
「生徒か?下校時刻は過ぎてるぞ」
「ああ、いいよ。私が行ってくるから」
ニールはモリソンを手で制すと、そそくさと入口へと歩いて行く。
「おや、バージル、ダンテ。どうしたんだい?」
ニールが職員室の入口で出会したのは、予想通り、バージルとダンテの二人だった。
バージルはイライラを隠そうともせず、ニールをきつく睨みつけている。
後ろにいるダンテは素っ気ない態度で立っているが、その右手がバージルのシャツの裾から、さっと離れたのは気のせいだろう。
「どうしたもこうしたもない。貴様、いつまで部屋を空ける気だ」
「悪いねえ。モリソンと話し込んでたんだよ」
ニールの言い訳に納得する筈もなく、バージルは不愉快そうに目を眇めた。
「そんなことはどうでもいい。俺達は帰る。校門を開けろ」
『俺達は』。
その一言に、ニールの口元は思わず緩んだ。
「ああ、そうか。もう施錠されちまってるんだったね。先に行って待ってな、すぐ鍵を持ってくから」
「早くしろ。バスに乗り遅れる」
バージルは踵を返すと、さっさと薄暗い廊下へと消えていく。
その背中を見送るニールは、やれやれと溜息を吐いた。
「……婆さん」
「うん?」
はたとニールが手前を見れば、未だ職員室の前に立つダンテと目があった。
ダンテはじっとこちらを見ているが、その目元が赤くなっているのを、ニールは気づかないことにした。
「何だい、ダンテ。バージルと一緒に行かないのかい?」
ニールの問いかけに、ダンテはこくんと―頷いた。
「婆さん」
ダンテの口が、きゅっと強張る。
それからぴくりと小さく震えた後、薄く形のいい唇は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「——ありがとな」
ニールは柔らかく微笑んだ。
「さあ、何のことだろうね?」
そう惚けてやると、ダンテは嬉しそうに笑った。
「……ま、いいけどさ。じゃあ、俺も行くから。鍵、早くな」
ダンテは肩の鞄を担ぎ直すと、急いでバージルの跡を追った。
その後ろ姿を、ニールは楽しげに眺めている。
「……さてと。ゆっくり行くかね」
ニールはマグのミルクティーを一口飲むと、キーボックスの方へとのろのろ向かう。
暗く冷たい廊下には、ミルクティーの甘い香りが、いつまでもずっと残っていた。
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