ミルクティーを飲みながら

休部日の今日は、放課後に保健室を訪れる生徒は殆どいない。
この部屋の主であるニールは、事務机から体を起こすと、こきこきと肩を鳴らす。
文字相手の仕事は、どうも性に合わない。
ミルクティーが入ったマグカップを机に置き、ニールはうんと伸びをする。
少し体を動かすか。
椅子から立ち上がり、グラウンドに面した窓へと歩いていく。
西日を遮るため、閉められていたカーテン。
それを開ければ灰とも紫とも言える世界で、ひとりぼっちのゴールポストが、風にネットを揺らしていた。
校庭に人影は見えない。
向こうに見える校門に、数人の影法師がたむろしているだけだ。
ニールは腕の時計を見た。
完全下校の時間まで、後少し。
多少の眠気もあるが、さっさと書類を片付けてしまおう。
空気を入れ替えるため、ニールが窓をがらっと開け放った。
ひゅう、と冷たい風が吹き込んでくる。
「うわっ!」
部屋の奥から、大袈裟な声が飛んでくる。
「婆さん寒すぎ!閉めろって!」
喧しい少年の声にニールは、ふう、と肩を竦めた。
「若い癖に生っちょろいね。この程度で文句言うんじゃないよ」
上体を捻って後方を見ると、そこにはベッドの上で両肩を抱き、これ見よがしに腕をさする男子生徒がいた。
この銀の髪に碧い目の少年は、ダンテという二年の生徒だ。
服装の規定は守らない。
授業のサボりも日常茶飯事。
つまりは所謂問題児なのだが、生徒指導から目をつけられている反面、明るく思い切りのいい性格から、生徒間の人気は高かった。
多くの教師が手を焼き、時に衝突もするようなダンテだったが、ニールには随分と懐いている。
どんな時もまず生徒の言い分を聞くスタンスが、ダンテの琴線に触れたらしい。
加えてサボりにうってつけの保健室がニールの城とくれば、ダンテの懐きようも納得がいくものだった。
「そもそも寒いなら服をちゃんと着な。いくつボタン開けてんだい」
「固っ苦しいのはヤなんだよ」
「全く、風邪ひいても知らないよ」
「じゃあ早く閉めてくれよ、ソレ。カワイイ生徒が風邪ひいたらかわいそうだろ?」
「呆れた、口の減らない子だよ」
ニールは苦笑しながら窓を閉めた。
少しひんやりとした空気の中、今度はキャビネットの方へと向かう。
天板に置かれたワセリンのチューブや、絆創膏の箱を拾い上げる間、ダンテはスマートフォンを見つめていた。
「やっぱ今日暇だな。全然人来ねぇ」
「そうさ。しかもこんな時間に来る物好きなんて、あんたぐらいしかいないさ」
「そっか?」
「ああ。それに、熱がある訳でもないんだろう?」
「うん。」
「やれやれ。仮病も使わないでベッドを占領するなんて……いい根性してるよ、あんたは」
「いいだろ、別に。それに俺、婆さんには嘘吐かないって決めてるし」
ぴたりとニールの手が止まる。
このダンテはいい加減な風でいて、妙に義理堅いところがある。
今の『嘘を吐かない』というのも、ダンテなりの誠意なのだろう。
少なくとも、ニールはそう受け止めていた。
「——そうかい。で?正直者のダンテ君は、今日は何でここに来たんだい?」
キャビネットの物を収納棚へと移しつつ、ニールはダンテへと尋ねた。
先程までの饒舌さからすれば、ダンテの答えはすぐ返ってくると思われた。
しかし待てど暮らせど、返事は来ない。
部屋に響くのは、エアコンの風音ばかりだ。
ニールは困ったように天井を見上げた。
ダンテは授業をサボりに、よく保健室へ来る。
そう、『サボる時』には。
今はもう放課後。
それも完全下校時刻まで後三十分というところだ。
そんな時間に帰宅部のダンテに、サボるものなどありはしない。
つまりはわざわざここに来るだけの、『何か』があったのだ。
だがダンテは、ニールの問いには答えなかった。
ニールに嘘を吐かないと言ったダンテが、だ。
(上手く誤魔化しゃいいものを)
すっかり歳をとったニールはそう思う。
しかしまだニールの半分も生きていないダンテは、そうは思わないのだろう。
面倒なことだ、と思う自分がいる。
そして同時に、眩しいと思う自分もいる。
ニールは抱えていた資材を全て収納棚へしまい終えると、素知らぬふりをしてダンテへと振り向いた。
「まあいいさ。私は暫く作業させてもらうからね」
「……ん」
ベッドの上で膝を抱え、スマートフォンを眺める顔は、怒っているようにも、いじけているようにも見える。
普段見せないその表情は、ダンテが何か深くて重い感情に沈んでいることを物語っていた。
しかしニールは見て見ぬ振りをする。
何事もないように、眠っているパソコンを叩き起こし、キーボードを叩きだす。
沈黙を和らげるように。
そばにいることを示すように。
わざと大きめの音を立て、目の前のキーをタイプした。
「——……婆さん」
ダンテが口を開いたのは、ニールがマグのミルクティーを飲もうとした時だ。
すっかり冷め切ったそれを机に置くと、ニールは体ごとダンテの方を向いた。
「何だい?」
軽くもなく、重過ぎもせず。
穏やかな声で話しかける。
ダンテはスマートフォンから目を離さない。
先ほどよりも少し悲しそうな、寂しそうな、そんな瞳で見つめている。
「あのさ、今日——」
ぐ、とスマートフォンを握る手に力が入る。
ニールは黙って待つ。
ダンテが話したいことを、ダンテが話したい時に、一言も漏らさずに聴くために。
ニールはただ黙って、ダンテを待った。
かち、と腕に微かな振動が伝わる。
腕時計が、また時が進んだことを報せていた。
「………………やっぱ今のナシ。何でもねえ」
それが、押し黙っていたダンテが出した結論だった。
「——そうかい」
ニールはそう言った。
ダンテは何も言わなかった。
胸の内を、言葉にしないことを選んだのだ。
けれどニールは見逃さなかった。
ダンテが結論を告げる前、微かに動いた唇を。

————バージル。

ああ、やっぱり。
ニールはそう思った。
ダンテが唇だけで呼んだ名前は、ダンテの双子の兄のものだ。
頭は切れるが、口が悪い上に言葉が足りない。
おまけにプライドはエベレスト級という、非常に扱いづらい生徒だ。
そんなバージルにダンテはしょっちゅう突っかかるし、バージルもダンテを邪険にしている。
けれどその癖気がつけば、いつも一緒に連んでおり、はたから見れば、いがみ合うこともありつつも、それなりに仲の良い兄弟という風だった。
けれどニールから見ると、少し違う。
ダンテがバージルを呼ぶ声。
バージルがダンテの背を追う視線。
その端々に、ニールは家族に対する感情とは異なるそれを感じていた。
それはきっと、世間では到底受け入れられない類のものだ。
本人達もわかっているのか、その感情をあからさまにすることはない。
けれどふとした瞬間、その想いは滲み出てしまう。
例えばこんな風に、スマートフォンを見つめる眼差しに、だ。
ニールは再びマグを手にする。
軽く揺らせば消え入りそうな紅茶の香りが、微かに水面からのぼり立った。
職業柄、生徒の悩みに触れることは多い。
進路や親子関係から、目玉焼きにかける調味料まで、実に多種多様な悩みが保健室ここには持ち込まれる。
その内容に大小や優劣をつけるつもりもないし、ありがちだと決めつけることもない。
しかし経験上、ニールはそれぞれの悩みがどう解きほぐされるか、何とはなしにわかっていた。
そしてそれは、このダンテの抱えるものについても同じだ。
——誰ならダンテの顔の曇りを、晴らしてやることができるのか。
(私の勘だと、そろそろなんだけどねぇ)
ニールはこくんと、ミルクティーを飲む。
ちらっと見える腕時計は、完全下校の五分前を指していた。

——こんこん。

軽く、小さな音が響いた。
ぎし、とベッドのフレームが鳴る。
「今行くよ」
ニールはさっと立ち上がると、入口へと直行する。
ベッドの方から何か聞こえた気もしたが、気が付かなかった振りをした。
ベージュの引き戸を、がらりと開ける。
一瞬目の前が暗くなったのは、そこにいた人物が見上げるほどの長身だったからだ。
「待たせたね」
ニールはにんまりと笑った。
銀の髪に、薄氷色の瞳。
それは紛うことなきダンテの兄、バージルだった。
「………………」
「よく来たね」
目も合わせず立ち尽くすバージルの頭を、ニールは手を伸ばして撫で回す。
掻き上げられた前髪が、ぐしゃぐしゃとバージルの顔へと落ちていく。
「やめろっ」
ニールは振り払おうとするバージルの手を、紙一重で躱してみせた。
「それで?何をしに来たんだい?」
白々しいニールの質問に、バージルは不快感を露わにする。
「……わかっているだろう」
「さあね。見当もつきやしない」
「貴様……」
「先生に貴様なんて言うもんじゃないよ」
返す言葉もないのか、バージルはぐっと押し黙る。
少しかわいそうな気もしたが、ニールは助け舟を出さなかった。
廊下の冷たい空気が、じわじわと保健室へと入り込んでくる。
「………………ダンテを」
気まずい空気に音を上げたのは、やっぱりバージルだった。
挙動不審気味に目を泳がせ、絞り出すようにニールへ告げる。
「…………ダンテを、迎えに、来た」
空調の音にすら負けそうな囁きは、ベッドのダンテまで届いただろうか。
ニールはいまいち確信できなかったが、今日のところはこれでよしとした。
「——そうかい」
そう言うと、ニールは手に持ったままのマグを見た。
ミルクティーは、まだ半分程残っている。
「……おや、飲み物が切れちまったね。バージル、ちょっと職員室まで行ってくるから、その間留守を頼むよ」
「人の話を聞いていたか?俺は……」
「はいはい、じゃあ行ってくるよ」
バージルの抗議を聞き流し、ニールはその横をすり抜ける。
「ああ、そうだ」
すれ違い様、ニールはくすりと笑う。
「迎えにくるんなら、今度から連絡くらいしておやり」
バージルは、くっと喉を鳴らした。


********************


「ありゃ、これで最後か」
インスタントミルクティーのスティックを手に、ニールは空になった箱を覗き込む。
職員室の片隅。
給湯スペースの一角には、職員が持ち寄ったインスタント飲料が置かれているが、ミルクティーはちょうど品切れになったようだ。
帰りにスーパーで調達しなくては。
そんなことを考えつつ、箱を潰してシンク横の資源ごみ置き場へと突っ込む。
職員室にはまだ数人の教師が残っているが、その数は休部日ということもあり、通常よりも少なかった。
その数人も、後いくらもしないうちに帰るだろう。
「ニール、珍しいじゃないか」
ニールが電気ポットからマグへ湯を注いでいると、背後から声をかけられた。
たまたまやって来た、英語のモリソンだ。
「いつもはこの時間、保健室で作業してるだろ?」
「ああ、飲み物を淹れにね」
「ん?お前さん、保健室根城にもポットやら何やら持ち込んでたじゃないか。わざわざここまで来なくてもいいだろうに」
「男が細かいこと気にするもんじゃないよ、モリソン」
ニールはマドラーでマグを混ぜながら、モリソンに含みを持たせた笑みを浮かべる。
目敏いモリソンがそれを見逃すはずもなく、不思議そうに首を傾げた。
「何だ、妙に機嫌が良さそうじゃないか。いいことでもあったのか?」
「おや、そう見えるかい?」
「何となくだがね」
「なるほどね。モリソン、あんた中々いい勘してるよ」
「そいつはどうも。で、何かあったのか?」
「うーん、そうだねぇ」
ニールが目を閉じマグに顔を近づけると、甘く、軽やかな香りが鼻をくすぐる。
ほう、と息を吐いて目を開ければ、白い湯気越しに腕の時計が見えた。
針が指すのは、完全下校時刻から十五分程過ぎた時間だ。
「この先、色々あるかもしれないけど」
まだ熱いミルクティーを、ほんの少し啜る。
ちり、と舌先に感じる熱が、今のニールには心地いい。
「——あの子達なら、多分何とかなるって思っただけさ」
曖昧な言葉に、モリソンは余計困惑した。
「そいつはどういう――」
「ニールはいるか!」
モリソンが重ねて問いかけようとした時、入口から引き戸を開ける音とニールを呼ぶ声がした。
その声色は少年のもので、モリソンはぎょっとしてそちらを向いた。
「生徒か?下校時刻は過ぎてるぞ」
「ああ、いいよ。私が行ってくるから」
ニールはモリソンを手で制すと、そそくさと入口へと歩いて行く。
「おや、バージル、ダンテ。どうしたんだい?」
ニールが職員室の入口で出会したのは、予想通り、バージルとダンテの二人だった。
バージルはイライラを隠そうともせず、ニールをきつく睨みつけている。
後ろにいるダンテは素っ気ない態度で立っているが、その右手がバージルのシャツの裾から、さっと離れたのは気のせいだろう。
「どうしたもこうしたもない。貴様、いつまで部屋を空ける気だ」
「悪いねえ。モリソンと話し込んでたんだよ」
ニールの言い訳に納得する筈もなく、バージルは不愉快そうに目を眇めた。
「そんなことはどうでもいい。俺達は帰る。校門を開けろ」
『俺達は』。
その一言に、ニールの口元は思わず緩んだ。
「ああ、そうか。もう施錠されちまってるんだったね。先に行って待ってな、すぐ鍵を持ってくから」
「早くしろ。バスに乗り遅れる」
バージルは踵を返すと、さっさと薄暗い廊下へと消えていく。
その背中を見送るニールは、やれやれと溜息を吐いた。
「……婆さん」
「うん?」
はたとニールが手前を見れば、未だ職員室の前に立つダンテと目があった。
ダンテはじっとこちらを見ているが、その目元が赤くなっているのを、ニールは気づかないことにした。
「何だい、ダンテ。バージルと一緒に行かないのかい?」
ニールの問いかけに、ダンテはこくんと―頷いた。
「婆さん」
ダンテの口が、きゅっと強張る。
それからぴくりと小さく震えた後、薄く形のいい唇は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「——ありがとな」

ニールは柔らかく微笑んだ。
「さあ、何のことだろうね?」
そう惚けてやると、ダンテは嬉しそうに笑った。
「……ま、いいけどさ。じゃあ、俺も行くから。鍵、早くな」
ダンテは肩の鞄を担ぎ直すと、急いでバージルの跡を追った。
その後ろ姿を、ニールは楽しげに眺めている。
「……さてと。ゆっくり行くかね」
ニールはマグのミルクティーを一口飲むと、キーボックスの方へとのろのろ向かう。

暗く冷たい廊下には、ミルクティーの甘い香りが、いつまでもずっと残っていた。
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