50 Cents per Minute
事務所前の水溜りが凍っている。
寒い筈だと、ダンテは手に息を吐きかけた。
昨日の二日酔いからやっと解放された頭が、冷たい空気で冴えてくる。
固まった表面をブーツの踵で突くと、薄い氷は簡単に割れ、ぷかぷかと水面を泳ぎだし、少ししたら沈んでしまった。
陽の光はまだ淡く、目覚めきっていない街はひっそりとしている。
ダンテは大きな欠伸を一つし、そそくさと事務所へ入っていった。
ドアを潜ると、事務所兼居間 に満ちた、外よりも幾分暖かい空気に包まれる。
が、それでも若干気温は低いようで、肌は粟立ったままだ。
普段ならもう、部屋は快適な室温になっているはずなのだが。
その小さな違和感の他にも、今日の事務所には『異変』が多い。
ダンテはぐるりと辺りを見回してみる。
ドアの郵便受けに入れっぱなしの新聞。
コーヒーの香りがしない事務所兼居間 。
昨日から机 の上に山積みになって、一向に捨てられる気配のないピザの箱。
原因はわかってはいるものの、別にこれと言って不自由もない。
寧ろ清々とした心地すらする。
そう考えると、この『異変』は喜ばしいものなのかも知れない。
ただほんの少しだけ、胸に支 えを感じることを除いて。
ジリリリリリリリ。
静まり返っていた部屋に、電話のベルが鳴り渡る。
こんな朝早くに、一体誰が。
ダンテは無視しようとも思ったが、カレンダーに口紅 で書かれた『支払期限 の文字が目に入り、渋々受話器へと手を伸ばした。
「デビルメイクライ」
あからさまに気のない声で、名乗りを上げる。
こんな時間に電話を寄越すなど、どうせまともな相手ではない。
事実受話器の向こうからは雑音 が聞こえるだけで、電話の主は沈黙を保ったままだ。
「ハロー?ピザの注文なら番号違いだぜ。掛け直すなら最近できたフォーデンズってとこがお勧めだ。スパイシーチキンピザってのにマッシュルームを追加したやつが……」
『今すぐその喧しい口を閉じろ』
ややくぐもった、高めの男の声。
不遜のお手本のような口振りには、聞き覚えがある。
「バージル?」
ダンテは驚いた。
元魔王の双子の兄は、諸事情により今ダンテと共に便利屋を営んでいる。
そしてそのバージルは、一昨日から仕事で遠く東の地方都市に出向いている筈だ。
電話など滅多にしないバージルだ。
どういう風の吹き回しなのだろう。
「どうした。何かあったか?」
何気なく聞き返しただけのつもりだったが、急に耳元に剣呑な空気が生まれた。
『……貴様が言っただろう』
潜められたバージルの声は、明らかに不機嫌である。
今のやり取りのどこに、バージルの機嫌を損ねる要素があったか。
全く無い心当たりに、ダンテは首を捻った。
『もういい、切る』
「待てよ、バージル。お前今どこにいるんだ?もう街には着いたんだろ?」
『……駅だ』
「ああ、後ろが賑やかだと思ったら、公衆電話 からかけてるのか。お前、スマホとか持ってねえしな」
『貴様も同じだろう』
「まあな。で、いつそっちに着いたんだ?」
『昨日の夜だ』
「ふうん、こっちから意外にかかるんだな。そっちはどんな雰囲気なんだよ」
『クソだ。電話は五十セント硬貨 しか受付け無い骨董品 で、宿もスラムのど真ん中にある。行き掛けに身の程知らずの羽虫 に集られた。続け様に二度も、だ』
「あっはっはっ!熱烈な歓迎でよかったじゃねえか!」えか!」
『馬鹿を言うな』
かしゃん。
バージルの言葉に重なるように、器械的な音がした。
何か金属が落ちる音。
ダンテは不思議に思ったが、すぐ様その音の正体に気づく。
「バージル、お前今硬貨 入れたろ」
『…………』
「何だよ、そんなに俺と話したかったのか?」
『切る』
「おいおい、金入れたばっかだろ?もう少し話そうぜ」
ダンテは電話の本体を手に、窓際のパネルヒーターへと歩いて行く。
「なあ、そっちでなんか食ったか?美味いもんとかさ」
『そんな暇があるか』
「何だよ、つまんねえなぁ」
『遊びで来ている訳ではない』
「でも飯は必要だろ。朝飯まだなら、何がいいもん食えよ。たとえばほら、ピザとか」
窓に近付くにつれ、冷気が頬をくすぐってくる。
ダンテは受話器を肩と顔で挟むと、お目当てのヒーターへと手を伸ばした。
「そういやさ、今日氷が張ってたんだ。うっすいやつが、事務所の前の水溜りに」
『この時期なら不思議でもないだろう』
「まあな。そっちはどうだ?」
『……まだ少し、寒さは柔らかい』
かしゃん。
その音に、ダンテはくすくすと笑う。
「——そっか。羨ましいことで」
『今から代わるか?』
「いや、遠慮しとくよ」
ヒーターのダイヤルを回し、温度を上げた。
こぽこぽという音が、何故か楽しげに聞こえてくる。
「ここんところ働き詰めだったんだ。今日はオフでのんびりするさ」
『はっ、よく言う。元を糺 せば貴様がまたアーカムの娘に借金をしたからだろう』
「けっ、嫌味ったらしい男は嫌われるぜ」
ダンテは電話のコードを指にくるくると絡ませながら、窓の外へと目をやった。
空は青さを増し、遠くからはクラクションの音が聞こえてくる。
ここからは見えないが、きっと水溜りの氷も溶けているだろう。
かしゃん。
また、音がした。
『……気は済んだか』
「うん?」
唐突な問いに、ダンテはきょとんとした。
『まさか、本当に覚えていないのか?』
バージルは責めるように言ってくるものの、本当に思い当たる節がない。
「何だよ、勿体ぶりやがって。言いたいことあるならはっきり言えよ」
ムッとして言い返すと、電話越しですらわかるくらいに、バージルは苛立った。
『一昨日、酔った貴様が言っただろうが』
バージルは二の句を継ぐのを一瞬躊躇ったが、結局半ば投げやりのような、それでいて搾り出すような声でいった。
『…………電話を』
「?」
『……………声が聞きたい、と』
苦々しく吐き捨てられたその台詞に、ダンテは思わず電話を落としそうになる。
「……は?誰が?何て?」
『………………』
答えは返ってこないが、元々期待などしていなかった。
ダンテも何とか思い出そうとするが、いかんせん一昨日はレディ達とのポーカーで負けが込み、しこたま飲まされたことしか覚えていない。
レディへの借金も、机 の上のメモと、カレンダーに書かれた口紅 の伝言で知ったくらいだ。
「マジで?俺が?」
『………………』
「あー……マジかー……」
こう言う場面で、バージルが嘘をつくことはない。
となると、自分はその小っ恥ずかしい本音を、実際に吐いてしまったのだろう。
『…………』
「……ふーん」
ダンテは電話でよかった、と思った。
さもなくば、少し赤くなった、だらしないにやけ顔をバージルに晒すことになったのだから。
ヒーターの熱のせいか。
それとも窓越しの日差しか。
ダンテの体が、じわじわと温かくなっていく。
「なあ、バージル」
『……何だ』
「お前さ、今五十セント硬貨 何枚持ってる?」
『何?』
「いいから教えろって」
ダンテの強引な問いかけに、ちゃり、と微かな金属音が応える。
『……三枚だ』
「じゃあ三分。あと三分だけ話そうぜ」
『…………』
ダンテはくるりと回ると、ゆっくりソファへ向かって行く。
目を閉じ、耳を澄ませば、様々な音が聞こえてくる。
踵が床を鳴らす音。
ヒーターの泡が揺らぐ音。
見知らぬ駅の、雑踏の音。
そして。
かしゃん。
ダンテはその音に、小さく、ガッツポーズをした。
寒い筈だと、ダンテは手に息を吐きかけた。
昨日の二日酔いからやっと解放された頭が、冷たい空気で冴えてくる。
固まった表面をブーツの踵で突くと、薄い氷は簡単に割れ、ぷかぷかと水面を泳ぎだし、少ししたら沈んでしまった。
陽の光はまだ淡く、目覚めきっていない街はひっそりとしている。
ダンテは大きな欠伸を一つし、そそくさと事務所へ入っていった。
ドアを潜ると、事務所兼
が、それでも若干気温は低いようで、肌は粟立ったままだ。
普段ならもう、部屋は快適な室温になっているはずなのだが。
その小さな違和感の他にも、今日の事務所には『異変』が多い。
ダンテはぐるりと辺りを見回してみる。
ドアの郵便受けに入れっぱなしの新聞。
コーヒーの香りがしない事務所兼
昨日から
原因はわかってはいるものの、別にこれと言って不自由もない。
寧ろ清々とした心地すらする。
そう考えると、この『異変』は喜ばしいものなのかも知れない。
ただほんの少しだけ、胸に
ジリリリリリリリ。
静まり返っていた部屋に、電話のベルが鳴り渡る。
こんな朝早くに、一体誰が。
ダンテは無視しようとも思ったが、カレンダーに
「デビルメイクライ」
あからさまに気のない声で、名乗りを上げる。
こんな時間に電話を寄越すなど、どうせまともな相手ではない。
事実受話器の向こうからは
「ハロー?ピザの注文なら番号違いだぜ。掛け直すなら最近できたフォーデンズってとこがお勧めだ。スパイシーチキンピザってのにマッシュルームを追加したやつが……」
『今すぐその喧しい口を閉じろ』
ややくぐもった、高めの男の声。
不遜のお手本のような口振りには、聞き覚えがある。
「バージル?」
ダンテは驚いた。
元魔王の双子の兄は、諸事情により今ダンテと共に便利屋を営んでいる。
そしてそのバージルは、一昨日から仕事で遠く東の地方都市に出向いている筈だ。
電話など滅多にしないバージルだ。
どういう風の吹き回しなのだろう。
「どうした。何かあったか?」
何気なく聞き返しただけのつもりだったが、急に耳元に剣呑な空気が生まれた。
『……貴様が言っただろう』
潜められたバージルの声は、明らかに不機嫌である。
今のやり取りのどこに、バージルの機嫌を損ねる要素があったか。
全く無い心当たりに、ダンテは首を捻った。
『もういい、切る』
「待てよ、バージル。お前今どこにいるんだ?もう街には着いたんだろ?」
『……駅だ』
「ああ、後ろが賑やかだと思ったら、
『貴様も同じだろう』
「まあな。で、いつそっちに着いたんだ?」
『昨日の夜だ』
「ふうん、こっちから意外にかかるんだな。そっちはどんな雰囲気なんだよ」
『クソだ。電話は
「あっはっはっ!熱烈な歓迎でよかったじゃねえか!」えか!」
『馬鹿を言うな』
かしゃん。
バージルの言葉に重なるように、器械的な音がした。
何か金属が落ちる音。
ダンテは不思議に思ったが、すぐ様その音の正体に気づく。
「バージル、お前今
『…………』
「何だよ、そんなに俺と話したかったのか?」
『切る』
「おいおい、金入れたばっかだろ?もう少し話そうぜ」
ダンテは電話の本体を手に、窓際のパネルヒーターへと歩いて行く。
「なあ、そっちでなんか食ったか?美味いもんとかさ」
『そんな暇があるか』
「何だよ、つまんねえなぁ」
『遊びで来ている訳ではない』
「でも飯は必要だろ。朝飯まだなら、何がいいもん食えよ。たとえばほら、ピザとか」
窓に近付くにつれ、冷気が頬をくすぐってくる。
ダンテは受話器を肩と顔で挟むと、お目当てのヒーターへと手を伸ばした。
「そういやさ、今日氷が張ってたんだ。うっすいやつが、事務所の前の水溜りに」
『この時期なら不思議でもないだろう』
「まあな。そっちはどうだ?」
『……まだ少し、寒さは柔らかい』
かしゃん。
その音に、ダンテはくすくすと笑う。
「——そっか。羨ましいことで」
『今から代わるか?』
「いや、遠慮しとくよ」
ヒーターのダイヤルを回し、温度を上げた。
こぽこぽという音が、何故か楽しげに聞こえてくる。
「ここんところ働き詰めだったんだ。今日はオフでのんびりするさ」
『はっ、よく言う。元を
「けっ、嫌味ったらしい男は嫌われるぜ」
ダンテは電話のコードを指にくるくると絡ませながら、窓の外へと目をやった。
空は青さを増し、遠くからはクラクションの音が聞こえてくる。
ここからは見えないが、きっと水溜りの氷も溶けているだろう。
かしゃん。
また、音がした。
『……気は済んだか』
「うん?」
唐突な問いに、ダンテはきょとんとした。
『まさか、本当に覚えていないのか?』
バージルは責めるように言ってくるものの、本当に思い当たる節がない。
「何だよ、勿体ぶりやがって。言いたいことあるならはっきり言えよ」
ムッとして言い返すと、電話越しですらわかるくらいに、バージルは苛立った。
『一昨日、酔った貴様が言っただろうが』
バージルは二の句を継ぐのを一瞬躊躇ったが、結局半ば投げやりのような、それでいて搾り出すような声でいった。
『…………電話を』
「?」
『……………声が聞きたい、と』
苦々しく吐き捨てられたその台詞に、ダンテは思わず電話を落としそうになる。
「……は?誰が?何て?」
『………………』
答えは返ってこないが、元々期待などしていなかった。
ダンテも何とか思い出そうとするが、いかんせん一昨日はレディ達とのポーカーで負けが込み、しこたま飲まされたことしか覚えていない。
レディへの借金も、
「マジで?俺が?」
『………………』
「あー……マジかー……」
こう言う場面で、バージルが嘘をつくことはない。
となると、自分はその小っ恥ずかしい本音を、実際に吐いてしまったのだろう。
『…………』
「……ふーん」
ダンテは電話でよかった、と思った。
さもなくば、少し赤くなった、だらしないにやけ顔をバージルに晒すことになったのだから。
ヒーターの熱のせいか。
それとも窓越しの日差しか。
ダンテの体が、じわじわと温かくなっていく。
「なあ、バージル」
『……何だ』
「お前さ、今
『何?』
「いいから教えろって」
ダンテの強引な問いかけに、ちゃり、と微かな金属音が応える。
『……三枚だ』
「じゃあ三分。あと三分だけ話そうぜ」
『…………』
ダンテはくるりと回ると、ゆっくりソファへ向かって行く。
目を閉じ、耳を澄ませば、様々な音が聞こえてくる。
踵が床を鳴らす音。
ヒーターの泡が揺らぐ音。
見知らぬ駅の、雑踏の音。
そして。
かしゃん。
ダンテはその音に、小さく、ガッツポーズをした。
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