And a Happy New Year

クローゼットから黒いハイネックのシャツを取り出す。
マットなカシミヤ生地を頭から被れば、夜の空気に冷え切った肌が、仄かなぬくもりを覚えた。
軽く裾を引き、皺を伸ばして整えてから、奥のレーンにかかったコートへと手を伸ばす。
ダークグレーに青い荊模様のロングコート。
それをハンガーから外して——やめた。
別にこれでも構わないのだが、色々とうるさい奴がいる。
以前このコートで出かけた時、罵声を雨霰の如く浴びせかけられた。
季節感がおかしい。
悪目立ちし過ぎる。
空気を読め。
そもそも何で仕事用のボロで来たのか。
単に買い出しに付き合え、と言われ、わざわざ待ち合わせの場所に出向いただけでこの言われようだ。
この後のことを考えると、この馴染みのコートは選外とするのが無難だろう。
納得がいかない部分はあるが、今日わざわざ揉め事を起こすのも馬鹿らしい。
仕方なく今回は、折れてやることにした。
荊のコートをスライドさせ、その横にあるネイビーブルーのチェスターコートを引っ張り出す。
ラペル付きの細身のコートは、ああでもないこうでもないと散々横槍を入れられた末に、これならいいと及第点を与えられた代物だ。
おもむろに袖を通せば、キュプラの裏地ライニングにするりと滑る。
着心地や動きやすい仕立てなどは悪くない。
見た目は——どうだろうか。
さりげなく絞られたウエストや、自然な曲線を描く肩周りなど、シルエットはそれなりに様になっている。
深みのある青も嫌味は無かった。
少なくとも、今夜街へ繰り出しても、浮かないデザインではあるだろう。
一先ず服はこれで決まりだ。
クローゼットの鎧戸を閉め、回れ右をしてベッドへと向かう。
五歩も歩かず辿り着いたサイドチェスト。
そこには昨晩読みかけたままの本が置いてある。
その上から二番目の引き出しを開ければ、虫眼鏡ルーペや鋏、小さな缶のケースと共に、一つの瓶が収まっていた。
深い水底みなそこを思わせる、濃淡の青に染め上げた硝子瓶。
繊細な細工も、凝った造形もない、円柱形のそれは、手の中に隠れる程の大きさだ。
少し重みのある瓶の、黒く艶めく蓋を回す。
蓋が緩めばその隙間から、微かな香りが辺りに広がる。
朝日さす冬の湖畔を思わせる、冷たく清廉な香りを吸い込めば、古い、古い記憶が蘇った。


時折父に強請って、入ることを許された書斎。
小さなリサイタルくらいなら開ける程に広大な部屋の片隅には、黒檀の棚付きの物書き机ライティングビューローが置かれていた。
その棚の中には金の蔓が絡みつくインク壺や、真鍮の写真立てと並び、小さなパリアン磁器の瓶があったと記憶している。
瓶の中身は香水で、父はしばしばそれをつけていた。
その香水は普段父から香るものとは異なり、と母と二人で出掛ける際につけていることが多かったように思う。
ある日いつものようにその様子を眺めていると、不意に父が手招きをした。
素直にそちらへ駆けて行くと、父はその小瓶を持たせてきて、香水の付け方を教えようと言ってきたのだ。
不思議に思い、何故かと聞いてみると、父は悪戯っぽく、大人になった時のために、と笑った。


扉の向こうから、靴音がする。
一定だった歩くリズムが変わり、靴音の主が階段を登り始めたと知れた。
そろそろか、と手にした香水を宙に向けて吹きかける。
香りの狭霧を左手で掬い、そのまま軽く耳裏に触れた。
父の香りよりも、軽く透明な香りは、いくらか胸を騒めかせる。
瓶の蓋を閉め、引き出しへと収めた直後。
「おい、入るぜ」
乱暴なノックに振り向けば、ちょうどドアが開け放たれた。
「なんだ、もう準備できてるじゃねえか」
部屋に入るなり同居人——ダンテは、頭からつま先まで、じっくりとこちらを見つめてくる。
「んー、スラックスにストレートチップの靴ってのがお堅いが……まあいいだろ」
品定めするかのような物言いは、率直に言って気に食わない。
何様だ、とばかりにこちらもダンテを見返してみる。
ワインレッドのショートコートに、ダークトーンのクルーネックニット。
グレーのデニムは無造作に濃茶のショートブーツに突っ込まれており、基本カジュアルにまとめているようだ。
一応、普段のだらしない着こなしではないようだが、それが不躾な品評の免罪符にはなり得ない。
「貴様の所感などどうでもいい。勿論喧嘩なら買うが」
「おお怖い。そんなに怒るなよ、おにーちゃん」
ダンテは芝居がかった仕草で震えてみせると、素早くバージルの背後に回り込んだ。
「ほら、早くしねえと始まっちまうぜ。駅前広場のカウントダウン!」
そう強引に背中を押す様は、まるで昔と変わらない。
自然と目元の強張りが解けて、口から吐息が漏れる。
「——ダンテ」
「うん?」
小さく名前を呼べば、ダンテは顔を左肩に乗せてきた。
「あれ、お前いつもとなんか違わねえ?何か、匂いが——うぁっ!?」
全てを言い終わる前に、左の指で、ダンテの首筋を羽根のように撫でる。
掠めるだけのひと撫では、ほんの一瞬の出来事だ。
「冷てえ!何すんだよ!」
首筋を抑えつつ、ダンテは怒ったように背中を突き飛ばしてくる。
しかしその手には怒りなど微塵もなく、ただの『振り』なのは明白だった。
「ったく、変なことしやがって。いいから早くしろよ。もたもたしてたら、年越しちまうぜ」
ダンテはそう言うと、横をすり抜けて足早に部屋を出て行った。
すれ違い様、ダンテが纏う風に、淡い冬の湖畔が見えた。
首筋からの香りに、どうやら本人は気付いていないらしい。
溢れそうになる笑いを、喉の奥で押し殺す。
なるほど。
父の教えは、確かに役に立った・・・・・
「おい!何やってんだよ、バージル!」
階下から、苛立つダンテの声がする。
響きからして、既に玄関のドアは開いているようだ。
引き出しを押し、元通りに戻す。
次にこの小瓶が日の目を見るのはいつになるだろうか。

「バージルーっ!」

——恐らくは、そう遠くない未来になるだろう。

そんな、何の根拠もない予感が、胸に過った。
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