おふろのじかん

それは少し前のこと。
風が木の葉を染め始めた、ある朝の出来事だった。

「肉体の分解及び再構築について、まず、人間の場合約二百種類の細胞から成る訳だけれども、それらが細胞接着によって器官や組織を形成・維持することで初めて多細胞生物として機能するの。最近だと人間の医学界でも微小管重合阻害剤による微小管の脱重合を介した細胞内シグナル蛋白質の活性化とそれに伴うアクトミオシンの細胞表層における収縮が細胞間の張力として伝わることにより接着構造の再形成が促される現象が発見されたりと、薬剤を使用しての細胞分野の進歩は著しいわ。仮に人が人を変身トランスフォームさせるなら、細胞生物学的な手法アプローチや薬理学的作用を用いて外見を変形させる手法をとるでしょうね。だけど私達悪魔の場合は違う。悪魔は魔力を使うのよ。身近なのは人狼ヴェアヴォルフかしら。色々なパターンはあるけと、正統派オーソドックスなのは満月の引力を利用して魔力を最大化し、細胞接着質を変質させ、肉体を任意に組換える方法ね。まあ、いずれにせよ要は生体の構造体をいかに解体・再構築するかが問題で」

「あー、理屈はわかった。で、結局『これ』は何なんだ?」
デビルメイクライの事務所で澱みない講説を展開するトリッシュを遮り、ダンテはドンと『あるもの』を目の前に置いた。
ダンテの前に鎮座する物体。
背丈はダンテの膝くらいだろうか。
少し硬い羽毛は、濃い灰色をしているものの、その頭頂部には逆立った銀色のものが混じっている。
全体的にぽってりとしたフォルムからは可愛い印象を受けるが、その目付きは人を射殺さんばかりに鋭い。
それは薄い色素も相まって、見る者に凍て付く氷河を思い起こさせた。
……とはいえそんな底冷えするような眼光すら、その外見の前では何の迫力も持たないが。

「ええ、そうね。端的に言えば」

トリッシュはひょいと『あるもの』を抱き上げると、それをしげしげと眺める。そして妙に感心したように頷くと、ダンテに向かってこう言った。

「あなたの『オニイサマ』は、悪魔の呪いでペンギンになったのよ」

トリッシュに抱えられた『あるもの』。
それは大変に目つきの悪い、一匹のペンギンだった。
そのペンギン——いや、バージルは、不満そうに鼻をフスフス鳴らし、短い足をばたつかせている。
ダンテはトリッシュの言葉に、ああ、と頭を抱えた。
心当たりはある。
昨日の晩のことだ。
いつもの如く、さもない悪魔退治を請け負って、さっさと方をつけたまではいい。
しかしその悪魔にはちょっとした『罠』が潜んでいた。
バージルが悪魔を斬り伏せて、全身に返り血を浴びた瞬間。
その『罠』は発動した。
「ふうん。その『罠』ってのが、この可愛らしい『呪い』ってわけ」
レディはバージルの鼻をつんつんと突く。
するとバージルは足をじたばたとさせてそれを振り払った。
見た目は本物のペンギンというよりも、デフォルメされたぬいぐるみに近い。
そのせいかバージルを見るレディの眼は、いつもより険がないように見える。
「おいレディ、バージルで遊ぶな」
バージルをトリッシュから奪い返すと、ダンテはレディに顎を突き出して言った。
その仕草にレディが噴き出せば、ダンテはイライラとした様子でトリッシュへと向き直る。
「それよりトリッシュ、早いとこ解呪でもなんでもしてくれ。うちの事務所は硬派で真面目な便利屋だ。こんなマスコットなんざお呼びじゃない」
ダンテの胸に抱かれたバージルは何かを抗議するように、くえっ、と鳴き声をあげ、レディはレディで、よく言うわ、と笑った。
そんな二人と一匹を見つめつつ、トリッシュはしれっとした態度で
「それはちょっと難しいわね」
と言い放った。
「なっ……」
絶句するダンテを前に、トリッシュは続ける。
「獣化の呪いの先例はいくつかあるわ。大抵は外見の変化とともに知能が低下し、本能や原始的欲求が先鋭化していく。けれどこれは人間や悪魔の話。あなた達みたいな半魔も同じとは限らない。身体の構造も魔力の組成も特殊過ぎる。下手に薬や魔術を使ってしまえば、どんな反応が起こるかわからないわ。何も起こらないかもしれないし、取り返しのつかないことになるかもしれないもの」
「『オニイサマ』を賭けて、一か八かDo or Dieのギャンブルに出るってのも面白いかもね」
「やめなさい、レディ」
トリッシュの声がやや深刻さを増した時、それを打ち消すようにレディが割って入ってくる。
その手にはマグカップが二つあり、中では家主に無断で淹れた紅茶が波打っていた。
トリッシュはその一つを受け取ると、透き通るような白い喉を上下させ、こくりと中身を飲み下す。
「——宛はあまりないけど、色々調べてみるわ。時間はかかると思うけれどね」
「ですって。よかったわね、ダンテ」
レディはくすくすと笑いながら、もう一つのマグカップに口をつける。

人の気も知らないで、とダンテは毒付く。
そして改めて目の高さまで、ペンギンになったバージルを抱き上げた。
ダンテに抱き抱えられたバージルは、得意気に胸を膨らませ、ダンテへと見せつけるようにしている。
当然ながら、人間の形をしたバージルも、悪魔の形をしたバージルもこんなことはしない。

バージルは本当にペンギンになってしまったのか。

ダンテは呆然とする。
トリッシュはああ言ってくれてはいるが、解決の術があるかはわからない。

これからバージルはどうなってしまうのだろう。

漠然とした、しかしはっきりとした不安が、靄のように立ち込めてくる。
「……私はそろそろ行くわ。片付けなきゃいけない仕事もあるし」
気まずい空気が流れた後、沈黙を破るようにトリッシュは紅茶を飲み干し、マグを机に置いた。
それに続くようにレディもマグを置くと
「私は穴蔵に行こうかしら。モリソン達に『傍迷惑なオニイサマは、しばらくお休み』って伝えて、浮いた依頼から割りのいいものだけ回してもらわなきゃ」
とカリーナ=アンを肩に担ぎ直した。
「じゃあ、また連絡するわ」
「精々頑張りなさいよ、ダンテ」
美女達はダンテとバージルを尻目に、颯爽と事務所を後にした。
バージルと二人、取り残されたダンテは、トリッシュ達の背中を見送りながら途方に暮れる。
「頑張れったってよ……」
ダンテがバージルを見ると、バージルは両羽を使い、ぺちぺちとダンテを叩いていた。
下ろして欲しいのかと思い、ダンテが床へ屈もうとした瞬間。
「………?」
ダンテは鼻をひくつかせると、むっと眉間に皺を寄せた。
そしてもう一度鼻から息を吸うと、きゅっと目を閉じた。

「………くさい」

そういえば、とダンテは思い出した。
バージルがペンギンになったのは、昨晩悪魔の返り血を受けたからだ。
その後は想定外の事態にバタバタしていて、バージルはシャワーの一つも浴びていない。
におって当たり前と言えば当たり前である。
今の今まで気づかなかったのは、自分がそれほど混乱していたということなのか。
「…………」
ダンテは決まりが悪いとばかりに、天を仰いだ。
「………取り敢えず、風呂に入れるか」
根本の解決には至らないものの、一旦は現状に対応しよう。
ひとまずそう結論を出したダンテは、バージルを抱えたままバスルームへと向かった。
ガチャリ、とドアを開けると、ダンテはバスタブにバージルを放り込む。
やや乱暴に投げたものの、バージルは見事な体捌きで着地し、ぐ様そこから出ようとした。
その身のこなしと言ったら、ぬいぐるみもどきの外見からは想像もできないほど洗練されている。
『名馬は老いても駄馬にはならずA good horse becomes never a jade』と言うが、ペンギンとなってもバージルはバージルということなのかもしれない。
そんな感心をするのも束の間。
ダンテは素早くバージルを捕まえる。
「ほら、洗うぞバージル」
そう言うとダンテはバージルを蛇口の下に押しやって、栓を一気に全開にした。
水がバージルの頭に勢いよく降り注ぎ、バシャバシャとあたりに飛び散る。
バージルもぎゃあぎゃあと叫び、じたばたと暴れ回るものだから、ダンテはあっという間に濡れ鼠になった。
「あーもー動くなって!観念しろ!」
バージルを強引に押さえつけて、ダンテは備え付けの棚を見た。
そこに並ぶのは普段から使っているシャンプーやボディソープ。
言うまでもなく全て人間用で、ペット、ましてやペンギン用のものなどありはしない。
ダンテはそこからシャンプーを取ると、水を止めてバージルの頭にたっぷりかけた。
「目ぇ閉じてろよ。みて泣いても知らねえからな」
ダンテががしがしと手を動かすと、面白いように泡が立ち、バージルはふわふわのしゃぼん玉に包まれた。
バージルは諦めたのか、不服そうな顔をしつつも、じっと目をつむって『泡責め』に耐えている。
ダンテはバージルの気が変わらない内にと、わしゃわしゃとその全身を洗い始めた。
泡の下の羽毛は柔らかく、触れれば指を刺してきた人型の頃の髪とは大違いだ。
体もぷにぷにとしていて、強靭な骨と筋肉でできた人のからだや、頑強な外皮に包まれた魔人のからだとは似ても似つかない。
時折喉のあたりから聞こえるぐるぐるという音も、今までのどんな形のバージルからも、聞こえることはなかっただろう。

これは本当にバージルなのか。

そんな疑問がダンテの中に生まれる。
もちろん、バージルがペンギンになった瞬間を、ダンテはその目ではっきり見た。
しかしそれでも、その姿が、その感触が、その音が、ダンテにそれをバージルと認識させるのを邪魔してくる。

バージルは本当に、ここにいるのか。

ダンテの奥底に、未だに燻る恐怖が顔を見せる。

レッドグレイブの家で。
魔界の断崖で。
マレット島の古城で。
かつての記憶とともに、それは囁く。

ひょっとしたら、バージルはまたいなくなってしまったのではないか。

何度もダンテを蝕んだ、真っ黒な染みが広がり出す。
喉が段々と渇きだし、早まる心音が鼓膜を振るわせた。
身体を巡る血液はその温度を失っていき、全身の感覚が鈍くなっていくような、そんな錯覚に陥る。
ダンテはそれに耐えるよう、冷たくなった唇をきゅっと噛み締めた。

どうしてまた、こんな——

ダンテがそう思った時。


ぺちぺちぺち。


ダンテははっと我に返る。
手元をのぞいてみれば、バージルが小さな両羽で、ダンテの腕をぺちぺちと叩いているではないか。
その目は何かを訴えているようだが、生憎ダンテにはわからなかった。
もしかしたら、もう風呂から出たいと言っているのかもしれない。
「——……わかったわかった、待ってろって」
ダンテは蛇口を捻ると、希望通り泡を水で流してやる。
濯がれている間、バージルは滝行でもするかのように険しい顔で微動だにしなかったが、水止まった瞬間、ぶるぶると体を震わせ、全方向に水滴を飛ばしだした。
「うわっ、やめろ何すんだ!」
ダンテが手で顔を庇うと、バージルは勝ち誇ったようにくちばしを高く上げ、ダンテを見下ろすような仕草をした。
またしてもびしょ濡れになったダンテは、怒りに任せてバージルを抱え上げる。
「お前なぁ!」
ダンテがずいっと、バージルに顔を近づけ、睨みをきかせたその瞬間。

「あ」

ダンテはぴたりと動きを止める。
そして目を閉じ、すうっと鼻から空気を吸い込んだ。

「すげえ」

鼻腔をくすぐる、淡い匂い。
その匂いを纏う青い男の影が、ダンテの瞼のスクリーンにありありと映し出される。

「バージルの匂いだ」

ダンテはもう一度深く息を吸い込むと、ゆっくりとその目を開ける。
そこにいたのは、明るい光に浮かぶ、目つきの悪いペンギン。
丸みを帯びた体も、不器用に動かされる手足も、瞼の裏にいた男の面影は無い。
けれどそのペンギンの匂いは、確かにバージルの匂いだった。
ダンテの日々の中で、やっと当たり前のものになったバージルの匂い。
それがダンテの中の黒い染みを、跡形もなく消し去っていく。

「お前、本当にバージルなんだなあ」

ダンテの顔が、へらっとだらしなく緩む。
————大丈夫、バージルはここにいる。
そう思っただけで、胸も何もかもが綻んだ。

「——まあ、色々面倒臭ぇことも多いだろうけどさ」

ダンテはバージルに向かって苦笑する。

「精々頑張ろうぜ、バージル」

そう言うとダンテはバージルの胸に鼻を埋め、思いっきりその匂いを吸い込んだ。

バージルは心底嫌そうに、ぐえっと叫んで、ダンテの頭を叩いていた。


1/1ページ
    スキ