ある夜の話


蒼然とした部屋に、きん、きん、と等間隔に音が鳴る。
よく通るそれは、目釘抜きの音だ。
ベッドに腰掛けるバージルは、慣れた手つきで目釘を抜く。
次いで柄を叩いてやれば、閻魔刀の刀身が静かに浮いた。
 
 
バージルは時折、こうして閻魔刀の手入れをする。
鋼ではなく魔力を鍛えた刀に、本来それは不要なことだ。
しかしそれでもバージルは、閻魔刀を清め、油を引く。
 
あの公園で、悪魔に身を貫かれた時。
力を求め、世界を放浪していた時。
バージルの手には、常に閻魔刀がった。
魔帝に手折られてなお、自身に呼応し続けた閻魔刀を、バージルは自分のであると感じていた。
 
そんな閻魔刀を労わりながら、言葉も無く語らう。
 
それはバージルが生きていく上で必要な営みだった。
 
閻魔刀をベッドに横たえると、バージルは柄糸を解きにかかる。
しゅる、しゅる、と丁寧に。
一巻きずつ、ゆっくりと。
 
以前はどんなことを話していただろうか。
バージルは記憶の糸をたぐる。
より高みへ至るための鍛錬のこと。
父の力を得るための術のこと。
ほんの少し、母のことを思い出すこともあったかもしれないが、それは胸のどこかに押し込めた。
 
ぱさり、と音がして、柄糸は全て解かれ終えた。
金の目貫が、手に落ちる。
 
柄の両面を飾る、一対の刀装。
これが悪魔ドラゴンではなく、幸運を兆す瑞獣と知ったのは、何がきっかけだったか。
遠い昔のことで忘れてしまったが、初めて知った時、何故か胸が苦しくなったことを覚えている。
 
口の端が少し持ち上がる。
バージルは閻魔刀を手にすると、代わりに目貫をベッド横のサイドチェストへと置いた。
外では雲が晴れ、月が出たようで、閻魔刀は窓越しの月明かりを淡く受けている。
血腥ちなまぐさなど微塵もないその姿に、バージルは小さく嘆息した。
 
今夜は、どんなことを話そうか。
漸く手に入れた詩集のことか。
それともその詩集を、あろうことかピザの箱の下敷きにしようとした馬鹿のことか。
いや、それよりもあの馬鹿は———
 
そこまで考えたところで、バージルの口角は一気に下がる。
 
——何故、あれ・・が出てくる。
 
そう思った瞬間、バージルの耳に音が蘇った。

どかどかと廊下を歩く靴音。
バージル、バージルと飽きもせず何度も名を呼ぶ声。

気付けばバージルの目は、部屋のドアへと向いていた。
あの無礼で不躾な同居人は、今日、仕事で朝まで帰らない。
だからあのドアの向こうから靴音がすることはないし、ノック無しで開け放たれることもないのだ。
当然ながら、バージルはそのことを知っていた。
だがそれを知っていてなお、バージルの耳は聞こえもしない音を探し、目は差す筈のない影を追ってしまう。
その理由を、バージルは『知らない』。

「…………」

バージルは眉間に皺を寄せ、閻魔刀を見る。
静謐せいひつな水面を思わせる刀身は、バージルへと何かを語りかけてくるように、その顔を映していた。
 
「……わかっている。自分のことくらい」

根負けしたとばかりに、バージルは頭を振る。
その表情は諦めや苛立ち、躊躇いに戸惑いと、かつての魔王らしからぬ感情が入り混じっていた。

長い、長い沈黙。

その末にバージルは、観念したように溜息を吐く。


「ただ少し……——認めるのが、癪なだけだ」

 
バージルは閻魔刀へ、言い訳がましくそう言った。
もちろん閻魔刀は何も言わない。
ただいつものように、バージルの手にるだけだ。

そうしていくらか気まずい空気が流れた後。
バージルは閻魔刀の体を拭い始めた。
少し乱暴に。
けれど限りなく優しく。
窓からの光に輝くその身を、丁寧に丁寧に拭っていった。た。


空高く昇った月はひっそりと、部屋で語らうバージルと閻魔刀を照らしていた。
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