Rendezvous in the Strawberry Night

なんだ、簡単だ。
 
少女は今越えたばかりの柵にもたれながら、ぼんやり考えた。
ぐるりと周りを見回せば、背の高いビルが空へ食い込むように伸びている。
 
下から見た時は、ここも高く見えたのに。
 
もっと高いビルへと登ればよかったと、今更ながら後悔した。
少女は足元を見る。
買ったばかりの厚底シューズには、さっきともだち『だった』女に引っ掛けられた、酒のシミが残っていた。
お気に入りだった靴の向こうには、小さな人影がざらざらと流れている。
少女はその様子に、昔よく作っていたアクセサリーのビーズを思い出したが、すぐにビーズの方がもっときれいだったと考え直した。
それにあのビーズは、母親——と呼ぶのも吐き気がする——が家に連れ込んだ男がとっくに捨ててしまっている。
あの男は、殴ってくるから嫌いだ。
それにあんな男から守ってくれない母親も大嫌いだった。
少女はその場にうずくまる。
耳の上で二つに縛った髪が、嫌な臭いの風に吹かれている。
 
この街に来れば、何かが変わるかと思った。
 
SNSの動画で見た、ネオンがピカピカ輝くこの街。
この街なら、嫌な人間はみんないなくなって、毎日笑って暮らせると思った。
だから小さなキャリーを引いて、少女はひとりでこの街にやって来たのだ。
最初の頃は、自分と同じような子たちが、優しく迎えてくれた。
だからすぐともだちにもなれたし、毎晩一緒に広場で酒や薬を飲んで笑い合えた。
 
ここが自分の居場所だったんだ。
 
少女はずっと忘れていた幸せを、ここなら取り戻せるかもしれないと思った。
 
けれどそんな想いはすぐ裏切られる。
結局それは、全部嘘だったのだ。
 
無くなった財布はともだちだった女のバッグから出てきた。
結局この街にも、自分がいてもいい場所なんかなかったのだ。
少女は唇を噛みながら、ばらばらと顔に触れる髪を耳にかける。
 
もう消えてなくなりたい。
 
そのための方法を、少女はとっくに知っていた。
夜のくせに昼間よりも明るい街を下に見て、少女は瞼を下ろし深呼吸をする。
そしてゆっくりと目を開けると、そっと右の足を持ち上げた。
その時。
少女の前に、どろりとした黒い『何か』が溜まる。
それは空中に浮いたまま、まるで宇宙で水をこぼしたように。
ふよふよとその形を成していく。
ひ、と少女は悲鳴を上げた。
それを合図にしたかのように、『何か』は人のような、それでいて明らかに違う姿を現した。
オウムのくちばしのような鼻。
しわくちゃのミイラみたいな顔。
ライオンみたいな体に、虫のように節がたくさんある手足。
黒い『何か』は、ぬっと顔を寄せてきた。
鼻を少女のそれにひたりとつけると、『何か』は少女の臭いをくんくんと嗅ぎ始める。
『何か』の鼻先は、氷のように冷たい。
その温度に、少女は目の前のものは生き物ではないのだと本能で悟ってしまう。
 
怖い。
 
心臓がばくばく暴れだし、冷え切った血液が体中を駆け巡る。
だらだらと汗が吹き出し、歯が勝手に鳴りだした。
もう消えてしまいたい。
ほんの少し前まで、そんな風に思っていたのに。
それなのに今は、堪らなく怖い。
 
死にたくない。
 
目の前の『何か』がにたりと笑った。
裂けるように開いた口を見た瞬間、少女は駆け出した。
 
死にたくない。
 
がむしゃらに手をついて、がばっと立ち上がって、真っ黒な『何か』から逃げようと走り出した。
しかし。
ぐらりと体が傾いた。
そして一瞬時が止まった後、少女は地面へと一気に堕ち始めた。
 
死にたくない。
 
やっとそう思って、やっと自分の足で駆け出したのに。
それなのにもうこれで終わりだなんて。
少女の目から、ぶわっと涙があふれた。
小さな透明な粒は、夜の空にきらきらと舞う。
 
ああ、ビーズみたいだ。
小さいころ。
幸せだったあのころに好きだったビーズみたいだ。
またあのビーズで、大好きなものを作りたい。
いろんな色のビーズを使って、かわいいネックレスを作りたい。
 
少女がそう、思った瞬間。
 
空に赤い光が走って、体がふわっと浮き上がった。
 
「夜の空をお散歩かい?」
 
そう少女に言ったのは、きらきら光る銀色の髪をした男だった。
「いい趣味だ。ただし、一人でってのはいただけない」
外国人だろうか。
赤いドレスシャツにダークグレーのスーツは、この街で見飽きたホストそのものだ。
男は少女をお姫様抱っこしながらウインクする。
「こういう時は、いい男にエスコートさせるもんだ。そう。俺みたいな男に、な」
垂れた目と高い鼻が目を引く顔は、モデルみたいに整っている。
歳は……父親が生きていたら、多分これくらいの歳なんじゃないか、と少女は思った。
「ちょっと掴まってろよ」
Qそう言うと男は翼を大きく羽ばたかせて、ぐんと上へと飛び上がった。
 
――翼?
 
少女は目を丸くした。
男の背中には、ギザギザした木の葉みたいな黒い翼が何枚もあって、そこに走る不思議な模様は、赤い光を放っている。
この男は、『何』なんだろう。
少女がそんなことを考えているうちに、男はさっとビルの屋上へと降り立った。
そこは、少女がさっきまでいた場所。
そして、あの黒い『何か』がいる場所だ。
「ああ、ホントどうなってんだ?この街は。バージルが言う通り、悪魔がそこらじゅうにうようよいやがる」
男は少女を隅の方へと座らせると、『何か』の方へと向いた。
ざあっと音がして、背中の翼が赤い光に分解されて空へと消えていく。
『何か』は首を傾げ、腕をうぞうぞと動かしていた。
「おい、お前。あのな、お前らみたいに人間の『絶望』を食い散らかす馬鹿がいるせいで、俺はホストの真似事しながら仕事させられるハメになってんだよ」
びしっと『何か』を指さしながら、男はイライラしたように言い捨てた。
そして手を腰のあたりで広げると、手のひらに赤い光が、渦を巻くように集まりだす。
「この落とし前はきっちりつけてもらうからな」
ぱんっと光が弾けると、男の手に奇妙な剣が現れた。
ゲームやアニメでしか見ないようなその形に、少女は息を飲んだ。

人間じゃない。

少女が口を開こうとしたのと同時に、黒い『何か』が絶叫した。
薬がキまったときに聞こえる、世界をめちゃくちゃにするような声。
少女は力いっぱい耳をふさいだが、男はハミングしてるみたいに涼しい顔をしている。
「ひっでぇ声だな。今俺がいる店のコールでも見てみろよ。よっぽどいい仕事してるぜ?」
男がそう鼻で笑うと、『何か』はあの大きな口を開けて一気に男へと飛び掛かった。
瞬きする間もなく、『何か』は男の目と鼻の先に移動し、思い切り足を振り下ろす。
危ない、と少女は叫んだ。
しかし少女の声が男に届く前に、ぱっと赤いものが飛び散った。
鼻を刺すような臭いの、赤い液体。
そしてバラバラになった『何か』の足。
「何だよ、喰うモンは最低、見た目も最悪。おまけに手応えもクソもないときてる。お前、いよいよ救えねぇな」
馬鹿にしきった顔で、男は『何か』を見下していた。
手にした剣には、さっきの真っ赤な液体がこびりついている。
「大方このお嬢ちゃんに『ごちそう』の臭いを嗅ぎ付けてきたってとこだろうが、そいつが運の尽きだったな」
『何か』は悔しそうに呻きながら、しわだらけの顔を更にくしゃくしゃにする。
そして突然少女の方を見ると、一目散にそちらへと駆け出した。
目玉のない『目』を見開いた『何か』に睨まれ、逃げることすらできない少女は、体を縮こまらせて身を守ろうとする。
「おいおい、よそ見すんなよ。お前を指名してんのは俺だぜ!」
 
ざんっ。
 
鈍い音がして、ばしゃっと水が地面を打つような音がした。
また『何か』が絶叫したかと思えば、今度は一気に音が消え去った。
少女が顔を上げると、そこには赤く光るぐにゃぐにゃのラグビーボールみたいなものが宙に浮いている。
それには気持ちの悪い顔が浮かんでいて、少女は何度目かもわからない声を上げた。
「落ち着けって。そいつは悪さはしねえよ」
男が軽く手を振ると、赤いラグビーボールはすうっと男へと吸い込まれるように消えていく。
何もかもがわからない。
自分は夢を見ているんだろうか?
少しずつ、呼吸が戻っていき、心臓のポンプが元の速さに戻っていく。
そして次第に頭が冷えていくにつれ、少女の体から力がどんどん抜けていった。
これから、どうしよう?
『何か』から逃げることはできた。
でも、その後は?
家にも、この街にも居場所はない。
何をしたらいいかなんてわからない。
少女が俯き茫然としていると、急に目の前が暗くなった。
「なあ」
その声に少女が顔を上げると、いつの間にか目の前に男がしゃがみ込み、少女を覗き込んでいた。
「お嬢ちゃん、この後予定はあるか?」
男は腕につけた時計を見る。
「暇なら付き合ってくれよ。今からなら、ギリギリ間に合いそうだ。ああ、同伴じゃねえから安心していいぜ」
何を言っているかわからない。
そう首を傾げる少女に、男もまた首を傾げて語りかける。
「ほら、駅の近くにパーラーあるだろ?あそこ、男一人じゃ行きづらいんだよ。俺の兄貴は誘っても絶対ついて来ねえし……だけどお嬢ちゃんが一緒に来てくれれば、大手を振って食いに行ける。もちろんお代は俺持ちだ。どうだ、悪い話じゃねえだろ?」
そう言って男は、少女へと手を差し伸べた。
少女は戸惑いながら、その手を見つめる。
 
この手を取ってもいいのだろうか。
 
誰もが自分を裏切っていった。
この手を取っても、きっと最後には自分の手を離していってしまうだろう。
 
少女はそう思った。
けれど。
「な?」
白い歯を見せ、屈託なく笑う男からは、この街にはないぬくもりを感じた。
空を飛び、剣を振り回し、あんな気味の悪い『何か』相手に眉一つ動かさない。
そんな得体の知れない存在なのに、何故かその笑顔に心が安らいだ。
少女は黙ったまま、目をつぶった。
そして何度も何度も自分の中の自分の声に耳を傾け、やっと、一つの答えにたどり着く。
 
――いちごがいっぱいのパフェがいい。
 
ビルの下から聞こえる喧騒に、かき消されるくらいの小さな声。
その声に、男はぱあっと笑って答える。
「いいチョイスだ」
男は少女の手をグイっと引っ張り、立ち上がる。
「確かあそこにはストロベリーサンデーもあった。食べ比べるのもいいかもな」
 
パフェとサンデーに、そんなに違いがあるだろうか?
 
男の言葉に、少女はぷっと吹き出した。
「おっ、笑ったな」
茶化すような雰囲気はなく、心底嬉しいといった感じで男は言う。
しかしすぐに、あっ、と口を開けると、再度腕の時計を見た。
「やっべ。そろそろラストオーダーの時間だ。行こうぜ!」
男は少女に先立って、速足で歩きだした。
少女は軽くスカートを払うと、ふっと上を向いてみる。
そこには街の明かりで霞んでいるが、うっすらと星が浮かんでいた。
夜空に星があるなんて当たり前のことなのに、少女はそれすらすっかり忘れていたのだ。
きらきらした小さな粒。
それが散りばめられた空を見て、少女の胸に、ぽんっとある考えが現れる。
 
——明日、お店にビーズを買いに行ってみようか。
 
それで何が変わるとも思わない。
けれど、また色とりどりのビーズを使って、アクセサリーを作ってみたい。
少女はただ、そう思った。
「おーい!早くしねぇとパフェ終わっちまうぞ!」
少女は男を見る。
男はぶんぶんと手を振って、少女を呼んでいる。
その姿はあんまりにも子供っぽくて、少女は苦笑しながら駆け寄った。
「どうした?俺の顔に何かついてるか?」
不思議そうに尋ねる男に、少女はふるふると首を振る。
そして、名前を聞いていなかった、と答えると、男はにやりと笑ってこう言った。


「——俺はダンテ。しがないホスト兼デビルハンターさ」
1/1ページ
    スキ