彗星ハネムーン
ハネムーンに行こう。
そう言い出したのはバージルの方だった。
いや、正直そこまでは言ってはなかったけど、それでもきっかけはバージルの一言だったのは間違いない。
多分一ヶ月位前、夕飯の後だったと思う。
いつもみたいに同じソファで、俺は
惰性でつけたテレビの向こうで、
地球に来るのは千年以上ぶりだとかで、望遠鏡無しでも見えるらしい。
珍しいとは思いつつ、それ以上の感想は出てこなかった。
が、バージルの方は違ったらしい。
急に顎を掴んできて、バージルの方を向かされたと思ったら、今度は前髪を無理矢理髪前を掻き上げられた。
「何すんだよ、いきなり」
文句を言ってはみたものの、もちろんバージルが聞く訳がない。
真っ直ぐ
「あそこへ行く」
と言い出した。
こう言う時は、もう何もかもがバージルの中で決まってる。
この段階で俺の意見が採用されることは、まずあり得ない。
あり得ないのは確定として、それでも最低限の確認はさせてもらう。
「あそこって?」
「あの彗星だ」
「いつ?」
「地球に最接近する頃に」
「やっぱ俺も一緒?」
「当たり前のことを聞くな」
「はあ」
彗星だけに、降って湧いたバージル版アポロ計画には、既に俺も
何で、と質問する前に、バージルはさっさとリビングを出て行った。
バージルには昔からこう、突拍子もないというか、変な方向に思い切りがいいところがある。
今回もそれが遺憾無く発揮された訳だが、海外や魔界はともかく、いかんせん彗星になんて行ったことはない。
さて、どうしようか。
「んー……取り敢えず、日にちだけでも見とくかぁ……」
バージル版アポロ計画のミッションは、新聞で彗星の記事を探すところから始まった。
****************
ミッション開始のあの夜から、バージルのルーチンは少し変わった。
夕飯が済むとバージルは、ソファじゃなくて、キッチンの広いテーブルで本を読むようになった。
それから読む本も、詩集や小説から星や空の専門書に変わって、たまに何か書き物もしてる。
きっと、彗星に行く準備なんだと思う。
(マジで彗星に行くのか)
頭ではわかってはいたものの、いざその光景を目の当たりにするとまた違ってくる。
バージルは本気だ。
だけどバージルは、何も言ってこない。
どうして
どうやって
だから俺は何一つ知らない。
ただわかるのは、黙々とテーブルで作業をするバージルの真剣さだけだ。
(あいつ、昔っからああやって一人で突っ走るんだよなあ……)
広くなったソファに座って、テレビを見ながら考える。
(ガキの頃からそうだったよな。遊ぼう誘っても、一人で公園行っちまってたし、知らないじいさんちの本棚漁ったりもして……)
テレビの画面に、バージルが映ったような気がした。
ひとり黙ってテーブルに向かう、バージルの背中が。
(……あいつ、独りだった時もあんな感じだったのかね)
そんなことを考えていたら、何故だか勝手に口が曲がっていた。
「……何だそれは」
「見ての通り、酒瓶だよ。ほら、飲んだ酒のラベルをノートに貼るヤツあるだろ。あれやろうと思って」
「…………」
口が曲がったその次の日。
俺は新しく趣味を始めることにした。
やったことも興味も無かったが、そこは大した問題じゃない。
「てことで、ここ借りるぜ」
大切なのはどこでやるか。
それだけだ。
ゴミ箱から拾った
そう。
バージルの目の前に。
「何故ここでやる」
「いいだろ、ここは広くてやりやすい」
当然そんなの、取って付けた口実に過ぎない。
俺がバージルとテーブルを囲めるんなら、理由なんて何だって構わなかった。
「事務所の机があるだろう」
「仕事とプライベートは分ける
「それに何だその安酒は。わざわざラベルを集める価値もない」
「細かいことはいいんだよ。やることに意義がある」
「おい、破れたぞ」
「まあまあ、気にすんなって」
「待て、何故曲がったまま貼る」
「誰かに見せるモンでもねえし」
「…………貸せ」
「ん?いいって、自分でやるから。そっちも自分の」
「貸せ」
適当にラベルを弄っていたら、いきなり瓶とノートを取り上げられた。
犯人はもちろんバージルで、顔にはでかでかと「邪魔だ」と書いてある。
本とペンを放り出したバージルは、ちまちまラベルを剥がしては、ノートの上で
ノートの線ぴったりに貼るあたり、いかにも生真面目なバージルらしい。
「いいって言ってんだろ」
「黙れ」
「お前はお前のことやれよ」
「口を閉じろと言っている」
そのままバージルは慎重にラベルを貼ると、ノートをこっちに投げてきた。
そしてまた本を手に取ると、ぶすっと調べ物へと戻っていった。
思ってた流れとはかなり違うが、それでもまあ気にしない。
大事なことは一つだけ。
俺とバージルがここに一緒にいるってことだ。
やることがなくなった俺は、バージルが作ったノートを開いてみる。
ぴっちりと貼られた
どうしたもんかと考えながら、何の気無しに角を爪で引っ——
「触るな」
……掻かないで、そのまま素直に鑑賞した。
部屋には時々、バージルがページを捲る音と、ペンが紙を走る音だけが響く。
俺はそれを聞きながら、明日もラベルをノートに貼るべく、せっせとビールを空けていた。
その間バージルは、一度もどこかに行けとは言わなかった。
****************
ラベルのノートが大分厚くなってきたある日。
突然キッチンの壁に、大きな星図が貼り出された。
見つけたのは夕方、バージルが仕事に出た後だ。
両手を広げたよりもデカいやつが、でんとテーブル横に貼られていた。
やったのは言うまでもなくバージルだ。
証拠に星図のあちこちに、バージルの文字が書き込まれてる。
例えばそれは彗星の位置を示す
例えばそれは大気圏を突破するための、空飛ぶ魔術の術式だったり。
至る所に書かれたそれは、あらゆる分野の叡智の粋だ。
よくもこんなにやるもんだと、驚きを超えて呆れてしまう。
何がこんなにバージルを掻き立てるのか。
俺にはさっぱりわからない。
星図の文字を辿ってみれば、少しはそれがわかるだろうか。
試しに解読しようとしたが、小難しい言葉に目が滑って、どうにも上手くいきそうもない。
それは何だか、一人置いていかれる感覚に似ていて、自然と顔が下を向いた。
視界にブーツが入り始めたその時。
不意に、星図の片隅の文字が見えた。
数式やデータとは違う、一行だけの、小さな小さな文字の羅列だ。
何かの詩からの引用だろうか。
この星図には似合わない、だけどバージルらしい詩の一節。
それが星図の隅に書いてあった。
バージルの考えることなんて、いつだってちっともわからない。
星図に書かれた数式だって、どれ一つとして理解不能だ。
だけどバージルがこの詩を書いた理由だけは、少しだけ知りたいと思う自分がいる。
バージルは何を思いながら、星図にペンを走らせたんだろう。
指で文字をなぞりながら、星図に向かうバージルを想像する。
「……あいつ、結構楽しみにしてんのかな」
もしも本当にそうだとしたら、案外バージルにも可愛げがあるのかもしれない。
そう思うと、星図に散りばめられた言葉達も、さっきとは違って見えてくる。
——バージルが事務所へ帰ってきたら、
壁に広がるバージルの宇宙を、指でゆっくり辿りながら、俺はバージルが帰ってくるのを、首を長くして待っていた。
****************
「何が見えるの?」
そうトリッシュに言われて、初めて自分が空を見ていたのに気がついた。
旅には先立つものも必要だってことで、トリッシュと一緒に請負った仕事の帰り道。
灯り一つないゴーストタウンを歩いていた途中、いつの間にか上を向いていたらしい。
「別に何も。」
「あら、そう?」
トリッシュは何か言いたげだったが、別に嘘は言ってない。
上を見たってそこにあるのは、いつもの空と星だけだ。
そこにはまだ、俺達の
星図が貼り出されたあの日から、俺はバージルに
聞くのは大体キッチンで、ラベルをノートに貼ってる時が多いと思う。
別に大した話じゃない。
最初に聞いたのは、確か
はじめは軽くあしらわれるかとも思ったが、ぶっきらぼうに
よっぽどあれこれ研究したんだろう。
他にも色々聞いたけど、バージルは何でも知ってるらしく、どんな質問にも答えられた。
だから今の俺は、空気の組成や、
(あー、でも答えねぇこともあったな)
何のタイミングだったか忘れたが、ちょっとした冗談のつもりで、バージルにこんなことを聞いてみたことがあった。
「なあ、何で月じゃないんだ?」
酒を片手に聞いたことだ。
言って深い意味はない。
バージルはピクッと眉を動かしただけで、読んでる本から目を離さなかった。
「だってこれ、ハネムーンだろ?」
そう追撃したところで、バージルはやっと顔を上げた。
思った通り、めちゃくちゃ渋い顔をしてる。
何で答えが返ってくるか。
酒が入ったグラスを置いて、ノートにラベルを貼ろうとした時。
「……
「えっ」
ぼそっと、でもはっきりと聞こえたのは意外過ぎる答えだった。
バージルは否定しなかった。
『ハネムーン』て言葉を。
(マジかよ)
面を喰らったってのが、正直なところだ。
だけどそれはじわじわとくすぐったさに変わって、顔が思わずにやけてくる。
「近いって、月が?」
「………」
「言う程近いか?まあ、毎晩
「………」
「ははっ。お前もしかして、俺に人に見られてヤバいことでもしようってか?」
「どうしてそうなる」
「じゃあ何であんな
「………………」
あからさまに嫌そうな顔で目を逸らしたバージルは、そのままテーブルを立とうとした。
「逃げんなよ、バージル」
テーブル越しにバージルへ手を伸ばして、それから——
「ほら、また見てる」
トリッシュの声で、はっとした。
目の前にはいつもの空と星がある。
少しぼうっとしてたらしい。
俺とトリッシュはもう街の外れに着いていた。
キャバリエーレを
「やっぱり何があるんでしょう?」
背中越しに、トリッシュが聞いて来た。
「そう見えるか?」
「ええ」
トリッシュは、つん、と指で背中を突いてきた。
それから
「とっても楽しそう」
と言って、くすくす声を抑えて笑った。
——楽しそうなのはそっちだろ。
トリッシュの声は、そう言いたくなるように弾んでる。
顔こそ見えないが、色々見透かされてるのかもしれない。
(——もしかしたら俺も、結構楽しみにしてんのかもな)
ひとのこと言えた義理じゃない、と軽く肩を竦めてみる。
「また今度、気が向いたら教えるさ」
「ふふっ、期待しないで待ってるわ」
アクセルを回して、もう一度空を見上げてみる。
回転が上がるエンジンに耳を澄ませながら、こんなことを考えた。
事務所に帰ったら、バージルに言ってみようか。
俺も
****************
姿見との睨めっこに飽きて、溜め息を一つする。
折角のハネムーンだってのに、選んだ服はいつもと同じ。
洗い晒した黒のシャツに、くすんだ赤の革コート。
ブーツは磨いてみたものの、特別感は余り無い。
かといって他に良さそうなコーデも思いつかず、結局この格好に落ち着いた。
「後は……」
ここに押し入る度胸のある奴もいないだろうが、一応戸締りは済ませてある。
腐りそうなモンも全部集積所の
後は電気を消すくらいか。
エボニーとアイボリーをホルスターに収めると、事務所の電気を消して回る。
入口にある
事務所兼リビングのジュークボックス。
一つ一つ消していき、最後に残るは
開けっ放しのドアから差してる、暖色の灯りを頼りに歩く。
暗がりからキッチンへと一歩入れば、その明るさに目が眩んだ。
部屋がいつもより広く見えるのは、壁に貼ってあった星図がないからだと思う。
日焼け痕を残して消えたそれは、多分バージルが持って行ったんだろう。
テーブルの上にはパンパンになったラベルノートが残されていて、最後のページが開いていたままになっている。
まだ今日の分は貼ってないな、なんて思い出したが、また帰ってからやればいい。
そう思い直してノートを閉じると、表紙を軽く撫でてやった。
「じゃ、行ってくるぜ」
そろそろ行かないと、またバージルがうるさい。
ぱちん、と壁のスイッチを切って、真っ暗な事務所を歩き出す。
離陸の場所は、
うちの事務所の屋上だ。
派手な感じは一切ないが、それもまあ、俺達らしくていいだろう。
埃っぽい階段を登りきって、
「遅い」
屋上のど真ん中にいるバージルは、こっちを見るなりそう言った。
「
出鼻を挫かれた気もするが、そのやりとりも何だか楽しいと感じるあたり、俺もよっぽど重症だ。
バージルの方へ歩きながら、改めて空を見上げてみる。
そこには人間の眼には見えない、半魔の俺達だけに見える
あの光は宇宙でも、同じように見えるんだろうか。
早く行って確かめてみたい。
また一つ
バージルと向かい合う位置に、すたっと降り立つ。
浮かれた俺とは反対に、バージルはそこまではしゃいでいないようだ。
少なくとも、
「何だよその服。いつもと同じじゃねえか」
いつものノリで弄ってやれば、バージルはげんなりと溜息をついた。
「どの口が言う。貴様も変わらんだろう」
そう言ってバージルは腕を引っ張ってきた。
ぐっと腰を引き寄せられて、バージルとの距離がゼロになる。
「それより、やり方は覚えているだろうな」
「さあ?どうだったかな」
「…………」
「怒るなよ、冗談だって」
前にバージルに言われた通り、人間の形を残したまま、角と翼だけを形作る。
所謂省エネモードの魔人化だ。
別に戦う訳じゃない。
だけど長い旅路になるから、コレが一番合理的らしい。
「どうだ?上出来だろ?」
「図に乗るな」
バージルも同じように、翼を大きく広げてみせる。
青い魔力が走る翼は、夜の空によく映えた。
「行くぞ」
足元に魔法陣が浮かび上がって、小さな
いよいよ離陸だ。
「そう言やさ」
ふと思い立って、最後にバージルへ聞いてみる。
「結局何であの
最後までバージルが答えなかったあの質問だ。
「………」
「なあ」
今更だとも思うし、バージルとならどこへ行くんだって構わない。
だけどやっぱり興味はあるし、今なら答えが聞けそうな気がした。
バージルは目を泳がせたまま、むっと黙りこくっている。
だけど風の輪が一際大きく広がった時。
バージルの手が頬に重ねられて、親指で目元を撫でられた。
それから少し間が空いて、バージルの口が小さく開く。
「……お前の
「え?」
ぶわっと青の光と風が吹き上がって、体が宙に浮かび上がった。
「……お前それ、マジで言ってんのか?」
バージルはそっぽを向いたまま、何も答えない。
どんな顔をしてるのか。
確かめたくてバージルの顔に手を添える。
掌にはいつもより高い体温が伝わって来て、ちょっと胸の辺りがざわざわした。
「何だよそれ」
手に力を込めて、バージルにこっちを向かせる。
バージルの顔は不機嫌そう……いや、恥ずかしそうな顔だった。
その表情に、一気に身体が熱くなる。
「最高じゃねえか」
——ああ、こんなに幸せでいいんだろうか?
そんな風に思ったら、ぽろっと何かが目から溢れた。
「バージル。楽しもうな、ハネムーン」
バージルの顔を引き寄せて、軽く唇にキスを
する。
にっと笑って見せてやれば、バージルも呆れたように笑い返した。
「……速度を上げる。掴まっていろ」
身体が、上へ、上へと昇っていく。
狂おしいほど果てなく続く、燃えるように輝く
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