Memories Left in the Hands
とん、と何かが左の肘に当たった。
仕事で訪れた街の、小さな酒場。
そこにある山胡桃 のカウンターでの出来事だ。
バージルが顔を上げると、同じ様に顔をあげたであろうダンテと目がかち合った。
「——ああ。」
自分の肘が当たったものを見て、ダンテは納得したように言った。
「そういやお前の利き手、左だっけ。」
普段、バージルは癖でダンテの左に座る。
だが今日はたまたま先にダンテが最奥の席に陣取り、バージルはその右に座ったせいで、互いの肘がぶつかったのだ。
深い飴色の一枚板には、ロックグラスを持つ二つの手が並んでいた。
一つはダンテの右手。
一つはバージルの左手。
その光景に、ダンテはぽつりと呟いた。
「———何で忘れてたんだろ。」
グラスを置くと、ダンテは右手でバージルの左手へと触れてきた。
ぺた、ぺた、ぺた。
夜の酒場にありがちな甘やかな手つきではなく、かといって小馬鹿にしたような仕種でもない。
子供が粘土を造作するような、そんな手つきによく似ていた。
「…………おい。」
「ん?」
「何をしている。」
「ん。」
「いい加減にしろ。」
「んー。」
いくら問いかけても、返ってくるのは生返事だけ。
ダンテは不思議そうにバージルの左手を見つめながら、触れては離れ、触れては離れを繰り返している。
見知らぬ店で揉めるのも本意ではない。
バージルは仕方なくグラスを右手に持ち替えると、そのまま青銅色 の液体を飲み始める。
ダンテはグラスが空になるまで、ずっと左手をぺたぺたと触っていたものの、遂に理由を語ることはなかった。
その晩の酒は、嫌に喉へ残る類のものだったと、バージルは記憶している。
*******************
「親父が言ってたんだ。『悪魔は左利きだ』って。」
朝というにはぎりぎりの、明るい光が事務所に差している。
ソファに座るダンテを前にしたバージルは、コーヒーを右手に、目元をぴくりとひくつかせた。
この事務所で朝のコーヒーを淹れるのは、バージルの役目だと決まっている。
ダンテに任せると、大抵濃さがまちまちの泥水ができあがるせいだ。
今日も当然の如く、バージルがコーヒーを淹れ、寝ぼけ眼のダンテへとマグカップを渡す。
しかし今日はいつもと具合が違っていた。
バージルがマグを渡した後、空いた左手をダンテが引いたのだ。
ダンテはソファに座っているから、バージルは自然と前のめりになる。
「何の話だ。」
「いや。思い出したんだよ。お前、親父に似てたんだなって。」
ダンテはバージルの掌に、自分の右のそれを重ね、色々な角度からその様子を観察している。
そして徐 に指を絡めてきたと思ったら、そのままぐっとバージルの手を握り込んだ。
「親父も左利きだったろ。だから昔聞いたことがあったんだ。何で親父は左手なのかって。そしたら親父はそう言っててさ。じゃあ何で俺は右利きなのかって聞いたら。母さんに似たからだって。そう言ったんだ。」
手を握ったり、緩めたり、指で甲を擦ったり。
特に楽しそうでもなく、どちらかというと淡々と作業しているような感じで、ダンテはバージルの手に触れていた。
普段の子供じみた甘えとも違う雰囲気に、無理に手を解くことも躊躇われ、バージルはどうしたものかと困惑する。
「だから今度はこう聞いたんだよ。それじゃあバージルは、親父に似たから左利きなのかって。そしたら親父は笑って言ったんだ。『そうだよ、ダンテ』って。」
ダンテの手に、一際強く力が籠る。
「笑って、言ったんだ。」
ダンテの口から紡がれる、知られざる父の姿。
多くが語られた訳ではない。
しかしどこか近寄りがたかった父が、遠くからこちらを見ているような気がした。
彼方にいる父の温かい眼差しが、こちらに向けられている。
バージルは、そう感じた。
「やっぱ親父、息子が自分に似てるってのが嬉しかったのかな。」
「………さあな。」
バージルは軽くダンテの手を握り返す。
普段ならこんな些細な仕草でも、ダンテは嬉しそうに笑ってくる。
しかし今日の反応は芳しくなく、バージルの手をぼうっと見つめるばかりだ。
「親父があんな風に笑うなんて珍しいから、はっきり覚えてたはずなのに。」
ダンテは僅かに首を傾けた。
「———何で忘れてたんだろ。」
その台詞は、以降しばしばダンテの口に登ることになる。
*******************
感傷も高揚もなく。
ただただ不思議そうに。
ダンテはぽろりとその言葉をこぼす。
多くはバージルが本を読んでいる時。
次は食事の前が多いだろうか。
ソファの隣に座って。
背後に回り込んで。
黙々とバージルの左手を弄った後に、ダンテは吐息を漏らすように呟くのだ。
何で忘れてたんだろ、と。
バージルに尋ねている訳ではない。
かといって自問し、深く思考に沈んでいるようでもなさそうで、かえってバージルの心をざらつかせた。
それがいつもなら手を払いのけることを躊躇しないバージルが、ダンテの行動を辛抱強く受け入れていた理由だ。
バージルは声をかけるでもなく、ずっとダンテの好きにさせていた。
ダンテもまた、それをいいことに左手を弄り続ける。
そうこうしている内に時は流れ、その奇妙な行動が始まってから、あっという間に二ヶ月の時が流れた。
*******************
ヘルバットを追い、バージルは空高く舞う。
それを迎え撃つべくヘルバットは腹を膨らませるが、その緩慢さにバージルは軽蔑を込め、一刀の元に斬り捨てる。
一矢報いんとばかりにその身の内に渦巻いていた炎が、爆発と共にバージルを襲う。
しかしバージルは瞬時にその場を離脱し、爆風の勢いを借りて身を翻した。
背を地に向け身体を仰け反らせば、雲が渦巻き月を覆う様が見えた。
そのまま視線は地上へと移るが、目に入ったのは朽ちた建物と、無数の悪魔の残骸。
そしてその真ん中に佇む一人の男——ダンテの姿だ。
ダンテは魔剣を右手に持ったまま、バージルを見上げている。
その眼差しは、この戦場では異質だった。
真っ直ぐにバージルの姿を捉えているようで、その実全く違うものを追っている。
ぼうっと、不思議そうに。
そう、バージルの左手を見つめるような眼で。
ダンテはバージルを見上げていた。
「——!」
夜が軋む。
ダンテからそう離れていない場所にある、崩れ落ちた壁。
その残骸が盛り上がると同時に、ダンテへ向かい黒い影が飛び出した。
しかしダンテは動かない。
「ちっ!」
バージルはすかさず宙を蹴り、忽ちの内にその頭を割り砕いた。
不快な絶叫が、鼓膜を震わせる。
それがライアットだと気付いたのは、辺りにレッドオーブが散らばった後だ。
バージルは怒りに眉を顰める。
「ダンテ、こんな雑魚に——」
バージルが立ち上がるや否や、突然その右手は掴まれた。
バージル相手にそんな虚を衝 ける者など、この世にひとりしか存在しない。
「何のつもりだ。」
バージルの右手を取ったのは、他でもないダンテだった。
足元のレッドオーブの光に浮かび上がるダンテは、閻魔刀を握ったままの右手を掴み、ぼんやりとそれを眺めている。
既に悪魔は狩り尽くしているものの、戦場でこんな隙だらけの姿を晒していい訳がない。
それは歴戦の戦士であるダンテもわかっている筈だ。
にもかかわらず、ダンテは右手に魔剣を、左手にバージルの手をしっかりと握ったまま、動く気配を全く見せない。
何故、とバージルは苛立つ。
ダンテを咎めようと口を開けた、その時だった。
「——ああ。」
いつかの夜。
山胡桃 のカウンターで聞いたものと同じ声が、ひっそりとこだました。
「お前、閻魔刀を持つのは右だったもんな。」
レッドオーブがダンテとバージルへと取り込まれ、二人は暗闇に包まれた。
「俺達、闘りあってばっかりだったんだ。お前が左利きだって、忘れちまうくらいに。」
ふと、雲が晴れ、月が姿を現した。
静謐な光に、二人が、世界が鮮やかに輪郭を取り戻す。
月明かりを受けたダンテの瞳に、今まで無かった筈の色が浮かび上がった。
その色の名前は、何だろうとバージルは思う。
感心だろうか。
悔恨だろうか。
単語だけならばいくらでも出てきた。
しかしそのどれもが相応しいようで、どれもがまるで当てはまらない。
ただその色は、ダンテがかつて父の記憶を語った時、バージルの胸を彩ったものとは明らかに異なっていた。
「一緒だった時間なんて、少ししかなかったのに。」
ダンテはその色を隠すように、すっと目を細めた。
「——ま、俺達らしいわな。」
再び目が開かれた時、その瞳から色は消え去っていて、バージルがその名前を知ることはなかった。
何かを言うべきかとも思ったが、結局バージルが選んだのは沈黙だった。
恐らく今のダンテには、どんな言葉も届かない。
そう感じたからだ。
ただそれでもバージルは、その色を忘れ去ってしまっていいものだとは思わなかった。
ダンテはぱっと、バージルの手を離す。
しかしその感覚は離れてなお、バージルの手に残っていた。
そしてそれは、幼い頃バージルと公園で遊んでいたダンテが、まだ帰りたくないとバージルの手を引いていた感覚によく似ていた。
ダンテはよくべそをかき、右手でごしごし目を擦りながら、その左手でバージルの手を引っ張っていた。
あの時、自分はどうしただろうか。
多分その手を引いて、ダンテに帰るぞと言い聞かせていたように思う。
けれどダンテはいつものように駄々を捏ねて、バージルを困らせていただろう。
それでもバージルはダンテの手を引くのを辞めなかった筈だ。
左の手で、しっかりとダンテの手を握って。
家へと続く道を、ダンテと二人歩いた筈だ。
「バージル、先行くぜ。」
そう言って廃墟の間を歩き出したダンテの背を、バージルは黙って見つめる。
過ぎ去った日々を振り返りながら。
月の光に照らされるその背中を、静かに見つめていた。
*******************
もうとても朝とは言い張れない時間。
のそのそとダンテが一階のリビング兼事務所に降りていくと、バージルがソファで本を読んでいた。
小言でも言われるかと思ったが、ダンテと目があったバージルは、意外にも何も言わず本を閉じると、さっさとキッチンの方へと行ってしまった。
少しすると嗅ぎ慣れたほのかに甘い、よく煎られた香りがして、ああ、とダンテは納得した。
ほっと一息つき、ダンテがいつものようにソファに座ると、予想通りバージルが湯気の立つマグカップを持ってきた。
「ん、サンキュ。」
そう言って右手でマグを受け取ると、何故かバージルはそのままダンテの隣にどかりと腰を下ろす。
ダンテは密かにぎょっとする。
———一体どういう風の吹き回しだ。
普段あまりない行動に、ダンテはコーヒーを口にしながら、バージルの様子を伺う。
バージルは視線に気付いていないのだろうか。
特に何か反応するでもなく、無言のままダンテの左手を取ると、目を眇 めて眺めた後に、掠めるように掌を撫でてきた。
左の人差し指で。
人差し指の付け根から、小指の下のあたりへと。
ゆっくりとその指を滑らせる。
———まさか。
その軌跡に、ダンテは刹那、身体を震わせる。
いつかの光景が、脳裏に蘇る。
バージルと斬り合った、あの魔界の断崖。
水飛沫と共に、奈落へとバージルが身を投げたあの時。
気付けばダンテは、左手をバージルへと伸ばしていた。
しかしその手は閻魔刀によって斬り裂かれ、遂に届くことはなかった。
今なぞられたのは、かつてバージルによって斬り裂かれ、とうの昔に消え失せたはずの傷跡だ。
どくん、とダンテの心臓が鳴った。
少し早くなった鼓動とともに、自分の手が冷たくなっていくのを、ダンテは感じる。
じわりじわりと下がる体温を、バージルは感じ取っているだろうか。
ダンテはこくりと喉を鳴らす。
「———お前が。」
長い静寂を、バージルが破った。
「俺の手を見て、何を思い出し、何を感じたのかは知らん。」
低く顰められた声が、光に満ちた部屋に響き、すぐに止んだ。
躊躇っているというよりも、相応しい言葉を探している。
そんな沈黙だ。
ダンテは耳をすまし、続く言葉をじっと待つ。
「ただ、俺は。」
バージルは自身の左手をダンテのそれへと重ね、静かに言った。
「俺は、お前が俺へと伸ばしたこの手を、忘れたことはない。」
ぽろ、とダンテの右手から、マグが落ちる。
ごとん、と大きな音を立て、マグは床へと転がった。
幸いにして割れることはなかったが、ダンテはそれに気付くことはできなかった。
それ程までに、バージルの言葉に心を奪われていたのだ。
———あの時、自分の手は届かなかったはずなのに。
ダンテの目の奥が、かあっと熱くなる。
「——そして今の俺は、かつて拒んだこの手を取ることを選んだ。」
重ねられたバージルの手に、力が込められた。
冷たかったはずのダンテの手が、どんどん熱を帯びてゆく。
「そのことを忘れるな。」
ダンテは堪らず下を向いた。
「———ああ。」
嘆息するように、声が零れる。
「覚えとくよ。」
小さく呟いた声は、震えているかもしれなかった。
けれど、それでも構わない。
バージルへと、きちんと応えることができたのだから。
ダンテは唇をきゅっと結び、少し無理をしてその端を上へと持ち上げた。
辺りに満ちていたコーヒーの香りは、今やすっかり薄れている。
「——……なあ、バージル。」
ダンテは俯いたまま、重ねられたバージルの手をぎゅと握った。
「後少し——後少しだけ、こうしててくれないか。」
ダンテの言葉に、バージルは何も言わない。
その代わり、その左手に力を込め、ダンテの手を包んだ。
ただそっと。
ただ優しく。
ダンテの左手を、包む。
二人の重なった手を、夕暮れの色が微かに混じり始めた光が、柔らかく照らしていた。
仕事で訪れた街の、小さな酒場。
そこにある
バージルが顔を上げると、同じ様に顔をあげたであろうダンテと目がかち合った。
「——ああ。」
自分の肘が当たったものを見て、ダンテは納得したように言った。
「そういやお前の利き手、左だっけ。」
普段、バージルは癖でダンテの左に座る。
だが今日はたまたま先にダンテが最奥の席に陣取り、バージルはその右に座ったせいで、互いの肘がぶつかったのだ。
深い飴色の一枚板には、ロックグラスを持つ二つの手が並んでいた。
一つはダンテの右手。
一つはバージルの左手。
その光景に、ダンテはぽつりと呟いた。
「———何で忘れてたんだろ。」
グラスを置くと、ダンテは右手でバージルの左手へと触れてきた。
ぺた、ぺた、ぺた。
夜の酒場にありがちな甘やかな手つきではなく、かといって小馬鹿にしたような仕種でもない。
子供が粘土を造作するような、そんな手つきによく似ていた。
「…………おい。」
「ん?」
「何をしている。」
「ん。」
「いい加減にしろ。」
「んー。」
いくら問いかけても、返ってくるのは生返事だけ。
ダンテは不思議そうにバージルの左手を見つめながら、触れては離れ、触れては離れを繰り返している。
見知らぬ店で揉めるのも本意ではない。
バージルは仕方なくグラスを右手に持ち替えると、そのまま
ダンテはグラスが空になるまで、ずっと左手をぺたぺたと触っていたものの、遂に理由を語ることはなかった。
その晩の酒は、嫌に喉へ残る類のものだったと、バージルは記憶している。
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「親父が言ってたんだ。『悪魔は左利きだ』って。」
朝というにはぎりぎりの、明るい光が事務所に差している。
ソファに座るダンテを前にしたバージルは、コーヒーを右手に、目元をぴくりとひくつかせた。
この事務所で朝のコーヒーを淹れるのは、バージルの役目だと決まっている。
ダンテに任せると、大抵濃さがまちまちの泥水ができあがるせいだ。
今日も当然の如く、バージルがコーヒーを淹れ、寝ぼけ眼のダンテへとマグカップを渡す。
しかし今日はいつもと具合が違っていた。
バージルがマグを渡した後、空いた左手をダンテが引いたのだ。
ダンテはソファに座っているから、バージルは自然と前のめりになる。
「何の話だ。」
「いや。思い出したんだよ。お前、親父に似てたんだなって。」
ダンテはバージルの掌に、自分の右のそれを重ね、色々な角度からその様子を観察している。
そして
「親父も左利きだったろ。だから昔聞いたことがあったんだ。何で親父は左手なのかって。そしたら親父はそう言っててさ。じゃあ何で俺は右利きなのかって聞いたら。母さんに似たからだって。そう言ったんだ。」
手を握ったり、緩めたり、指で甲を擦ったり。
特に楽しそうでもなく、どちらかというと淡々と作業しているような感じで、ダンテはバージルの手に触れていた。
普段の子供じみた甘えとも違う雰囲気に、無理に手を解くことも躊躇われ、バージルはどうしたものかと困惑する。
「だから今度はこう聞いたんだよ。それじゃあバージルは、親父に似たから左利きなのかって。そしたら親父は笑って言ったんだ。『そうだよ、ダンテ』って。」
ダンテの手に、一際強く力が籠る。
「笑って、言ったんだ。」
ダンテの口から紡がれる、知られざる父の姿。
多くが語られた訳ではない。
しかしどこか近寄りがたかった父が、遠くからこちらを見ているような気がした。
彼方にいる父の温かい眼差しが、こちらに向けられている。
バージルは、そう感じた。
「やっぱ親父、息子が自分に似てるってのが嬉しかったのかな。」
「………さあな。」
バージルは軽くダンテの手を握り返す。
普段ならこんな些細な仕草でも、ダンテは嬉しそうに笑ってくる。
しかし今日の反応は芳しくなく、バージルの手をぼうっと見つめるばかりだ。
「親父があんな風に笑うなんて珍しいから、はっきり覚えてたはずなのに。」
ダンテは僅かに首を傾けた。
「———何で忘れてたんだろ。」
その台詞は、以降しばしばダンテの口に登ることになる。
*******************
感傷も高揚もなく。
ただただ不思議そうに。
ダンテはぽろりとその言葉をこぼす。
多くはバージルが本を読んでいる時。
次は食事の前が多いだろうか。
ソファの隣に座って。
背後に回り込んで。
黙々とバージルの左手を弄った後に、ダンテは吐息を漏らすように呟くのだ。
何で忘れてたんだろ、と。
バージルに尋ねている訳ではない。
かといって自問し、深く思考に沈んでいるようでもなさそうで、かえってバージルの心をざらつかせた。
それがいつもなら手を払いのけることを躊躇しないバージルが、ダンテの行動を辛抱強く受け入れていた理由だ。
バージルは声をかけるでもなく、ずっとダンテの好きにさせていた。
ダンテもまた、それをいいことに左手を弄り続ける。
そうこうしている内に時は流れ、その奇妙な行動が始まってから、あっという間に二ヶ月の時が流れた。
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ヘルバットを追い、バージルは空高く舞う。
それを迎え撃つべくヘルバットは腹を膨らませるが、その緩慢さにバージルは軽蔑を込め、一刀の元に斬り捨てる。
一矢報いんとばかりにその身の内に渦巻いていた炎が、爆発と共にバージルを襲う。
しかしバージルは瞬時にその場を離脱し、爆風の勢いを借りて身を翻した。
背を地に向け身体を仰け反らせば、雲が渦巻き月を覆う様が見えた。
そのまま視線は地上へと移るが、目に入ったのは朽ちた建物と、無数の悪魔の残骸。
そしてその真ん中に佇む一人の男——ダンテの姿だ。
ダンテは魔剣を右手に持ったまま、バージルを見上げている。
その眼差しは、この戦場では異質だった。
真っ直ぐにバージルの姿を捉えているようで、その実全く違うものを追っている。
ぼうっと、不思議そうに。
そう、バージルの左手を見つめるような眼で。
ダンテはバージルを見上げていた。
「——!」
夜が軋む。
ダンテからそう離れていない場所にある、崩れ落ちた壁。
その残骸が盛り上がると同時に、ダンテへ向かい黒い影が飛び出した。
しかしダンテは動かない。
「ちっ!」
バージルはすかさず宙を蹴り、忽ちの内にその頭を割り砕いた。
不快な絶叫が、鼓膜を震わせる。
それがライアットだと気付いたのは、辺りにレッドオーブが散らばった後だ。
バージルは怒りに眉を顰める。
「ダンテ、こんな雑魚に——」
バージルが立ち上がるや否や、突然その右手は掴まれた。
バージル相手にそんな虚を
「何のつもりだ。」
バージルの右手を取ったのは、他でもないダンテだった。
足元のレッドオーブの光に浮かび上がるダンテは、閻魔刀を握ったままの右手を掴み、ぼんやりとそれを眺めている。
既に悪魔は狩り尽くしているものの、戦場でこんな隙だらけの姿を晒していい訳がない。
それは歴戦の戦士であるダンテもわかっている筈だ。
にもかかわらず、ダンテは右手に魔剣を、左手にバージルの手をしっかりと握ったまま、動く気配を全く見せない。
何故、とバージルは苛立つ。
ダンテを咎めようと口を開けた、その時だった。
「——ああ。」
いつかの夜。
「お前、閻魔刀を持つのは右だったもんな。」
レッドオーブがダンテとバージルへと取り込まれ、二人は暗闇に包まれた。
「俺達、闘りあってばっかりだったんだ。お前が左利きだって、忘れちまうくらいに。」
ふと、雲が晴れ、月が姿を現した。
静謐な光に、二人が、世界が鮮やかに輪郭を取り戻す。
月明かりを受けたダンテの瞳に、今まで無かった筈の色が浮かび上がった。
その色の名前は、何だろうとバージルは思う。
感心だろうか。
悔恨だろうか。
単語だけならばいくらでも出てきた。
しかしそのどれもが相応しいようで、どれもがまるで当てはまらない。
ただその色は、ダンテがかつて父の記憶を語った時、バージルの胸を彩ったものとは明らかに異なっていた。
「一緒だった時間なんて、少ししかなかったのに。」
ダンテはその色を隠すように、すっと目を細めた。
「——ま、俺達らしいわな。」
再び目が開かれた時、その瞳から色は消え去っていて、バージルがその名前を知ることはなかった。
何かを言うべきかとも思ったが、結局バージルが選んだのは沈黙だった。
恐らく今のダンテには、どんな言葉も届かない。
そう感じたからだ。
ただそれでもバージルは、その色を忘れ去ってしまっていいものだとは思わなかった。
ダンテはぱっと、バージルの手を離す。
しかしその感覚は離れてなお、バージルの手に残っていた。
そしてそれは、幼い頃バージルと公園で遊んでいたダンテが、まだ帰りたくないとバージルの手を引いていた感覚によく似ていた。
ダンテはよくべそをかき、右手でごしごし目を擦りながら、その左手でバージルの手を引っ張っていた。
あの時、自分はどうしただろうか。
多分その手を引いて、ダンテに帰るぞと言い聞かせていたように思う。
けれどダンテはいつものように駄々を捏ねて、バージルを困らせていただろう。
それでもバージルはダンテの手を引くのを辞めなかった筈だ。
左の手で、しっかりとダンテの手を握って。
家へと続く道を、ダンテと二人歩いた筈だ。
「バージル、先行くぜ。」
そう言って廃墟の間を歩き出したダンテの背を、バージルは黙って見つめる。
過ぎ去った日々を振り返りながら。
月の光に照らされるその背中を、静かに見つめていた。
*******************
もうとても朝とは言い張れない時間。
のそのそとダンテが一階のリビング兼事務所に降りていくと、バージルがソファで本を読んでいた。
小言でも言われるかと思ったが、ダンテと目があったバージルは、意外にも何も言わず本を閉じると、さっさとキッチンの方へと行ってしまった。
少しすると嗅ぎ慣れたほのかに甘い、よく煎られた香りがして、ああ、とダンテは納得した。
ほっと一息つき、ダンテがいつものようにソファに座ると、予想通りバージルが湯気の立つマグカップを持ってきた。
「ん、サンキュ。」
そう言って右手でマグを受け取ると、何故かバージルはそのままダンテの隣にどかりと腰を下ろす。
ダンテは密かにぎょっとする。
———一体どういう風の吹き回しだ。
普段あまりない行動に、ダンテはコーヒーを口にしながら、バージルの様子を伺う。
バージルは視線に気付いていないのだろうか。
特に何か反応するでもなく、無言のままダンテの左手を取ると、目を
左の人差し指で。
人差し指の付け根から、小指の下のあたりへと。
ゆっくりとその指を滑らせる。
———まさか。
その軌跡に、ダンテは刹那、身体を震わせる。
いつかの光景が、脳裏に蘇る。
バージルと斬り合った、あの魔界の断崖。
水飛沫と共に、奈落へとバージルが身を投げたあの時。
気付けばダンテは、左手をバージルへと伸ばしていた。
しかしその手は閻魔刀によって斬り裂かれ、遂に届くことはなかった。
今なぞられたのは、かつてバージルによって斬り裂かれ、とうの昔に消え失せたはずの傷跡だ。
どくん、とダンテの心臓が鳴った。
少し早くなった鼓動とともに、自分の手が冷たくなっていくのを、ダンテは感じる。
じわりじわりと下がる体温を、バージルは感じ取っているだろうか。
ダンテはこくりと喉を鳴らす。
「———お前が。」
長い静寂を、バージルが破った。
「俺の手を見て、何を思い出し、何を感じたのかは知らん。」
低く顰められた声が、光に満ちた部屋に響き、すぐに止んだ。
躊躇っているというよりも、相応しい言葉を探している。
そんな沈黙だ。
ダンテは耳をすまし、続く言葉をじっと待つ。
「ただ、俺は。」
バージルは自身の左手をダンテのそれへと重ね、静かに言った。
「俺は、お前が俺へと伸ばしたこの手を、忘れたことはない。」
ぽろ、とダンテの右手から、マグが落ちる。
ごとん、と大きな音を立て、マグは床へと転がった。
幸いにして割れることはなかったが、ダンテはそれに気付くことはできなかった。
それ程までに、バージルの言葉に心を奪われていたのだ。
———あの時、自分の手は届かなかったはずなのに。
ダンテの目の奥が、かあっと熱くなる。
「——そして今の俺は、かつて拒んだこの手を取ることを選んだ。」
重ねられたバージルの手に、力が込められた。
冷たかったはずのダンテの手が、どんどん熱を帯びてゆく。
「そのことを忘れるな。」
ダンテは堪らず下を向いた。
「———ああ。」
嘆息するように、声が零れる。
「覚えとくよ。」
小さく呟いた声は、震えているかもしれなかった。
けれど、それでも構わない。
バージルへと、きちんと応えることができたのだから。
ダンテは唇をきゅっと結び、少し無理をしてその端を上へと持ち上げた。
辺りに満ちていたコーヒーの香りは、今やすっかり薄れている。
「——……なあ、バージル。」
ダンテは俯いたまま、重ねられたバージルの手をぎゅと握った。
「後少し——後少しだけ、こうしててくれないか。」
ダンテの言葉に、バージルは何も言わない。
その代わり、その左手に力を込め、ダンテの手を包んだ。
ただそっと。
ただ優しく。
ダンテの左手を、包む。
二人の重なった手を、夕暮れの色が微かに混じり始めた光が、柔らかく照らしていた。
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