Memories Left in the Hands

とん、と何かが左の肘に当たった。

仕事で訪れた街の、小さな酒場。
そこにある山胡桃ウォールナットのカウンターでの出来事だ。
バージルが顔を上げると、同じ様に顔をあげたであろうダンテと目がかち合った。
「——ああ。」
自分の肘が当たったものを見て、ダンテは納得したように言った。
「そういやお前の利き手、左だっけ。」
普段、バージルは癖でダンテの左に座る。
だが今日はたまたま先にダンテが最奥の席に陣取り、バージルはその右に座ったせいで、互いの肘がぶつかったのだ。
深い飴色の一枚板には、ロックグラスを持つ二つの手が並んでいた。
一つはダンテの右手。
一つはバージルの左手。
その光景に、ダンテはぽつりと呟いた。

「———何で忘れてたんだろ。」

グラスを置くと、ダンテは右手でバージルの左手へと触れてきた。
ぺた、ぺた、ぺた。
夜の酒場にありがちな甘やかな手つきではなく、かといって小馬鹿にしたような仕種でもない。
子供が粘土を造作するような、そんな手つきによく似ていた。
「…………おい。」
「ん?」
「何をしている。」
「ん。」
「いい加減にしろ。」
「んー。」
いくら問いかけても、返ってくるのは生返事だけ。
ダンテは不思議そうにバージルの左手を見つめながら、触れては離れ、触れては離れを繰り返している。
見知らぬ店で揉めるのも本意ではない。
バージルは仕方なくグラスを右手に持ち替えると、そのまま青銅色ブロンズの液体を飲み始める。
ダンテはグラスが空になるまで、ずっと左手をぺたぺたと触っていたものの、遂に理由を語ることはなかった。

その晩の酒は、嫌に喉へ残る類のものだったと、バージルは記憶している。



*******************
「親父が言ってたんだ。『悪魔は左利きだ』って。」
朝というにはぎりぎりの、明るい光が事務所に差している。
ソファに座るダンテを前にしたバージルは、コーヒーを右手に、目元をぴくりとひくつかせた。
この事務所で朝のコーヒーを淹れるのは、バージルの役目だと決まっている。
ダンテに任せると、大抵濃さがまちまちの泥水ができあがるせいだ。
今日も当然の如く、バージルがコーヒーを淹れ、寝ぼけ眼のダンテへとマグカップを渡す。
しかし今日はいつもと具合が違っていた。
バージルがマグを渡した後、空いた左手をダンテが引いたのだ。
ダンテはソファに座っているから、バージルは自然と前のめりになる。
「何の話だ。」
「いや。思い出したんだよ。お前、親父に似てたんだなって。」
ダンテはバージルの掌に、自分の右のそれを重ね、色々な角度からその様子を観察している。
そしておもむろに指を絡めてきたと思ったら、そのままぐっとバージルの手を握り込んだ。
「親父も左利きだったろ。だから昔聞いたことがあったんだ。何で親父は左手なのかって。そしたら親父はそう言っててさ。じゃあ何で俺は右利きなのかって聞いたら。母さんに似たからだって。そう言ったんだ。」
手を握ったり、緩めたり、指で甲を擦ったり。
特に楽しそうでもなく、どちらかというと淡々と作業しているような感じで、ダンテはバージルの手に触れていた。
普段の子供じみた甘えとも違う雰囲気に、無理に手を解くことも躊躇われ、バージルはどうしたものかと困惑する。
「だから今度はこう聞いたんだよ。それじゃあバージルは、親父に似たから左利きなのかって。そしたら親父は笑って言ったんだ。『そうだよ、ダンテ』って。」
ダンテの手に、一際強く力が籠る。
「笑って、言ったんだ。」
ダンテの口から紡がれる、知られざる父の姿。
多くが語られた訳ではない。
しかしどこか近寄りがたかった父が、遠くからこちらを見ているような気がした。
彼方にいる父の温かい眼差しが、こちらに向けられている。
バージルは、そう感じた。
「やっぱ親父、息子が自分に似てるってのが嬉しかったのかな。」
「………さあな。」
バージルは軽くダンテの手を握り返す。
普段ならこんな些細な仕草でも、ダンテは嬉しそうに笑ってくる。
しかし今日の反応は芳しくなく、バージルの手をぼうっと見つめるばかりだ。

「親父があんな風に笑うなんて珍しいから、はっきり覚えてたはずなのに。」

ダンテは僅かに首を傾けた。

「———何で忘れてたんだろ。」

その台詞は、以降しばしばダンテの口に登ることになる。



*******************

感傷も高揚もなく。
ただただ不思議そうに。
ダンテはぽろりとその言葉をこぼす。
多くはバージルが本を読んでいる時。
次は食事の前が多いだろうか。
ソファの隣に座って。
背後に回り込んで。
黙々とバージルの左手を弄った後に、ダンテは吐息を漏らすように呟くのだ。

何で忘れてたんだろ、と。

バージルに尋ねている訳ではない。
かといって自問し、深く思考に沈んでいるようでもなさそうで、かえってバージルの心をざらつかせた。
それがいつもなら手を払いのけることを躊躇しないバージルが、ダンテの行動を辛抱強く受け入れていた理由だ。
バージルは声をかけるでもなく、ずっとダンテの好きにさせていた。
ダンテもまた、それをいいことに左手を弄り続ける。
そうこうしている内に時は流れ、その奇妙な行動が始まってから、あっという間に二ヶ月の時が流れた。



*******************

ヘルバットを追い、バージルは空高く舞う。
それを迎え撃つべくヘルバットは腹を膨らませるが、その緩慢さにバージルは軽蔑を込め、一刀の元に斬り捨てる。
一矢報いんとばかりにその身の内に渦巻いていた炎が、爆発と共にバージルを襲う。
しかしバージルは瞬時にその場を離脱し、爆風の勢いを借りて身を翻した。
背を地に向け身体を仰け反らせば、雲が渦巻き月を覆う様が見えた。
そのまま視線は地上へと移るが、目に入ったのは朽ちた建物と、無数の悪魔の残骸。
そしてその真ん中に佇む一人の男——ダンテの姿だ。
ダンテは魔剣を右手に持ったまま、バージルを見上げている。
その眼差しは、この戦場では異質だった。
真っ直ぐにバージルの姿を捉えているようで、その実全く違うものを追っている。
ぼうっと、不思議そうに。
そう、バージルの左手を見つめるような眼で。
ダンテはバージルを見上げていた。
「——!」
夜が軋む。
ダンテからそう離れていない場所にある、崩れ落ちた壁。
その残骸が盛り上がると同時に、ダンテへ向かい黒い影が飛び出した。
しかしダンテは動かない。
「ちっ!」
バージルはすかさず宙を蹴り、忽ちの内にその頭を割り砕いた。
不快な絶叫が、鼓膜を震わせる。
それがライアットだと気付いたのは、辺りにレッドオーブが散らばった後だ。
バージルは怒りに眉を顰める。
「ダンテ、こんな雑魚に——」
バージルが立ち上がるや否や、突然その右手は掴まれた。
バージル相手にそんな虚をける者など、この世にひとりしか存在しない。
「何のつもりだ。」
バージルの右手を取ったのは、他でもないダンテだった。
足元のレッドオーブの光に浮かび上がるダンテは、閻魔刀を握ったままの右手を掴み、ぼんやりとそれを眺めている。
既に悪魔は狩り尽くしているものの、戦場でこんな隙だらけの姿を晒していい訳がない。
それは歴戦の戦士であるダンテもわかっている筈だ。
にもかかわらず、ダンテは右手に魔剣を、左手にバージルの手をしっかりと握ったまま、動く気配を全く見せない。
何故、とバージルは苛立つ。
ダンテを咎めようと口を開けた、その時だった。
「——ああ。」
いつかの夜。
山胡桃ウォールナットのカウンターで聞いたものと同じ声が、ひっそりとこだました。
「お前、閻魔刀を持つのは右だったもんな。」
レッドオーブがダンテとバージルへと取り込まれ、二人は暗闇に包まれた。
「俺達、闘りあってばっかりだったんだ。お前が左利きだって、忘れちまうくらいに。」
ふと、雲が晴れ、月が姿を現した。
静謐な光に、二人が、世界が鮮やかに輪郭を取り戻す。
月明かりを受けたダンテの瞳に、今まで無かった筈の色が浮かび上がった。
その色の名前は、何だろうとバージルは思う。
感心だろうか。
悔恨だろうか。
単語だけならばいくらでも出てきた。
しかしそのどれもが相応しいようで、どれもがまるで当てはまらない。
ただその色は、ダンテがかつて父の記憶を語った時、バージルの胸を彩ったものとは明らかに異なっていた。
「一緒だった時間なんて、少ししかなかったのに。」
ダンテはその色を隠すように、すっと目を細めた。
「——ま、俺達らしいわな。」
再び目が開かれた時、その瞳から色は消え去っていて、バージルがその名前を知ることはなかった。
何かを言うべきかとも思ったが、結局バージルが選んだのは沈黙だった。
恐らく今のダンテには、どんな言葉も届かない。
そう感じたからだ。
ただそれでもバージルは、その色を忘れ去ってしまっていいものだとは思わなかった。
ダンテはぱっと、バージルの手を離す。
しかしその感覚は離れてなお、バージルの手に残っていた。
そしてそれは、幼い頃バージルと公園で遊んでいたダンテが、まだ帰りたくないとバージルの手を引いていた感覚によく似ていた。
ダンテはよくべそをかき、右手でごしごし目を擦りながら、その左手でバージルの手を引っ張っていた。
あの時、自分はどうしただろうか。
多分その手を引いて、ダンテに帰るぞと言い聞かせていたように思う。
けれどダンテはいつものように駄々を捏ねて、バージルを困らせていただろう。
それでもバージルはダンテの手を引くのを辞めなかった筈だ。
左の手で、しっかりとダンテの手を握って。
家へと続く道を、ダンテと二人歩いた筈だ。
「バージル、先行くぜ。」
そう言って廃墟の間を歩き出したダンテの背を、バージルは黙って見つめる。
過ぎ去った日々を振り返りながら。
月の光に照らされるその背中を、静かに見つめていた。



*******************

もうとても朝とは言い張れない時間。
のそのそとダンテが一階のリビング兼事務所に降りていくと、バージルがソファで本を読んでいた。
小言でも言われるかと思ったが、ダンテと目があったバージルは、意外にも何も言わず本を閉じると、さっさとキッチンの方へと行ってしまった。
少しすると嗅ぎ慣れたほのかに甘い、よく煎られた香りがして、ああ、とダンテは納得した。
ほっと一息つき、ダンテがいつものようにソファに座ると、予想通りバージルが湯気の立つマグカップを持ってきた。
「ん、サンキュ。」
そう言って右手でマグを受け取ると、何故かバージルはそのままダンテの隣にどかりと腰を下ろす。
ダンテは密かにぎょっとする。
———一体どういう風の吹き回しだ。
普段あまりない行動に、ダンテはコーヒーを口にしながら、バージルの様子を伺う。
バージルは視線に気付いていないのだろうか。
特に何か反応するでもなく、無言のままダンテの左手を取ると、目をすがめて眺めた後に、掠めるように掌を撫でてきた。
左の人差し指で。
人差し指の付け根から、小指の下のあたりへと。
ゆっくりとその指を滑らせる。

———まさか。

その軌跡に、ダンテは刹那、身体を震わせる。

いつかの光景が、脳裏に蘇る。
バージルと斬り合った、あの魔界の断崖。
水飛沫と共に、奈落へとバージルが身を投げたあの時。
気付けばダンテは、左手をバージルへと伸ばしていた。
しかしその手は閻魔刀によって斬り裂かれ、遂に届くことはなかった。

今なぞられたのは、かつてバージルによって斬り裂かれ、とうの昔に消え失せたはずの傷跡だ。

どくん、とダンテの心臓が鳴った。

少し早くなった鼓動とともに、自分の手が冷たくなっていくのを、ダンテは感じる。
じわりじわりと下がる体温を、バージルは感じ取っているだろうか。
ダンテはこくりと喉を鳴らす。
「———お前が。」
長い静寂を、バージルが破った。
「俺の手を見て、何を思い出し、何を感じたのかは知らん。」
低く顰められた声が、光に満ちた部屋に響き、すぐに止んだ。
躊躇っているというよりも、相応しい言葉を探している。
そんな沈黙だ。
ダンテは耳をすまし、続く言葉をじっと待つ。
「ただ、俺は。」
バージルは自身の左手をダンテのそれへと重ね、静かに言った。

「俺は、お前が俺へと伸ばしたこの手を、忘れたことはない。」

ぽろ、とダンテの右手から、マグが落ちる。
ごとん、と大きな音を立て、マグは床へと転がった。
幸いにして割れることはなかったが、ダンテはそれに気付くことはできなかった。
それ程までに、バージルの言葉に心を奪われていたのだ。

———あの時、自分の手は届かなかったはずなのに。

ダンテの目の奥が、かあっと熱くなる。

「——そして今の俺は、かつて拒んだこの手を取ることを選んだ。」

重ねられたバージルの手に、力が込められた。
冷たかったはずのダンテの手が、どんどん熱を帯びてゆく。

「そのことを忘れるな。」

ダンテは堪らず下を向いた。

「———ああ。」

嘆息するように、声が零れる。

「覚えとくよ。」

小さく呟いた声は、震えているかもしれなかった。
けれど、それでも構わない。
バージルへと、きちんと応えることができたのだから。
ダンテは唇をきゅっと結び、少し無理をしてその端を上へと持ち上げた。
辺りに満ちていたコーヒーの香りは、今やすっかり薄れている。

「——……なあ、バージル。」

ダンテは俯いたまま、重ねられたバージルの手をぎゅと握った。

「後少し——後少しだけ、こうしててくれないか。」

ダンテの言葉に、バージルは何も言わない。
その代わり、その左手に力を込め、ダンテの手を包んだ。
ただそっと。
ただ優しく。
ダンテの左手を、包む。


二人の重なった手を、夕暮れの色が微かに混じり始めた光が、柔らかく照らしていた。


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