Rainy Stargazing


バチバチと音がする。
こんな音は、本来ガラスが立てていいものではない。
とんでもなく大きな雨粒が、激しく窓を殴っていた。
事務所は滝の中に飛び込んだように、水にその体を軋ませている。
ついている筈のテレビの音も、雨にかき消されて全く聞こえず、ニュースのアナウンサーが何を言っているのかもさっぱりわからなかった。
画面のテロップには『ニュース速報Breaking News 』の文字があり、この地方が記録的豪雨に見舞われていることを報じている。
ダンテはリモコンで瓶ビールパブストの王冠を開けると、そのまま中身を一口飲んだ。
(またバージルに、傷がつくからやめろって言われるな。)
手にしたリモコンを眺めながら、ダンテはぼんやり考えた。
バージルが仕事で事務所を空けて、今日で一週間。
遠方という程でもないが近くもなく、手間のかかる上に、悪魔も特に絡んでいない仕事ということで、ダンテはバージルに押し付けた。
バージルは不満気だったが、報酬の良さと請求書の山がその背中を押したらしい。
泊り込みの仕事は昨日で終わり、今日の昼にはバージルが帰ってくる。
その予定だった。
ダンテはテレビを見る。
音は相変わらず聞こえないが、画面には『 運行休止Out of Service 』の文字が並んでおり、あらゆる公共機関や道路が死に絶えたことを告げていた。
(こりゃ帰って来ねえな。)
ダンテは目の前のロウテーブルへと視線をずらす。
昨日、 酒屋ボトルショップ で買ったワイン。
店前に置かれたイーゼルの黒板が、ダンテの目に入ったのはたまたまだ。
今日の話題Quote of the Day 』と書かれたそこには、海の向こうの昔話が書いてあった。
明日、七月七日。
天の川では、離れ離れの恋人同士が年に一度の逢瀬をするのだという。
ワインを片手に星を眺め、大切な人と恋人たちに思いを馳せては、というのが店の売り文句だった。
ダンテの胸に、見ず知らずの恋人達のデートを覗き見するのはどうなのか、などという突っ込みが浮かんでくるが、とは言え鼻で笑うほど野暮でもない。
白墨チョークの文字に見入るダンテに、ふとある考えが浮かぶ。
———本の虫のバージルならば、こういう話も知っているかもしれない。
一度その名が出てきてしまえば、ダンテはもう逃げられない。
身体は店へと吸い込まれ、勧められるがまま、一本のボトルを手に取っていた。
星空セレステ』と名付けられたワインのボトルには、星座を散りばめたラベルが貼られている。
この星の中の、どれが件の恋人達なのだろう。
暇に飽いたダンテは、興味薄にボトルを見つめる。
(年に一度、ねえ。)
ダンテの脳裏に、いけ好かない兄の顔が浮かんでくる。
(俺は一週間でも限界だ。)
いつも上から目線で、こっちの都合もお構いなし。
とんでもないエゴイストの兄は、ダンテへ連絡一つ寄越さない。
(こっちがどんな気かも知らないで、な。)
ダンテはアルコールの回った頭で考える。
今日はバージルとこのワインを飲むはずだった。
場所は屋上。
散らばっているガラクタから適当な木箱を見繕って、即席のテーブルと椅子にすればいい。
つまみは——考えていなかった。
冷蔵庫にあるピザの残りでいいだろう。
それからワインをグラスに注ぎながら、バージルへ例の昔話について水を向けるのだ。
衒気げんきというか、無意識に蘊蓄うんちくが傾きがちなバージルなら、きっと色んなことを話してくる。
星座の神話。
天文学的見地からの恒星の解説。
それらにまつわる文化や風習。
バージルの話を聞きながら、ダンテは星とワインを楽しんで、それなりにロマンチックな夜を過ごす。
それがダンテが思い描いていた、七月七日の過ごし方だ。
(———で、現実はどうだ?)
ダンテは瓶を唇に押し当てた。
滅多にない大雨に降り込められた、ダンテはいつものソファに一人もたれ掛かっていた。
一人飲みではつまみを用意するのも面倒で、同じことを繰り返すテレビニュースをあてに、安い瓶ビールを直飲みしている。
聞こえてくるのは外で暴れる雨音だけで、ロマンもへったくれもありはしない。
(別にいいさ、勝手に盛り上がってただけだ。)
誰にともなく、ダンテは胸の中で弁解する。
(こんな雨が降るなんてわからなかったし、元々約束だってしちゃいない。連絡しないなんてお互いしょっちゅうだ。俺だってこんなことで臍曲げる程、ガキじゃない。)
「————どうせ雨が上がれば、帰ってくるだろ。」
いつの間にか、弁解は口から溢れていた。
それに気づくと、ダンテはきまりが悪そうに口を尖らせる。
がしがしと頭を掻き、テレビの天気予想を見た。
雨は暫く、止みそうもない。
残りのビールを一気に煽ると、ダンテはテレビを消した。
そしてやっと重い腰を上げると、騒々しい雨音の中、シャワーを浴びにバスルームへと消えていった。


*****************

突然、雨音が大きくなった。
雨足が強くなったのではない。
家に響く音が鮮烈になった。
ダンテはベッドから起き上がる。
誰かが扉を開けたに違いない。
そう確信して、寝室を後にした。
外はまだ暗い。
日付は変わったばかりのようだ。
二階から下を見れば、玄関灯ポーチライトの灯りが差し込んでおり、扉が開け放たれていることがわかる。
そこに佇んでいる、大きな人影。
「バージル?」
ダンテは思わず名を呼んだ。
影は、ゆら、と動き、恐らくこちらを見上げている。
階段を降りるのももどかしく、ダンテは手すりを飛び越え一階へと着地した。
そしてすぐさま影に駆け寄ると、真正面からその姿を見る。
全身びしょ濡れの大男。
間違いなくバージルだ。
「お前、どうしたんだよ?」
ダンテは戸惑いながら問いかける。
背中越しの光と雨で落ちた前髪で、バージルの表情はよく見えない。
ただコートは変色するほど雨に濡れ、滴る水が足元に水溜りを作っているのがわかる。
確かめてはいないものの、多分まだ道路も電車も復旧していないはずだ。
時空を斬り裂く閻魔刀もあるが、父の力を尊ぶバージルが普段の移動で使うことはない。
となれば、まさかバージルは歩いて帰ってきたのだろうか?
こんな雨の中、歩けば一日はかかる距離を。
ダンテは目を丸くする。
「あー……バージル?」
かける言葉を見つける前に、口が動いていた。
しかし当然間が持つ訳もなく、雨音だけが鳴り渡る。
言いたいことがある筈なのに、喉の奥の『何か』は形を成さない。
ダンテがまごついていると、先に動いたのはバージルだった。
右手がゆっくりと上がる。
ぼたぼたと音を立てながら水溜りを広げ、その手はダンテの頬へ辿り着く。
雨のせいだろうか。
その手は冷え切り、柔く頬をさするたびに、微かに体温を奪っていく。
一体どれだけ雨に打たれていたのか。
きゅ、とダンテの胸が締め付けられる。
そして少しずつ、少しずつ、喉の奥の『何か』が輪郭を得ていった。
「………その…なんだ。」
恐る恐る、ダンテはバージルの手に自分のそれを重ねる。
「もしかして、お前………」
ごくり、と喉が鳴った。
このまま言葉を飲み込むべきか。
そんな逡巡もあったが、そんなものは胸で膨らむ想いで押しやられた。
ダンテは意を決して声を絞り出す。
「………俺に会いたくて、わざわざ帰ってきた……とか?」
ぴたり、とバージルの手が止まる。
図星だ、とダンテは思った。
かあっと全身に熱が巡る。
バージルは何も言わない。
だがそれこそが最上級の肯定だ。
まさかあのバージルが。
ダンテは逸る気持ちを抑えられない。
それに気付いたらしいバージルは、口元を歪めてさっと手を引く。
そしてダンテを押し除けると、そそくさと事務所の奥へと歩き出した。
しかしそんな程度で、ダンテの気持ちは治らない。
ダンテはバージルの背に飛びついた。
虚を突かれたのか、意外にもバージルは倒れ込んだ。
ばしゃり、とブーツの中の水が溢れ、床が水浸しになる。
ダンテもすっかり濡れ鼠だが、そんなことは気にならなかった。
いきなり押し倒されたバージルは、身を捩ってダンテに向くと、今にも怒鳴りつけんばかりに口を戦慄わななかせている。

「なあ、バージル。星を見ようぜ。」

こんな土砂降りでは、空の星など見えはしない。
けれどダンテには、あのワインの星座で十分だった。
バージルと一緒なら、インクで描かれた星だって、満点の星空に負けはしないのだ。
「星を見ながら、ワインを飲むんだ。雨は降ってるし、木箱のテーブルもねえ。ピザも全部食っちまった。だけどお前がいるなら、それで十分。わかるだろ?バージル。」
ダンテはぐいっと、バージルの前髪を押し上げた。
薄明かりに、困惑しきったバージルの顔が照らし出される。
きっと状況を飲み込めていないのだろう。
けれどそれでも構わない。
ラベルの星座を眺め、ワインを傾けながら。
一つ一つ話せばいい。
何せバージルはもう、ダンテのために帰ってきたのだから。
ダンテはにいっと笑う。
雨音が僅かに小さくなって、空気がふっと軽くなる。
ダンテは両手でバージルの頬を包んだ。
冷たい肌に体温を分けるように、優しく、しっかり包み込む。
暫く熱を分け合った後、ダンテはバージルの額へとキスをした。
ずっと燻らせていた、一週間分の愛を込めて。
やがてバージルの手がダンテへと伸びてきて、ダンテは水溜りへと引き倒される。
覆い被さるバージルから、ダンテへ温かい雨が降ってきた。
ぱたぱたと肌を打つ雨越しのバージルは、怒ったような、切羽詰ったような顔をしている。
ダンテはそれがおかしくて、思わず小さく、くつくつと笑った。
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