Dead Man’s Day


どかんという音と共に、デビルメイクライの扉は蹴破られた。

珍しく朝早くからシャワーを浴びたばかりのダンテは、髪をわしわしと拭きながら舌打ちする。
「ご丁寧なノック痛み入るね。それで、修理代は持ってくれるんだろうな?バージル。」
嫌味ったらしく指差す先には、異様な雰囲気のバージルがいた。
閻魔刀を手に佇む姿は、決して温かい我が家に帰ってきた人間のものではない。
ダンテが、また何かバージルにバレたかな、と思案する暇もなく、今度は虚空から生まれた青い剣が放たれた。
答えの一つすら寄越さない兄に怒鳴りつけながら、ダンテは手にした自身と同じ名の魔剣で魔力の剣を砕き散らす。
「悪いが代金は現金のみCash Onlyだ!」
腹に据えかね、魔剣をバージルへと投擲するも、どうせ弾かれるだろうとエボニーとアイボリーを構えた瞬間。
「なっ……!」
鈍い音と共に、魔剣はバージルの左肩を貫いた。
まさか、と狼狽した隙を突かれ、即座に懐に飛び込まれた。
衝撃と共に、肩へと踵がめり込む。
ソファに押し付けられ、痛みに堪らず呻き声が漏れた。
バージルが覗き込むように身を屈めれば、魔剣を伝った血がばたばたと降り注いできた。
「おいバージル、肩っ……!」
傷へと伸ばす手を遮るように、バージルの手がダンテの首を掴む。
圧し折りでもするかと身構えるも、何故かその手に力が込められる気配はなく、何かを確かめるかのように微動だにしない。
訳がわからず手の主を見上げるも、目に入った血が視界を曇らせ、顔の位置すらおぼつかなかった。
バージルの意図がわからず、ダンテは首を差し出したまま待つほかなかった。
暫くするとバージルは深く息を吐き、緩慢な仕草で魔剣を引き抜く。
そして何事もなかったかのように、ふらふらと事務所を後にした。
去り際、ちらりとダンテを見た気がしたが、そこに確信はない。
「……何なんだ、あれ?」
ダンテの胸に、何かの影がふとよぎる。
しかしそれが何か、ダンテが気づく前に電話が鳴った。

———そうだ、今日はパティとの約束がある。

電話の受話器を持ち上げながら、ダンテはまたシャワーを浴びないと、とぼんやり考えた。



****************

パティは買い物袋の山を眺めながら顎に手を当てる。
「うーん。やっぱりさっきの靴、もう一回見に行こうかしら?」
公園のベンチに紙袋と共に腰掛けているダンテは、背もたれ大いに寄りかかり絶望のため息を吐く。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
「掃除の代わりに買い物に付き合ってくれるって言ったのはダンテでしょ。約束はしっかり守ってもらうわよ!」
確かに。
潔癖な同居人に部屋を片付けろと凄まれ、パティに掃除を依頼したのは他でもないダンテ自身だ。
そしてその報酬として買い物に付き合うことを承諾したのもまたダンテである。
ぐうの音も出ないほどに、パティの言うことは正論だった。
最も発端となった同居人は、先程扉を破壊した挙句、血を撒き散らして散々に事務所を荒らして回った訳ではあるが。

「今度友達と遊びに行くのよ!それでね、友達に気になる男子がいるって言ってたんだけど、その子も誘っちゃったの!絶対に二人をくっつけようって他の子達と」
「あの限定コフレ、デパートのカウンター限定なんだけど、購入制限あるから自分で買わなくちゃいけないの」
「でね、後輩たちが言うには、真夜中に川へ好きな人の名前を書いた紙を流して、両思いならその人の姿が現れるって」
「デートで行ったカップルは別れるなんていうけど、結局みんな行くのよね。夢の国のジンクスなんてそんなものなのかなって」

ダンテは、勘弁してくれ、とは言わなかった。
流石にそこまで恩知らずではない。
しかしパティのマシンガントークはダンテの脳には至らず、合っているかもわからないタイミングで相槌を打って場を凌ぐ。
「でも私嬉しい。最近ダンテ全然会ってくれなかったから。こんな風にデートできるなんて、久しぶりだもの。」
話題が自分へと向けられ、ダンテは漸く傾聴を開始する。
パティが言う通り、最近は仕事が多く以前よりプライベートな時間は減っていた。
それは借金の多さにキレた同居人が、どんどん仕事を入れてくるせいだ。
向こうは向こうで仕事をこなしているようだが、ダンテを手伝う気はあまりないらしい。
こっちの気も知らないで、と行方不明の同居人に毒を吐く。
「色々大人には事情があるんだよ。」
パティにはそう誤魔化した。
しかしパティは
「あら、私もう18歳よ。立派な大人だわ。」
と返す。
そういえば、とダンテはパティを見る。
ウェーブのかかった金の髪は緩いハーフアップアレンジでまとめられ、着ているシフォン地のワンピースは落ち着いた花柄がよく似合っていた。
目の前の『彼女』の姿は、文句のつけようがなく、美しい『大人の女性』のそれだった。

20年前。
自分や同居人がパティと同じ年頃だった時、自分達はどんなだったろうか。
ふと、そんなことに思いを馳せる。

「———そうだな、パティ。お前は素敵な淑女だ。だからお友達みたいに、いい相手見つけろよ。」
「ねえ、ダンテ。私——」
「あらダンテじゃない。」
パティの声を遮るように、聞き覚えのある声がした。
二人が声の方を見ると、向こうからまるでランウェイでも歩くように、颯爽とこちらへ歩く美女二人が見えた。
「レディ!トリッシュ!」
ダンテよりも先にパティが声を上げる。
また厄介なのが来たな、とダンテは思ったが、それを口にすれば更に厄介なことになると、ダンテは知っている。
沈黙は金。
ダンテは黙ってひらひらと手を振った。
「こんにちは、パティ。お供を連れて楽しそうね。」
「こんにちは、トリッシュ。今日はショッピングに付き合って貰ってるの。」
「そのようね。あら、このコフレ買ったのね。結構人気があるみたいだけれど。」
トリッシュとパティはいかにもな『女子トーク』で盛り上がっている。
鼓膜をけたたましく震わせる主が増え、ダンテは口をきゅっと結ぶ。
「大変そうね。」
「お気遣いいただき光栄だね。」
レディのわざとらしい労いの言葉が癪に触る。
いつもならここまで苛立ちもしないが、神経が過敏になっている原因が同居人の襲撃であることは、火を見るよりも明らかだった。
馬鹿みたいに大暴れした癖に、あんな風こっちの喉が詰まりそうなくらいに深く重い息を吐かれてしまえば、ダンテは気持ちのやり場がない。
しかしそんな心境を知る由もないレディは、いつもにも増して楽しそうだ。
ダンテはじっとりとした目をくれてやるも、レディはどこ吹く風と背もたれに腰をかけ、こう言い放った。

「それよりもダンテ、あなた死んだんですってね。穴蔵じゃ今その話題で持ちきりよ。」

レディが放った台詞は、あまりに唐突で意味不明なものだった。

ダンテはじろりとレディを見る。
「そいつは初耳だな。本人の知らないところで、随分面白い事件が起きてるもんだ。」
「ふふっ、そうでしょう?だから私達、ちょっと見学に行くところなの。ねえ、トリッシュ。」
込み上げる笑いを堪えもせずに、レディはトリッシュにウインクする。
「折角だからあなたも行く?自分の死体にお目にかかれるなんて、滅多にない機会よ。」
聖餅ホスチア葡萄酒ワインもないけど、自分にお別れくらいしてみたら?」
「どうせ逝くならピザとビールを拝領したいもんだね。で、どこで俺が死んだって?」
「川に廃橋があったでしょう。そこにあなたの『死体』があるそうよ。」
トリッシュから渡された地図を見ると、お世辞にも治安がいいとはいえない区画に赤いチェックマークがついている。
そんな場所へ、まるでショッピングにでも行くように足を伸ばす。
しかも目的は、『ダンテの死体』の見物する、と。
やはりこの二人は、敵に回すべきではない。
ダンテは肝に銘じた。
「……パティ。悪いが用事だ。」
「えー!?そんな、まだ途中よ!」
「埋め合わせは今度する。荷物を運んだら、今日はそれでお終いだ。」
「ちょっと勝手に決めないでよ!埋め合わせなんてしたことない癖に!」
ダンテはひょいと荷物を抱えると、抗議するパティを尻目にさっさと歩き出してしまった。
今日は朝から同居人の襲撃で事務所を破壊され、淑女付きの荷役ポーターとして酷使され、遂には自分の訃報まで受け取るとは。
最高に笑える日だ It’s a dead hilarious dayとダンテは嘆く。
いつもより小さく見えるダンテの背中を、パティが慌てて追いかける姿に、トリッシュがくすくすと笑いをこぼす。
「故人兼参列者さん。私達ここで待ってるから、早く戻ってきてね。」
レディは踊るようにくるりと回ってみせる。冗談でも自分の『葬儀』へ、こんなにも嬉しそうに『参列』する姿に、ダンテは何とも複雑な心持ちになった。


****************

ところどころコンクリートが剥がれ、鉄筋が剥き出しになった橋の袂。
橋脚に殴り描かれたグラフィティすら色褪せるそこが件の現場だ。
まだ午後に入っていくらもしないのに、やけに暗いのは気のせいだろうか。
ダンテ達三人が橋桁の下へ降りれば、そこには見慣れた男がいた。
何やら帽子を脱いで、仕切りに頭を摩っている。
「モリソン!」
「何だ、お前達が代打PHか。」
ダンテの呼びかけに、モリソンは待ち侘びたとばかりに脱力した。
「珍しいな、あんたがこんな所にいるなんて。」
「エンツォの奴に嵌められたんだよ。でなきゃこんな場所なんざ来やしないさ。ったく、面倒事だってわかった途端に押し付けて……」
「で、その面倒事っていうのは足元の『それ』なのかしら?」
愚痴をこぼすモリソンを尻目に、トリッシュは視線で足元に転がるものを示す。
虫食いだらけのボロ切れに覆われた『何か』。
三人はしゃがみ込んでそのボロ切れを囲む。
「ああ、今はもう大丈夫らしいがね。川の辺りで色々を悪さしていたらしい。」
ダンテはバサリとそれを捲った。
「……‥これが『俺』、ねえ。」
「何これ。」
「………トド…ヒキガエル…?かしらね?何だかブヨブヨして……でも手足の形は人間みたいな……」
「腐った卵みたいな臭い…ハンプティダンプティの成り損ないじゃない?」
「いや、普通に悪魔だろ。」
「見事に真っ二つねえ。ええと、これは鼻?触手?捥げてるけど何処についてたの?」
「誰だよこんなの『俺の死体』呼ばわりした奴は。」
「確かエンツォだったわよね?レディ。この話持ち込んだのは。」
「ふざけんなよアイツ。」
「ま、どうせこんなオチだとは思ってたわよ。」
「心配して損したわね。」
「あ、ねえダンテ、このぷよぷよしたお腹。これなら最近のあんたに似てるんじゃない?」
「けっ、そうだな。仕上げにヴォルケイノを一発かませば、もっと俺に似るだろうよ。」
「あら…?そういえばこの悪魔どこかで……」
「おいおい、お喋りも結構だが、結局誰が仕事を代わりにやってくれるんだ!」
堪らないとばかりにモリソンが声を張り上げると、三人はぴたりと会話を止める。
そして全員でモリソンを見上げると、勘弁してくれと顰められた顔が見えた。
「そいつは元々厄介な代物だ。早いところ片付けないと、また何があるか知れたもんじゃない。全く、エンツォどころかアイツまで放り出して……」
「アイツ?そういえば代打PHって言ってたな。誰が最初、この仕事請けてたんだ?」
その問いに、モリソンはちらりとダンテを一瞥する。
そしてわざとらしくため息をつくと、視線を逸らせてこう言った。


「お前さんの兄貴だよ、ダンテ。」




****************

「だから悪かったって言ってんだろぉ?悪気はなかったんだって。」
夜の穴蔵。
軽薄を絵に描いたような男は、ダンテに貢ぐ酒瓶を手にしながら体をくねらせる。
一仕事終え、トリッシュ達とポーカーに興じるダンテには、小太りの中年男を相手にする気などさらさらなかった。
「うるせえな、寄るなよエンツォ。ベット、三枚。」
「私はコール。トリッシュは?」
「レイズ、三枚でいいわ。」
ダンテは煙たいと手で追い払うが、エンツォは諦めない。
ガチャガチャとなる瓶がうるさかった。
「なあ、機嫌直せよダンテ。」
「けっ、こんな色男捕まえといて、あんなマシュマロマンと間違えるなんざ、全く節穴もいいとこだぜ。あー、二枚貰うぜ。」
ストックに伸ばされたダンテの手を遮るように、エンツォは顔を捩じ込んでくる。
邪魔だ、と押し退けてやってもエンツォは諦めない。
「いやでもな、アレがダンテに見えたんだよ。バージルだってアレをダンテって呼んでたんだぜ?」
エンツォの言葉に、ダンテはとぴくりと反応する。
「そういえばあの仕事、バージルが最初に請けたんだったわね。なんであいつは途中で放り出したの?らしくないじゃない。ダンテ、三枚ちょうだい。」
首を傾げるレディに、ダンテは乱暴にカードを投げる。
またバージルか、と神経が焼けつくのを感じる。
「いやな、最近噂があってよ。夜あの川でアブラカタブラなんてやると、死んだ家族だの好きな相手だのが出るって話だったんだ。だがその内何人かが幽霊モドキに襲われたなんて話が出たもんだから、俺のとこに仕事が回ってきたってわけよ。」
「川ねえ……そういえばパティがそんなを話していたわ。」
トリッシュは口に手を当て、何かを考え始めた。
その顔から、手札の役を見定めている訳ではなさそうだとダンテは察する。
「おう、そんじゃまあさっさと片付けようってんで、俺ぁたまたま空いてたバージルに頼んだんだよ。それで夜二人で川まで行って様子を見てたんだがな。急に人っぽいもんが出てきて、バージルがダンテなんて声かけやがったもんだから、俺もてっきりお前が出てきたと思ったんだ。実際、見た目もそっくりだったしな。」
エンツォはテーブルの酒瓶に手を伸ばすと、気つけとばかりにぐびぐびと中身を飲み下
した。
「———それでよ、バージルがいつもみてえに、あの青い剣をダンテにぶっ放したんだ。でもどうせ叩き落とすだろうって思ったんだろうな。追い討ちでカタナをこう、バッサリといったわけよ。そしたらどうだ?あのダンテ。串刺しになるわ真っ二つになるわ、そんでそのまま死にやがったんだよ!いつもみてぇに起き上がるでもなく、血ぃドバドバ流して、そのままばったりよ。で、バージル野郎、なんかぶつぶつ言ったと思ったら急に帰っちまって、俺だけ取り残されて……」
「思い出した。」
エンツォを遮るように声を上げたのはトリッシュだった。
「アレ。脳に干渉してくる悪魔よ。獲物の記憶を読み取って、認識に異常を発生させるの。」
レディとダンテが顔を上げるとトリッシュは、くるくる、とこめかみの辺りで人差しを回した。
「今回は多分、川に来た獲物の思考を読んで、獲物がかかりやすい幻覚が見えるよう脳を弄ったのね。だから川に行った人間は、強く記憶してる人間を見たって錯覚したのよ。エンツォがあれをダンテだと思ったのは、バージルがアレをダンテだと言ったから、そう思い込んだところで脳を弄られたってあたりかしら。」
トリッシュはダンテへ指でカードを二枚要求したが、ダンテは反応できなかった。

———幻覚が見えるように

———バージルがアレをダンテだと言ったから

(———それでバージルは、『俺』をどうしたって?)

ぞわり、と胸が騒ぐ。

「ふうん、ドッペルゲンガーとは違うのね。」
「ええ、ドッペルゲンガーは死ねば形が戻る。でもアレは脳を弄ってくるから、アレが死んでも暫くは知覚の異常が続くのよ。」
「おいおいマジかよ!俺の脳みそどうなっちまうんだ?!」
「騒がないで。弄るといっても脳を変質させるまでじゃない。暫く放っておけば、元に戻るわよ。」
まとわりつこうとするエンツォを、トリッシュはひらりと華麗にかわす。
伸ばした手が空回り、エンツォが派手に床へと倒れると、穴蔵はどっと湧いた。
しかしダンテは笑わない。
薄い膜越しのような喧騒に、ダンテは身を委ねら余裕などなかった。
「———ドロップ。悪いが今日はもう帰る。」
静かに告げると、ダンテはすっくと立ち上がった。
「あら、珍しく勝ってるのに?」
その声に咎めるような色はなく、むしろ柔らかな空気さえ含んでいる。
「ああ、 黒のエースと8のツーペア Dead Man’s Handだ。今日これ以上『死ぬ』のはこりごりなんでね。」
ダンテは一人ショーダウンして、わざとらしく降参のポーズをする。
その様子にトリッシュは微笑み、優雅な仕草でストックから二枚カードを取った。
「……あら、残念だわ。私、ストレートだったみたい。」
「こっちはフルハウス。命拾いしたわね、死人さんMr. Dead Man。」
「……………」
苦虫を噛み潰しながらダンテは二人を見下ろすが、レディとトリッシュからの眼差しは温かい。
「早く帰ったら?やりたいことでもあるんでしょ?」
そう言ったのはレディだったが、トリッシュもくつくつと笑っている辺り、ダンテの考えることなどお見通しのようだ。
やはりこの二人は、敵に回すべきではない。
ダンテは改めて肝に銘じた。
「じゃあね、ダンテ。」
背中越しにレディの声を聞きながら、ダンテは穴蔵を後にした。


****************




何度も何度も夢を見た。



あの時。
炎の中、母さんの言葉を言い訳に、バージルを置き去りにして逃げたこと。

あの時。
たかが拒絶されたくらいで、バージルへ手を伸ばすことを諦めたこと。

あの時。
この世でたった一人の片割れなのに、バージルだと気付くことなくとどめを刺したこと。


眠るのが怖かった。
あの時の悪夢を見るから。

目を開けるのが怖かった。
もう失ってしまったと思い知るから。


名前を呼んでほしかった。

手を取ってほしかった。



そばに、いてほしかった。





****************

事務所に着くと、案の定扉は壊れたままだった。
ただしダンテが放置していった扉の残骸で、申し訳程度に入口が塞がれている。
誰かが中にいる証拠だ。
少しだけ、胸の締め付けが緩む。
ダンテは音を立てないよう、そっと残骸を潜って事務所に入った。
もう夜更けだというのに、明かりはついていない。
しかし部屋の奥。
ソファの辺りに、夜に溶けた人影があった。
どうせバレてはいるだろうが、一応足を忍ばせて近寄ってみる。
血で汚れたソファ。
そこにはやっぱりバージルがいた。
肩の傷は治ったようだが、服は朝のまま。
腕を組んでじっと目を閉じている。
恐らく眠ってはいないだろう。
少なくとも、以前のダンテはそうだった。
ぐるりとバージルの前に回り込むと、ダンテは、すとん、としゃがみ込む。
下から見上げるバージルの顔は、暗くて少しわかりづらいが、いつもより強張っているように見えた。
「バージル。」
ダンテが名前を呼ぶと、僅かにバージルの目元が動いた。
「バージル。」
ダンテはもう一度名前を呼ぶ。
ずっと自分がしてほしかったように、はっきりと。
ダンテは少し強引に組まれた腕を解き、バージルの左手を握った。
ずっと自分がしてほしかったように、力を込めて。
ゆっくりと瞼が上がり、薄氷の瞳がダンテを映す。
「……‥何だ。」
「よう、やっとお目覚めか?」
バージルの顔は硬いままで表情を崩はない。
「ひっでえ顔だな。幽霊でも見たか?」
バージルの反応は芳しくない。
もしかしたら脳が戻りきっていないのかもしれない、とダンテは思った。
「疑うなら確かめてみろよ。朝みたいに。」
ダンテは握っていた手を自分の首に当てがい、とんとん、と指で促してみる。
乗ってくるかは半々だったが、バージルは案外素直に手に力を入れきた。
バージルの指はそっと首筋を伝い、動脈の辺りでぴたりと止まる。
夜抱いてくる時だって、こんなに優しくないだろう。
ダンテは苦笑したが、黙ってバージルの触れたいように触れさせた。
それなりに長い時間が経った後、バージルは納得したのか、また深く息を吐いて手を放す。
「幻影剣はいいのか?本物か腕試ししたいだろ。」
バージルは唇を引き攣らせたが、ダンテの手を振り解きはしなかった。
「なあ、バージル。『俺』を殺したんだって?」
バージルは答えない代わりに、視線をダンテから逸らした。
「最低な気分だろ。」
ダンテは笑う。
「俺もそうだった。」
バージルに傷を晒すのにはまだ慣れない。
かつての悪夢がじくじくと胸を焼き、口元が歪んだ。
けれどダンテにはそれに耐えてでも、バージルに伝えなくてはならないことがあった。
「———けどな、残念ながらこの通り。俺はピンピンしてここにいる。だからバージル。その悪夢ゆめはもう終わりだ。終わりなんだよ。」
かつて独りで目覚めた時。
望んで止まなかった言葉を。
どうしても得られなかった言葉を。
ダンテはバージルへと伝える。

独りではない。

ただそれだけの、しかし何ものにも変え難い大切な言葉を。

ダンテからバージルへと伝えた。


逸らされていたバージルの目は、いつの間にかダンテへと戻されていた。
そこに険しさはかけらもなく、凪いだ海のように深く静かだ。
ダンテがそれに見惚れていると、バージルは徐に手を振り払う。
そして今度はダンテの手を握りしめると、それを自分の首へと当てがわせた。
先程ダンテが、バージルにしたように。
困惑するダンテをよそに、バージルはダンテの手に自分のそれを添わせ、動脈のあたりに指がくるようにする。

「ダンテ。」

バージルが名前を呼ぶ。

酷く穏やかな声で。

「———お前の悪夢ゆめは、醒めたか。」

ダンテは思わず目を見開いた。

曝け出され、痛みで身を焼いていた傷がみるみるうちに癒えていく。

名前を呼んでほしかった。

手を取ってほしかった。

そばに、いてほしかった。

その望みの全てが、今ここにある。

体を焼いた痛みが、熱となって眼からこぼれ落ちそうになる。
しかしそんな格好悪い姿は、バージルに見られたくない。
ダンテは俯き、長い髪で顔を隠す。
代わりにバージルの首に当てがった指に、ほんの少しだけ力を入れた。
どくん、どくん、とバージルの音が伝わってくる。
バージルが生きている音。
バージルがここにいる音。


「———そうだな。」


ダンテは笑った。



「———最高の寝覚めだよ。」



ぽろり、と熱が頬を伝った。
1/1ページ
    スキ