第一章 異世界
第一章 異世界
ところかわってここは世界一の大国シャーナーン。
その首都ジャスティ。
そして王城オーシャン。
謁見の間で皇帝の第一皇子アレクが謁見している。
北国シャーナーンは周囲を海やら山やらに囲まれていて、おまけに気象条件が味方して冬になると、ほとんど陸の孤島状態だった。
だから、他国からの侵略をそれほど気にしなくて済む。
そのせいか冬に謁見が行われるときは、他国絡みではなく宗教絡みだったりした。
シャーナーンの主教はイズマル教と言われる一神教で大神イズマルを崇拝している。
イズマル教は他国にも広まっているが、その布教に関わることで使用されることが、冬は非常に多いのである。
イズマル教の盟主は皇帝だが、今その実権を握っているのは第一皇子アレクだった。
そのため皇帝とアレク皇子が逢うとなると、ほとんどが宗教絡み。
「ダグラスが動いたそうだな?」
皇帝が憂鬱そうに言う。
ダグラスとは最近できた新興国で、昔は世界最強とまで言われていた国の人々が集まってできた小国家だ。
だが、軍事力は侮れない。
何故かというとダグラスは世界中で唯一召還師を抱える国家だからである。
国民のほとんどが召還師だとも言われ、事実現大統領ウィリアムも召還師だと聞いている。
大統領が頭角を顕してきているだけに、ダグラスの状況は知っておかなければならないことだった。
「彼らは異端の宗教、自然教を信じていますからね。そのために活動しているようです」
「自然教を信じることと召還獣を召還し続けることとなんの関係がある?」
「彼らに言わせれば召還獣を召還できることこそ太陽神の恵み、なのだそうですよ。
実際四大宗教とまで言われている我が宗教、イズマル教とダグラスの掲げる自然教、そして東国の華南の掲げる四神教。最後に宿敵ルノールの掲げる全世界精霊教。
そのすべてになんらかの影響力があるのは現実です。彼らが召還獣を召還し続けることで、自らの宗教の正統性を訴え続けることは、ある意味で正当な行為ですよ、陛下」
例えば古王国ルノールの信じる全世界に精霊が存在していて力を与えてくれるという全世界精霊教においては、ルノールは精霊の加護を受ける国だとかで、人々は日々精霊に感謝の気持ちを捧げて暮らしている。
そうして優れた信仰力を認められた者だけが持てるという、一種のステイタスである精霊使いの称号。
ダグラスとルノールはその異なる類似点によって脅威だった。
ダグラスは自然教を信仰し、その証として召還術を使う。
そうして脅威的な力を持つ召還獣を召還しては戦力としていた。
ルノールは数こそ少ないが、精霊使いが普通に存在していて、本国に攻め込むことは、まず成功しないと言っていい。
しかもルノールの人間にしか見えないという利点まである。
お陰で精霊使いに攻撃されると防御のしようがなかった。
華南は一番問題が少ないように思われるが、民族的に攻撃的な一面を持っており、おまけに彼らが信じる四神教によれば、なにかひとつなら願いを叶えて貰えるらしいのだ。
その権限を使った帝はまだいないから、四つの願いを叶えられる可能性を秘めている。
つまりどの国も脅威になり得るのだ。
イズマル大神はすべての神々の頂点に位置するべき神だが、実在も危ぶまれるほどに昔話信仰力がなく、省みられるようになったのは、シャーナーンが世界一の大国になってからだ。
シャーナーンは他の国々のように神々に頼ることなく、自国の力だけで世界一になった。
それがアレクの誇りであり、イズマル大神は確かにいるという信仰の由来となっている。
でなければ一小国家に過ぎなかったシャーナーンが、ここまで大きな国になれるわけがない。
他の国々のように特別な力は持っていないのだから。
「それでウィリアム大統領は今回はなにを召還したのだ?」
「それが……人間らしいんです」
「人間? それでは召還獣ではないではないか」
皇帝が呆れた声を出す。
「それがこの人間、召還されたくせぬダグラス人と同じ特徴を持っているとか」
国々にはそれぞれ人種的特徴があり、国が敵対関係にあることもあって、その人種的特徴は未だに守られていた。
シャーナーンは金髪、碧眼、象牙の肌。
ルノールは銀髪、緑眼、肌は雪のように白い。
華南は黒髪、黒瞳、肌は黄色みを帯びている。
そして最後に人種的歴史は古いダグラスは赤髪、金瞳、褐色の肌をしていた。
「つまりなにか? その召還された人間は金髪、金瞳、褐色の肌をしていると?」
「しかも召還獣らしく人間にはない能力を所持しているとかで」
「厄介な。獣だけでも面倒だったものを。イズマル大神への冒涜だ」
実はイズマル大神が赤髪、金瞳、褐色の肌と伝わっていた。
ルノールを宿敵と呼びながらも、ダグラスを敵対視する理由がそれである。
信じる神と同じ姿。
それだけでダグラス人は神への冒涜をしている。
それが彼らの感じ方だった。
勿論ダグラス人には知ったことではなかったが。
「もしかしたら神の特徴を宿した人間というのは、探したら他にもいるかもしれませんね」
「成る程。だが、その召還獣がそうだとしたら?」
「いえ。わたしの信じる神の特徴を宿した人間というのは外見のことではありません。能力のことです」
「能力?」
皇帝が怪訝な顔をする。
「イズマル大神が真実神々の頂点に立つべき唯一絶対の神ならば、その特徴を宿した人間がいるとすれば、絶対にすべての宗教の理を打破する者でなければならない」
「……ふむ」
「すべての宗教には理があります。ダグラス人がルノール人のように精霊使いになれないように、ルノール人がダグラス人のように召還できないように。そして華南人のように神々を召還し願いを叶えて貰える資格を我々が持たないように」
「しかしそんな人間……いるのか? 本当に?」
皇帝は信じていない顔だったが、アレクは丁寧に頭を下げた。
「時間を下さい。少し探ってみますので」
「そなたに任せる。だが、気取られるな」
「はい」
頷いてアレクは謁見の間から外に出た。
そこでは第二皇子カインが立っている。
「……カイン」
「また暗い顔だな、アレク」
カインは弟だがアレクのことは呼び捨てにしていた。
それはふたりの母親が違うことに由来する。
ふたりにはまだ弟と妹がいるが、どちらもふたりとは母親を異にする。
シャーナーンは一夫多妻制の国なのだ。
「大神の特徴を持つ人間を捜すと父上に約束してしまった」
「どうしてそんな真似を? いるかどうかもわからないのに」
「ダグラスが大神と同じ外見の人間を召還獣として召還した」
「あの噂は事実だったのか」
カインは遠い眼をする。
彼は軍関係の仕事をしているので、そういう噂が入ってくるのも早いのだ。
「ダグラスの下で召還されたその人間が、イズマル大神の化身などと噂されるのは困る」
「だからといっているかどうかもわからない人間を捜すと約束するのは安易すぎる。アレクらしくない」
信心深いアレクらしい発言にカインは苦笑する。
冷静にみせながら実は熱血漢なところのある長兄が、彼はとても好きだった。
器用に振る舞いながら実は不器用で、誤解されても誤解されても、それを受け入れて許してしまう。
そんな一面がアレクにはある。
懐の深さとでもいうのだろうか。
そのアレクが唯一冷静さを失うのが大神に関することだった。
それだけ兄が信心深いということだとカインは納得している。
「アレクはどんな手を打つつもりなんだ? なんならおれが諸国を巡ってもいいが」
「今は敵国とはいえ特に戦争状態にあるわけでもないからな。今回は俺が動く」
「アレク!!」
思いがけない兄の発言にカインは慌てたが、アレクは譲らなかった。
「これは俺が言い出したことだ。カイン巻かせにはできないだろう」
「……だったら護衛としておれを連れていってくれ。この国一番の剣士を連れていかない手はないだろう? それにおれは……」
「猛獣使い……か?」
カインは軍で働くようになってから、森などで夜営する機会も増えて、その際に獣に襲われることが多かったので、訓練してある程度の獣なら操れるようになっていた。
指笛ひとつで獣を操るその姿にアレクは常々感心していたものだ。
神々の信仰の力を借りて召還術を使ったり、精霊術を使ったりするダグラス人やルノール人などより余程凄い。
それを口に出しても万事控えめなこの弟は、おそらく受け入れないだろうけれど。
「しかしそうすると宮殿に残すケインやシャーリーが心配だな」
アレクが口にした名は第三皇子と第一皇女の名前である。
シャーリーが姉でケインが弟だ。
シャーリーはカインのすぐ下の妹でケインは末弟だった。
それだけにふたりは妹と弟をとても可愛がっている。
陰謀渦巻く宮廷に幼いふたりだけを置いていくというのも心配だ。
「シャーリーはお転婆な分しっかりしている。ケインを任せても大丈夫だろう」
「お前はシャーリーを信じすぎだ。カイン。あれでも皇女なんだぞ?」
「信じなければおれたちのような立場の者は動けない」
「確かに」
ため息交じりに頷くアレクだった。
「イタタタ」
呟きながら朝斗は目を開ける。
なにか忘れている気がしてハッとした。
「綾都っ!?」
上半身を起こして振り向けば、綾都はすぐ傍で倒れていた。
「綾?」
そっと肩に触れる。
身体に響かないように調べてみたが、特に傷を負っているようには見えない。
ホッとした。
グルリと周囲を見渡す。
「どこだ? ここ……?」
どう見ても見覚えのない街並みだ。
古典的というのだろうか。
どこの物とも知れない街並みが続いている。
何故古典的だと思ったかと言えば、電線とか電柱とか、本来あるべきはずの物が見当たらなかったからだ。
それだけじゃない。
ふたりは車に跳ねられたはずだが、あそこは信号だったはずで、いきなりこんなところで寝ているなんて、どう考えても普通じゃない。
「う、ん」
綾都が魘された声を出して、朝斗は取り敢えず疑問を放置することにした。
「綾?」
「……兄さん?」
綾都が苦労して身体を動かして上を向いた。
そこに広がる景色に目を丸くする。
「変なことを聞いていい? 兄さん?」
真面目な顔をする弟に答えてやりたかったが、朝斗はあっさりと却下した。
「ここがどこだ? とか。どうやってここに来たのかとか。そういう問いなら悪いけど却下だ。それは俺が知りたい」
「……やっぱりそうか」
綾都は起き上がりたそうだったが、どうやら起き上がれないようだった。
それでやっぱり怪我をしているのだろうかと朝斗は心配になる。
「どこか怪我してるのか? 綾?」
「そういうわけじゃないけど。なんか身体に力が入らなくて」
綾都もさっきから起きようとしているのだ。
ここがどこかは知らないが、こういう知らない場所で寝ていて、問題視されたら困るから。
だが、身体に全く力が入らない。
朝斗は首を傾げてから弟が起き上がるのに腕を貸した。
ふらつきながら綾都が起き上がる。
だが、支えていなければ、すぐにでも倒れそうだった。
「どこかで休めたらいいんだけど。さすがに……」
朝斗が困ったように周囲に視線を走らせる。
そこへどう見ても真っ当に生きてませんと言いたい男たちが声を投げてきた。
「おい。そこの兄ちゃんや」
朝斗が声のした方へ顔を向ける。
綾都は動けないので兄にしがみついた。
なにかあると兄に頼るのが綾都の癖なのだ。
「えっらいキレーな姉ちゃん連れてるなあ?」
「「姉ちゃん?」」
ふたりが顔を見合わせる。
どう考えてもそれは朝斗ではなく綾都のことだろう。
女の子に間違われるのは慣れているが、さすがにこういうときは避けたかった。
男たちの目的が平和に「お茶しましょ?」なんてものじゃないことは、暢気な綾都にだってわかるので。
「悪いことは言わねえ。そこに置いてきな?」
「そうしたら命まではとらねえからよぉ」
男たちがイヒヒと笑う。
朝斗は弟を抱く腕に力を込めた。
綾都に付き合っているせいで、武道なんて習ったこともない朝斗では、三人もの男たちを同時に倒せないのはわかりきっている。
全身で庇うことしか朝斗にはできなかった。
「……兄さん」
綾都が困ったように名を呼ぶ。
このままでは自分のせいで兄を傷付けると思ったからだろう。
だが、朝斗は抱いた腕を離そうとはしなかった。
益々きつく抱き締める。
その様子に男たちが気色ばんだ。
「聞いてんのか、兄ちゃんよぉっ!!」
男のひとりが朝斗の襟首を掴もうとする。
するとそこへシュッとなにかが風を切る音がして、音が慌てて手を引いた。
「そんなところでなにをしている?」
ファンタジーゲームのごろつき風だった男たちの格好から見れば、格段に品が良さそうな豪華な衣服に身を包んだ青年が立っていた。
年の頃は20歳前後だろうか。
右手で剣を握っていて、綾都と朝斗は男たちより彼の方に怯えてしまう。
顔付きは気品があるし、どこから見ても美形で通る。
しかしふたりは剣なんていう物騒な物には耐性がなかった。
男たちは気色ばんで振り向いたが、青年が紫の衣装を身に纏っているのを見て、「ゲッ」と声を出した。
「紫の服……だと?」
「兄貴ぃ。どーすんだっ!? こいつ……皇族だぜ!?」
「「皇族?」」
その言葉の意味するところに綾都と朝斗は顔を見合わせる。
冗談ではないのだろうか。
彼が皇族?
「皇族ならちょうどいい。捕まえて売っぱらっちまえば金になる!!」
「下郎だな。相手の実力も見抜けないとは」
男たちが構えている間に青年が何度か剣を振ってみせる。
それだけでバラバラと男たちの服が切断された。
皮膚一枚傷つけることなく服だけ切断したのだ。
剣の腕前の差は明白だった。
その段違いの腕前に男たちは慌てて逃げ出した。
「覚えてろーっ!!」
という如何にもな負け犬の遠吠えを残して。
それを見送って青年が剣を腰に戻す。
綾都は兄に庇われたままで、真っ直ぐに彼を見た。
スレンダーだが鍛えられているのがわかる身体付き。
身長は兄よりも高いだろうか。
まあ年上だから当たり前だが。
マジマジと見上げてくる綾都に青年は少し困ったように笑う。
「そう熱烈に見られると困るんだが」
「熱烈って」
男同士で使う表現だろうか?
綾都が悩んでいると朝斗が慌てて綾都の顔を自分の胸に伏せさせた。
「兄さん?」
「兄妹か。お前たちどこの者だ? 外見的特徴は華南人と同じだが、顔付きが違う。そんな自国民はわたしは知らない」
「華南人?」
言葉の意味がスッと頭の中で置き換えられる。
今更のようにふたりは気付いた。
彼らと自分たちは同じ言語を使って会話しているわけではない。
使っているのは全く異なる言語だ。
おそらく綾都たちは日本語を。
彼は母国語を使っているはずだ。
その証拠に今意味のわからない単語が出て、その意味が脳内で変換された。
華南人。
華南という国の人間と。
ふたりの脳にはそう理解できた。
「……すみませんがここはどこでしょう?」
「華南の王都、宮古だが?」
また意味のわからない言葉だ。
だが、すぐに脳内で変換される。
つまり華南という国の首都で宮古と呼ばれている場所なのだ。
どうして理解できるのだろうとふたりは悩んだ。
「訊いているのはわたしなんだ。答えてくれないか?」
「兄さん。この人は悪い人じゃないよ。隠さないでほんとのことを言おう?」
腕の中から綾都が訴えてくる。
朝斗だってできるなら味方が欲しい。
だが、出逢ったばかりで信じるのも危険な気がした。
「俺たちが答える前に名乗ってくれませんか? それでこちらだけに打ち明けろと言われても困ります」
皇族と言われたのを思い出して、朝斗はなるべく丁寧に喋った。
後で不敬罪とか言われても困るから。
青年は薄く笑った。
「どうやら兄の方が用心深く頭が働くらしい。相手の身元を先に知るのは確かに重要だ。相手の身元もわからずに信じていたら、自分たちの方が痛い目に遭う」
「貴方が遭わせるの?」
兄の腕の中からやっと顔を向けて綾都が言う。
青年は不思議そうな顔をした。
「何故そんな真似をしなければならない? お前たちが敵国の人間だというなら、それも考えるが外見からして、それはあり得ないし。いきなり危害は加えない」
この言葉を信じていいのかどうか朝斗は迷う。
この言葉は裏返せば敵国の人間、もしくは敵国と通じている人間と判断されたら、危害を加えることも検討すると言っているのも同じだったからだ。
「信じよう? 兄さん? 敵国ってどこのことか知らないけど違うんだし」
「相手が先に名乗ったらな」
朝斗に嫌味を言われて青年が声を出して笑った。
爽やかな笑顔に綾都がビックリしている。
「これは失礼。わたしはこの華南の第一皇子、瀬希だ」
「つまり……将来の王様?」
「いや。華南は王ではなく帝だが? そんなことも知らないのか?」
瀬希と名乗った皇子はキョトンとしている。
綾都の質問が意外だったようだ。
「そもそも俺たちは華南って国を知らないんだ。王か帝かなんて知ってるわけないだろ」
バカにされたのが気に入らないのか、朝斗の口調は刺々しい。
「華南を知らない? そんなバカな……」
「じゃあ貴方日本を知ってる?」
「にほん? 知らない。どこのことだ? それとも二本のことか?」
「どうして数を数えないといけないの?」
綾都は頭を抱えてしまう。
それは瀬希にしても同じだった。
「日本」という言葉が意味不明だったのだ。
単語として理解できない。
「頼る相手間違えたかもな、綾。この人俺たちのこと理解できてない」
「説明も途中で判断しないでよ、兄さん」
ふたりの会話からどうやら理解できなかった単語が、ふたりにとっては重要らしいと、瀬希もようやく理解した。
「済まないがわたしにもわかるように説明してくれ」
「えっと学校はある?」
「がっこう?」
「学舎。そう言った方がわかりやすいか?」
朝斗が言い方を変えてくれて瀬希もやっと理解する。
「学舎か。ないわけではないが、がっこう? ……だったか? そんな風には呼ばないな。ただの小屋だから」
「小屋ねえ」
朝斗はこの皇子にいい印象を抱いていないので、言い方もイチイチ刺々しくなる。
それは皇子が親切だからだ。
綾都を見て親切な男は信用できない。
それが朝斗の偽りのない感想である。
「もうっ。兄さんもイチイチ突っ掛からないの!!」
綾都に叱られて朝斗も口を噤む。
「じゃあその小屋に勉強……勉学を学びに行ったりすることはある?」
「わたしはないが一般はあるらしいな。ある程度の人数が集まれば導師たちが教えてくれるらしい。それがどうかしたか?」
「えっとね。だったらその規模を数百人単位にして」
「数百人? なんて数だ」
あり得ないと皇子が唖然としている。
そんなに凄いことなのかなあと綾都は首を傾げる。
「人数に驚くのは後にして貰える?」
「ああ。済まない。それで?」
「数百人単位が集まれる場所に学舎があって、そこに行こうとしてたんだよね。そうしたら信号で仔猫が飛び出してきて」
「しんごう? なにかの暗号か?」
「あっと。道を渡ってもいいか悪いかの合図?」
「成る程。お前たちの言うことは難しいな」
感心されて綾都は可笑しくなる。
自分がやけに落ち着いているのは、きっと兄が一緒だからだろうと感じつつ。
「それで道を渡ったらいけないのに、そこに仔猫が飛び込んできて、助けようとして飛び出したんだ。車の前に」
「くるま?」
「自動車……ない?」
「自動車? ああ。ダグラスにはそういう乗り物があるらしいな。あまり一般的ではないらしいので、ダグラスでも未だに馬車を使用するらしいが」
ダグラス。
そう言われたとき、意味が脳内で変換される。
そういう国があるんだなとふたりは理解した。
「その珍しい乗り物が普通にあってね?」
「つまりお前たちはダグラス人か? だが、その外見は……。まさか召還獣?」
皇子の奇妙な問いに綾都は頭を抱える。
「えっと。どこから否定すればいいのか悩むんだけど、少なくともダグラス人ではないよ。日本人だから」
「にほんじん?」
「意味がわからないよねえ。そういう国があるとだけ理解してくれない?」
皇子は顔一杯に疑問符を飛ばしていたが、一応素直に頷いてくれた。
素直な人でよかったと綾都は安堵する。
「車の前に飛び出したから文句は言えないんだけど。跳ねられちゃって」
「跳ねられた? どんな風に?」
「どんなって……馬車とも比較できない速度で走ってきた鉄の塊に体当たりされて飛ばされたと思ってくれる?」
「……普通死ぬんじゃないのか? その状況」
皇子もそこに気付いたらしい。
今度は納得できないとその顔に書いていた。
「そうなんだよねえ。ほんとなら死んでるはずなんだよ、兄さんを道連れにして。でも、こうして生きてるし。わけのわからない世界にはいるけど」
「わけのわからない世界?」
「信じなくていいけどほんとに華南なんて国は知らないんだ。それだけじゃない。ダグラスって国も知らない」
「だったら何故ダグラスが国の名前だとわかったんだ?」
「頭の中でわかるように変換されるから」
この言葉には皇子は黙り込んでしまった。
そうして不意に口を開く。
出てきたのはそれまでとは違う言語だった。
『ではこの言葉は理解できるか? 世界の共通言語であるダグラス語なんだが』
『それがダグラス語? あれ? 喋ってるね、今』
瀬希がダグラス語に切り替えた途端、綾都もダグラス語を喋ってしまった。
自分でも納得できなくて黙り込む。
『ではこれはどうだ? シャーナーン語なんだが?』
『シャーナーンって国の言葉なんだね。ああ。また喋ってるよ。どうなってるの?』
綾都は頭を抱え込んだが、皇子はそれに取り合わない。
重要な事態だと掴んだからだ。
『ではこの言葉は? ルノール語だ』
『俺にもわかるから、多分綾にもわかってるんじゃないかな』
「つまりなにか? ふたりともすべての言語を操れる?」
「相手が話した言語につられるみたいだな。そっちが元に戻した途端、俺の方も戻ったし。意識して使ってるんじゃなくて、相手に合わせてるらしい」
瀬希はふたりをじっと凝視した。
すべての言語を操れる者なんて普通は皇族くらいしかいない。
それかダグラスの大統領クラスか。
しかしこのふたりの外見は色だけなら華南のもの。
顔立ちはまるで違うが。
おまけに時々わからない単語を使う。
これはもしや……。
「もしかしてこの世界とは関わりのない世界から迷い込んだ?」
「うわあ。物分かり早いねえ? 瀬希皇子」
綾都が暢気な声を上げる。
瀬希は頭を抱えたくなった。
ダグラス人は関わっていないだろう。
最近彼らも人形の召還獣を召還したとは聞いたが、その召還獣がすべての言語を操るという話は聞いていないし、そもそも彼らが召還した召還獣は普通言葉を喋れない。
召還した人形の召還獣にも一から言葉を教えていると聞いている。
つまりこのふたりが出現したことにダグラスは関わっていないということだ。
ではルノールか?
だが、ルノールに召還する力はない。
ましてやそんな命の瀬戸際にあったのなら、危険を関知してなんらかの力が働き、こちらに飛ばされたと解釈する方が普通だ。
取り敢えず……。
「お前たち……行く宛はあるのか?」
「あると思う?」
綾都が途方に暮れている。
その顔は兄である朝斗から見ても可愛いので、瀬希もドキッとして慌てて顔を背けた。
赤い顔のまま話し出す。
「だったら暫く宮殿で面倒をみてやるからついてこい」
「いいのか? 素性を信じてくれたってことか?」
朝斗が探りを入れる。
瀬希は思わず苦笑した。
「お前たちの話を総合するに、とても敵国が絡んでいるようには聞こえない。寧ろ時空の迷子だろう」
「時空の迷子」
「この世界にもなんらかの力を持つ者はいる。ルノールの精霊使いとか、ダグラスの召還術とか。だが、どの力を使ったらお前たちみたいに、すべての言語を操るどこの国にも属さない存在を召還できるのかがわからない。わからない以上傍に置いておくしかないだろう。自国をうろうろされても困る」
「つまり体のいい監視か」
朝斗は吐き捨てたが、お人好しの綾都は、そんな兄を叱り付けた。
「兄さん!! ダメだって言ったでしょ!! そんな言い方!! 少なくとも宿無しじゃなくなったんなら助かってるじゃない!!」
「それはそうだけど……」
朝斗はジロリと瀬希を見る。
瀬希の顔はまだ赤い。
綾都を意識しているのは間違いなかった。
なのではっきりと引導を渡してやる。
「言っておくけど綾都に手を出すなよ? これでも弟なんだから」
「おとうと?」
言葉が理解できないのか。
いきなり瀬希が幼児並の発音になった。
綾都が首を傾げて、そういえば誤解されたままだったと気付く。
ごろつきたちから助けたあの状況では、綾都のことは女の子だと思っただろうから。
「ごめんねー。ぼくこれでも男だから。兄さんの、朝斗の双生児の弟なんだ」
「……本気で? 冗談じゃなく? しかも双生児?」
ジロジロと検分されて綾都は赤くなる。
「この皇子様。本気でぼくのことを女の子だと信じてたみたい」
兄を振り向いて言うと兄は苦々しい顔をしていた。
瀬希と会話してかなりの時間を潰したので、朝斗は立ち上がるときに弟に手を差し出してやった。
「立てるか? 綾?」
兄の手に綾都が手を伸ばし掴む。
だが、足に力が入らない。
どうしても立てない綾都を見て瀬希が驚いた顔になる。
「どこか悪いのか? それとも自動車にぶつかったときに怪我をしたとか?」
「いや。綾は無傷だ。ただ綾は身体が弱くて」
「身体が弱い?」
じっと瀬希が見ているが綾都は相変わらず立てなかった。
その姿は女の子なら思わず庇いたくなる代物だ。
これで男だというのだから宝の持ち腐れだ。
「仕方ないな。綾。じっとしてろよ?」
そう言って朝斗はヒョイッと弟を抱き上げた。
抱き上げた後でマジマジと弟を見る。
綾都も不思議そうだ。
「どうしたの? 兄さん?」
「ごめん。ちょっとおろす」
それだけ言って朝斗は綾都をおろした。
散々悩んだが対象が瀬希しかいなくて渋々頼み込んだ。
「瀬希皇子」
「なんだ?」
「凄く嫌だしできれば避けたいけど、他に対象がいないから頼み込むよ」
「そんなに嫌なら頼まなければいい。なんだか……嫌な予感がする」
「抱き上げてもいい?」
朝斗があっさり言って綾都がギョッとして兄を見た。
しかし言われた瀬希の方がギョッとしていた。
焦って飛び退く。
「どうしてわたしがっ!! 大体体格も違うし、そちらの方が小さいんだっ!! 無理に決まってるだろう!!」
「だってこの場で綾より思いのは、絶対に瀬希皇子しかいないし」
「……どういう意味だ?」
瀬希もようやく意味もなく頼んでいるわけではないと気付いた。
できれば引き受けたくないが理由は知りたかった。
「綾が……軽いんだ」
「いや。それは見ればわかるが?」
「そうじゃなくてっ。いつも綾を抱き上げるのは俺の役目だったんだ。抱いたらどんな重さか、俺が一番よく知ってるよ!!」
「だから?」
理解しない瀬希に朝斗はイライラする。
「だからっ。信じられないくらい綾が軽いんだってっ!! 全然重さを感じない!!」
「「……」」
これには瀬希も重さがないと断言された綾都も驚いて朝斗を見た。
「俺がおかしいのか、綾がおかしいのかわからないから、絶対に綾より重い瀬希皇子を抱き上げられるか確認したいんだって!!」
「成る程。そういうことか」
事情を聞いて瀬希はため息をついた。
理由はわかったが、さすがに引き受けるのは自尊心が許さない。
さりげなく近くに置かれている岩に目を向ける。
「重さを確認できればいいんだろう?」
「そうだけど」
「だったらあの道端に落ちている岩は確実にわたしより重い。持ち上げてみればわかるだろう?」
言われて朝斗が視線を向ける。
確かに瀬希より重そうだ。
朝斗には絶対に持ち上がらない重さだろう。
できれば綾都以外の男なんて抱き上げたくないし、あっちにするかと朝斗はあっさり方針を変更した。
内心で安堵しながらも瀬希は結果を確かめるような眼差しを朝斗に注いでいる。
岩なので持ち上げるまでが一苦労だと朝斗も瀬希も、ついでに綾都も思っていたが、朝斗はそれをヒョイッと軽々と、しかも片手で持ち上げてしまった。
ポーンと放り投げて片手でキャッチしてみる。
「兄さん!!」
思わず綾都が絶叫した。
しかし落下速度がついて更に重くなっただろう岩を、朝斗はなんの苦労もなくキャッチする。
掌で。
その様子に瀬希も綾都も唖然とした。
これはただ事ではないかもしれないと三人ともわかったが、朝斗は念のため、もうひとつ試した。
岩を地面に置いて思い切り片腕を叩き付ける。
するとメキメキと音がして岩は呆気なく割れた。
真っ二つにしてしまった朝斗に瀬希も驚きを隠せない。
「成る程。どうやらおかしいのはお前の方だったみたいだな」
「みたいだな。自分でも信じられない。なんだよ? このバカ力は?」
綾都がやけに軽く感じたわけだ。
これだけの重さの岩を粉々にできる腕力だ。
それはまあ病弱な綾都なんて重いとは感じられないだろう。
「元からではないんだな? この怪力?」
「こんな力は俺にはなかったよ。どうなってるんだ?」
朝斗は混乱している。
どうやらふたりに起きている異常は、言語がすべて理解できるということだけではないらしい。
それはわかったが、ここでいつまでも立ち尽くしていても仕方がない。
「取り敢えず宮殿に向かわないか? わたしも黙って抜け出してきたから早く戻らないとまずいんだ」
「ごめんねー。兄さん。抱いて~」
「綾。お前」
状況を無視してまるで何事もなかったみたいに振る舞われて朝斗は複雑な顔だ。
チラリと綾都が舌を出す。
「だってどんなに変わっても兄さんは兄さんでしょ?」
「まあ確かに俺は俺だ。じゃあさっさと移動しよう」
諦めたのかそういうと朝斗は弟を再び抱き上げた。
複雑な顔を綾都に向ける。
「なに?」
「俺のせいでお前のせいじゃないってわかってるけど、こう重さを感じないとお前が容態を悪化させたみたいで不安だよ」
「すぐに元気になるから」
「だといいな」
朝斗に異常が出ているように、綾都にも異常が出てもおかしくない。
それが身体の具合を悪くする可能性を朝斗は危惧していた。
ふたりのやり取りから、それを見抜いて瀬希も複雑な顔を向ける。
だが、同情的発言はしなかった。
ふたりを先導して歩き出す。
こうしてふたりは華南の宮殿に世話になることになったのだった。