第一章 オアシスの国






 第一章 オアシスの国


「果たして運がよかったのか悪かったのか」

 フードを目深に被って顔を隠し、マントで全身を覆った人物がブツブツとぼやく。

 ここは砂漠の中にあるオアシスの国、エルクト王国。

 四方八方を砂漠に囲まれているのに、何故かこの国だけ緑が豊かで水も豊富。

 オアシスの国の名に相応しく道行く旅人たちの憩いの場となっている。

 国の中心には巨大な宮殿があり、対極の位置に大神殿がある。

 その神殿に大きな穴が空いたと話題になったのは、つい最近のことだ。

 天変地異の前触れだとか、いや、神殿に恐れ多くも侵入した盗賊だとか。

 色んな説が飛び交っている。

 そのせいで姿を隠しているのだ。

 キョロキョロと周囲を見回す眼は漆黒。

 それは周囲をみれば、あまりに浮いていた。

 ほとんどの人が金髪だったり茶髪だったり、瞳に至っては青かったり緑だったり。

 漆黒というのはありえない。

 それだけではなく肌も人々は白いのに、この人物は黄色みがかかっている。

 目立ってしかたないので、姿を隠すように匿ってくれている親子に言われていた。

「まあ生命があっただけ儲けものか」

 それは事実なのだが、自分が置かれた現状を思うとため息しか出ない。

 今思い出しても人生最大の強運を使ったようにしか思えないのだから、まあ助かっただけ儲かったと思うべきなのだろう。

 が。

 しかし。

 その結果がこれでは素直に喜べない。

 大神殿はただいま改修の真っ最中で、そこに大穴を空けてしまったのだから、労働力は予定していた以上に必要。

 この国の奴隷たちが大勢駆り出されている。

 自分もそのひとりとして働いているのだ。

 それが1番無難だとはいえ、なんの因果で奴隷なんてしなければいけないのか、天を恨みたい心境だ。

「とはいえ、その奴隷に助けられたのも事実なんだよなあ」

 やれやれとため息が出る。

 あのとき、気絶しているところを発見した奴隷の親子が、とっさに自分を庇ってくれた。

 それから後も同じ奴隷仲間として接することで庇ってくれている。

 だから、文句を言える筋合いじゃない。

 それはわかっている。

 わかってはいるのだが……。

「暑い」

 思わず声がもれる。

 砂漠のど真ん中にある国だけあって暑さは尋常じゃない。

 そのうえに太陽を遮る目的もあるとはいえ、頭から目深にフードを被り、全身をマントで覆っているのだ。

 身体全体が蒸し風呂状態で、服もベッタリ肌に張りつき、気持ち悪くてしかたがない。

 とにかく色を隠せということで、服も分厚い物を着込んでいる。

 マントだって夜はともかく昼には考えられない厚手で、しかも全身を覆うタイプ。

 熱中症になりそうだ。

 これを提案されたときはふしぎに思わなかったが、今は逆に目立つんじゃないかと不安も感じる。

 夜はともかくと指摘したように、昼にこの格好は異常だからだ。

 だが、この国にはカツラとかコンタクト、染め粉の類いはないらしいので、色を変えることはほぼ不可能。

 と、なるとどうしても色を隠したい場合は、こういう変装しかないのも事実だ。

「金髪に染めてりゃまだマシだったのかな?」

 呟きながら水道から出てきた水を水瓶に汲む。

 水は豊富で下水道なども整備されているが、当然ながら大神殿を改修中である工事現場にはない。

 そこへ飲み水を運ぶことが仕事だ。

 力仕事だが、これぐらいしかできる仕事がなかったのだからしかたがない。

 それにこの国で水道を自宅に整備しているのは、金持ちのステイタスらしいので、当然だが下々のものにはないのだ。

 広場にある水道から生活に必要な水を汲んでくるのが一般的だった。

 風呂も広場にある大浴場が一般に普及している入浴法である。

 ここにきてそろそろ1週間ほどになるが、まだ風呂には入っていない。

 何故って男女の区別がないうえに、水の入れ替えなどもないと聞いて、どうしても入る気にならなかったからだ。

 昼にこれだけ汗を掻くのだから、本当は風呂に入りたいけれど。

「とにかく大神殿の騒ぎが収まるまでは、おとなしくしてないとな」

 あらぬ容疑と言い切れないところが負い目と言えば負い目だが。

 大神殿に穴をあけた者。

 そう指摘されたら否定できない。

 それが現実なのだから。




 同じ頃、大神殿に大きな穴が空いた件で、宮殿から第1王子クリストファーがやってきていた。

 銀髪、銀瞳の美青年で歳は22歳。

 母親似と言われる美貌を誇っているが未だ独身。

 花嫁候補には事欠かないが、まだ婚約者を決めようとしない。

 フラフラと付き合う相手を代えて遊んでいる。

 それが周囲の印象だった。

「大きな穴?」

 天井からぽっかり空いた穴を見上げてクリスが呟く。

 大きな穴というから、もっと大きな穴を想像していたが、想像していたよりずっと小さな穴だった。

 空から岩でも落ちてきたら、もしかしたら空くかも? ていどの穴だ。

 大人がひとり通ることも難しいだろう。

「隕石でも落ちてきたかな?」

 不吉の象徴と言われる現象を口にしてクリスは苦笑する。

 続く神官たちの反応が容易に想像できて。

「冗談でもそのようなことをおっしゃらないでください、殿下」

「隕石が大神殿に落ちるなど不吉の象徴。噂にでもなったら……」

「わかっているさ。本当に隕石が落ちたのなら、今頃、神殿はもっと大騒ぎを起こしていただろうからね。で? 不審人物がいたらしいというのは本当かい?」

 振り向いて笑うクリスにそういわれ、大神官が進み出た。

「これを……」

 差し出されたのは白い紙に包まれた髪のようだった。

 数本だ。

 これがどうしたというのだろう?

 人の髪と思うと気持ちが悪いが興味が勝って持ち上げてみる。

「眼の錯覚じゃない? 漆黒の髪の毛?」

 細く柔らかな髪質だが、どう光を当てて透かしてみても、色は漆黒以外にはみえない。

「漆黒の髪の持ち主なんてこの国にいたかな?」

「……わたしの知るところではいません」

「だろうね。わたしも知らない。異国にいるらしいというのは聞いているけれど、行き来が可能な距離の国じゃないし」

 と、なるとこの髪はいったいどこからきたのだろう?

「この髪……いったいどこで見つけたんだい?」

 このクリスの問いに大神官はさりげなく穴の下を指さした。

「え? ここ?」

 クリスが驚いた顔になる。

「はい。大音響が響いて駆けつけた後、見つけました。この含んにパラパラと落ちている髪を」

「ふうん。それは不可解だね」

 空からなにかが降ってきて大神殿に穴を空けた。

 その現場に落ちていた数本の漆黒の髪。

 ミステリーだなとクリスは思う。

 神官たちが不審がるのもわかる気がする。

 神官たちはいやがるだろうが、落ちていたのが岩の残骸ならば、まだ納得のしようもあるのだ。

 岩が降ってきて穴を空けたんだな、と。

 が、残っていたのが髪となると、降ってきたのは漆黒の髪の人間、ということになってしまう。

 その状態で死体がないというのは、どう考えても常識はずれな現実だ。

 だいたい神官たちには言えないが、人間が空から降ってくるなんてありえない。

 万が一ありえたとしても、人間が降ってきたくらいで穴が空くか?

 なんだか不可思議なことばかりだ。

 降ってきたのが本当に人間なら、神殿にぶつかって降ってきた人間のほうが潰れそうなのに……死体はなかった。

 どう判断するべきか?

「それにしてもふしぎな話だね。神殿に穴が空いたのは昼間だと聞いてる。その状態でなにかが空から降ってくるところを、だれもみていないというのも……奇妙だね」

 これも降ってきたのが人間なら仕方がないのかもしれない。

 どの高さから降ってきたのか知らないが、空から落ちてくる人間なんて視界に止めることのできる者などそうそういないだろうから。

「とりあえずご報告は致しました。神殿に穴を空けた不届き者をすぐにでも捕らえて頂きたい」

「大神官。空から本当に降ってきたのだとしたら、天の御使いということも考えられるよ?」

「天の御使いが神殿に穴を空けるなどありえるわけが……」

「そうかい? 天の使いが降り立つ地が神殿である。これはごく当たり前に思えるけれどね?」

 皮肉を言われた神官たちは不安そうに顔を見合わせた。

「まだ事実はなにもわかっていない。先走らないことだ」

「は……」

「本当に天の御使いなら、きみたちは天への反逆者ということになってしまう。それは神官としては許されざることじゃないのかな?」

「殿下」

「不用意にこの噂を広めないこと。いいね?」

「承知致しました」

 神官としての名誉がかかっていたら、だれも拒否はできない。

 穏やかでありながら、決して逆らうことを許さない第1王子に、神官たちは頭を垂れるのだった。




「あっつー」

 げっそり呟きながら家に戻ると、ふたりはもう戻っていたらしかった。

 笑って出迎えてくれる。

「ライムは口を開くと暑いばかりだな」

「ケリー。そう言うものじゃないわ。仕方がないでしょう? 昼間にあの格好ではそうとう暑いはずだから」

 奴隷としての身分は高いらしく、大神殿の工事を担当している奴隷たちのまとめ役として、この家を与えられているらしい親子。

 息子のケリーと母親のアンナだ。

 来夢は幸運だったと思う。

 大神殿に落ちてきた来夢を最初に見つけたのが、この親子だったのだ。

 大神殿に穴を空けて落ちてきた来夢を見つけたふたりは、とっさの判断で来夢を布でくるみ、その場から連れ去ってくれた。

 でなければ今頃、来夢は処刑されていたかもしれない。

 ただ外見で少女だと思っていたらしく、来夢が口を開き男だとわかると、アンナは驚きケリーはガッカリしていた。

 これには来夢も苦笑するしかなかったが。

 助けられたことを知り名を訊ねられた来夢はこう名乗った。

「来栖来夢」と。

 するとふたりは意外そうに呟いたものだ。

「クルス? 悪い冗談はやめてちょうだい」

「それはこの世界の名だ。クルスを名乗れる者など存在しない」

 そい驚いたように言っていた。

 来夢は驚き、とりあえず自分が名字を名乗るのはマズイらしいと理解した。

 何故なら当然のようにクルスを名乗った来夢が、あまりに人間離れした美貌の持ち主だったので、アンナもケリーもしばらく来夢を天の御使いだと信じていたのだ。

 大神殿に落ちてきたことも、その誤解に拍車をかけた。

 空から大神殿に落ちてきたにも関わらず、来夢が無事だったことも確信を深め、来夢はその誤解を解くのにかなり苦労したものだ。

 それから来夢はただ「来夢」とだけ名乗っている。

 来栖と名乗ったことは内緒にしてほしいと、ふたりに頼み込んでいた。

 そうして1週間。

 このまま何事もなく過ごせればいいのだがと来夢は不安を胸に抱く。

 奴隷としては豪華だが、日本の食事に慣れた来夢には、質素で味気ない食事を食べているときに、ざわざわてざわめきが広がってきた。

 マントを脱いでいた来夢は、慌ててマントを身に纏いフードで顔を隠した。

 家の中では不自然だが姿を見られるわけにはいかないのだ。

 仕方がない。

 やがてアンナやケリーが緊張していると、当然なようにひとりの青年が入ってきた。

 銀髪、銀瞳。

 目鼻立ちの整ったたいそうな美青年だ。

 身分が高いと一目でわかる服装。

 腰にある剣も高価な物だとわかる。

 来夢は警戒してじっと息を殺した。

「「殿下っ!!」」

 ふたりが慌てたようにその場に跪く。

 どうやらそうしないといけないらしいと判断して、来夢も慌てて跪いた。

(デンカ? それってなんだっけ? 耳慣れないような……デンカ、電化、伝家、殿下? 殿下? もしかして……王子?)

 わからないようにマジマジと相手の顔を覗き込む。

「今回の監督官はきみたちらしいね。訊ねたいことがあるんだけれど」

「「はい?」」

 クリスは用件を切り出そうとして、その場に不似合いな格好をした人物がいることに気づいた。

 家の中だというのにマントで身を覆い、フードを深く被って顔を隠している。

 マントを押さえる手に眼をやれば、すこし黄色がかった肌が見えた。

(黄色がかった肌?)

 見たことのない肌の色だった。

「わたしの用件を切り出す前に訊ねるよ。そこにいるのはだれだい?」

 ビクリと来夢の身体が震える。

 アンナもケリーも困ったように顔を見合せて口をつぐむ。

「身体付きも小さそうだし、まだ子供のようだ。どうしてマントで姿を隠しているんだい? ここは家の中だっていうのに」

「あの子はすごく寒がりでして」

「砂漠の夜は答えるらしく、家でもあの格好です」

 ふたりがなんとかごまかそうとする。

 来夢は普通に話せるが、やはり発音が違うらしく、人前では話さないように言われている。

 だから、ここでも口をつぐんでいた。

「そう。でも、わたしは顔がみたいんだ。フードをおろしてくれないかい?」

 そう言われても顔を出せるわけがない。

 そんなことをしたら来夢が、この国に属さない色の持ち主だとはっきりしてしまう。

 スパイだと疑われるのは困るし、万が一大神殿の事件に繋げられても困る。

 答えられずにいると相手がツカツカと近づいてきた。

 来夢はとっさに身を遠ざけようと立ち上がろうとしたが、その動きが逆にフードを乱す結果となった。

 クリスの手がフードを掴んだのと、来夢が立ち上がろうとしてフードが乱れたのが重なって、バサリとフードが落ちる。

 現れたのは眼を疑うほどの完璧な美貌と、異彩を放つ漆黒の髪と瞳をもつ来夢の姿である。

 脅えたように見開かれる黒い瞳を、クリスはじっと凝視した。

「漆黒の髪と瞳……しかも肌の色も見たことのない色だ」

 来夢は逃げ出そうとしたが、右手首をしっかりと握られていて無理だった。

 そもそも来夢は16の少年としては小柄だし、力だって普通の同性と比べたら、ほとんどないに等しい。

 成人している上に鍛えているらしい彼の腕を振り切れるわけもなかった。

「綺麗な少女だね。どこからきたんだい? どうして奴隷に?」

 来夢はできるだけ事を荒立てるまいと思っていた。

 色々突っ込まれては困ることがあるんだし、なるべく逆らうまいとも思っていたのだ。

 だが、この一言は来夢のジレンマに切り込んで、気がつくと叫んでいた。

「俺は男だっ!!」

 自分に言い聞かせるようにそう言われて、クリスはすこし驚いた。

 しかしそう主張する来夢の方が、自分は男なんだと言い聞かせているように思えて、ちょっとだけ笑った。

「間違ったのは悪かったけれど、そんな自信なさげに断言されると、よけいに真実味が薄れるよ?」

「っ」

 グッと詰まった来夢がそっぽを向く。

 つかんでいた手首を引っ張って、クリスは来夢の手を開いてみせた。

 予想外の動きに来夢の身体が強ばる。

「これは……奴隷の手ではないな。シミひとつない。荒れてもいない。水仕事ひとつしたことのない天女のような手だ」

 シミひとつない荒れてもいない手というのは事実である。

 来夢はこれまでろくに家事をしたことがなかった。

 全部母親任せだったし。

 が、ここ1週間ほど風呂に入っていないのである。

 もしかして臭うんじゃないかと、ちょっと身を引こうとした。

「綺麗な手なのに汚れているね。風呂に入っているかい?」

「……水も入れ換えない混浴の風呂には入れない」

「貴族みたいなことを言うね?」

 水に恵まれていて、なおかつその価値を知る貴族たちは、清潔な風呂に入ることをステイタスとしている。

 王子であるクリスにしても、毎日風呂の水は入れ換えられて、しかも個室の大浴場を城に持っている。

 奴隷として暮らしていた来夢の言い分は、どう聞いてもおかしかった。

 奴隷なら広場の大浴場に入ることに抵抗はないからだ。

 それに毎日重労働をこなしているから、どうしても風呂には入る必要に迫られる。

 入れるだけありがたい。

 そう感じるはずだった。

 それが水が入れ換えられないから不衛生。

 混浴の風呂には入れないなんて、どう聞いても奴隷の言い分ではなかった。

 まあこの手を見て本物の奴隷だと思い込むほど、クリスは愚かではないが。

「まあ本物の奴隷かどうかは別にして、今は奴隷として振る舞っているんだから、きみの身柄はわたしが引き取ろう」

「冗談っ」

「何故? わたしは本気だよ?」

「俺はいやだってっ」

 来夢はジタバタと暴れたが、相手は一向に堪えないらしく、手首を捕まえる腕には震えもない。

 ケリーとアンナも予想外の展開に困っているようだった。

「……漆黒の髪」

 クリスがサラリと来夢の細い髪を掻きあげる。

 来夢はちょっとドキリとした。

 この国で漆黒の髪が珍しいことは、アンナやケリーから聞いていたので。

「わたしはこの髪の持ち主を捜していた。きみ以外にもいるとは思えない。その場合、きみを連行する義務がある」

 淡々とした口調だけに怖いものがある。

 来夢は怯えた眼を見開いた。

「このふたりを罪に問われたくはないだろう?」

 クリスの視線がアンナとケリーに向かう。

 大神殿を破壊した来夢を庇ってくれたふたりである。

 そのことでふたりが罪に問われるのはさすがに困る。

 来夢は抵抗をやめた。

 肩を落として立ち尽くす。

「待ってくださいませんか、クリストファー殿下。ライムがいったいなにをしたと申されるのですか?」

 ケリーがなんとか来夢を救い出そうとしてくれる。

 だが、来夢はこれ以上自分に関わってほしくない。

 それがふたりに危害を加えることは明白だったので。

 恩人を自分のために危険な目に遭わせたくないからだ。

 来夢はクリスに手首を掴まれたまま、近くで跪くケリーに視線を向ける。

「ケリーさん。もういいよ」

「でも……」

「今までありがとう。俺みたいな厄介者の世話をしてくれて。この家で過ごしたこと忘れないよ」

「「ライム!!」」

 アンナとケリーが泣きそうな顔をしている。

 たぶん来夢がしたことを思えば、無事に済まないと思っているからだろう。

 来夢も自分がどうなるのか自信はなかったが、別れ際に泣き顔はいやだった。

 無理をしてとびっきりの笑顔を返す。

 そんな来夢にふたりはなにも言えないまま黙り込んで見送った。

 来夢がクリスに連行されていくのを。

 外に出ても護衛らしき者の姿はなかった。

 この人は王子じゃないのかなと、来夢がクリスを見上げる。

 ややあって彼が不思議そうに来夢の瞳を見下ろした。

「きみ……本当に男?」

「……こんな顔でも男だよ。なんで疑われないといけないんだ?」

 ムスッとした来夢にクリスは答えない。

 ただ手首を掴む手に力を込めて、更に不思議そうな顔になった。

「とりあえずきみを宮殿に招待しよう。客人としてね」

「客人? 囚人の間違いじゃないのか?」

「囚人扱いされる覚えでもあるのかい、きみは?」

 瞳を覗き込んで言われ来夢は口をつぐむ。

「きみの素性がはっきりしない以上、きみを奴隷として扱うことも、またなにかの事件の犯人として扱うこともできない。
 わたしの一存になるが、きみを客人として迎えよう。もちろんこちらの質問にはきちんと答えること。これは今から指摘しておくよ」

 偽ることは許さない。

 そう念を押されたことに気づいて来夢の身体が強ばる。

「ところで自己紹介といこうか。わたしはこの国の第一王子のクリストファー。みなはクリスと呼ぶがね。きみは?」

「く……来夢」

 来栖来夢と言いそうになって、慌てて来夢とだけ答えた。

「クライム?」

「だれがクライムだよ? 来夢だよ」

「でも、たしかクって言いかけなかったかい?」

「それは……」

 答えられない来夢を見て、クリスは今はこれ以上突っ込むべきではないと判断したのか、急に話題をかえた。

「家族は?」

「両親がいるけど今は一緒にはいない」

「そう。どうやってこの国に?」

「……」

 また黙り込んでしまう来夢にクリスも、どうやらよほどの理由がありそうだと気づく。

 ここは引くべきかと服の下に落としていたネックレスに手をかけた。

「サファイア?」

 青く美しい宝石は来夢の眼にはサファイアに見えた。

 聞き覚えのない単語にクリスが不思議そうな顔をする。

「サファイアってなんだい?」

「……知らないのならいい。勘違いみたいだから」

 この世界の常識と来夢の常識が違うのは当たり前だ。

 無理に説明しようとすることの無謀さは、ケリーとアンナで実証済である。

 来夢は興味を失ったようにフイッと顔を背ける。

 なにか機嫌を損ねることを言っただろうかと、クリスはすこし悩む。

 しかし来夢に振り向く気配がなかったので、仕方なくネックレスのヘッドを引きちぎった。

 これは必要に応じてつけたり外したりできる作りなのだ。

 引きちぎられたヘッドから光が放射される。

 ハッとして来夢が振り向いたときには、目の前にペガサスがいた。

「ペガサス……」

 地球では幻獣である。

 羽根のある白い馬の姿をしている。

「きみはペガサスを知っているんだね。あまり知っている人間はいないはずなんだけれど」

「いや。実際に見るのは初めてだけど」

 というかいるという現実が信じられない。

 おそるおそる来夢が触れると、ペガサスは気持ち良さそうに目を閉じた。

「自分ひとりの移動だとペガサスが一番速いんだよ。きみひとりくらいなら乗せても大丈夫だろうから」

 ペガサスは聖なる獣とも呼ばれている。

 そのペガサスに触れることのできる来夢に少々驚きつつクリスが説明する。

 来夢の方はといえば、初めてみる伝説の獣の姿にすっかり夢中になり、ペガサスを撫で回している。

 それをペガサスが素直に受けているのでクリスは余計に驚いた。

 普通、ペガサスはこういう真似を許さないのだが。

「とりあえず乗れるかい?」

「んー。どうかな。馬になんて乗ったことないし、ペガサスなんて乗り方わからない」

「そう」

 呟くとクリスは来夢の腰に片腕を回した。

 来夢が驚いたように彼を凝視する

 軽々と片腕に来夢を抱いて、彼はペガサスに飛び乗った。

「しっかり掴まっているんだよ?」

 それだけを呟いて彼はペガサスを空へと舞い上がらせた。

 来夢は最初この世界へきたときのことを思い出し、怖すぎて夢中でクリスにしがみつく。

 ベッタリくっつかれても平気な自分に気づいて、クリスはますます不思議そうに来夢をみるのだった。



 砂漠を一望に見下ろせるほどの高さのある宮殿が王都の中心にある。

 この国はオアシスの国と言われているが、規模は決して小さくはない。

 なぜならオアシスを求めてやってくる諸国の旅人のせいで常に潤っているし、緑や水の豊かな土地は決して少なくないからだ。

 ペガサスによって宮殿へと連行された来夢は、否応もなく風呂へと入れられた。

 やはり多少は臭かったのか? とまで来夢は疑ったほどだ。

 ちがうと知ったのは身支度が整えられてからだ。

 ひとりで入ると言っても聞いてもらえず、侍従たちの手によって全身を磨かれた来夢は、上品そうで上等な服に着替えさせられ、そのまま夕食の席に招かれた。

 その席にはクリストファーの弟や妹も同席していた。

 唯一の救いは国王や王妃がいなかったことだろうか。

 大事な執務の最中だとかで、ふたりは今国を留守にしているという。

 従って今この国の全権を担っているのが、第一王子のクリストファーなのだ。

 でなければ彼の一存だけで、素性の怪しい来夢を宮殿に連れ込むことはできなかっただろう。

 尤も。

 食事の席での様子をみていれば、クリスがかなり信頼され、自分の一存でなんでも決められれる立場にいることは予測可能だったけれど。

「これは……めずらしいお客人ですね、兄上」

 来夢の姿をみるなり亜麻色の髪、銀灰色の瞳をした美青年がそういった。

 だが、来夢には彼は20歳をこえていないように見えるので、もしかしたら美少年かもしれないが。

 外国人はそうじて歳が上にみえるという。

 この分なら来夢は10歳くらいだと思われていそうだ。

「わたくしよりも年下なのかしら?」

 愛らしく首を傾げた美少女はどちらかと言えば長兄似で髪も瞳も銀だった。

 次男だけがどうやら髪や瞳の色が違うらしい。

 しかし年下ってどういう判断だろう。

 この国にしばらくいたから見当がつくのかもしれないが、この少女はどうみても14歳くらいだ。

 年上にみえてそのくらいにみえると判断したら、もっと年下かもしれない。

 それで来夢のほうが年下にみえるというのは正直、嬉しくなかった。

「そういえばわたしも年齢は知らなかったね。幾つなんだい、ライム?」

「なんか……非常に言いづらいんだけど……16歳」

「「「……」」」

 3人とも眼を丸くして黙り込んでしまった。

 いたたまれないような長い沈黙が続く。

 来夢がこめかみを掻いていると、唖然とした態で次男らしき青年が兄を振り向いた。

「16歳って本当ですか、兄上? ぼくの眼にはどう年上にみても10歳くらいにしかみえないんですが」

「わたくしもそのくらいかと思っていたわ。わたくしよりも2歳も年上?」

 ふたりとも怪訝そうである。

「本当かどうか訊かれても、わたしも彼には今日初めて逢ったからね。それでは彼の言うことを信じるしか方法がないよ」

 苦笑するクリスに彼の弟や妹は素っ頓狂な声をあげた。

「「彼っ!?」」

 今度はさっき以上に驚いたようである。

 来夢はテーブルマナーなどわからないが、付き合うのもバカらしかったので黙々と食事を続けていた。

「そうだよ? 格好をみればわかるだろう? 女物は着せていないだろうに」

「兄上が街から連れて帰ってきたんですよね? ペガサスに一緒に乗って」

「そうだけど?」

「本当に同性ですか?」

 弟の言い分にクリスは口を噤む。

 が、男だと言ってもなお信じられないらしい彼につい来夢はムッとした。

「兄上が一緒にペガサスで連れてきたのなら男のわけが」

「は? なんだよ、その基準?」

 来夢はさっぱりわけがわからない。

 一緒にペガサスに乗ってきたからなんだというのだ?

 これが異性なら王子が連れてきたら問題視されるかもしれないが、男だと言っているのだから信じたらよさそうなものだが。

 そう思っていると無邪気そうな少女が意外なことを言ってきた。

「クリス兄さまはね、たいへんな男性アレルギーなのよ」

「男性アレルギー?」

 つまりあれか? 男に触られたりすると蕁麻疹が出たりするのか?

 マジマジとクリスをみると彼は苦笑して言った。

「残念ながら蕁麻疹は出ないよ」

 考えを読まれて来夢は口を噤む。

「いや。出る暇もないと言うべきかな? なにしろ同性に触れると一瞬で気絶してしまうから」

「気絶」

 確かに最初触られたときは性別を知らなかった上に、その後もすこしのあいだは異性だと誤解していた。

 だが、男だとはっきりした後で彼は不思議そうに来夢に問いかけていた。

 本当に男なのか? と。

 あれは……こういう意味だった?

 来夢が本当に同性なら彼は一番に気絶するはずだから、来夢の性別を疑った?

「ぼくでも触れないのに、兄上がきみをペガサスに同乗させて戻ってきたなら、絶対に男のはずがないっ!!」

 いや。

 断言されても男なんだけど。

 来夢はそう言いたかったが言わなかった。

 言えなかったのだ。

 こちらへ飛ばされる前に起きた出来事を思い出す。

 最近ではほとんど思い出す暇もなかったが、事態は進んでいるということなのだろうか。

 来夢が選んでも選ばなくても。

「どうしてそこで黙り込むんだい? わたしが問いかけたときは、あれだけきっぱり男だと言い返してきただろう?」

 どう言い返すべきかすこし悩んで、来夢は当たり障りのない返答を選んだ。

「あれは……そういうこと知らなかったから。今どれだけ否定しても、そういう病気持ちなら信じてもらえないだろう?」

「まあ普通はそうだろうね」

「だから、男だと言っても信じてもらえないなら、とりあえず口を噤むしかないかなって」

「そういうものなの?」

「ルヴィ」

 兄からたしなめられて若干14歳のプリンセスは不思議そうに首を傾げる。

「男の子にしても女の子にしても、性別を疑われるのって相当ショックでしょう? いくらそういう事情があっても、普通はもっと強情に否定するものではないの?」

「否定しても信じてもらえない場合、否定するだけ疲れるからしない」

「そういうもの?」

「だってどう考えたって俺なんかの言葉より、この国の王子の言葉を周囲は信じるだろう? 男性アレルギー持ちの王子が一緒に帰ってきた。
 その事実だけで周りは俺の性別を疑うはずだ。それでどれだけ俺は男だって言い返してみたって無駄な労力。疲れるからしないよ。誤解したいなら好きに誤解すればいいんだ」

 投げやりにもみえない来夢に第二王子は怪訝そうな顔になる。

 一見して筋道の通った主張に聞こえる。

 だが、その場合、ここで絶対に投げやりにみえるはずで、どこか落ち込んだ様子なのが解せない。

 兄をみたが兄はすこし戸惑ったような顔をして口を開いた。

「きみが男性であることは理解しているよ」

「嘘は言わなくていいよ。その症状が重い場合、自分が1番疑うものだろ?」

「いや。きみが男性であることはきみの世話を任せた侍従から報告を受けたから理解しているよ」

「ちょっと待て。だったらなにか? 俺がひとりで風呂に入れなかった理由って……」

 信じられないと問う声に第一王子は朗らかに笑った。

 それで当たっていたと知る来夢である。

 侍従たちの強硬な態度は来夢の性別を確かめるためだったのだ。

 呆れてものが言えない。

「ただ腑に落ちない点があるとは報告を受けたけれどね」

「腑に落ちない点? なんですか、兄上?」

 不思議そうな弟に兄は肩を竦める。

「風呂の世話をすると言ったら異様なほど抵抗したらしい。同性ならさほどの抵抗はないはずなのに、徹底的に逆らった、と。
 だから、これは疑いが事実かと侍従たちも思ったらしいけれど、彼が諦めてから同性だったと知って解せないと言っていたよ。
 同性ならどうしてあんなにいやがったんだろう? と。顔も赤かったらしいしね」

 3人の視線が来夢に集中する。

 しかし来夢はなにも言わず食事を再開した。

 来夢だって同性相手なら別にさほどの抵抗はなかった。

 学校で倒れるまでは。

 同性ってなんだろうなと来夢は思う。

 なにをもって同性と判断するのか。

 その術が今の来夢にはない。

 やれやれとため息が出た。
1/1ページ
スキ