雨降りウテナ

スプラウト




 ここが地獄だと言うのなら戻る道はあるけれど、真剣を胸にどこまでも清く、無き道に刻む足跡は絶えることがないだろう。

 もしここが天国だと言われれば信じてあげてもいいけれど、終わりを視ない眼に、脚は止まることなく、通り過ぎるだろう。

 湿る背を抱き吼える月夜の悍ましさを、私は静かに思った。



「ん~。わかんないや。なんか小難しくて、いちいち長いし」

「その妙が楽しいのに、あなたって読書の楽しみもわからないのね」

「じゃあ自分で読んでくださいよ! 僕は暇じゃないんですよ、誰かさんのせいで!」

「まったくひどい話よね」

 雨と初夏の熱による湿気で、派手好きな年増の首筋には(出かける予定もないのに)巻いた髪がしっとりと纏わりついていた。
 その髪を扇子の風でぱさぱさと払いながら、トワイライト夫人はソファに接している腰までもが暑くて鬱陶しいというように、温もっていない場所に体をずらした。
 僕は硬い木製の踏み台に腰掛けさせられているってのに、贅沢すぎる。

「ウテナ、厨(くりや)のテーブルにある頂き物のお菓子、部屋に持って帰っていいわよ」

「今朝のお客様のですね。いいんですか?」

 上品そうな老婦人の姿が思い浮かんだ。
 何の用事だったかは知らないが、ウテナがお茶を運んだ時にとても感じのよい愛想を浮かべていたのが印象的だ。

「ウテナが喜ぶだろうって、仰ってたから。あなたが食べちゃいなさい」

「はい、ありがとうございます」

 お菓子をくれるとわかった途端に機嫌を持ち直し、跳ねるように立ち上がったたウテナを、トワイライト夫人はにこやかに見送った。

 一方のウテナは、持った感じから中身は焼き菓子だろうかと想像しがてら自室のベッドに箱を置き、

「リウにもわけてあげるよ」

 と頭上に語りかける。

「俺は菓子なんかよりも肉がいいぜ。そんな物で上機嫌になるなんて、ウテナもまだ子供だな」

「お前が肉好きなのは猛禽だからだろ。今時、いい大人だってお菓子くらい食べるよ」

 はた目には、ウテナの妙な独り言である。
 だがウテナ以外の声音は、ウテナが演技して作るには少々どすがききすぎていた。

「本が読めたら、いい大人が菓子食ったって格好はつくだろうな」

「どういう意味さ!」

 ウテナの少年とも少女ともつかない指が、鳥の形をしたハットをつつく。
 すると、ハットはバサバサと音をたててそれを嫌がった。どすのきいた声の主である。

「意味ならその箱の中にあるさ、開けてみな」

「……」

 猛禽類と思しき形のハットを見上げながら、ややあってウテナは先ほどの頂き物に近づいた。
 シンプルな緑色のラッピングを丁寧に解き、光沢のある箱を、一度裏を確かめたのち開いてみる。

「ほらみろ」

 ウテナが喜びそうだと言って選ばれたお菓子は、様々な動物の形をしたクッキーだった。
 一つ一つが透明なフィルムで丁寧に包装されていて、クッキー自体も量産品ではなさそうな高級感が確かにある。が、どこからどうみても子供向けだ。
 トワイライト夫人が中身を知らなくてよかった。知ってたら絶対に一緒に開けて、これを見た時のウテナの反応をからかうに違いないから。
 ここにいないトワイライト夫人を警戒するように、ウテナは最大限言動を制御して言った。

「これをくださった御婦人ってたしか僕の祖母でもおかしくない御歳だったと思うよ。孫世代にはこういうの選びがちだよね」

「怒るなよ」

「怒ってないもん」

「…う」

「笑ったな!」



 ドタドタと屋敷に足音が響く。
 ソファに腰掛けたまま耳をそばだてていたトワイライト夫人は、「思った通り」とほくそ笑んだ。

「あなたの反応なんて、音だけでわかるくらいの付き合いはあるんだから直接見なくてもいいのよ」

 ウテナと出会った雨の日から何年が経ったのだろうか。
 戦争で失った夫との間に子が無かった自分にも、子育ての真似事が出来たことは幸福だった。
 ウテナとのやりとりは親子のそれとは微妙に違っているだろうが、今では照れたようにからかい合う空気感が一番しっくりきている。これでも彼に対する己の立ち位置は、それなりに悩みながらやってきたのだ。

 ふわふわと漂っていたウテナを、実母でも親戚でもない自分の気持ちだけで連れてきてしまった。
 その時ウテナが特に拒まなかったのは信用や安心ではなく、ただ実母を亡くした空虚感に支配されていたからだと今でも思う。
 親友の子として認識しているのはこちらだけで、ウテナにとっては全くの他人だった。それなのにウテナは、母の友人だという初対面の女の話をたった一度で鵜呑みにしてしまった。気丈な子に見えたが、心はカラだったのだ。

 可哀想だった。
 母のかわりになってやりたかった。
 だがウテナの心はうつろでも、実母を忘却したわけではない。心の亀裂に無理やり己の存在をねじ込めば、この子は一生立ち直れないだろう。
 知らん顔でちゃちゃを入れる楽天的な女雇用主兼後見人という立ち位置は、次第に出来上がっていった。
 実際はウテナを傷つけないかとビクビクしながら接していたことは、永遠に秘密だが。

「…何か聞こえるわね」

「……い、おーい」

 下階から声がする。リウだ。
 ウテナと喋っているわけではなく、人を呼んでいる声量と察する。
 リウは鳥の形をしているといっても飛ぶのはあまり上手ではなく、おまけにリボンでウテナの頭に括り付けられているので、移動は基本的にウテナまかせだ。
 そのリウが大声を出しているということは、ウテナに何かが起きたと考えるのが自然だろう。

 少し嫌な予感がしたが振り払い、それでも無意識に医療機関や警察の連絡先を思い起こしながら、普段はあまり足を踏み入れない使用人用のスペースへ駆け込んだ。
 めったに足を踏み入れないと決めたのは、ウテナがトワイライト夫人という主人の目から安心して逃れられるスペースも必要だと考えたからだ。

 ノックを忘れてウテナの部屋のドアを開けると、ベッドに寄りかかってぐったりしているウテナと、その頭上で暴れているリウが目に飛び込んだ。
 嫌な予感が的中したかと心臓が止まる思いで、転がるようにしてウテナに掴みかかる。

「ちょっと…! どうしたの! ウテナ!」

 乱れたウテナの髪に半ば埋まったリウが首を振って顔を出し、「ふう」と安堵する。

「それ、酒が入ってたんだ」

「えっ」

 それと言われてベッドの上の箱を見ると、いくつかのクッキーの個包装が空になっている。
 慌てて箱を高く上げ底の表記をよく読むと、アルコール度数が表示されていた。

「あら……」

「ふにゃあ」

 安心すると同時に拍子抜けして、大きくため息をつく。
 酔っぱらいの介抱をするために自分は急いで階下に走って来たのか。

「よかった…」

 その一言にリウは押し黙る。
 夫人は床であることも気にせずウテナの横に腰を下ろし、箱の中から適当につまんだひとつを真っ赤になった顔と見比べると、ようやく笑みがこぼれた。

「確かにお菓子にしては強めの度数だけど、この子ったら下戸ね」

 晩酌をウテナと交わすのも将来の楽しみの一つであったが、どうやらそれは無理そうだ。
 リウのリボンを解き、羽毛に包まれた体をベッドの枕元に下ろす。
 ウテナもベッドに寝かせようとするが、思いのほか重量がある。華奢な部類に入るのに、一応は大人に近づいているということだ。
 腰をいためたらどうしてくれよう。

「勘弁してよ、使用人のための使用人なんて雇いたくないわよ」

 フン、とリウが笑う。
 やっとウテナをベッドに転がすと、年寄り臭いと思いながらも腰をドンドンと叩いてしまった。一息つき、ウテナの顔を覗き込む。
 母親は子供の寝顔を見ると何もかも許せてしまうと言うが、なるほど、寝顔だけは天使だ。酔っぱらいだけれども。

 まだ頬は柔らかそうで手足も優しいしなやかさをもっている。それもすぐに無くなってしまうだろう。
 大人とは、積み重ねてなるものではく、人間から子供時代を奪っていった後の残りだ。
 そう、子供は完全だからこそ眩しくうつる。

「信じられる? このミケランジェロのフラスコ画から抜け出たような天使が数年後にはイーリアスのアキレウスになっちゃうのよ…! 私も親みたいに喜んだり寂しがったりしても良いのかしらね」

「心配しなくてもアキレウスにはならないと思う」

「そうね、戦争で男が死ぬのはもう御免だわ」

「いやそういう意味じゃないけど」

「冗談よ」

 金髪をかき分け、丸い額をそっと撫でる。
 ウテナがもうすぐ巣立つのだと言えるのであれば、その「巣」とはこの屋敷だろうか。……ここならば良い。
 今さら他所から旅立たせるなど、考えたくもない。

 今朝の老婦人のようにウテナをもらいに来ようとする者は、ウテナがこの家の養子でないことに目をつけ、いくらでも現れる。だがどんなに金を積まれたとしても手放す気はなかった。
 親友が産んだ子であり、自分が守ると決めた子だ。

「これ、私が預かっちゃうわね」

 親のようにはなれなかったが、どんな形でも自分がウテナのそばで見守って行けるなら、それで良い。

「あのよ、夫人」

「なあに」

「ウテナはまだ子供な所も多いが、母親が二人いても構わないと思う程度には大人だぜ」

「だから何?」

「このでっかい屋敷と旦那の財産、こいつに譲る気はないのか?」

「……。譲る前に私が使い切っちゃうかもね~」



 一瞬の間をおいて調子よく出て行った夫人を、リウは何も言わず見送った。
 ウテナの温かな頭に寄りかかって目を閉じると、「体温が子供…」と思わず心の声が口を突く。

 大人と子供の間を行ったり来たりしているウテナだが、人造の猛禽の目には、一日も早く大人になって夫人を守ろうとする健気な少年の姿が映っていた。
 夫人が思う以上に、ウテナは夫人の迷いや弱さを直感的に悟っているのだ。

 ウテナには同年代の友人が少なかったという。
 大人の話の方が複雑で面白みがあると彼は言うが、外見の特異さから子供らにのけ者にされていたことは想像がつく。

 この街で金髪などは珍しくもない特徴だ。ただし、ミケランジェロのフラスコ画から抜け出たような天使と夫人が評した通り、その髪はとても艶やかで、整いすぎた顔立ちに溶けるような翡翠の瞳は人のものではないような雰囲気も持ち合わせる。
 群れで行動する子供の中にあっては異物と見做されても致し方ない。

 そんな幼少期を持っているウテナが無意識に他人の表情をうかがうようになってしまったのも、必然的と言えよう。

 まだ大人にはなりきっていないのでトワイライト夫人の重い苦悩に向き合うことはできないが、近い将来二人で話し合う日も来るのだろう。

「ゆっくり育てよ、チビ」

 いつまでも少年であってほしい思いと早く夫人を安心させてやってほしい思いとがない交ぜになった、複雑な一言であった。




8/14ページ