極度の緊張で強張るアイリの身体を抱き寄せて、胸の中に閉じ込める。

怯えながら胸に縋り付くアイリが愛しくて。

これからもずっと、何があっても、

俺の命に代えてでも、アイリのことを守り抜いてやる——

そう心に誓いの炎が強く揺らめいた時、だった。

《…ま、また、酷い目に…、》

《い、嫌だ…、もう、嫌だ…っ、》

細く小さな呟きが聞こえた気がして、

不審に思い、チラリと男の方に振り向いた時には、

既に手遅れで。

真っ先に視界に入ったのは、ツールナイフの切先。

咄嗟にアイリの身体を深く抱きすくめて、

俺たちを標的と定めた銀箔色のそれに背を向ける。

——それが…、

アイリを守るために、

俺が今、全力でできる最善の対応だった。

男の荒く湿っぽい息遣いが俺の肩に降りかかると同時に、ナイフの根元までが腰のあたりに深く食い込んで、

みるみるうちに灼熱に似た痛みが覆い始める。

ナイフの柄を手放し、両手を力なく下げてひとりごちた男は、

空を仰いで視点を彷徨わせながら、安堵の吐息を漏らした。

脈動に連動した激しい痛みを無理やり抑え込んで、渾身の力を込めて後方に凄まじい蹴りを繰り出す。

強烈な後ろ蹴りを胸に喰らい、再びブロック塀へと押し戻された男は、

反動で空（くう）に舞う体を惨めに紆曲させながら、硬い壁に半身を打ち付けてそのまま気を失った。

出血と痛みが急速に俺の体温を吸い上げて、指先から氷のように冷え込んでいく。

予想外のアクシデントにギリッと奥歯を噛みしめながら、

不規則に震え出す手でナイフを引き抜き、それを後ろ手に隠した。

アイリの全部をこの腕の中に隠していたから、

悶着が起きたことは理解していても、俺が刺されたことはまだ知らない。

できることなら、

知らないままで居させてやりたい…。

色を失い始める唇がほんの少し動くだけで、その言葉がちゃんと届いたのかは分からない。

とにかく、アイリを守れたことに言い知れない安息を感じた俺は、

いきなり襲う眩暈に逆らうこともせず、そのまま膝から地へ崩れ落ちた。

…いや、逆らえなかったと言ったほうが、正しいかもしれない。

正直、この場で立っているのが精一杯で。

次第に麻痺のような妙な感覚が下肢の動きを奪い、朱殷（しゅあん）のような赤が衣服の色を染めて、

太ももを伝う生ぬるい血の感触に思わず苦笑が零れた。

もっと、頑丈だと思ってたのに。

地面に広がる血溜まりに気付いたアイリが血液の流動を辿り、

それが俺の腰の刺し傷からのものであると悟った瞬間、狂ったように叫び声を上げる。

錯乱状態になったアイリに強く抱き締められ、

その反動で、血で染まったツールナイフが俺の手から滑り落ちた。

薄氷な笑みとともに巡らせた視線の先には、ぼんやりと霞むアイリの姿。

俺の額に浮き出る脂汗を震える手で拭ったアイリは、

強気な言葉とは裏腹に打ち崩れそうになる俺をさらに強く抱き込んだ。

至福を味わうっていうのは、こういうことか…。

こんな状況で至福とか、笑えねー…。

アイリの叫泣を聞いて誰かが駆け付けたのか、

その声はきっと大きな声量に違いないのだが。

かろうじて女の声だと分かるだけで、

耳に膜を張られたみたいに、何を言ってるのかまではうまく聞き取れない。

ますます体温が奪われていく中で、意識までもが暗闇へと引っ張られる。

がむしゃらにもがきながら深淵の闇から這い出そうとしても、気力だけが空回りして、

鉛のように深く沈んでゆく肢体をどうすることもできなかった。

眼を重く閉じた俺の頬に、温かい滴が落ちては幾筋も伝う。

俺の頬を濡らす雨粒が、

止めどなく流れるアイリの涙だとは気付かないままで。

意識も体も丸ごと、

光が届くことのない奥深い闇に飲み込まれていった…。