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少しばかり驚いた様子で、アイリは俺を真っ直ぐに見つめる。
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交差させた二つの瞳は俺に向けて何かを訴えて、
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形のいい唇もわずかに揺れるが、声は言の葉にならない。
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アイリ
…、
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レン
……
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そのことに気付かない素振りで静かに微笑んだが、それとは対照的にアイリの雲行きが怪しくなった。
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次第に眉を顰めて立ち尽くしたその姿に、真意が汲み取れずに目を瞬く。
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レン
…どうした?
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アイリ
……
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むうっと唇を小さく窄めたアイリは、両手をこちらに伸ばしたかと思うと、
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俺の右腕を勢いよく自分のほうに引っ張った。
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立ち位置からバランスを崩し、自ずとアイリに寄り添うような形で体が傾く。
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アイリ
…おんぶで帰る。
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レン
——…は?!
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アイリ
お兄ちゃんのおんぶで、家まで帰る。
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レン
な、なに言ってんだよ、おまえ…、
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アイリ
そんなに遠くないし、
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アイリ
可愛い妹が強請ってるんだからいいよね?
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アイリ
なんなら、途中で休憩も挟めばいいし。
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有無を言わせず、くるりと俺の体を反転させたアイリは、
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背中にしがみ付こうとその場で軽く飛び跳ねる。
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アイリ
お兄ちゃん、背が高すぎるよー。
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アイリ
ほら、少ししゃがんでくださいっ。
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レン
ちょっと待て、
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レン
ほんとにおんぶで帰るのか?
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アイリ
そうだよ。
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アイリ
なんだかちょっと疲れたし。
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レン
いや、でもさ…、
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アイリ
新しいサンダル履いてるから、足もちょっと痛いし。
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レン
…、
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アイリ
——やっぱりだ。
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レン
…え?
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アイリ
私と言い合いしてから、お兄ちゃんがヘンになってる。
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レン
——
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アイリ
何よ、さっきも『悪い』だなんて。
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アイリ
お兄ちゃんじゃないみたい。
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レン
っ、そんなことはねえよ。
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レン
まあその…、
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レン
一応、兄貴として気を遣ったっていうか、
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アイリ
なにそれ、
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アイリ
私に気を遣う必要なんてない。
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レン
…、
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アイリ
……
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アイリ
でも、結局は…、
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アイリ
私が色々と余計なこと言っちゃったせいなのかな…、
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アイリ
もう、とにかくごめんっ。
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コツン…と俺の背に額を押し当てたアイリは、項垂れたように溜め息を吐き出した。
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レン
……、
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レン
違うって、アイリ、
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レン
(何もかも、俺のせいなんだよ)
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つまりは、全ての根源が俺の中にあって。
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関係のない奴にまで、<穢れてる>なんて言葉を吐かれてしまうことも全部。
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思いつめたり、些細なことで喜んだり、
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悲しんだり、嫉妬したり…、
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恋情に浮かされていろんな想いが交錯している俺は、おかしなくらい不器用になってて、
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アイリにまで、する必要のない自責の念を植え付けてしまっている。
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レン
(…みっともねーよな、ほんとに)
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自分の不甲斐なさに呆れることを繰り返しながらも、
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なんとか気を取り直してアイリを見遣る。
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レン
とにかく、おまえのせいじゃない。
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レン
いいからもう気にするな。
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アイリ
……
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アイリ
……分かった。
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レン
…ほら、おんぶだろ?
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しゃがみ込むように促された俺は、ゆっくりとその場に腰を落とした。
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アイリ
…じゃ、乗るよ…、
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アイリ
よっ、と。
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レン
なんか、軽くねーか…?
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レン
今日の晩飯ちゃんと食ったのか?
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アイリ
え、軽くないよっ、むしろ太ったのにっ。
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レン
そうか?
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レン
俺からすれば、おまえなんて体重感じねーな。
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言いながら、アイリの体を背中にしっかりと抱えてゆっくりと歩き出した。
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…夜の歩道を彩る等間隔に並ぶ緑の木々が、家路に就く俺たちを見守ってくれているようで、
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俺はそれら一つ一つを眺めながら歩を刻む。
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雨の香りを含んだ夜気を感じて空を見上げれば、
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夜空に濁る灰色の雲が、変わらずに視界を埋めた。
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レン
(雨が降り出すかもしれねーな…、早めに帰らねーと)
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背中のアイリに向けて、歩く速度を上げることを伝えようと口を開こうとしたが、
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それより先に、控えめながらも凛とした声音が俺の肩上に触れた。
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アイリ
…お兄ちゃんは、最高だから。
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レン
…えっ?
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アイリ
私にとっては自慢の、本当に最高のお兄ちゃんだから。
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レン
———
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アイリ
私のためにいつもたくさん頑張ってくれてるお兄ちゃんは、
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アイリ
誰よりも一番、かっこいいんだから。
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レン
——…
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それこそ軽くホコリでも叩くように、何気なく俺の自責を取り払ってくれた気がして。
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頑張ってるという言意は、第一に仕事とか、
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たとえば他にも、アイリを支えることだったり守ることだったり、
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単純にそういう意味合いのものだろう。
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それでも。
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レン
(こんな俺でも、アイリを好きでいることは自由、だよな…)
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真っ暗な闇の中にポンと灯火が焚かれたみたいに心が明るく、拘りが解けてゆく。
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それは、今の俺にとって、素直に嬉しい言葉だった。
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レン
…ありがとな、アイリ…、
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レン
おまえは俺にとって、最高だな。
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アイリ
え、ほんとに?
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レン
ああ、本当だ。
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『妹』という言葉を敢えて形にしない理由は、俺だけの秘め事。
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深く言及してこないアイリには、兄貴から妹への言葉として純粋に伝わっているだろう。
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︙
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アイリ
帰ったら、アイス食べようっと。
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レン
…俺は、まずシャワーだな。
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レン
おまえをおんぶして帰ることになったから、家に着く頃には汗だくだ。
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アイリ
ひゃー、ごめんごめんっ…、
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アイリ
でも、降りるつもりはないっ。
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レン
はははっ、
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レン
しっかり背負われてろよ?
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夏の夜空の下。
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誰よりも愛しい温もりを背に抱えることができる小さな幸せをこっそり噛み締めながら、
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俺は家までの道のりを、一歩ずつ大切に踏みしめた。
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vol.8 END
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