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『ありがとう』と素直に言えないのは、いつものことだ。
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だが、ユヅキなら、
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そんな無骨な俺のことを無礼だとは思わないだろう。
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実のところ、
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後ろ髪を引かれるような思いでユヅキの家を後にした。
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待機していた運転手に促され車に乗り込めば、
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今度はいつ気楽な時間を過ごせるのか…、
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そして、いつまたユヅキに会えるのだろうかと、
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渇望に似た感情が容赦なく締め付けた。
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イシバ
……
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アメリカの大学にいた頃、
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ユヅキに怒鳴られたことがあった。
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留学生同士の親睦会のパーティーで倒れた女の前で、
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まるで他人事のようにしれっと静観していた俺に向けられた怒声だった。
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あのように怒鳴られたのは生まれて初めてだったが、特に腹も立たず…
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むしろ、人を救うのだという信念に満ちたあの真剣な眼差しに、
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自分の浅はかな態度をみっともなく感じ、身の引き締まる思いがした。
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イシバ
……、
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……ユヅキは、良い友人の一人にすぎない女だ。
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だが、おそらく、俺は…。
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イシバ
……
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欲しいものは手に入れる主義だが、
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世の中の全てのものがうまく手中に収まるわけではない。
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それを分かっているから、無様に暴挙に出たりはしない。
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イシバ
……
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イシバ
…――
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いつものように脳内をリセットして、<周囲が求める石羽響也>に戻る。
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そう、いつものように。
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座り慣れた車の後部座席で、俺は流れゆく窓の景色に視線を馳せていた。
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イシバ
…、
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キザキとの予期せぬ再会も、
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多少不愉快でありながらも…嫌ではなかった。
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あいつとの互いに遠慮のない掛け合いを思い出し、フッと短い笑みが零れる。
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イシバ
……
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イシバ
……そういえば、腹が減ったな…。
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のんびりと食事を摂る時間もないのかと、自分の置かれている当たり前の日常に今更ながら溜め息を吐き出した後、
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ユヅキから受け取った紙袋の中のタッパーを取り出して蓋を開ける。
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イシバ
…、
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空の胃袋を刺激する良い香りが、
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できたての温かさがまだ残る蒸気に運ばれてふわりと鼻腔をついた。
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イシバ
…――!
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不愛嬌な俺の相形を下から見上げるそのオムライスを目にし、
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わずかに息を呑む。
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イシバ
…っ、
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< ガ ン バ レ >
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ケチャップで丁寧に描かれた文字。
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控えめな黄色を彩る鮮やかで大きな赤い文字に、ユヅキの叱咤激励の声が重なった気がして、
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胸に感激という名の熱いものが込み上げた。
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イシバ
…… ユヅキ、
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イシバ
おまえはやはり、なかなかの女だ。
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俺の無機質な仮面が崩れて、みるみる破顔していく。
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イシバ
……
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いつか、おまえを俺のものに…。
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…いや、
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俺がおまえを全てのものから勝ち取ることができるのか否かは、
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将来のおまえ自身の選択によるだろう。
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イシバ
…、
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イシバ
…それもまた、一興…。
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たとえ想いが実ることはなくても、
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自分にとっての最高の結末を夢見るのは自由。
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イシバ
……
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芽生える大望の実現をこっそりと願いながら……
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俺は今日も、懲りることなく仕事に邁進する。
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Vol. 5 END
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