11話:視えないものは何もなかった

 事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、いつだって現実は非現実的だ。あり得ないと思っていたことがあり得たり、そんなはずはないという固定概念に囚われて、目の前にある真実に気付かない場合だって往々にしてある。
 だけど、そのあり得ないことが何度も続いてしまえば、それはあり得ないことではなくただの日常に変わってしまうだろう。
 それこそが、誰の目にも映ることのない存在の思惑であるということに、誰しもが気づくことはない。

「おねえちゃん」

 おれの場合、その非現実的事象というのは幽霊だった。
 あどけなく声を上げるおれというひとりの小学生は、砂場で遊んでいる姉に声をかける。なあに?と、いつものように当たり前に言葉を発する姉に、おれはこう問いかけるんだ。

「あの人、なんであんなところにいるの?」

 でも、そう言ったところで答えは最初から決まっている。

 ――人なんて、どこにもいないよ?と。

 それが、おれにとってはじめてあり得ないことが起こった瞬間だった。
 子どもの頃、姉さんと公園で遊んでいた時にいた、おれにしか視えていなかった誰か。公園の隅に、ひとり蹲っていた男。本能的なモノだったのか、それが人間じゃないと何となく分かってはいたものの、例えばそれが透けていて向こう側が見えていたとか、足が消えていたとかそういういかにもな事象ではなかったから、姉さんが視えなくておれが視えるモノという事実がよく分からなかった。恐らく子供ながらの好奇心も相まってのことだろう。姉さんが見ていない隙をついて、その人に近づいたのだ。

「……なにしてるの?」

 当然といった様子で、その人は何も答えない。完全に無視といったところだろうか。

「これいる?」

 そんな中でもおれが差し出したのは、その時期だったらわりと色んなところに咲いているとある一輪の花。姉さんにその花の名前を教えてもらって、実際に自身の手に取ってみて、どうしてか嬉しかったのを覚えている。
 その花を、あろうことかおれは目の前にいる存在に渡そうとした。それは多分子供の頃だから出来たことで、今だったらそこに居るだけの幽霊とか別にどうでもいいし、そもそも害のないモノなんて意識をしないと視えないというのが常だ。普通はそうなのだろう。
 その人物の足の付近にじわじわと何か黒いものが蠢ているのが見て取れたのは、僅かに時間が経った後。それは、子供ながらに近づいてはいけないものだと分かるくらいに鮮明におれの恐怖心を煽っていた。一言でいうなら、単純に危険だと感じたのを覚えている。
 誰にも見えるはずのない存在がそこにいるという事実と、それに付随する得も言われぬほどの不安。全身が総毛立つ程に体温が下がり、そのまま本当に動けなくなってしまうのではないかという錯覚。つまりは、完全に怖気づいていたのだろう。正し、手に持っていた花は強く握りしめたまま。何かがおれを急き立てるかのように、やっと足が一歩後ろに下がる。その時だった。

「こらこら、駄目だよ」

 何かが、優しく背中に触れるのが分かる。いや、正確にはぶつかったのだけれど、そんなことには気づかないくらいに驚嘆した。頭上から聞こえた声に慌てて顔を上げようとした時には既に遅く、ゆっくりとおれの目を何かが覆った。

「知らない人に話しかけちゃダメって、よく言われるでしょ?特にああいうの。仮に視えちゃたとしてもさ」

 優しく響く男の人の声は、何年経っても頭から離れることはない。それくらい、恐らくはおれに大きな影響を与えた人物。気付けば、手にしていた花は零れ落ちていた。

「見ないふりっていうのも、大切だよ?」

 頭上からの声が何かを言い終わったかと思うと、ぱっと目を覆っていた何かがおれの顔から離れていく。開けた世界には、さっきまで目の前にいたはずの誰かと、それを取り巻いていた黒い何かはもうどこにもいない。言葉を失うおれの代わりとでも言うように、振り向くと後ろには優しい笑みを浮かべた別の誰かがいた。
 どうしてか、おれはそれに凄く安堵したのを覚えている。

「……さっきの人、どっか行っちゃった」
「うーん……多分だけど、然るべき場所にでも行ったんじゃない?」
「そうなの……?」

 この時のおれは、その人の言っている本当の意味を汲み取れなくて、単に姿を消しただけだと思っていた。
 でも、果たして本当にそうだったのだろうか?
 否、歳を重ねた今となっては、そうではなかったということがよく分かる。

「おにいさんは、皆には見える人?」
「え?あー……そうだね。さっきの人とは違って、皆にはちゃんと見えてると思うけど」
「さっきの、幽霊なの?」

 立て続けに問いかけると、男の人は苦笑いを浮かべるだけで、答えることはしない。しかし、幽霊なのかという問いを間接的に肯定するかのような、別の言葉が返ってきた。

「……他の人に言ったところで信用しては貰えないだろうけど、こういうの、見えたとしてもあんまり人には言っちゃダメだよ」
「どうして……?」
「どうしてって言われるとなあ……」

 その人は空を見つめ、頭を掻きながら答えを探していた。

「ああほら、見えない何かがそこにいるっていうのは怖いっていうか、単純にイヤでしょ?変に不安にさせるのも良くないっていうか……。いやでも、見たくないのに見えちゃった挙句、見て見ぬふりっていうのもかなりイヤだよね。実際いい気分じゃないし……」

 分かる分かる。その言葉は、おれに向けられたモノというよりは、恐らく独り言に近いものだったのだろう。これも、今になって思えばどうしてこうも不透明な言葉だったのかがよく分かる。

「とにかくっ、信用出来る人以外には簡単に言わないで欲しいなあ」
「でも、さっきおねえちゃんに言っちゃったよ……」
「あー……。いやでも、それはお姉さんだったから言ったんでしょ?だったら大丈夫だよ。……多分」

 約束してくれる? そう言って笑みを溢すこの人は、逆光に身を任せるようにして光を身に纏う。どういう訳か、それがとても憂いを帯びていて今にも脆く崩れ落ちそうな気さえしていた。子供ながらにそう思ってしまったのは、ある意味では正しくて、ある意味では間違っていたのだろう。

「……ところで、おにいさんって誰?」

 見知らぬ人に変な約束をさせられている時点でおかしいのだけれど、どうしてかおれは、この人が悪い人だとは思えなかった。この質問だって、別に目の前にいるその人を不審に思ったから発したという訳ではなく、単純に知りたかったというだけ。

「え、俺? あーそっか、この状況じゃただの不審者か……。えっと、俺の名前は――」

 穏やかな陽気に包まれていたあの日。まるでしだれ柳のように優しく靡く髪の毛によって見え隠れするその人の笑顔を、どうしてか鮮明に覚えている。それくらい、あの時のおれにとっては印象的だったのだ。

「ってことで、よろしくね」
「うんっ」

 但し、そうしておれに笑顔を向けた人物の肝心の名前を、あろうことか思い出すことが出来ない。
 今のおれがひとつだけ言えることがあるとするのなら、この人はおれと同じ側なのだということだけだ。
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