16話:夕空に浮かぶ嘲笑

「先輩、これ何に見えます?」
「なにこれ……。いやなにこれ、全然分かんないんだけど」
「えー、どう見たってウシさんじゃないですか」

 誰かの雑談が、わたしの耳に入ってくる。だからといって特別どうというわけではないのだけれど、図書室にしてはよく人の声が聞こえるなとは思ってしまった。

(これ……じゃないな。やっぱりないのかなあ……)

 わたしはひとり、本棚に向かいテーブルに背を向けて誰かの雑談を聞き流しながら本を探していた。本来なら学校の図書室と言えど静かなのが普通だと思うけど、どうやらこの学校に限ってははそうではないらしい。
 もしかしたらそれが煩わしいと思う人もいるかも知れないけど、わたしは図書館の静かな空気よりも、ある程度の雑談なら許容してくれる図書室が好きだから、これくらいの方が寧ろ有りがたい。

(あ、あった……。しかも目の前に……)

 わたしが探していたのは、とある作家のとある本。こういうの、本来なら書店に行って買うべきだとは思うのだけど、これだけはそうもいかなかった。その理由というのは至極単純で、とっくの昔に絶版となってしまっているものだったのだ。普通の本屋には売っていなかったから、図書室だったらあるかも知れないと僅かな望みをかけて、今日はじめて学校の図書室に足を運んだのだ。
 確かに図書館よりは本の数は少ないし、図書館の方がこれ意外にも読んでいない本は幾つもあったのだろう。でも、どうしても図書館に行く気にはなれなかった。
 あの少しでも音を立てたらいけないのではと思わせるほどの静寂に、知らない間にのまれてしまいそうになるのがわたしはどうにも苦手だったのだ。

「ウシって……。なんで描き慣れてないもの描こうとするかな。ウシってもっとこうさ……」

 サラサラと、何かにペンを走らせる音が後ろから聞こえてきた。わたしは、それを聞きながら自分の鞄が置いてある席に座った。場所でいうと、恐らく話をしている人たちに背を向けている状態だ。

「ちょっと先輩オレより下手じゃないですか? ウケる」
「いやそれは絶対ない。よく見なよ全然違うでしょ」
「いやいやこれはちょっと……待ってくださいこれはウケるっていうか駄目だ怒られる助けて」

 目的だった本を開いて、活字の波を目で追いながら思考を巡らせる。
 下手だと言われた人は、一体どんなウシさんを描いたのだろうか。などと勝手に想像してしまってはよくないということは分かっているけど、見えないからこそ考えてしまうというものだ。
 ……いや、どうだろう。そんなことを想像してしまうということは、ひょっとしたらそれとは別の何かがあるのかも知れない。

(楽しそうだなあ……)

 この時のわたしは、恐らく本の内容なんて頭には入ってはいなかっただろう。

「図書室もいいですけど、たまには何処か寄り道でもしません?」
「寄り道ねえ……。って言っても、この辺なんて寄れるようなところも無いでしょ」
「いや、そこら辺に沢山あるじゃないですか。別にドがつく田舎じゃないんですし」

 こんなところでひとり本を探しているわたしは、この隔離された校舎という空間の中誰かと話したことがあっただろうか? 気づけばそんなことを考えていた。
 そうは思うものの、多分全く人と会話をしていないということはあり得ないだろう。先生は置いておくとして、少なからず話す機会は存在しているはずだ。それは分かっているのだけれど、入学式が終わって約一か月たった今でも、わたしには所謂友達に値するような存在はまだいない。

「ゲーセンでも行きます?」
「……男四人で行ったところでって感じなんだけど」
「いや逆にですよ? 男四人だから面白いみたいな、そういうところあるじゃないですか」
「あのね、何でもかんでも逆って付ければ良いってもんじゃないでしょ」
「いや別にゲーセンはどうでもいいんですよ。あれですよあれ、女子がよく撮ってるやつ。あれやりましょうよ」
「えぇ……」
「いいじゃないですかー。オレ、あれやったこと無いんですよねぇ」
「おれもないけど。っていうか別に行きたくもない」

 誰かが話せば、また誰かがそれに対して何かを言う。その繰り返しだ。男四人と誰かが言ったのに、さっきからふたりの声しか聞こえてこない。何も発することをしない残りのふたりは一体何をしているのだろうか? そもそも、本当にいるのかも疑ってしまうくらいだ。

「そこのふたりもさ、抵抗するなら今のうちにしておいたほうが良……」

 そして、どういうわけか誰かの言葉が途中で止まる。

「お前上手いな……」
「そういう先輩は……画伯……」
「それは褒めてないよな?」

 ここでようやく、はじめて聞く知らない声を耳にした。多分、今までは聞こえてこなかった残りのふたりの声だ。

「全然聞いてない上に、知らない間に絵描き大会はじめてるね?」
「え、ちょっとふたりでイチャイチャしてるのズルくないですか? オレもやりたい」

 どうやら残りのふたりは、話を聞くことをしないで絵を描いていたらしい。多分落書きの類いだろうけど、ふたりは一体何を描いていたのだろうか? それはもう気になって仕方がない。
 だけど、どうやらそれを知ることは出来ないようだ。

「これはアレですね、ふたりに落書きしてもらえばいいってことですね。いや超名案じゃないですか?」
「落書き……?」
「あー……。まあ、人の話はちゃんと聞いておいた方がいいってことだね」
「じゃあ決まりってことで。早く行きましょ! 時間無くなっちゃいますし、オレの気が変わらないうちに一刻も早く!」
「お、おい馬鹿引っ張るなって……」
「……どこ行くんですか?」
「んー……ゲーセンらしいけど」
「ゲーセン……」

 ガタガタと、より一層音が響き渡ってくる。ひとりの男の人がゲーセンとだけ口にしたのが、少しだけ意地悪だなと思わなくもないけど、どうやら四人で本当に撮りに行くらしい。
 少し遠くの方から、図書室のものであろう扉の開閉音が聞こえてくる。すると、それがまるで何かの合図だったかのように辺りの空気が一変した。

(……急に静かになっちゃった)

 いや、恐らくこれが本来の図書室の在り方なんだと思う。それは分かっているけど、突然訪れた粛然に何となく落ち着かない気分になってしまうのは、これはもうどうしようもないものだった。

「あれ……?」

 その静かな空間の中、わたしはひとり声を漏らした。すぐ傍にある本棚の下、隙間から薄い何かが顔を出しているのが見えたのだ。身を少しだけ乗り出して分かったけど、それは本を読むという観点において必需品として挙げられるモノ。私は、席を外して棚に近付きそれに手を伸ばした。

「栞だ……」

 透明なフィルムに覆われたそれは見るからに手作りで、私には名前の分からない花があしらわれているものだ。今時、しかも高校になってこういうのを見るとは思わなくて感嘆と息を吐いてしまう。
 当然、わたしのモノではないというのは明白だ。

「どうしよう……」

 恐らくは他の生徒も数人は居るであろうこの空間の中、気付けば独り言ばかりを口にしてしまう。こういう時、仲のいい知り合いが近くに居たら良かったのに。そう思えば思うほど辺りが静寂に呑まれていくような、そんな気がした。
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