第2幕 覚悟しとけよ?




 その後、千秋が立ち上がったのは、ホームルームが始まる五分前のことだった。
 いっそふけてしまおうかとも思ったが、チームメイトの連中あたりになんでホームルームに来なかったのかと聞かれると面倒事になりかねないから必死で向かったのだ。ギリギリの登校なら寝坊だと誤魔化せる。

 本当は、同級生に翻弄されていたから──なんて、口が裂けても言えやしない。

 悩む必要のないことで悩んで、それをうっかり口に出してしまったせいで改めて悩むことになってしまった。今朝の出来事はなんだったのか、幻か。幻であってほしかった。キスをされた額がどうしても気になってしまって、触れた回数は知れない。
 しかし、もう一方の当事者は。


「…………」
「カスガちゃん、課外授業の件なんだけどさ〜」
「うん、みんなにも話したよ。滅多にない機会だから喜んでた」
「おっ、誘った甲斐があるじゃんね!」


 この通り、こちらをチラリとも見ない。いや、話題に出されても困るのだが。困る、のだが。
 あいつにとってはあれくらい軽いことで、こんなに気にしているのはこっちだけなのか、悩むのが少しバカバカしくなってくる。あれだけの重大事件を連続で起こしておいて無責任だ。いや、急にベタベタされても困るのだが。困る、のだが。
 チラチラ見てくることもなく、わざわざ話しかけてくることもなく。入夏は何もなかった時と変わらない態度で、普段通りを演じていた。あまりの自然さに、今朝までの出来事が本当に幻だったような気さえしてくる。
 幻にしては、額の感触は生々しく今も残っていて。また額に触れる。見た目には何も変化はない、触った感じも変わりなし。だけど、なんとなく違う気がした。






「チ〜アキちゃんっ、今日ずっとデコ気にしてたね」
「うわっ、急に入ってくんな!」


 放課後、執務室にて。仕事を終えてさっさと帰ろうとした時だった、扉が開いたのは。
 犯人はもちろん入夏である。昼間の教室での様子とは打って変わって、ウシシと含みのある笑みを浮かべていた。


「入夏……お前なぁ、せめてノックしろ」
「ノックしてオレだってわかったら、チアキちゃん入れてくれないんじゃん?」
「そりゃ……まあ」
「オレ、どーせ入るし、変わんないじゃんね!」
「ノーセンス! そこは帰れよっ」
「そしたら進展しないんじゃん? 居場所がわかってるのにすごすご帰るなんてもったいないしね〜」


 ぐぬぬと睨みつけてもなんのその、入夏はどこ吹く風で上機嫌だ。
 やっぱり、幻じゃなかった。昨日ここで起きたことも、今朝ここで起きたことも。思い出して、なんとも言えない気持ちになる。
 よくもまあ、なかったことのように振る舞えたものだ。役者の卵だからそれくらい、というのは一理あるが、学校生活はプライベートだからノーカウントだ。こちらはずるずる引きずったまま一日を過ごしたというのに。


「……フン、教室じゃあ他人行儀だったってのに。二人っきりになった途端、随分積極的じゃねーの」
「え、もしかしてみんなの前でもアピールしてほしかった? チアキちゃんてば大胆!」
「そうじゃねえよっ」
「でしょ? だからおとなしくしてたってワケ」


 パチリとウインクをされる。憎たらしい。
 一応、気遣いだったのか。ふぅん、と相槌を打つ。


「アタックはするけど、別に困らせたいわけじゃないしさ」
「アァ? もう困ってるっつの」
「えっなんで?」
「なんで、ってなんでだよ。当たり前だろ、あんな……こと、されたらよ。望みがねえのにアタックしてくんなっての」
「望みがあるかないかは今後のオレ次第じゃん? オレも男なんて好きになったことないから手探りだし!」
「はぁ? お前それでよく、デコに……できたな」
「あれはほら、宣戦布告……的な? これからガンガンいくから覚悟しといてほしいじゃんね」
「げ」


 ずい、と一歩距離を詰めてきた入夏に合わせて、一歩下がる。扉はこいつの背中側、逃げ場はないのだが、つい勢いに押されて。
 視線に耐えきれず、ぷいっとそっぽを向いて逃げてしまった。向こうはそのまま楽しそうにこっちを見てるんだろう。


「……つーか、オレだって男なんか好きになれるかどうかわからねえし……」
「えっ? ちょちょ、ちょっと待って」
「アァ?」


 ボソッと吐いた呟きに入夏が素っ頓狂な声を上げる。思わず見遣ると、入夏は心底驚いたように目を丸くしていた。反応が解せず、眉間に皺を寄せる。


「オレがチアキちゃんを好きなのと、チアキちゃんがオレの気持ちに応えるかどうかは全然別の話なんじゃん?」
「………はあ??」


 何を言っているんだ、こいつは。という顔をして見てしまう。気づいていないのか、入夏は力説を続けた。


「そりゃ、応えてもらえたら嬉しいけどさ。告白した相手と絶対付き合えるなんてないじゃん? フられてからがスタートっていうかさ。恋愛なんて自己満足みたいなもんだし、まずは好きなコに惚れてもらう努力じゃんね! 押して押してオレのこと意識してもらって、それでもダメならスッパリ諦める!」


 そういうもんなのか……? と、首を傾げると、真似して首を傾げた入夏がニーッと笑ってこちらを見上げてきた。


「てなわけで、チアキちゃん。コート着てるってことは、これから帰るとこだったんじゃん?」
「そーだけど。ついてくんなよ」
「な〜に言ってんの、むしろついてきてもらうよ?」
「ハ?」
「お互いを知るためにはデートが一番! 甘いもの、食べに行こうじゃんっ」
「あっ、おい、離せよっ」


 ガシッと手首を掴まれたと思ったらぐいぐい引っ張られ、突然の動きに対応できずそのまま外に連れ出される。フンフン鼻歌まじりに進んでいく背中を見ていたら、抵抗するのが面倒になってきてしまった。こういう奴は、言っても聞きやしないのだ。
 聞こえるようにでかいため息をつき、ブンブンと軽く手を振り解いて。


「わかったよ……行きゃあいいんだろ、行きゃ。付き合ってやるよ」
「やった! んじゃ、デート決まり〜!」
「デート……って。んな大層なもんじゃねえだろ。こんなん寄り道だ、寄り道」
「放課後デートなんじゃん? あ、せっかくだし、手ぇ繋いでく?」
「冗談も休み休み言えよ、お前。別に連行されなくても行ってやるっつってんだろうが」
「オレ、そこまで無理やりなつもりはなかったじゃんね……」
「拒否権与えてなかったくせに、よく言うぜ。お前ほんとそういうとこあるよな」


 会議室にかかった自分の名札をくるんと返し、さっさと歩いていく。もう腹を決めたから、いつまでもぐずってはいられない。
 一応、店は考えてあるんだよね。と、追いついた入夏が言う。へえ、と返す。別にどこでもいいぜ、と。どこだろうと、こいつと甘いものを食べに行くという予定は変えられないから。よく行ってるらしい甘味処だろうとカップル向けの小洒落たカフェだろうとどこへでも連れて行けばいい。
 そんな態度が伝わったのか、伝わっていないのか。入夏は笑っていた。なんであれ付き合ってくれるのが嬉しい、みたいな風に。
 こっちこっちと前に出た入夏の後ろについて歩いていく。調子狂うぜ、と声には出さずに呟きながら。


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