Caligula

350mlの幸福

2018/11/14 19:45
主琵琶
 
「ふふ、ふふ、まったく、なんだよ部長君、そんな無害そうな顔をしてとんだ狼だな」
「いや、あのね、最初は先輩が、」
「おっと、拒否しなかった君に弁明する権利はないぞ……さて、どうしてやろうかな? 訴えてやろうかなぁ、ふふふふふ」
「……はぁ、楽しそうで何よりっすわ」

こちらの言葉からするりするりと逃げ回っているかと思えば、筋の通らぬ理屈を子どものように散らかして。ああ、やはりアルコールの入った相手に何を言っても無駄なのだ。諸々を諦めた僕が力ないため息をつくと、ベッドについた両腕の間で仰向けになる永至先輩は、バカな後輩を言い負かしてやったぞとさぞご満悦なのだろう。なめらかな頬はもちろん耳まで真っ赤に染まった顔で、子どものようににんまりと笑ってみせた。
信じられない程の力で僕を無理矢理ベッドに引きずり込んで(手首がもげるかと思った)散々キスを迫った挙げ句、しばらく経ったら掌を返したように訴訟だ何だと喚き立てる永至先輩は、どこからどう見てもすっかり出来上がってしまっていた。余談だが、これほど大騒ぎしておいて隣や下の部屋から苦情が一切来ないあたり、やっぱりここはメビウスだなあと思う。上の階の住人は存在しない。何故なら永至先輩があれこれこだわった自宅は、もちろんマンションの最上階にあるからだ。

「何なんですかもう、訴えてやるってどこに?」

警察に突き出してやる、と覗き魔相手に憤慨する彩声を「ここは法の及ぶ現実じゃない」と冷静に諫めてみせた有能弁護士先生は、いったいどこの誰だったのかなぁ。なんてことを思ったものの、酒の入った先輩のご機嫌は普段にも増してジェットコースターじみていて大層スリリングだ。天国に連れて行ってもらうも、「待て」と「おあずけ」の地獄に叩き落とされるのも先輩のさじ加減ひとつ、不用意なひと言が原因でベッドから蹴り出されるのは(向こうから誘っておいて理不尽な話だが)勿体ないので、僕はおとなしく目の前の据え膳をおいしく頂くのに集中することにした。重ねた唇の隙間からそろりと入り込んだ口の中はアルコールの影響ですっかり熱くなっていて、僕の舌を緩慢に追ってくる先輩の舌の動きは少しだけ幼くて愛らしかった。これまた熱く火照った耳朶を指先でやわやわとくすぐりながら、たっぷり時間をかけて舌を絡めて、時折互いの舌先に軽く歯を立てて。名残惜しげに熱いため息をつきながら顔を上げるとすぐに視界に入る、フローリングの床に大量に転がる空き缶たちの後片付けのことは、まあ、あとで考えるとして。

「おい、どこを見ている」
「あっ、ちょっ、と……!」
軽く立てた膝で、ぐり、と股間を押されて、思わず呻き声が出た。どこを見てるって、あんたが楽しく飲み散らかしたビールの缶です。しかし先輩の楽しい気分に水を差す余所見に加え、口ごたえまで重ねて不機嫌のスイッチを押すわけにはいかないので、くつくつと愉快そうに喉を鳴らす先輩をしばらく見ていることにした。やがて小さく息をついた先輩は、目にかかる前髪を指先でよけながらくったりと身体の力を抜いてしまった。

「ん……」
「どうしたの?」
「あついな」
「そう……」

ふう、と吐き出された悩ましげな吐息が、くしゃくしゃに皺の寄ったシーツの上を滑る。彼がベッドの上でいじらしく身を捩って見せる度、お気に入りらしいパーカーのフードの中、僕が何度も吸いついて痕を残すうちにしっとりと汗ばんでいた首筋からは香水の匂いがふわりと漂う。初めに香っていたのは自信家の彼にしては存外に慎ましやかなフレグランスだったが、彼の外面のように手堅いフゼアのトップノートを通り過ぎた今、奥から顔を覗かせているのは甘ったるい官能を織り交ぜたアロマの刺激的なミドルノート。まあなんというか、案外わかりやすくて彼らしいなと思うし、それに何より僕の好きな匂いだ。しかし、その白い肌にもっと赤い印を残してやりたいと思って再び唇を寄せた僕の鼻先を掠めていったのは、上品なフレグランスを塗り潰すようなアルコールの匂いだった。先輩が唇を吊り上げてふふっとご機嫌に笑う度、彼が先ほど水のように呷っていたビールの匂いがふわりとこぼれる。
「先輩、飲み過ぎだったんじゃない?」
ちゅっ、と軽く音を立てて首筋に吸いつきながら問いかけると、先輩は「ん」と小さく声を上げ、やがてぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。

「一人の時だったら、こんなにハメを外しはしないよ」
「……え、なにそれ、僕がいると楽しいの?」
「いや、適当に寝落ちしても後片づけを任せられるじゃないか。そうだろう?」
「……聞いた僕がばかでしたよ」
未成年の純情を弄びやがって、このやろう。僕ががっくりと肩を落とすと、とうとう先輩は耐えきれなくなったように大声をあげて笑った。それから、視線をちらりと僕の背後の壁に移して、

「おい、冷房を入れろ」
「……マジで言ってる? 途中で寒くなっちゃっても知らないよ」
「構わない」
言いながら身体を起こした永至先輩は、僕の耳元に口を寄せた。耳朶の輪郭を熱い舌の先でつう、と焦らすようになぞられると同時に、アルコールの抜けきらない吐息が肌を撫でていく感覚に思わず背筋が震える。

「そうしたら、君が温めてくれればいい」

そう柔らかく囁かれたあとに唇同士が触れ合って、とろりと熱い彼の口の中に再び招き入れられた。好きでもない相手に酒の勢いでこれほど情熱的なキスが出来る男のことなんて、信用してはいけないとわかっているのだけど。それでも男はみんな狼なんだよなあと、何処かで見た台詞を思い出しながら、僕は先輩の脚の間に身体を滑り込ませるのだった。

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