Caligula

二度目の地獄でさようなら

2018/10/19 09:24
主琵琶
 

「あの、」

ある日の放課後、昇降口に立つひとりの男子生徒が通りかかる生徒たちに声をかけているのを見た。

「すみませ……、あの、…………」
あたりは退屈な授業から解放されて浮き足立つ生徒たちで溢れていて、離れた場所からでは話す言葉を拾うことはできない。横目でちらりと、一年の靴箱の前に立つ彼の姿を見遣りながら靴を履き替え、校舎をあとにした。行き交う生徒に向かい縋るように伸ばされた腕が震えているのが奇妙で、印象に残った。








次の日の放課後、階段を降りて昇降口に向かうと、同じ所に彼はいた。
「あの…………、ません……か」
その様子は、昨日とほとんど変わっていない。彼が話しかけているのは、靴箱から靴を取り出している最中のおとなしそうな女子生徒、勉強道具などろくに入っていない薄っぺらな鞄を肩に引っかけたいかにも軽薄そうな男女のグループ、はたまた、これからデートにでも向かうようなカップル、などなど。まさに手当たり次第と言ったような感じだが、第一声を聞かされた相手が見せる戸惑いの表情と、やがて鬱陶しそうに彼を避け、関わりたくないと言わんばかりに足早に立ち去る様子は皆同じだ。人混みの中でまずパッと目を引くのはブレザーの下に着込んだ派手な色のシャツだが、全体をよくよく見ればそれなりに整った面立ちとすらりとした体つきを持った、女受けも悪くなさそうな黒髪の男だ。どうにも顔が色白を通り越して青ざめているのが気にかかるものの、所謂、きれいめ、というやつ。頭の軽そうな女のひとりやふたりくらい立ち止まって話を聞いてやっていてもよさそうな容姿だが、しかし既に昇降口には彼を避けて通るような人の流れが出来上がっていた。もう目すら合わせてくれない生徒たちに向かって手を伸ばし、何度か口をパクパクと動かした後、しょんぼりと肩を落とす姿はまるで捨てられた犬のようだ。

(さてさて、よほどひどい誘い文句でナンパでもしてるのか、それとも―――)

単純な興味本位で一歩足を踏み出した、その時だ。がっくりとうなだれていた男子生徒が突然何かに弾かれたように顔を上げ、視線がばちりとぶつかる。途端になんの前触れもなく彼の瞳からじわりと溢れ出した涙の粒が、濁ったガラス玉のような灰色の輪郭を曖昧に溶かした。なんなんだこいつは、と、思わず足を止める。

「永至先輩!」

ざわざわと騒がしい辺りの話し声にも掻き消されないほどの大声で名前を呼ばれた。確かにそれは僕の名だ。周りの生徒に身体がぶつかるのを気にも留めずに、否、本当に気がついていないのだろうか、彼はすっかり興奮した様子で人混みを掻き分け流れに逆らいながら僕のもとへとやって来る。彼と肩がぶつかってバランスを崩した女子生徒が大きくよろめいて尻もちをついたが、彼はそんなものに目もくれない。次の一歩を踏み出すことなく、逆にじりりと後ずさった僕と彼の距離はあっという間に詰められた。本人は笑っているつもりなのだろうが、到底そうは見えないほどいびつに持ち上がり引き攣った唇が、おもむろに開かれた。どうして僕の名前を知っているのかとか、どこかで会ったことはあるのかとか、ぶつけようとしていたそんなような疑問はほんの一瞬で霧散してしまって、ただその歪んだ口が端から裂けてしまいそうだという思いで頭の中は塗り潰されてしまった。僕らしくない。

「帰宅部、に、入りませんか」

10代もそろそろ終わりというくらいの歳を重ねていれば、頭のおかしい奴というものの存在はなんとなく肌で感じることはできるのだが、如何せんその中でも「本物」は一見普通の見た目をしていることが多い。その端正な唇から溢れ出したのは、どろり、と耳から這入り込んでくるような低い声で、思わず鳥肌が立った。背後からひそひそと囁くような会話が聞こえる。
(あれ、この前私も言われたんだけど、あの人なんでみんなの名前知ってるの? 私、初対面のはずなのに。気味悪いわ)
片方の手を、両手でぎゅうと握られる。信じられないほど冷たい手のひらはじっとりとした汗を掻いていて、何度か振りほどこうとしたが、彼は絶対に僕の手を離さなかった。痛いほど強く強く込められた力は、まるで、これを逃がしたら世界が終わってしまうとでも言いたげだ。
「えっと、そうだ、こ、今度、は、先輩に部長をやらせてあげる。先輩は、あ、ああ頭がいっ、良い、から、きっとおれなんかよりも上手くやれるはず、でしょ、ね、ね、だから、だからっ」
(ねえ、帰宅部、って何? あたしそんなの知らないよ?)
(俺は音楽準備室に来て、って言われたぞ。あそこってしばらく前に閉鎖されてるはずだよな? もう部屋の中も空っぽのはずだが)

「か、帰、ろ、帰ろう、みんなで。も、もう何人か消えちゃった人……も、いるみたいだけど、でも、そうすればおれは残ったひとたちには許してもらえるはず、だ、だよね?」
「離してくれ、君が何を言っているのか全くわからない」
「そうだよねっ、ゆるして、ごめんねゆるして、ゆるしてゆるしてゆるして、許してよぉ」
「離せと言っているのが聞こえないのか、」
「入って、帰宅部入ってよ、お願いだから、……痛っ……!」
空いたほうの手で細い肩を強く押せば、僕よりひとまわり小柄な彼は靴箱に背中を強かに打ち付け、小さく呻いてずるずると床に崩れ落ちた。「せんぱいおれどうしたらいいの、」ぐすぐすと洟を啜りながらか細い声で泣き続ける少年を無視し、靴を履き替える。その後もしばらく僕を背後から追ってきた情けない声は、いつの間にか聞こえなくなった。









「帰宅部……? いや、そんな変な奴、俺は見たことないよ……お前知ってる?」
「ううん、見たことない」
「あたしもー」
不思議なことに、あのおかしな奴は何なのだ、と翌朝クラスメイトに話しかけても、昇降口で「帰宅部」への勧誘を続けるおかしな生徒のことを知っている者は誰ひとりとしていなかった。別のクラスの知人にも何人か確かめてみたが、答えは変わらない。あまり追及しすぎると今度は僕が頭のおかしな奴だとレッテルを貼られかねないので、深追いはしないことにした。あれ以来あの少年を校舎で見かけることは無くなったが、何故だろうか、あの捨て犬の目を、時折無性に懐かしく感じるのは。


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