Caligula

シュプレヒコールは鳴り止まない

2018/09/30 08:47
主琵琶
 

あなたと出会ってからずっと僕を悩ませていたこの熱病が恋だったと証明するために、まさか世界をひとつ犠牲にしないとならないなんて、夢にも思っていませんでした。現実のことを全て忘れ、再び僕の前に現れたあなたはそれでも人を陥れることを躊躇わず、オモチャのように利用し、飽きたらゴミのように捨て、遊ぶように傷つけて、その本質が何も変わらないことに、僕は心底安堵しました。だからこれは恋でした。
そして、その花のように色づき始めた僕の恋をずっとずっと閉じ込めておくために、まさか世界をふたつ犠牲にしないとならないなんて、夢にも思っていませんでした。







「ところで君、あの妙な髪の色の女は何だ? 最近よく話しているみたいだが、あまり変な連中とばかり付き合うなよ」
「妙なってあなた、失礼なこと言いますね。弓野は普通の子です。まともですよ」

少なくともあなたよりは、という台詞は流れてくる煙と一緒に飲み込んだ。白のメッシュが入った黒髪ボブの彼女が妙な髪色の女なら、隣で呑気に煙草を吹かす長身の彼は妙な髪型の男だと僕は思う。煙と同じようなリズムでふわふわ揺れる柔らかそうな茶髪に触れたくて僕が伸ばした手は、こちらを見もしない彼が振り上げた手に弾かれた。指先に冷たい指輪が当たって、痛かった。どうやら機嫌が悪いらしい。かばんの中に潜ませた、彼女が調理実習で作ったのだというコロッケの入ったタッパーは、見つからないようにしなければ。
白い壁面にオレンジ色の夕焼けをべったりと塗りたくられた放課後の校舎、三階と四階を繋ぐ非常階段にふたりで座って、コーヒーの空き缶を灰皿に不健全の極みとも言える喫煙タイムの真っ最中だが煙草を摘まむ神経質そうな指先が見せる仕草は今日も変わらず優雅だったりするので薄気味が悪い。その薄い唇がぱくりと咥えた煙草のフィルターは世界でいちばん幸福で、嫉妬の対象だ。僕は未だに、そこにたどり着けないのだから。

「しかし弓野か……、弓野、弓野……どこかで聞いたことがある気がするな」

ふむ、と顎に手を当てて、彼は空を見上げた。作り物の街を覆う夕焼け空は、しかしどこまでも広がっているように見える。

「気のせいでしょ」
「そうか?」
「あ、もしかしたら昔適当に遊んで捨てた女と同じ名字だったりして。うふふ」
「………………」

僕が茶化すと、心当たりがないわけではないのか、完全には否定できない様子で黙り込んだ彼はぷいとそっぽを向いてしばらく無言のまま紫煙を燻らせていた。指輪の嵌まった指が、灰皿代わりの空き缶を弄ぶ。少し錆びて塗装の剥がれた階段の面と缶の底が擦れて、カタカタと物悲しい音が響く。

「弓野はただの友達ですよ。そんなに気にしなくても、僕は先輩一筋だからね」
「ふん、いい迷惑だよ」
「またまた、照れちゃって」
「馬鹿を言え。そのふたつの目玉は飾りか?」

返された声の普段通りのそっけなさに、悲しさと安堵が入り交じって僕の心をいびつなマーブル模様に染め上げる。わざわざ楽士としての力のほとんどを注ぎ込んで再洗脳をしたのだ。封じられた記憶の奥底に微かな引っかかりは感じるだろうが、全容を思い出せるわけがない。それが、馬鹿な手駒をいいように操って、虫けらのように焼き殺した一家の名だとは、永遠に。

「あと半年もすれば僕も卒業だ。君みたいなわけの分からない後輩につきまとわれなくなって、清々するさ」

短くなった煙草を缶に押し込み、彼はまっさらなシャツに包まれた腕を持ち上げ大きく伸びをした。卒業を半年後に控えているこの時期に、その後の進路が一切固まっていないことに疑問すら抱けない彼は愚かで愛おしい。僕は笑った。

「ふふ、そうだね、さみしくなるな」

あなたが卒業証書を持ってここを巣立って行ってから、すぐに新入生として桜の下を歩くまでの、ほんの少しの間だけ。


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