Caligula

標本(主琵琶)

2018/08/21 10:35
主琵琶

僕の左手首には、赤い蛇が棲んでいる。

「なあソーン、聞きたいことがあるんだけど」
「何かしら?」

ソファで寛ぐ者、お茶やお菓子をテーブルに広げる者、静かに本のページを捲る者。部屋に集まる楽士たちは相変わらず自由気ままに自分の時間を楽しんでいるようで、地味な制服姿の少女にこそこそと近づき声をかける黒いコートの透明人間に注目する者などひとりもいない。それは今に限ってはありがたいことだが、いずれ全員が協力し合わなければならない状況が立ち塞がった時にうまくやれるのかと、少し不安になった。

「この世界で負った傷の治り方は、やっぱり現実世界と同じなんだよな?」
「どうしたの? 何かひどい怪我でもしてしまったのかしら」

僕がひそひそと問いかけると彼女もそれに合わせて声を少し潜めたものの、やはり他の楽士と同じように別段周りを気にする様子は見せなかった。僕の頭から爪先まで、さっと赤い視線を巡らせてから「私にはそうは見えないのだけれど」と、冗談めかして首を傾げてみせる。

「……」

僕としては、愛しい左腕の蛇にただの「怪我」なんていう陳腐なカテゴライズをされるのは極めて不服だったけれど、ソーンが返答を促すような目つきで僕を見ていたので、身に纏ったコートの上から左手首を押さえてしぶしぶ頷いた。すると痺れにも似た痛みが熱を伴い、僕の肌の上で鮮明に蘇る。透明なのに確かに質量があって触れることができるというのは、いつまで経っても不思議だし、やはり慣れないものだ。

「そう」ふふふ、とソーンは笑って、「ええ、そうね。貴方のオトモダチの彼のように、何か身体に関する特別な願いでも叶えてもらっていない限り、だいたい現実と同じような速度で治っていくみたい」

揶揄の響きを隠そうともせずに言ったソーンは、自らの滑らかな頬をほっそりとした指でトントンとつついてみせた。水族館の控えめな照明の下、美しい少年の顔に刻まれた傷がまるで映像の逆再生のように消えた様子を思い出した。いったい彼らのことをどこまで知っているのだと思わず眉根を寄せてしまったが、Lucidになった僕の透明な貌を包む頼もしい髑髏の仮面は相変わらずの無表情を保ってくれていたので、彼女の不興を買うことはなかった。

「でも、そうね、気になるのならμに頼めば今すぐにでも治療してもらえるわ。もちろん痕だって残らないし、痛みだってすぐに消えてなくなる……」
「ちがう、逆だ」
「……何ですって?」
「なになに? どうしたの? 私にできることなら何でも言って!」

僅かに低くなったソーンの声を、その対極に位置するような朗らかな声が遮った。すっかりお気に入りなのか、最近は小さな妖精のような姿でいる時間のほうが長くなったμが、淡いピンク色の光を纏ってふわりとやって来たのだ。スイートPのテーブルでおやつでもごちそうになっていたのだろう、小さな口元についていたクッキーの欠片を僕が白い手袋の指先で払ってあげると、彼女は「えへへ」と恥ずかしそうに笑う。μに頼めば、というソーンの言葉を聞きつけて、すぐさまこちらに飛んできたのだ。まったくいじらしいことだと僕は思った。
しばらく僕を怪訝そうに見つめていたソーンだが、やがてふっと視線を外して部屋を去ってしまった。「ケンカしちゃったの!?」と慌てるμを宥めながら、黒髪の彼女の後ろ姿を見送る。どうやらあとはご自由に、ということらしい。

「μ、お願いがあるんだけど…………」
「…………ええ、と……それがあなたの望み、なの……?」

先ほどの笑顔から一転して戸惑うような表情を見せるμに、僕は頷いてみせた。
















「やあ部長くん」
「こんにちは、先輩」

放課後の部室にたどり着いた僕を迎え入れてくれた琵琶坂先輩は、パイプ椅子を引っ張り出して本を読んでいる。以前学校の図書館にはろくに役立つ本がないと嘆いていた気がするのだが、今彼が手にしている何かの実用書の裏表紙には「宮比市立吉志舞高等学校」のシールが貼られていた。

「怪我の具合はどう?」
「一応、手当はしましたが。少し痛みますね」

僕はシャツの袖口のボタンを外し、ブレザーの袖ごと捲り上げて左の手首を露わにする。手首をぐるりとひと回りするように当てられた清潔なガーゼを、先輩は特になんの感慨も抱いていないような瞳で見つめた。

「ふぅん、そう。まあ、今度からは気をつけてくれたまえよ」
「……はい」

無感動な視線が突き立てられた途端に、ガーゼの下の肌がひりひりと痛んだ。ぞわりと背筋を撫で上げられるような不快感と快感の入り交じる熱に浮かされ、思わず声が震える。
ここには、手首に何重にも巻き付くような細い火傷の痕がある。つい先日の部活で、物陰から現れたデジヘッドの不意打ちから僕を救い出すべく、少し離れていた所にいた先輩が僕に向かって鞭を振るったのだ。手首に絡んだそれはあの恐ろしい炎こそ纏っていなかったが、先ほどまでの戦闘によって残されていた熱の余韻はこの通り僕の薄い皮膚を容易く焦がし、ひりひりと痛む陰鬱な熱を残した。信じられないほどの力で先輩の足元まで引きずられた僕がほんの二秒前までいた場所には、デジヘッドの硬い爪が深々と突き立てられていた。
「こうしてほんのちょっと痛い思いをするのとあのまま脳天に風穴を空けられるのではどちらのほうがマシか、わかるよな?」器用に鞭を解いて先輩は問う。簡単な算数の問題をもたもたと解こうとする子どもを軽蔑するような、有無を言わさぬ視線が頭上から降り注いだあの時、僕の何かはおかしくなってしまったのだ。ガーゼの上から、火傷の痕をぎゅっと押さえた。

「ありがとう、ございました、あの時は」

視線をすっかり本に戻して活字の羅列に集中してしまった先輩からは、ああ、と気のない返事をもらった。
この左腕の火傷の痕をずっと残してくれ。焼けるような痛みが永遠に消えないようにしてくれ。そう僕に懇願され、困ったように目を泳がすμの今にも泣き出しそうな表情が脳裏にちらつく。最後に、それがあなたの幸せなの、と問われた。なんの迷いも無く頷いた自分に少し驚いた。僕はおかしくなってしまったのだ。

「ちょっと、治るのには時間がかかってしまうかもしれません、けど……」

僕の左手首には、赤い蛇が棲んでいる。

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