Caligula

悪魔の檻(主琵琶)

2018/08/19 20:37
主琵琶
 

「これはあなただけに言うことですが、あなたたちを現実に帰したら僕は死ぬつもりなのです」

しかし残念ながら、僕が密やかにこぼしてみせる内緒の告白程度では退屈に満ちた世界で刺激に飢えている彼の気を引くことは出来ないらしい。ソファに座る琵琶坂先輩の視線はほんの一瞬こちらに寄越されたものの、すぐに彼の指輪だらけの手に握られたスマホへと落ちていった。

「そうか……」

気の抜けたような返事のあと、放課後の部室に満ちたのは僕が思い描いた告解室のような静謐ではなくただの居心地の悪い沈黙だ。それに耐えられなくなった僕は彼の隣に質量を伴う遠慮のような人ひとりぶんのスペースを空け、咳払いをしてソファに腰かけた。何を見ているのかと問えば彼は存外に素直にGossiperだと答えた。つまり窓の外から流れ込むオレンジジュース色の夕焼けに染まった画面の中で泳ぐたった百数十文字の情報たちのほうが、今の彼にとっては僕の命の価値より重いようだった。尚更死にたくなってしまうではないか。年代物らしいソファの座面が、僕の代わりにぎしりと悲鳴のような音を立てた。

「……一応、理由は聞いておくかな」
「ええとですね」
僕はひとつ息をついて、
「いちばんの悩み、というものはすぐには挙げられないのですが、それでも考え始めると頭が痛くなる程度にはこまごました不満や不幸が僕には降り積もっているのです。100の重みの悩みがひとつあるのではなく、10の重みを持つ悩みが10あると思っていただければいい。生きていたくないと思う決定的な理由は見当たらないが、向こうで生きたいと強く思う理由もまた無いのなら、いっそ死んでしまった方が楽でしょう。帰宅部部長として、最期にあなたたちの役に立ってからね。幸いなことに、僕が死んで困る身寄りもいませんし……悲しんでくれる人がいないとも言い換えられますが」
「なるほど、よく分からないね」淡々とした口調で僕の泣き言をばっさりと切り捨て、先輩は続けた。
「僕なんかは、何をどう足掻いたとしても生きていたいものだが。だってまだ人生を楽しみ尽くしていないからね、とっととこんな掃き溜めとはおさらばしたいものさ。この数年はとんだタイムロスだ」
「それは先輩、あなたが人生を余すところなく楽しみたいと考えられる余裕があるくらいには恵まれているからでしょう、家柄だったり容姿だったり能力だったり、色々なものに」
「うん、それは否定しないがね」

そう言って、彼はくすくすと肩を揺らして笑う。しかし、それを言うと彼のような人がなんでこんな掃き溜めにいるのかがますますわからないのだが。聞いてみたところでそれが先輩の不機嫌を誘うだけなのはなんとなく察しがついているので、僕は口を噤んだ。彼は何より詮索を嫌う。
この世界に来て大切な何かを見つけたと詭弁を弄する輩たちに冷笑を浴びせ、囚われた数年間で失ったものこそあれど手にしたものなど何も無いと断言する先輩はきっと、この部室だって大嫌いなのだ。DTMによる作曲が主流の世界で不要となった楽器たちは古ぼけた棚に追いやられ、片づけても片づけてもいつの間にか散らかる机には、もはや誰の物かもわからないような参考書やワークブック、彼が敬遠しそうな安っぽい菓子、身体に悪そうな色のジュースが並ぶ。実際先輩がそれらを口にしているのを、少なくとも僕は一度も見たことがない。
校舎を徘徊するデジヘッドたちからこそこそと逃げ延びて音楽準備室にたどり着き、部員たちに迎え入れられる瞬間、僕なんかはひどくほっとしているものだが、先輩にとってのここは安全の確保されたややマシな場所、程度の認識でしかないのだろう。つまりは掃き溜めの延長だ。それはどうしようもない深い溝だ。ゆったりと脚を組み替える彼のよく磨かれた革靴は、やはり掃き溜めにはひどく不釣り合いだった。なんかこう、高級クラブとかが似合いそうだよね。
「ああ、そうだ、だったら」と、不意に先輩がスマホの画面から顔を上げた。ここでようやく、僕らの視線はしっかりと噛み合う。見つけた獲物に牙を剥く蛇の鋭さの中に、タチの悪いいたずらを思いついた子どものような場違いな純真さが同居する、不気味で不思議な瞳を持っている人だ。

「向こうで捨てるつもりのその命、よかったら僕に預けてくれないか? 悪いようにはしないから」

それはまるで、消しゴム貸してくれないか、くらいの軽さで隣の席から伸ばされる手だ。食わないならくれ、と僕の皿の上のおかずに遠慮無く向かってくる箸だ。廃棄寸前の食材を格安で引き取ろうとする(ああ、いったい何に使うのだろう)業者の値踏みするような視線だ。そんな最低なプロポーズ初めて聞きました、と僕は力なく笑う。僕の返事を待たずに、不意に顎を指先で掬われて、僕たちはキスをしていた。そろりと忍び込んできた彼の舌を、気づくと僕は逆に自分の口の中へと引きずり込んでやっていた。

「自殺志願者にしてはいやに積極的だな」
「その、それはそれ、これはこれですよ」

軽口と言い訳を挟み、もう一度唇が触れる。薄らと目を開けると、先輩は目を瞑ったまま自分のつけていた指輪をひとつ外し、器用に僕の左手薬指に嵌め込んでいたものだから、やれやれまったく敵わないなあと僕はどこか他人事のように思うのだった。

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