杉原と東雲


突然だが、杉原邸の話をしようと思う。

駅からほど近い閑静な住宅街に、その家は建っている。数年前から再開発が進み、マンションや真新しい建売住宅が立ち並ぶエリアと、古くからの家ばかりのエリアがちょうど交わるあたり。まるで最後の砦のごとく構えている杉原邸は、広大な敷地をぐるりと囲む土塀を有する和風家屋である。宛先に「一丁目のいちばんでかい家」と書いておけば郵便物は問題なく届くだろうとまことしやかに噂され、新しく近所に越してきた住人にしばらくの間寺か何かと勘違されていることもある、瓦屋根の立派なお屋敷だ。
仰々しい表札が掛けられた門をくぐり、玉砂利の敷き詰められた庭をしばらく歩けば、ようやく二階建ての屋敷の玄関にたどり着く。そしてそこからぐるりと裏手に回ると、杉原邸の住人が「開かずの蔵」と呼ぶ土蔵がある。なんでもこの家を建てた父方の爺様が、大層な土地持ちの例に違わずの道楽者で、あちこちから買い集めた価値があるのかないのか分からんような骨董品(或いはがらくた)の類を蔵に目いっぱい詰め込んだまま、数年前にこの世を去ったらしい。いつかはやらねばなるまいと思いつつ、しかし片づけに途方もない時間と労力を費やす羽目になるのは目に見えているので、一家の中では軽くタブー扱いになっている蔵だ。つまり本当に開かないわけではなく、ただ誰も開けたがらないだけの精神的開かずの蔵である。
蔵の前を通り過ぎると、屋敷の最奥に突き当たるのだが、なんとそこには六畳ほどの離れがある。どっしりと構えたあの母屋を先に見てしまうとどうしてもこぢんまりとした印象は拭えないが、眺めているうちにそもそも家に離れなんかがある時点で格の違う金持ちだということを思い出させてくれる。脇には手入れの行き届いた植え込みがあり、風情を感じさせる縁側があり、天気が崩れても安心、丈夫な雨戸もある。造りは非常にしっかりしており、人ひとりが寝泊まりするには申し分ない。
以上が一丁目のお屋敷こと杉原邸の全容であると、この家の住人ではないはずの東雲侑希は、きっと淀みなく説明することができる。それは何故かというと、離れで寝泊まりする杉原家長男とは所謂幼馴染みの間柄であり、夏休みの間はここに入り浸っているからだ。









「俺もそっちにすればよかった」
「うん?」
ばちゃばちゃと水が土を叩く音に掻き消されてしまったのか、東雲の呟きは届かなかったらしい。伊織は怪訝な面持ちで、ゴムホースを持ったまま庭に備え付けてある立水栓に近づいた。反対の手に持っていたアイスバーを口に咥え、空いた手できゅっと蛇口を捻る。垂れ流されていた水が勢いを失い、やがて止まると同時に、溶けたアイスの水滴が薄桃色の表面を滑り落ち、地面にぽたりと染みを作るのが見えた。
「なんだって?」
「伊織が食べてる桃のやつ。いいなぁ、おいしそうだなあってさ」
言いながら、ちらり、視線を送る。
「つまりどうしろと」
「ちょうだい、ってことかな。人の物って、すぐ羨ましくなっちゃうんだ」
縁側で脚をぶらぶらさせながら、東雲は棒に刺さったアイスの最後のひとかけらを口に運んだ。バニラアイスの周りにチョコがコーティングされたアイスバー。最近甘い物が足りない気がしてコンビニの冷凍コーナーから迷いなく選び出したはずなのだが、伊織がさっぱりした白桃アイスをちまちま食べ進めているのを見ていると、どうしてか次第にそちらの方が美味そうに見えてきてしまう。我ながら難儀な性格をしていると思う。
「……」
伊織は何か言いたげな顔で眼鏡越しに東雲を見つめていたが、手元のアイスを二、三度囓ると、半分ほど残った溶けかけのそれを無言で差し出した。「やった」傍に駆け寄って手を伸ばすと、「ぜんぶ食えよ」と押しつけられる。伊織と東雲の間で、基本的に「ひと口ちょうだい」は成立しない。潔癖の気がある伊織は他人が一度口をつけたものを再び食べ進めるという行為を良しとしないので、基本的に東雲にねだられたら残り全てを譲渡するのが決まりなのだ。間接キスは嫌なのに直接キスはセーフなのか、というのは恐らく不機嫌になるので突っ込んではいけないところ。
「ん、美味い。やっぱこっちの方がよかった」
バニラの濃厚な甘味でいっぱいになっていた口の中に、桃の爽やかな甘酸っぱさが広がっていく。二本目のアイスを頬張る東雲をどうでもよさそうに見遣ってから、伊織は再び蛇口を捻った。緩やかに弧を描いた水が夏の陽射しを反射しながらゆっくり落ちて、きらり、真っ赤な実と、太陽の光を少しでも多く浴びようと立派に繁った葉を濡らしていく。杉原家の、というより伊織の趣味の家庭菜園コーナー、今夏のイチオシ作柄はトマトだ。水やり草取りその他諸々の手入れを手伝った試しなど一切ない東雲であるが、夏の初めからこうして実がなるまでを見届けた人間として、多少の愛着はある。ホースを小刻みに振りながら水を振りまく伊織の隣に立ってみると、真っ赤に熟れた実が丸々と膨らんでいる様子が良く見えた。
「もう収穫?」
そう尋ねると、伊織は小さく頷いて、
「……そんなもんかな。多分この、上の方はそろそろ……」
と、言いかけた彼の口を塞ぐように、不意打ちでキスをしてみた。理由なんてものは特にない。途端に眼鏡の向こうの切れ長の目が丸くなり、あ、かわいいなどと思うのも束の間、東雲の顎の辺りを、生温い何かをぶちまけられる感触が襲う。
「うわっぶ」
慌てて数歩後ずさるが、何もかもが手遅れだった。先端をつまんだホースによる、容赦ない放水攻撃である。トマトの水やりごときとは水圧がまるで比べものにならないそれをモロに食らい、Tシャツの襟元がぐっしょり濡れた。
「何すんだよ、ひっでぇの」
「……こっちの台詞だろうが。死ね」
肌にへばりつくTシャツの布地を剥がしながら襟周りを緩めようとすると、「服伸びるぞ」と窘められた。……死ぬのはいいが服が伸びるのはダメなのだろうか。
「あーもう、ほら、邪魔。どけ」
手の甲で口元を拭う伊織に(さすがにちょっと傷つく)塩撒きの要領でぴゃっぴゃっと水を撒かれるので、食べかけのアイスを持ったまま、あわてて縁側まで退却。しばらくこちらを睨んでいた伊織もそれ以上深追いしてくることはなく水やりを再開させたので、東雲はその後ろ姿をぼんやり眺めていることにした。じりじりと陽射しを浴びて汗ばむ項に、黒髪がぺたりと貼りついている。舐めたいな、などと不意に湧き上がってきた情動を抑え、残り僅かな桃のアイスを囓った。これ以上はアウトになるというラインは一応弁えているのだが、しかし悲しいかな、身体は雑念と煩悩でできている。

杉原家に遊びに行くと言っても、特にあれをしようこれをしようと決めているわけではない。その時その時で伊織が進めている課題の回答を盗み見たり、機嫌がよさそうなら解き方を教えてもらったり、コンビニに買い出しに行くのに着いていったり、こうして息抜きに庭の水やりをする様子を縁側で眺めたり。もともと多弁な方とは言いがたい伊織と、何かひとつのテーマについて飽きるまで話をしたりすることも稀だ。大抵はぽつりぽつりと言葉を交わす程度で、やがてふたりを交互に見遣るように首を振り続ける扇風機の音がやけに目立つ無言の時間が訪れることも多い。
遊んでいるというより、そこにいさせてもらっている、と言うのが恐らく正しい。お客様としてあれこれ構ってもらえるわけでもはないが、こちらからもよほどのちょっかいを出し過ぎない限りはそこにいることを認めてもらえる。「お前、ここにいて本当に楽しいか?」と怪訝な顔をされることもあるが、東雲はこの無益な時間を好いていた。無益だからこそ好いていたと言ってもいい。好きな人の日常の一部として、ただなんとなくそこに存在していることを許されるのは、何にも代えがたい喜びだった。それが彼にも通じているのかは、また別の問題だが。

「こんなもんかな」
「おお、大漁大漁。よかったね」
「そこの笊、取ってもらえるか」
「? ああ、これ」
ホースを片づけてしゃがみ込み、何かごそごそやっていると思えば、伊織は収穫したトマトをいくつか抱えて離れまで戻ってきた。両手の塞がる彼に目線で訴えられるまま、縁側に置いてあったプラスチック製の大ぶりな笊を差し出すと、そこに程よい大きさの真っ赤な実がごろごろと移されてゆく。5、6個は有りそうだ。
「いくつか持っていくか?」
縁側に腰かけ、手元に残ったいちばん赤くて大きな実をしげしげと見ていた伊織の視線が、不意に東雲に移る。しかし東雲は首を横に振って、
「伊織くんそれ、俺がトマトあんまり好きくないの知ってて言ってるのかな」
「知ってるよ。お前じゃなくて和真さんにと思ったんだ。料理するんだろ」
「残念でした、実は和真もトマト苦手なんだ」
「あ、そうなのか。血は繋がってないのに食い物の好みは似るんだな」
「あのさあ……」
最後のトマトを笊に移しながらのひと言。兄との関係について言及されると未だに腹の底から勃然と湧き上がってくる何かを感じずにはいられない東雲だが、ただ単に感想を述べているだけとでも言うような、それ以上でもそれ以下でもないひどく平坦な声音に、なんとなく毒気を抜かれてしまう。
「……伊織はけっこうそういう繊細なとこガンガン突っ込んでくるよね。俺以外にはやめたほうがいいよ」
「人をまるで無神経みたいに言うな。心配しなくてもお前以外には言わない」
「えっ何それ、ラブかな」
「ラブじゃない。どう曲解したらそうなるんだ」
ぽいぽいとサンダルを脱いだ伊織はため息を吐きながら畳に上がった。部屋の片隅に置いてある小型冷蔵庫から、ミネラルウォーターのボトルを取り出してキャップを捻る。山盛りトマトの笊は部屋のど真ん中、座卓の上に。
「お前相手にいちいち気を遣って言葉を選んでたらストレスで脳みそが腐りそうになる」
「それって特別扱いじゃん」
「ほら脳みそ腐りポイント追加だ。ほんとそういうとこだぞ、そういうとこ」
神経質な爪が、傷ひとつない座卓の表面をとん、と叩いた。ミネラルウォーターを呷る喉仏がゆっくり上下するのを東雲がぼんやり眺めていると、やがて伊織は何かを思いついたように、
「そういえばお前、昼は」
「あ」
壁にかけられたデジタル時計は、11時半を示していた。あれは昨年とうとう天に召されていった年代物の薄らでかい柱時計の跡継ぎだが、いつ見てもこの離れの年季の入った調度品たちからは若干浮いている。余談だが、調子のおかしい柱時計がなんの脈絡もなく一時間に三度鳴った時、伊織が感心したように「時計もボケるんだな」と呟いたのはちょっと面白かった。
「いや、今日は帰る。あんまり甘えすぎても申し訳ないし」
東雲は夏休みに入ってから既に二度ほど杉原家でお昼をご馳走になっているものの、流石にそう何度もというのは気が引ける。溌剌とした性格の杉原家女性陣は一様にして伊織の年相応っぽくないところだとか友達が少ないところだとかを大層嘆いておられるので、東雲が食卓に現れるとちょっとしたお祭り状態になるのは面白くてよいのだが。
「そうか」
と、伊織は特に残念がるわけでも引き止めようとするわけでもないような、淡々とした声音で続ける。
「今日は他の全員出払ってるから俺が作った飯でいいか聞こうとしたんだが、まあ帰るならいい」
「え、マジで?」
思わぬ提案に、つい本気のトーンで聞き返す。若干引き気味の伊織はそれでも頷いた。しかし彼は他の全員が出払ってると言うものの、挨拶しようと朝に母屋へ顔を出した時に、三姉妹と出会っているのだが。
「ちょうど出かけるところだったんだな。婆様ももう出たはずだぞ、いつも11時ちょっと前のバスに乗るから」
伊織が言うことには、父は朝から車を出して趣味の川釣りに、中学生の妹・沙織は塾の夏期講習からそのまま河川敷でバーベキュー、二番目の姉の香織は専門学校の友達とプールに出かけ、旦那と子どもと共に帰省中の一番上の姉・詩織は母と一緒に四人で仲良く買い物らしい。まだまだ元気な婆様は公民館で週に二回のお花の教室(なんと習う方ではなく教える側とのこと)、で、その後は生徒さんとお楽しみのお茶会。なるほど流石は杉原家、絵に描いたような健康優良幸せ家族。聞いているだけで目眩がする。それと同時に、やはり目の前にいる陰寄りの長男は姉妹どころか一家の中での突然変異なのではないかとの疑惑が増した。
「おい、なんだその顔」
「あの、伊織ほんとにこのうちの子?」
「うるせえよ。やっぱ帰れ」
「帰らない、帰らない。伊織のごはん食べたい」
「……」
眼鏡の向こうの切れ長の目が、じっとこちらを見つめている。

「……作るならひとり分もふたり分も大して変わないしな」
しばらくして、縁側のサンダルをひっかけ、待ってろ、と言い残した伊織は母屋に歩いて行った。収穫したばかりの真っ赤に熟れたトマトの笊を小脇に抱えていたが、あれは母屋の冷蔵庫にしまいにいっただけだと信じたい。

「……」

伊織の後ろ姿が見えなくなると、座卓の横に仰向けに寝転がり、東雲は目を閉じた。畳のにおい。扇風機から送られる風。静かな、去年と同じ夏だ。この部屋から消えたのは、柱時計の振り子の音くらいだろうか。この離れの外、塀の周りには当たり前のように現実が広がっているはずなのに、まるで全てから切り離されたような錯覚に陥る。




ざわり、ひときわ大きく植え込みを揺らす風が部屋を通り抜けると同時に、りりん、と涼しげな音が響いた。きっと伊織本人もいったい何なのかよく覚えていないまま10年間縁側に吊されているそれが、小学生の頃に図工の時間で作った粘土の風鈴だということを、東雲はまだ、覚えている。覚えているのだ。



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